第4話
冷蔵庫からお茶を取り出し、コップに注いで一気飲みした。
さっきの姉貴の様子は……なんだったんだろう。
なんつーか、すげー……ドキドキした。
オトナの女って顔だった。やっぱ、姉貴も成長してるんだな。なんか、溜息が漏れてしまう。
俺はいつまでも成長できないでいる。どうやって大人になればいいかもよくわかんねえ。
「姉ちゃんの発育状態にドキドキしてんのか?」
「どゅわぁーーーいッ!?」
不意打ちの声は直也だった。こちらの反応で愉しんでいる顔をしていた。鼻の穴膨らませやがってムカつく顔してやがる。
「なあ、兄ちゃん。今から姉ちゃんが風呂に入るから、うまいことラッキースケベしてくれんかね」
「ラッキースケベは狙ってやるもんじゃねえっ」
つか、こいつはどこまで冗談で言ってんだかわかんねーのが性質が悪い。
ほんとに姉貴の身体で欲情してんのかね……。おそらくだが、直也のこれはそういうのじゃないとは思うのだ。
姉貴を困らせたくてそういうのをワザとやってる感じがする。あと、俺をからかって、か。
「いやあ、やっぱ同年代の女の子より、オネーサンだよなあ。年上っていいよなあ」
「……それは分かる」
「だよなあ、さすが兄ちゃん。ムッツリアニキ!」
「ムッツリ言うな、あほう!」
しかし、年上好きと云うのは共通の嗜好らしく、その辺は兄弟で似通うものなんだろうかね……。
うーむ、こうなると、聞くつもりはなかったが、気分転換になるかもしれん。あの事を聞いてみるか。
「直也、お前部活、レギュラーとれそうだって聞いたぞ」
「ああ、そうだなあ。三年がほとんど試合やるつもりはないらしいし、二年の先輩と試合して、オレ勝っちゃったしな」
「ふーん、お前がテニスにそこまで熱を上げるとは思わなかったぜ」
「別にそんな言うほどじゃないよ。面白いとはおもってるけど」
さらりと言った直也だったが、実際部活は楽しそうにやっているのを俺は知っている。
夢中になり始めているんだろうな。こいつは、惚れっぽい性格をしているが、それは別に女にだけというわけじゃない。
いい表現を用いるなら、こいつは物事の面白いところを見つけるのが上手かった。
ゲームだって、マンガだって、俺がつまんねぇと思った物を、これはこう見ると、面白くなるぜと自分の主観を語る事が多かった。
その着眼点で俺も見方が変わった物もいくつかある。
そう言えば、姉貴が中学に上がった辺りで、はじめてフリフリの付いたブラジャーを買ったときに、俺は何とも思っていなかったのに、直也が「姉ちゃん、エロい」と言った事があったっけ。
直也が八歳位のときか。あの時からすでにエロに目覚めていたのか、こいつ。
でも、その発言で俺も姉貴の事をちょっと意識するようになったような気もする。ああ、そうか。その頃俺は丁度、オトナの証が生えてきた頃か……。思春期に入った口火が直也の発言だったのかも……。
「お前って、ホント。ガキん頃からエロ河童だよな……何の影響?」
「知りたい?」
……うぜえ。でも、知りたい。
俺は小さく頷く。すると、直也が耳を貸せと、ちょいちょいと手招きした。
「実はさ……、昔、姉ちゃんの友達の月島さんにさ……」
「え、うっそ、おま……マジ、それ?」
「マジ、家に泊まりに来た時、一緒に風呂に入ってさ……教えてもらった」
弟に、先を越されていたとは兄として不覚ゥーーーーーーーーーッ!!
思わず頭を抱えてその場にへたり込む。
「その時、オレの小宇宙は目覚めてしまったのだよ」
「ぬがあああっ! なんでお前だけえええええっ」
「そう熱くなんなって! キスしただけだぜ、キス」
「オレはまだしたことないぞッ!」
「いいよォ、お姉さんのキスはァ」
……ゴクリ。月島さんっつーと、姉貴の同級生で、ちょっと不良っぽいというか、オトナな感じのお姉さんだ、クールで切れ長の目が印象的な人だ。
「で、お前……それからどうなってんだ」
「いや、そんだけ。多分、遊び感覚だったんだろうさ。オレの事もガキとして見てただろうし」
十分ガキだっただろうが……。今だってガキだよ、ちくしょう。
「ま、何はともあれ、そこでオレは目覚めちゃったわけ。年上の魅力ってヤツに」
「ううむ……。それで林原にも手を出したのか」
「は? 林原先輩に? オレが?」
探りを入れるつもりがあまりの動揺で、ぽろりとそのまま零してしまった。
「い、いや……なんか、噂になってるって言ってたぞ。龍之介が。お前と林原がよく会ってるって」
「……あ。あ~~。それか、ああー、うん」
直也が急に目線を泳がせ、挙動不審になった。明らかに何かある事を隠している!
「なんだ? 噂はマジなのか?」
「いや、違う。半分合ってるけど」
どういう意味だ。半分って何の半分だ。
「オレ、別に林原先輩とは付き合ってないぜ。あの着やせする身体には、抱き付いてみたいところではあるが」
……着やせするのか林原は……。
「あー、つまり半分合ってるってのは、よく会ってるってところはマジって事か」
俺は合点がいって頷いた。まあ、部活の期待の新星とマネージャーならちょくちょく会いもするだろう。
「そういう事。あ、んじゃオレはもう上がるんで」
「あ? ああ……」
直也が早々に会話を打ち切って二階に上がって行った。まだ何やら隠している事はありそうだが、正直そこまで踏み込む程興味もなかった。
俺はもう一杯、お茶を注いで一気飲みした。風呂場から聞こえるバシャンと云う水音に、何故かドキンと心臓が鳴った。
このまま上に上がっても、もう自室には三太に直也が居るし、どうにも勉強できる心境でもなくなった俺は、結局リビングでソファに寝転んでぼんやりとしていた。
キスか……。そういや、姉貴とキス……ガキの頃にはしたような気がする……。三太が生まれるより前に。
たしか、直也がまだ二歳か三歳かで母ちゃんも三太が腹の中に居て、九州のばあちゃんちで生活してた頃だった。
俺と姉貴はオヤジと一緒にこの家で残って生活してた。で、俺が母ちゃんに会いたがって泣いた時に……。
「あたしが、お母さんになるから、なかないで」
そう言って、泣いてる俺をあやす為に、キスしてくれた。ような気がする。今考えると、母ちゃんの代わりでキスするのはなんだか、変な話にも思えるが……。
「あんた、ここで寝んの?」
「ぴゅわぁぁぁぁぁッ?」
ソファに寝転がる俺の目の前に姉貴の唇が現れた。否、姉貴が覗き込んできた。
「な、なんだよー。変な声上げないでよ、ビビったジャン」
「いきなり顔出すからだろう!」
「そんなイキナリだったかな……?」
姉貴は風呂上りで、上下ピンクのパジャマを着込んでいた。胸元は少し開いていて、谷間が見えた。
「ともかく、寝るならちゃんと上にいきなよ」
「分かってるよ」
「さて、あたしも勉強して寝るかあ」
「……あ、そうだ。姉貴。ちょっと聞きたいんだけど」
「んっ?」
立ち去りかけていた姉貴がくるりとこちらにターンした。姉貴の運動神経の良さが垣間見えた身の捻りは綺麗だった。
「姉貴、受験ってむずかったか?」
「んー。あたしは正直なところ、あんまり難しいって思わなかったカナ」
軽く笑いながら姉貴はまだ少し湿った前髪を持ち上げた。
「そ、そうなのか。姉貴、勉強できたっけ」
「普通レベルだと思うよー?」
「そか……」
姉貴、中学の頃は結構テストの点悪かったように記憶しているが……、普通レベルってどんくらいなんだろう。判定七十の俺は普通だろうか。
「なに、どしたん?」
姉貴の顔が寄ってくる。シャンプーの香りがした。少しほてった頬は淡い桃色に染まっている。まつげは、くりんと伸びていて大きな瞳を可愛く飾っている。
さっきの大人の雰囲気ではない、元気な……どちらかというと素朴で可愛い系の顔立ちのいつもの姉貴だ。
「……いや、ちょっとさ……勉強ムズくて」
心音がでかくなったように気がして、気恥ずかしくなり、尻つぼみにボソリと零す。
「あー。家庭教師してほしいのか。別にいいけど、付きっ切りは難しいよ」
「別にそこまで言ってねえだろ。ちょっとわかんねーとこ、教えて欲しいだけだ」
「いいよ。じゃあ、あたしの部屋に問題持ってきな。そっち、もう三太が寝るっしょ?」
さらりと言った姉貴の提案に俺の心臓が跳ねた。
姉貴の、部屋で勉強か――。
高鳴る鼓動を押さえ込もうと勤めて平静を装って俺は返事した。
「オッ、オウッ?」
……失敗して、上ずった声が喉から上がってしまう。
「アザラシみたいな声出さないでよ」
「オットセイの間違いだろ」
オットセイとアシカの違いが良く分かってないが、たぶん俺のツッコミは合っているはずだ。ともかく、姉貴の部屋に誘われた事に俺は生唾を飲み込んでしまった。
姉貴の部屋へは、一年近く入っていない気がする。もしかしたら、もっと入っていないかもしれない。
久々に入った姉貴の部屋は、なんというかサッパリしていた。
小物やら、可愛い人形やらが飾っているかと思ったが、シンプルなデスクには教科書といくつかの辞書。
写真立ての中身は俺たち家族の写真が入っていた事に、なぜか安堵の溜息を吐いた。
しかし、もっと化粧品とか色々可愛い小物やアクセサリーなんかを持っているのかと思ったが……。
ざっと見ると、見当たらない。そこから推理できるのは、カレシは居なそうだな、という事だった。
「じゃあ、机使っていいからさ、まずどこよ?」
姉貴のシンプルな学習机に座り、俺は数学の教科書を見せて、『平方根』のページを開いた。
「あー、ルートね。どういうとこ分かんない?」
「この虚数iってのが、イミフでさ」
「こ、これ高校でやるとこだよ。今、あたしらの授業がこの辺……」
「へ? そうなのか?」
「ほら、ここ読みなよ。虚数は考えないものとするって書いてるジャン。まだやらなくていいけど、こういうのがあるんだよって書いてるだけっぽいよ」
姉貴が教科書の下部に小さく書いてあった一文を指差した。
「んだよ、だったら書くなよな、紛らわしい」
「必要ない事知っちゃうと、余計わかんなくなるよね」
虚数は想像上の数字で、存在しないもの……とか説明が書いてある。中学では詳しく知らなくてもいいが、いずれこれを利用することになるようだ。
「でも、高校でいずれやるんだなー」
「そだね」
「いつかはやる事になるんだな……頭いてー。つか何だよ存在しない空想の数字ってそんなの必要なのか?」
「存在しない、か」
俺の誰に投げたわけでもない愚痴に、姉貴が重さを感じない透明な声で呟いた。そう、意識しないと拾えないようなそんな声。色のない、透明な声。
「ん? ……どした、姉貴」
姉貴がなんと呟いたのか、はっきりと認識できなかった俺は姉貴の顔を見上げた。
「えっ、いや、実はあたしも正直、数学はダメダメでさ!」
「なんだよ、偉そうに教えてやるとか言うなよ」
「少なくともアンタよりは頭良いですからー」
姉貴が俺の両こめかみに握り拳を押し付けドリル攻撃してきた。
「グリグリするな」
「じゃ、分かんないとこは御仕舞い?」
「お、オウ」
……しまった。もうチョイ、色々聞いてみても良かったかもしれない。そしたら、まだ姉貴の部屋に居られたはずだ。
「じゃ、あたしは自分の宿題やるから」
「おう」
「また分かんないトコあれば、聞きにきなよ」
「おう」
「アシカかよ」
そう言って姉貴が笑う。その笑顔に俺は顔が赤らんでいないか不安になって、慌てて部屋から出た。
結局俺は、そのままあっさり自室に戻った。
心は一緒に居たいと思っているのに、俺の理性が卒業するんだと警告してきて、身体を姉貴の部屋から動かした。そんな感じだった。
――じんじんしているこめかみの痺れが消えないうちに俺は布団に入ろうと思った。
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