第6話

 一階のリビングでは鍋が二つ並んでいた。

 ひとつは親父の故郷、九州の名物モツ鍋。

 もうひとつはぱっと見よく分からなかった。クリームスープには豚肉やニンジン、じゃがいもが入っていた。

「なんぞ、これ」

「カルボナーラ鍋だって!」

 三太がはしゃいでいた。どうやら、月島さん達が家に来ることを姉貴がメールで母ちゃんに知らせて、急遽スーパーに買出しにいった流れのようだ。

 そこで、鍋をするにあたり、一方はモツ鍋、もうひとつを三太に決めさせた結果がこれらしい。

 俺も初体験の鍋で、少しテンションがあがった。狭いリビングには、テーブルをひとつ付け足して、みんなで囲えるような食卓風景になっていた。

「すみません、突然お邪魔した上に、ご飯まで……」

「何言ってんのよ、ダイの家庭教師してくれてるんだから、このくらい構わないわよ」

 蘭さんが頭を下げると、母ちゃんが嬉しそうに笑った。

 母ちゃんも、蘭さんと月島さんの事は随分気に入っていて、こういった事は何度かあった。

「大勢のほうがメシも美味いしな!」

 直也が月島さんと蘭さんを誘導し、席に座らせる。親父もすでに席についていて、鍋奉行の構えとなっていた。

「ありがとうございます。いただきます」

 月島さんも、手を合わせ親父に挨拶する。こういう事をきちんとできる辺り、月島さんが見た目だけの人じゃないとよく分かる。

「うん、沢山たべなさい」

 親父も、厳つい顔を綻ばせている。あとで、二人を車で送ったりもしてくれるし、家族みんなで二人の来客を喜ぶ鍋パーティーとなった。


「いただきま~す!」

 背中とくっつきそうだった腹がガマンできず、鍋の中はみるみる減ってゆく。

 俺も大概ではあるが、姉貴も直也もかなり食う。成長期なので、当然である。

 その喰いっぷりに物怖じせずに付いてくるのが月島さんだ。

「このカルボナーラ鍋って美味いな」

「へへー!」

 月島さんの言葉に三太が得意げに歯を見せた。

「偉いぞ、三太」

 月島さんがおだてると、三太は嬉しさマックスって具合に目一杯の笑顔でじゃがいもを頬張った。

「すいません、蘭さん。そっちの鍋届かないんで、モツ、取ってくれませんか。そのままアーンで食べさせて下さい」

「ナオくんは、子供だなあ。はい、アーン♪」

 笑顔で蘭さんが箸につまんだのは真っ赤な鷹の爪の塊だった。

「蘭さん、それ鷹の爪……」

「アーン♪」

「ひぎい」

 蘭さん流石だ、もっとやってやれ。直也にお灸をすえてやってくれ!

 火を噴く直也を尻目にモツをいただこうと箸を伸ばすと姉貴の箸とタイミングがぶつかった。

「ダイ、あんたモツばっか食べすぎ」

「姉貴こそ、ニラぜんぜん食ってないだろ」

 バトルの火花を散らそうという所で御奉行様のオヤジがギロリと睨む。

「モツ鍋の真の主役は、キャベツだろう。キャベツを喰え」

「「ハイ」」

 縮んだ二人は大人しく従う。オヤジにゃ歯向かえない。ガキん頃から、姉貴と喧嘩するたびにオヤジにどつかれて育った。姉貴だって、女だからと甘やかされた事はない。俺と同様頭に拳骨くらった仲だ。

 友人に、親から怒られたとき、拳骨で殴られたっつったらえらくビックリされたが家じゃ日常風景だったりする。

 俺にとっちゃそれがオヤジだし、おかしいと思った事はないが、よそんちでは親が子供を叩いたりしないもんなんだろうか。

「まだあるから、慌てず食べなさい」

 母ちゃんがそう言って俺と姉貴にモツを取り分けてくれる。

 これが、大守家の食卓で団欒なのだ。

 最近は、姉貴もバイトとかであまり一緒に食事を取らなくなってきたが、やはり鍋をみんなで囲うのはいいものだなと俺の腹と心は満たされていった。

「〆は雑炊と、チャンポン。どっちがいい?」

「雑炊ー!」「ちゃんぽーん!」

 意見が割れた。カルボナーラ鍋の方はリゾットにするか、パスタを入れるかになる。

 ご飯派は、姉貴、オヤジ、月島さん、そんで俺。麺派は、母ちゃん、直也、三太、蘭さんで綺麗に票が割れた。

「だったら、いっそどっちも入れちゃうというのはどうかなあ?」

 蘭さんが、思い切った意見を提案するが、俺はそこに異議を唱えた。

「それはナシですよ、蘭さん。世の中、どっちかを選ばなくちゃならない事もある……両方を手に入れようとすれば、必ず破綻してしまうもんです」

「そ、そんな大きな話かなぁ……」

「そうっすよ、幼馴染を取るか転校生の美少女を取るか。フタマタなんて嫌でしょ?」

「フタマタはいやだけど、それ、今の状況に置き換えるような物ではないと思う……」

 俺の例えに蘭さんがジト汗を垂らして笑っていた。

「ちなみに、兄ちゃんだったら、幼馴染と転校生どっちを取る?」

「えっ」

 直也の不意の質問に一瞬、返答に詰まった。

 その時に、フラッシュバックしたのは、先刻の月島さん達の会話だった。


(幼馴染、姉妹のようなもの)


「……幼馴染かな」

 と、答えてしまった。

「そんな事、どうでもいいから早く飯か麺か決めよう」

 月島さんが俺の淡い恋慕に滲んだ言葉をサッパリ切り捨てる。辛らつですよォッ!!

「カルボナーラの方を麺にして、モツ鍋を雑炊したらどうかしら」

「異議なし」

 母ちゃんの提案に、オヤジが賛同し結局その方向性で決定された。そして、また鍋を囲んで談笑が始まる。

 俺は幼馴染と答えた時の姉貴の反応が少し気になって、姉貴をチラりと見てみたが、笑顔でモツを食べているだけに見えた。

 よくよく見ると、姉貴の取り皿にはカルボナーラ鍋のクリームスープが入っていたのだった。


 食事も終り、食器片付けも済むと、月島さんと蘭さんを送る段取りとなった。

「すっかりご馳走になっちゃった。ほんと、美味しかったよ~」

「こっちも楽しかったよ」

「また来週来るから、勉強やっとけよ、ダイ」

「うす、おやすみなさい」

 ステップワゴンに乗った月島さんと蘭さんに頭を下げ、充足の一日をかみ締めた。

 勉強も集中できたし、メシも美味かった。なんだか久々に素直に楽しい気持ちが満ちていた。それは美味いメシを喰ったからと云うだけではないだろう。

 姉貴も車に乗り込んで、二人を家まで送るため、オヤジが車を発進させた。

 車を見送りながら、やってやろうと決意を固めた。萎んだモチベーションが今日一日で膨らんだ事に自分の現金さを少し笑った。


 俺の悩みは解決はしてない。それでも、こんな小さな楽しさが転がっているのだから、坂道だって登れるのかもしれない。

 そして、それを気づかせてくれたのは、家に蘭さん達を呼んでくれた姉貴のお陰だ。

 だから、始まらず、終わってもいない俺の半端な想いは、グラグラと揺れながらも、どこか心地よいマッサージをしわがれた心に与えてくれていた。


 翌日、学校にて――。

「えっ、いいの? 今日、行っても」

「おう、姉貴が今日なら都合がつくって言ってたし。お前がいいなら来いよ」

 林原に姉貴の事を伝えてやると、メガネの奥の瞳がきらきらと嬉しそうに煌めいた。

「いく、絶対行くよ!」

「お、おう……」

 なんで、こんなにテンションが高いのだ。そんなに江洲高に興味があるとは……。あの高校、なんか特異性あったっけ……。

 フツーの高校って話だし、そこまで惹かれる要素があるとは思えないのだが。

「そこまで喜ぶような事か?」

「え、あはは! そ、そうですね、変ですよね。へへ」

 誤魔化すように笑う林原は、やはり嬉しさがにじみ出ていた。

「じゃ、ガッコ終わったら、下駄箱で待ってるから」

「うっ、うん。よ、宜しく御願いします」

 ぺこりと大きくお辞儀して、自分の席に落ち着く林原。何を舞い上がっているのか分からないがどうも、アガると丁寧語が出る様だ。分かりやすい。


「おい」

「うおっ、ンだよ、龍之介」

 いつの間にやら龍之介が怪しんだ表情を向け、顔をこれでもかと寄せてきた。

「教室で堂々と女子を家に誘うとはどういうことかな、大作」

「アホう。そういうのじゃねえってか、お前だって昨日話聞いてたから分かるだろ。俺の姉貴に用があるんだよ、林原は」

「……まじでそう思ってるのか」

 龍之介が重圧で押すような低い声と共に表情をしかめる。

「お前こそ何言ってんだ」

「はぁ……、まぁいいや。俺は直也から話を聞かせてもらうとするか」

 何を野次馬根性だそうとしてるんだ。いやこういう場合はデバガメっていうのか?

 龍之介が馬でも、亀でも構わないが、余計なトラブルは勘弁だぜ。俺はいま、やっと波に乗り始めたのだから。


 昨日の家庭教師のおかげなのか、今日の授業はずいぶんと身が入った気がした。

 先生の言っている事に頷く事ができたのだ。つまり、何を問題にし、何を答えとして求めているのかを把握できた。

 当たり前のような話かと思われるが、学校の授業の中身を半分も理解できている奴がいるだろうか。ただ、言われるままに、公式を当てはめて答えを求めるという考えをなぜ公式を用いるのかという流れを理解できたというか。

 確実に、昨夜の成果はあったのだ。実感を持った俺は、何か背中の筋をピンと吊っていてくれるような力を感じていた。


 言われた事を理解せずに習っても、飲み込めない。

 姉貴が三太に教えた言葉が、俺の身体で反響した。


 理解をするという事が、解決に繋がるのだろう。

 なら、俺のシスコンも理解をしてやることで解決できるかもしれない。いつかは、姉貴の事をおかしな目で見なくなる事もできるかもしれない。

 この場合、なんで俺が姉貴に慕情を抱いてしまったのかを突き詰めれば、問題を解決できるのはないだろうか。

 一体、きっかけはなんだったろう。俺はいつから姉貴が『好き』だったのだろう。

 ……好きだったのは、物心ついてからずっとだと思う。でも、それはきっと『家族としての好き』の範疇だったはずだ。

 『女性として好き』になってしまった間違いを見つければ、俺は更正できるのではないだろうか。


 よく思い出すんだ――。

 小学五年、十歳の時には姉貴の事をすでに『女』として好きだったようにも思える。だって、あのTVドラマで知った失恋は十歳の時だったと今でも鮮明に思い出せるからだ。

 ……いや、もしかしたら俺はその失恋がきっかけで、姉貴の事を『好き』だと気が付いたのではないか?

 つまりあれだ。失って気が付いたのだ。

 この場合、姉貴の事を好きだとは前から思っていたが、恋愛なんてまるで考えていなかった俺が、『姉を恋愛対象にしてはいけない』と言われたために、大きくショックを受けたわけだ。

 だから、俺はもしかして姉貴に恋をしていたのではないかと考える。そう考え出すと、段々姉貴が魅力的に見え始めてきた。


 この果実は食べてはいけない。楽園に住んでいたアダムとイヴはそう教えられたが、ある日ヘビにそそのかされてその実を食べてしまう。

 そして、それまでは裸を見せ合っていても何も感じなかった相手に対し、恥じらいを持ち始める。お互いを男女と意識し始めてしまうのだ。


 そして、楽園から追放された――。


 ……俺も今、楽園から追放されているのだろう。追放された者がもう一度楽園に戻る方法はあるんだろうか?


 終礼の鐘が鳴り、ホームルームが終りを告げる。

 俺は適当に支度を済ませ、下駄箱で待っていた。暇つぶしのお供は英単語の暗記カード……だったんだが、月島さんから移動中や待ち時間には勉強するなと言われた。

 勉強するときは机に向かう時のみ、それ以外は勉強の事を考えるなと言われた。

 理由としては、移動中や時間つぶしに勉強したって身にならないという事だった。それよりも、空いた時間は勉強から離れてリラックスするほうが机に向かうときに集中できるとの助言だった。

 と云うわけで、来週の家庭教師の時間に思いを馳せる事にする。

 月島さんも蘭さんも、美人さんなのでどうのこうの言ったって、中学生男子にとっちゃ熱が上がるというものだ。

 例えばこういうのはどうだろう。


「蘭さん、ここが良く分かりません……」

「ん~、どれかなぁ?」

「これです、これ」

 寄ってくる蘭さんの肉体。弾けるツーボール。ぷるんぷるん。

 知らない間に二人の距離は、吐息がかかるほどに……。

 俺の腕が擦り寄った蘭さんの豊満な胸に当たってしまって、頬を染めてしまいながら……。

「あっ、すみません」

「んっ、いいよ……ダイくんだったら……」

「え、それって……」

「ダイくんだったら、さわってもいいんだよ……」

 そして、蘭さんが俺の手を掴み、その瑞々しい果実へ誘う……。


 っかぁぁぁぁ~~~~! こんなのたまらんよなあ! なぁ!(あ、月島さんの存在が妄想から完全に消えていた)


「……? うん?」

 気が付くと、目の前で首を傾げながら同意する林原がいた。

「ぱなっぷ!?」

 驚きすぎておかしな悲鳴が漏れてしまった。い、いつからいたんだ?!

「いきなり顔を出すな」

「声、かけたんだけど……」

 伏せ目がちに言う彼女の声は小さい。そうだ、こいつはちょっと声が小さい。それに存在感もそこまであるタイプじゃない。

 ……どのあたりまで痴態を見られていたのだろう……。

「と、とりあえず、いくか」

「うん」

 誤魔化しきれずに、靴を履き替えてさっさか玄関口から出る。後ろから林原も付いてくる。

 そういや、俺は林原の事をほとんど知らない。家は近いのか?

「家、どのへんなんだ?」

「えと、山ノ神のほうだよ」

 山ノ神地区だと、家からそこまで遠くないな。何丁目かにもよるが、十分歩いていける距離だ。

「俺ん家は、大成地区んとこ。たぶん、近いな」

「そうかも」


 通学路並んで歩き、色々と林原の事を訊ねてみる。

「林原、うちの弟と仲良いんだって? 龍之介が言ってたぞ」

 少し、直也との事は気になっていたのだ。付き合っていないとは分かったが、直也もあの時会話から逃げるように去っていったし、まだ何かしらの関係性があるのかもしれない。

 俺の質問に少し驚きながら、林原は首を振った。

「仲良いって分けでもなくって。その、大守くんには聞きたい事があったから」

「大守くんって、直也でいいんだよな」

「あっ、そうだね。ごめんね大守君」

 なんだか、分かりにくい。

「別に直也の事なんか、ナオヤって呼び捨てでいいだろ。そうしろ」

 林原の方が先輩なのだから、そのくらいでも丁度良いはずだ。

「ええ……っ。ん、それじゃあ……ナオヤ君、かな」

「で、あいつと何話してたん?」

「ふぁ! それは、その、なんでもないです!」

 ……なんでもあるリアクションじゃないか、それは。うーむ、これは龍之介の言うとおり、誤解を招いても仕方ないかも。

「……じゃあさ、なんで江洲高受けるんだ? それは教えてくれてもいいだろ」

 あまり話したことのない林原なので、どうにか会話を進めようと思いつくままに質問をしてみるのだが、この質問も彼女は悩み、回答に迷っている。

「ええと……笑わないでほしいんだけど」

 と、前置きをして、視線を足元に落とす。

「……一緒の高校にいきたくて」

 顔が沈んだために、声を聞き取りにくかったが、どうも誰かと一緒の高校へいきたかったようだ。

 蘭さんも、友達が行くからと云う理由で受験をしたと言っていた。割と女の子では普通な理由なのかもしれない。

「あー、なるほどな。あるよなー」

 と、返事してやった。昨日の蘭さんの話のお陰なのか、割とその受験理由にマイナスな印象は抱かなかった。

 俺のその回答を聞いて、林原は初めて俺の顔を正面に見てくれた。

 その表情は、驚きと笑顔が綯い交ぜになった、思わず頭を撫でたくなるようなものだった。

「やっぱり、大作くんは、そう言ってくれるんだね」

「あ? ……あぁ」

 色々引っかかる発言内容に、少し頭が追いつかなかった。

 大作くん……ってのがまず、引っかかった。さっきのナオヤくんを受けての、名前呼びなのかもしれないが……同学年の女子に下の名前で呼ばれるのがドキリとした。

「大作くんってのは、その辞めてくれないか」

 むず痒さと照れくささで俺は頭をかく。

「ご、ごめんなさい!」

 林原が足を止めて、頭を下げる。そ、そこまで力いっぱい謝罪してもらう必要はないのだが。

「いや、その……俺、自分の下の名前、あんまり好きじゃないんだよ。ダイサクって。昭和臭くてダサイだろ」

「そんなことないよ。それに木戸くんもダイサクって呼んでたよ」

「あ、それでか」

「え?」

 きょとんと目を丸くする林原。

「いや、俺の下の名前、よく知ってたなと思って」

「はっ、ハイ。そうなんです! 木戸君です!」

「お、おう……。龍之介は、なんというか昔からの仲だしよ。いや、つーか、正直言うと女子に下の名前で呼ばれるのがこそばゆい、すまん」

 結局に素直に告げるしかなかった。気の強い女子になら、勘違い野郎と思われるかもしれないが、林原ならそんなことは思いもしないだろうと考え直した。

「あ、……そうだよね。ごめんね、大守君」

「うん、それで……やっぱりってのは……?」

「え?」

 これまたきょとんとする林原だ。どうも少し前の自身の発言をもう忘れているらしい。別段穿り返すこともないし、なんだかどうでもよくなった。

「あー、まぁいいや」

 そのまま暫く無言が続く。どうにも、女子と話すというのは居心地の悪さを感じてしまう。直也ならペラペラと口がまわるんだろうが。

 月島さんや蘭さんならともかく、良く知らない女子と盛り上がる話題なんて何ももっていない。

 結局、俺は共通の話題という事で勉強、受験の話に落ち着いた。


「なァ、林原は勉強、最近どうだ」

「ここに来てまた難しくなってきたよね。受験で、おさらいする事が増えたから、もう難しい内容はないかと思ってた」

「だよな~。俺、理科がダメだわ。力学エネルギーだっけ? さっぱりわからん」

「私も……文系は得意なんだけど、理数がだめで……なんとかついて行ってるよ」

「ほう! そうなのか! ほほう!」

「な、なんで嬉しそうなの……?」

「いや、同じ高校を受ける以上、お前とはライバルだからな。お前も苦手があるんだと聞いて付け入る隙があると思っただけだ」

「ら、ライバルなんてそんな。一緒に頑張る仲間じゃないの?」

「何言ってんだ。受験となれば、一人が受かれば誰かが落ちる仕組みだろ。つーことは、お前と俺はライバルになるだろう」

 そうだ、簡単な図式じゃないか。だから、俺は友達が行くからという理由で受験するのは少し首を傾げることになったのだ。

 自分が受かる事で、その友人が落ちるかもしれないと考えていないのではないか、と。


「それはちょっぴり違うよ」

 林原のその言葉は……俺の何かをくすぐった。

「好きな人が落ちそうになってたら、助けるもの」

「助けるってどうやってだよ……」

「大守君は受験って一人でやるものだって思ってるんだ」

「え? そうだろ、最終的にはそいつの学力を点数にするんだ。そこには助け合いなんてできない。やったらカンニングじゃないか」

「……そうだね。だから、すごく怖いよね、不安でこの先の事を考えるとすくんじゃうんだ、私」

 林原がうつむいて、足先を見つめる。


 ああ――。やっぱりみんなそうなんだな。先が怖いんだ。未来なんて全然保証されてない。そういう時代だ。

 いい学校に行って大きな会社に入れば安泰かって言ったら、そんなことはないはずだ。

 絶対の安泰なんてない。俺たちはいつだって、未来の不安と付き合わなくちゃならないんだ。


「だから……一人じゃ怖いから、誰かと一緒に頑張るんだよ。そしたら、受験会場でもきっと、心強いと思うんだ」

 言うとおりかもしれない。

 昨日、家庭教師をしてもらうまでは、ずっとイラついてばかりで勉強もどこか散漫だった。

 でも、昨夜のことから、俺はなにか心の痞えが消えて、自信が湧いて来た気がする。

「そうは言っても、お前は九十パーセントだから、そんな事言えるんだ。七十の俺としちゃ、一人でもなんでも競争相手が減るにこした事はないぜ」

「そ、そんな風に言われるとちょっと傷つく……」

「まぁ、でも……林原の事は仲間に設定しといてやる。お前が仲間なら心強いからな」

「あ、ありがとう!」

 メガネの奥の彼女の眼はキラキラと眩しかった。彼女の瞳は、きっと昨夜の俺の眼と似ていたんじゃないかと勝手に思い込んだ。


 やがて、家に辿り着いた俺は、玄関のクツを確認する。姉貴のクツはまだない。

「ただいまー」

「おかえり、……あら」

「おじゃまします」

 俺の後ろに居た林原を見止めて、母ちゃんが俺と林原の顔を見比べる。林原は、その場でぺこっと礼儀良く頭を垂れた。

「だ、ダイ。あんた、女の子連れてくるなんて初めてじゃない。彼女できたのね!?」

 母ちゃんが俺の肩を掴み揺らしながら、ヒートアップする。ぐわんぐわん揺れる視界に眩暈をおぼえながら、なんとか否定の言葉をつむぎ出せた。

「ちげえよ! クラスメートだ! 姉貴に会いに来ただけだ!!!」

「さあさあ、上がってね。汚い家でごめんねェ」

 ……俺の話を聞いてねえ。

「すみません、急に来てしまって」

 林原が何度もペコペコしながらやっとの事で家に上がった。

「姉貴、まだ帰ってないみたいだけど、今日はすぐに帰ってきてくれるはずだから、少しまっててくれ」

「う、うん」

 とりあえず、リビングに案内し、ソファに座るよう誘ってやった。

 林原は少し身を小さくして落ち着きなさげに腰を降ろす。まさに、ハムスターかプレイリードックかというような小動物的動きで見ていて少し笑ってしまう。

「なんか飲む?」

「おかまいなくっ」

 とりあえず、お茶をグラスに注いで出してやった。

「お母さん、ちょっとケーキでも買ってくるから~」

 変な気を利かせ始めた母ちゃんが、バッグをひっつかんで外出準備を始めた。

「えっ、いえ、本当におかまいなく!!」

「サンター! 買い物行くから、ちょっと付いて来なさい~!」

 母ちゃんが三太を連れ、ニヤニヤしながら「ゴユックリ」と玄関を閉じる。完全に誤解というか、舞い上がっていた顔をしていた。……はぁ。


「すまん、アホで」

「ううん! こっちこそ、やっぱり急に来たりして気を使わせてしまって」

 ……参った。姉貴が帰ってくるまでどうしたもんか。

 早く来てくれ、姉貴ーーーーーーッ!!!! と、叫びたくなる。

 ……無情にも沈黙のひと時が過ぎてゆく。あまりの沈黙に耐え切れず、とりあえず切り込んでみる事にした。

「げ、ゲームでもするか? マリカー」

「あ、えっと、私ゲームあんまりやったことないんだけど……」

「あ、そう? 珍しいね、ハハハ」

「そ、そうかな? どんなのかな?」

「これ、ハンドルのコントローラで、車動かしてレースすんの、しらね?」

「あ、CMで見たよ」

「うん。それな。やる?」

「あ、じゃあ……よろしくおねがいします」

「じゃ、これもって。これがアクセルな、こっちブレーキ」

「う、うん」

 ……なんで林原とマリカーしてんだ、おれわ。いや、やろうと言ったのは俺なんだが。


 結局三レース、すべて俺が圧勝した時に、姉貴が帰って来た。

 リビングでマリカーで遊んでいる俺たちを見た姉貴は、挨拶もなしにこう言った。


「自宅デート?」

「ちがわいッ!!」

 俺の魂の叫びにも似た否定の言葉は、人生最高潮のパワーを持っていたかもしれない。

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