第3話

 さてさて、学校も終わった。部活も塾もない俺の自由に使える大事な時間だ。

 まっすぐ帰っても良いし、寄り道したって良い。

 駅のほうまで足を伸ばせばゲーセンやら本屋やらあるし、一人でも色々と遊べる。

 別に友人が居ないわけじゃないが、受験生って事であんまり一緒に遊ぶという事がなくなってきた。

 龍之介も林原もテニス部だろうし、俺はこのソロタイムを自分のためだけにどう使うか、今日の朝から決めていた。


 学校からおよそ一キロ歩くと駅に着く。駅周辺は商店街やらパチンコ屋、レストランにゲーセン、夕方は賑っている。

 俺の目的は駅前の喫茶店だ。この喫茶店、寡黙な店主と威勢の良いおばちゃんが経営している『じゅげむ』と言う名の個人経営店だ。

 雰囲気は暗めの店内だが暖色のライトがなにやら不思議な居心地の良さを醸し出す。

 俺はいつもの席に腰掛けて、アイスコーヒーを注文した。

 その席は、大きな窓があり、駅前の小さなロータリーを一望できる。

 ロータリーの奥には、駅があって一階にはいくつか店が入っているんだが、そのうちの一つの花屋に俺の視線は注がれていた。

 小さな花屋の名前は『KAZAMIDORI』。店の前を通ると、濃厚な花の香りに思わず反応してしまう。

 花瓶やショウケースの鉢植えに沢山の花が飾ってあって、値札が取り付けてある。

 俺には花の事なんてさっぱり分からない。その値段が高いのかどうかも正直興味がない。

 ただ、そこが姉貴のバイト先だっただけだ。


「にあわねえな……ほんと……」

 店先で薄い黄色のエプロンを付けた姉貴が、なにやら花瓶を弄っていた。

 最初、姉貴がバイトをすると言い出した時は、何をやるのかと考えた。

 しかし、あのガサツな姉貴からは想像できない花屋のバイトと聞いたときは指を刺して笑ってやった。

 俺を踏みつけて起こすような怪力乱神、パンツ丸出しの羞恥心のない女。それが『お花屋さん』で働く事の違和感さ。

 ……ただ。

 店先にやってきた客を接客している姉貴は。

 姉貴の笑顔は。周りに咲いたどんな花より。

 俺の胸を熱くし、そしてすぐに切なくさせた。


 この好意は許されない。


 諦めなくてはならないのに、俺は結局、ここに来る。

 姉貴を見つめ続ける俺は、気色の悪い、居てはいけない病原菌のようなもんだろう。

 分かっているのに、俺の心の空白は、姉貴を収めないといつもカラッポだった。


 将来は何になりたいか――。

 そんなもの分からない。

 何か目標があって生きてるわけじゃない。夢もない。カラッポの俺が熱くなるものはたった一つだった。


 それから一時間くらい喫茶店でお茶した後は、家に帰った。

 帰り着くころにはもう暗くなり始めていて、腹も減っていた。

「ただいま」

「おかえりー。ちょうど今からご飯だよ」

 母ちゃんがさっさと着替えて来いと言って台所に戻った。

 二階の子供部屋に入ると、三太が計算ドリルを相手に机に向かっていた。

「もうすぐメシだってよ」

「うん。いくー」

 俺も勉強しねえとな……。メシ喰ったらさっさとやっちまうか。

 制服を脱いで部屋着に着替える。

「おう、三太。今日は姉貴の帰りが遅いから、俺と風呂な」

「うん」

 ちょっと三太とは色々男同士の話をしなくちゃならん。

 風呂場と言うのはいい場所だ。男同士の会話と言えばハダカの付き合い。風呂場と相場が決まっている。

 三太の宿題が済み、一緒に一階へ降りる頃、直也が帰宅した。

「ただー」

「おか」

 直也の顔をみて、龍之介の話を思い出した。

「母ちゃん、今日のメシ何ぃ?」

 直也は俺の目線には気がつかず、台所へ真っ先に向かった。

「照り焼きチキンだよ。早く着替えてきな、もう食べるから」

「オーキードーキー」

 直也がバタバタと二階に駆け上がっていく。

 と、そこにオヤジも帰って来た。

「おかえり」

「おう」

 オヤジは何というか、めちゃくちゃ口数が少ない。生まれが九州で、寡黙な九州男児の印象そのままの厳つい強面だ。

 仕事はショウワパークとか会社名で駐車場経営やってる。最近、会社がでかくなって来たからとTVCMも流れ出していたが、なんというか自社製作のセンスを感じないCMだったのを思い出した。

「リカは?」

「バイトらしい」

 そのまま和室に入っていく。一階和室がオヤジと母ちゃんの部屋だ。

 二階は子供達で部屋を使っている。姉貴は二階の俺たちとは別に自分の部屋を持ってる。

 俺も高校に上がったら自分の部屋を割り当ててもらう事になっている。

 一部リフォームして、部屋を増やす事にしようと話が出ていた。正直、それが愉しみでしょうがない。

 流石に三人一緒の部屋は色々キツイ。受験生にとっちゃ、一人で集中したいことだってあるのだ。

 残念ながら、俺の受験までにはリフォームは間に合わないらしい。直也の頃にはそれぞれ一人ずつ部屋が割り当てられるだろうが。


 夕飯を食い終わったらすぐに風呂に行く。三太を連れて風呂に行きながら、俺は直也に例の事を聞いておくべきが悩んだが、結論としてはどうでもいいという事になった。

 聞いて気を使うのもいやだし、だったら最初から知らない方がいい。林原と付き合おうが俺には無関係なのだから。気を揉むだけ損だろう。


 と云うわけで風呂なワケだが……。

 三太のヤツ。見たところ、まだ生えてないようだ。これではオトナの男を語ったところで通じないのもしかないかもしれない。

「三太、朝の話だがな」

「ん」

 湯船に二人でつかり、俺は三太に言い聞かせる様に言う。

「いいか、風呂っつーのは男と女が一緒に入る場所じゃねえんだ」

「うん」

「温泉に行く時も、男湯と女湯があるだろ、分かるな」

「うん」

 なんだ、分かってんじゃねえか。

「だったら、姉貴と風呂に入るのはもうナシな?」

「なんで?」

 ……わかってねえ!

「言っただろがッ! 男と女で風呂に入るのはダメなんだよ!」

「でも、お姉ちゃんは家族だよ」

 ……っ!

「そ、そ、そうだけど、じゃなくてさ……」

「ダイにい、変だよ」

「変じゃねえッ!!」

 思わず、立ち上がって叫んでしまった。三太はまたビビる。見る見るうちに顔がくしゃくしゃになって泣き出そうになる。

「うっ、あとそれだ! すぐ泣くな、男だろう!」

「ひぃ……」

 必死に泣くまいと堪えた三太は変な声を漏らした。正直、泣いてるのと変わりない。鼻水たらして、目じりには涙が溜まっていた。

「……そんなんじゃナメられるぞ。しっかりしろよな」

「……」

 三田は返事をしなかったが、小さく頷いた。

 結局、そのまま気まずい空気が続き、無言のままに俺たちは風呂から上がった。


「風呂上がったぞ」

 リビングに戻ると直也に声をかけて、上に戻った。

 三太はリビングに残り、母ちゃんのスマホを弄っていた。

 直也と三太が居ないうちに、自分の宿題やらをこなしたいところだ。なんせあいつ等が居ると気が散るしな……。

「ったく、受験生に少しは気を使えってンだよな、ウチの家族はよ」

 英語の単語を覚えようと単語帳を捲っていたが、溜まったストレスが悶々と勉強の邪魔をする。頭に入ったのか入っていないのかも分からないまま、ぼんやりと『empty』の単語を見つめていた。


「ただいまー」

 姉貴の声だ。帰ってきたらしい。

 集中できない勉強を一旦中断し、俺は一階に降りた。

 姉貴がリビングのソファに腰掛けTVを見ていた。隣には三太が座っていた。

「おかえり」

「ただいま。ねえ、三太どうしたの?」

「……」

 三太は姉貴の隣で俯いていた。さっき、俺が言った事を考えているのかもしれない。

「ねえ、姉ちゃん。僕とお風呂入るの嫌?」

 三太は俯いたまま姉貴に訊ねた。あまりにストレートで俺は思わずむせた。

 姉貴もいきなりの発言内容に理解が追いついてないのか、首を傾げるしかなかった。

「べ、別に嫌じゃないけど……。なんで? どうした?」

 意図を探るべく、姉貴が三太の顔を覗き込む。

「男と女が、一緒に入るのはダメだって……」

「あー? まぁそうだけど……家族ならいいんだよ」

「家族でも、変だって……言われた」

 俺は内心、冷や汗タラタラだった。三太よ……、マジ勘弁だぜ……。


「誰がそんなこと言ったか知んないけど、そいつはちょっぴり違うぜ」

 その姉貴の言葉に、俺は奇妙な感覚を覚えた。

 あれだ、始めてみた光景なのに、知っているカンジ。デジャブ、だっけか。

 あんなカンジだった。

「何が違うの? クラスの川端くんも言ってたよ、いつまでも姉ちゃんと風呂入ってるのは変だって」

「じゃあさ、三太はクラスの女の子とお風呂に入れる?」

「入れないよ。恥ずかしいじゃん」

「あたしと入るのは、恥ずかしい?」

「恥ずかしくないけど……みんなが変だって言うから、僕間違ってたのかなって思う」

「じゃ、三太はみんなに辞めろって言われたら、好きな事でも辞めちゃう?」

 はっとした。このやり取りを俺は知っている。

「分かんない……」


 三太の顔に幼い俺がダブって見えたようだった。

 かつて俺は姉貴に訊ねたことがあるんだ……。


(姉貴は、好きな奴と付き合うなって言われたら、付き合うの、辞める?)

(辞めない。好きならその人と一緒にいる。誰がなんと言っても)

(法律でキンシされてても?)

(えー? そんな難しいの分かんないけど、好きな人をキンシする法律のほうがおかしいんじゃない?)


 まるであの時の会話のままに、目の前の姉貴と三太はやり取りを続けていた。

「分かんないまま、人に言われて云う事聞いても、納得できないじゃん」

「うん。分かんない」

「だったら、分かった時に決めたらいいよ。そうやって大人になっていくんだぞ」

「うん」

 三太は姉貴の言葉にうなずいた。その表情はどこか晴れ晴れとしていて、さっきまで沈んでいた表情は笑顔だった。

 俺にニカニカと笑顔を見せ付けて二階に駆け上がっていった。勝利宣言のように見えて少しイラついた。

「姉貴、三太にアマすぎねえ?」

「だって、まだ子供じゃん」

「お前だって子供だろが」

「あたしは立派な女子高生。女子高生といえば、オトナよ、オトナ」

「高校生は子供よ」

 母ちゃんが姉貴の夕食を用意して、こちらの会話にに突っ込みを入れた。

「そんなことないよ。女性は十六歳から結婚できるじゃん。あたし、もう結婚できる年齢なんだよ」

 その発言に俺は血が凍る思いだった。虚勢を張るために出た言葉は実に陳腐だった。

「お前みてーな野蛮女、結婚できるわけないだろが」

「んだと、ダイ!」

 姉貴が俺にアームロックをかけて来た。ギリギリと閉める腕の痛みととキメられた左のひじ付近に触れた姉貴の胸の柔らかさに俺は顔を真っ赤にした。

「ぐぎぎっ。そ、そういうとこが、野蛮だっていってんだよッ!」

「ふふん! 思い知ったか我がパワー」

 ……女が腕力を思い知らせてんじゃねえよ……。

「お母さん、お風呂入った?」

「まだよ」

「あたし、最後でいいから」

「はいはい。それじゃ次に入るわ」

 姉貴が照り焼きチキンを食っているのをぼんやり眺めていた。頭の中には、フラッシュバックした昔の言葉が渦を巻き、俺がどうして姉貴を好きになったのか。今もこうして諦められないのか、思い出したような気がしていた。

「なにダイ。さっきからジロジロ……やらないよ」

「いらねえよ、アホう。勉強してくる」

「がんばれがんばれ」

 うまそうに照り焼きチキンを頬張る姉貴は、やはり俺の胸を焦がすのだった。


 二階に上がり、自室に戻る。部屋では三太が少年ダイブを読んでいた。俺は自分の机に腰掛けて、数学に取り掛かった。

「つぎの数字の平方根を求めなさい……?」

 …………えーと。

 暫く考え込みながら、問題を解いていく。どうにもこのルートってのが、俺には難解だった。虚数解iとか意味不明でこれを日常のどの場面で役に立てればいいのかを悩み始めた辺りで、自分が問題に集中できてないことを自覚した。

 考え込む俺の視界の隅に、三太の姿が入ってくる。漫画を読んで面白そうに笑っている。

 でも、声を上げて笑ったりはしてない。俺が勉強している事を分かっているからだ。

 気を使っているのだ。こいつはこいつなりに、俺に対して気を使っている。

 だが、俺の精神の余裕のなさと不安定さはそれさえ不快に感じさせていた。

 イライラしている。もうなんで俺自身、こんなに集中できず、悶々しているのか分からない。


「はぁぁぁ」

 仰々しく溜息を吐き出した。

 三太はそれに反応した。部屋を出ようと三太がダイブを持ったまま立ち上がった。

「あー、三太。別にいい。お前のせいじゃねえ」

 気を使わせている。それも嫌だった。なんかもう、色々いやだった。

 頭を冷やそうとまた一階に向かう事にする。

 部屋を出る前に、こちらの様子を窺っている三太にひとつだけ声をかけた。

「……なんか、悪かった」

 ぽかんとした表情の三太を置いて、もう一度一階に降りた。


 階段で姉貴とすれ違った。メシを喰い終わって、着替えに自室に戻るんだろう。

「勉強は?」

「……母ちゃんみてーなこと言うなよな」

 正直、今は小言は聞きたくない。何も考えたくない。そのまま通り過ぎるつもりで姉貴をすり抜けようとした。


「……お母さん、みたいだった?」

「え?」

 驚いた。その時の姉貴の表情は、いつもの姉貴とはまるで違う、どこか別人の顔に見えた。

 いつも元気で、さっきまで俺にアームロックをしていた姉貴ではない。

 とても儚い、まるで掌に落ち込んだ雪の粉のように、溶けて消えそうな微かな笑顔。そんな風に感じた。

 姉貴はそのまま自室に入り、扉を閉じた。

 俺の中のもやもやが、何か形を持って立ちふさがったような、明確などん詰まり感で暫く立ちすくんでいた。

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