第15話 旅立ちの朝

 ブランデル夫妻は仕上がったばかりのフロックコートに袖を通したロニを喜色満面で眺めていた。

 仕立てのいいコートはロニの肢体にぴったりと沿い、真新しいブーツと合わせた姿は、若々しくも上流階級らしい品格と威厳を醸し出している。

「とてもよく似合っているわ、ロニ」

「ありがとうございます、お母さん」

 ロニは背筋を伸ばして微笑むと、ダンスに誘う時そうするように片脚を下げ、優雅にお辞儀をしてみせた。立派な青年の、どこか少年じみた愛嬌ある仕草にブランデル夫人は口元を押えて小さく笑い声を上げる。

「クルトには礼を言わなければならないな。三年程前までは随分心配したものだが、杞憂だったようだ」

 ロニはこの三年間で目を見張る程成長した。

 背は伸び、まだまだ細身ではあるが、体付きもずっと逞しくなった。柔和な表情の中にも、どこか隙無く凛とした風情がある。

 クルトはそんな家族から少し離れた位置に立ったまま、無感情に答える。

「いえ、僕は知り得る限りのことを彼に伝えただけですから」

「いや、立派に育ててくれた。君は実にいい家庭教師だったよ」

「過分なお言葉です、ブランデルさん」

 謙遜するクルトに、ブランデルは満足そうに頷いた。長年家族を装って生活していながらも、終ぞ一線を超えることなく自身の立場と役目をこなした従順な使用人にいたくご満悦のようだ。

 二人の遣り取りを見ていたロニが一歩踏み出して父の顔を窺った。

「お父さん、お願いがあるのですが」

 不安そうに眉根を寄せる息子にブランデルはとびきり甘い顔をする。

「どうした? 言ってみなさい」

「僕も、もう十八になりました。次の仕事の時には、どうぞ僕も連れて行ってください」

 ブランデルは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに表情を明るくして声を弾ませた。

「ああ、勿論だとも。早速必要なものを揃えさせよう。次に出向く町ならちょうどいい。覚えているか、ヤレンナミケンだ。子供の頃に一度連れて行っただろう?」

「昔のことなので……薄っすらとしか。少し不安です。僕はこの街以外の土地は知らないから……」

「いいんだ、これから私に着いて学べばいい」

 何度も肩を叩いて、ブランデルは目に涙を浮かべながら笑っていた。

「素敵なお相手も見つけなければね。一人前になるには、伴侶が必要だもの」

 良い見合い話を探さなくてはと少女のようにはしゃぐ母を見て、ロニは目を眇める。

 夫妻は使用人を呼び付けて、ロニの手回り品の手配や晩餐会用の礼服について夢中になって話し始めた。ロニはコートを汚さないよう着替える旨を言い残して部屋へ戻る。

 礼服の生地やデザインに頭を悩ませる夫人を置いて、ブランデルはクルトの元へ歩み寄った。

 そして珍しく、やや言い淀みながらも彼お得意の猫撫で声を出した。

「なあ、クルト。今後のことだが……。うちには息子は一人しかいない」

「ええ、存じています」

「もし他にも子供がいれば、君に引き続き教育を任せたいところだが……」

「ブランデルさん、承知しています」

 クルトは珍しく、ブランデルの言葉を遮ってやや強い口調で断言した。

 ブランデルは腹を立てることもなく、むしろ安堵の色を見せる。

「仕事を終えた以上、こちらにご迷惑をおかけするわけにはいきませんから。お許しを請えるならば、近々お暇しようかと思っていました」

「そうかね。とはいえ、急なこととなれば不便だろう。必要なら、カレン氏に話をしてもいいと思っているのだが」

 クルトは微かに口元に笑みを浮かべながら首を左右に振った。今頃になってその名を出されるとは思っていなかったが、今頃になってその名を出すあたりが、実にこの男らしいとも思った。

「お気遣いは無用です。僕はカレン家から出た身ですから、生家とはいえ身を寄せるには気が引けます。実は、ハルトネンさんのところで厄介になろうかと」

 ハルトネンの名が出たその刹那にブランデルの顔が険しく歪む。

 クルトは済まし顔でブランデルの眼光を受け流した。

 ブランデルは必死に頭を動かして考えているに違いない。何が利益で、何が不利益か。カレン家とブランデル家の間においては、それぞれに利害の一致というものがあった。カレン家は不都合な息子を体よく捨ててしまえるし、ブランデル家は事情を知らない仕事先で、『死んだ』息子の代役をさせられる。クルトの処遇は取引だった。

 だがハルトネン家は、両家の事情には表向き無関係だ。ハルトネン家の息子が家出した理由を知ったカレン氏から、彼は何か勘付いているかもしれないと聞いたことはあるが、明白にすることは憚られた。未だにハルトネンがどういった立場なのか確信を持てないでいる。まさかその名を出されるとも思っていなかった。

 ブランデルは自分達の取引の外に出られることを恐れている。

 クルトは静かに彼の答えを待った。賭けではあったが、勝算は充分にある。

(厄介払いをしたいだろう? この機会を逃す手はない。カレン家も僕の帰りを望んでなどいない)

 クルトがブランデル家やカレン家の監視を離れて暮らすのは体裁が悪い。子の管理が行き届いていない家はコティティエ教の中でいつか糾弾されるかもしれないし、頭の回るクルトが何か企むかもしれないと恐れている。

 何年にも渡って従順な家庭教師を演じ、役目を果たしたが、手放しで信用させるにはまだ不足していたらしい。彼らの猜疑心はその心にこびりついているようだ。

(だが、よく考えるんだブランデルさん。この厄介者を善人に押し付けてしまえる)

 ハルトネン氏は根っからの善人だ。コティティエ教への信仰は薄いが、出版協会を営んで行く為に抵抗はしない。彼は彼の息子とは違って、コティティエ教とこの街、そしてそこに生きる人々が内包する脅威を正しく理解している。

 彼にできるのは、良かれ悪しかれ、逃げることを許されない哀れな青年を引き取ることくらいだ。

「……そうだな。それはいい考えだ。ハルトネンも君のように優秀な手伝いがいれば仕事が楽になるだろう」

 たっぷり考えて、ブランデルはついにその結論に達した。

 クルトは静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

「お世話になりました、ブランデルさん」

 何も答えないブランデルを置いて、クルトは広間を出た。

 自室までの長い廊下を踏みしめながら進む。この広い屋敷での生活も間もなく終わる。

 古びた木の匂いを吸い込み、天井を見上げて吐き出した。とても晴れやかで、胸のすく思いだ。

 階段の前で、着替えを済ませたロニと鉢合わせた。

「父はまだ広間にいますか?」

「ああ。君を立派な貿易商にする為に必要な道具をあれこれ検討しているみたいだ」

「もう充分なのに。勿体無い」

 俯いて苦笑を噛み殺しながら呟く。

「先生は部屋で休まれますか?」

「いや、上着を取ったら出かけてくる。……君も一緒に?」

「折角ですが……。仕事のことで、父と話をしたくて」

 ロニは心底残念そうにしていた。クルトは吐息だけで静かに笑う。

「そうか。うん、それがいい。打ち合わせは、綿密に。とても必要なことだ」

「はい。そのつもりです」

 笑顔を返して歩き出す。クルトは振り返ってその背中を少しの間だけ見送った。



 広間にはブランデルしか残っていなかった。

「ああ、ロニ。こっちへ来なさい。扉は閉めるんだ」

 父に手招きされ、言われた通り扉をぴったりと閉ざす。

「ヤレンナミケンへ行く時のことを少し話しておきたくて……」

「ああ、馬車の手配もしなくてはな。旅に慣れていないお前の為だ。上等なものにしよう」

「いえ、普通のもので充分です。それよりお父さん、僕が仕事の手伝いをするようになったら先生は」

「やはりその話か……」

 ブランデルはロニの両肩を掴んでその目を覗き込んだ。

「いいか、ロニ。このブランデル家に子供はただ一人、お前だけだ。今後の為にも、あれのことは忘れなさい」

 ブランデルの瞳の奥は刃物のようにぎらついていた。油断なく慎重に相手を言い包め、鋭い眼光で屈服させようとしている。

 ロニは不安を隠さない様子で父の目を見詰め返した。

「先生は、これからどうなるんですか?」

「ハルトネンのところへ行くそうだ。それがいい。一番いい方法だ」

「出版協会の? あのハルトネンさんのところですか?」

「ああ、もういいだろう、ロニ。必要があって外では『兄』と呼ばせたが、あれは形式的なことだと理解していただろう」

 ブランデルは早口になり、ロニの体を何度か揺すった。

「いえ、僕はただ……、哀れだと思って」

 父の必死の形相から目を離すことなく、ロニはどこか虚ろに呟いた。

「ロニ、お前は気の優しい子だ。だがこれからはこのブランデル家の跡取りとしてもっと成長して欲しい。分かるな? あれは不幸せな人生を送っているが、コティティエ教に準じてさえいれば苦労は無かった。お前にはああなって欲しくないんだ」

「はい。お父さん。僕は大丈夫です。余分な同情は、もうしません」

「いい子だ、ロニ」

 肩から手が離れ、ブランデルはその手で額に浮き出た冷や汗を拭った。

 二人は取り成すように仕事の話を始め、徐々に平静を取り戻す。

 出立のその日までロニは幾度と無く熱心に父と話した。



 そしてその日は、からりとした風が心地よく吹き抜ける快晴となった。

 荷物を足元に置き、馬車の準備が整うのを待っているロニの背後で、石畳の道を進む不規則な足音が響く。

「やあ、ロニ。ついにこの日が来たね」

「先生。なんだか随分久し振りに思えます」

 クルトは間もなく暇を出され、ハルトネンの元へと移った。同じ街にいながらも、周囲の目もあり、気軽に会いに行くことはできなかったから、ずっと顔を合わせていない。

「見送りくらいは許されるだろうかと思ってね」

「勿論ですよ。教え子の門出を祝う家庭教師を追い出したとなれば、狭量振りを自ら触れ回るようなものですから」

 尊大な様子で使用人に指示を出しているブランデルを遠目に見てロニが諧謔味たっぷりの含み笑いをする。

「旅の準備は万全?」

「はい。先生の教えを守り、これからも精進します」

「いい心掛けだ。それにしても随分大荷物じゃないか?」

 ロニの足元に置かれた大きな鞄を見て、クルトは皮肉めいた言い方でもって問い掛けた。

「勿論ですよ、僕は街を出るのは初めてですし、用心に越したことはないでしょう? 父はトランクにしろと言ったんですが、それでは動き辛いですからね」

 フロックコートの袖をシャツごとたくし上げて鞄を持ち上げてみせる。これなら担いでいても走れますよ、とおどけた。少年のようにはしゃぐ姿にクルトが小さく噴出すが、すぐに真剣な面持ちを取り戻した。

「僕の教えたことは役に立ちそうか?」

「勿論です。今から胸が躍ります。それに、もし僕の持っているものが役に立たなければ、荷物持ちでもしてなんとか居場所を探すつもりです」

「そうか」

 頷き、たくし上げた袖を戻して整えてやる。

「ああ、そうだ、君に一つお願いがあるんだが……、ヤレンナミケンでもし僕の友人に出会うことがあったら、渡して欲しいものがあるんだ」

 ポケットから取り出したのは、封筒だった。恐らく手紙だろうが、とても厚みがあり、受け取るロニの手にずしりと重く感じた。

「分かりました。出会うことがあれば、必ず」

「頼んだよ」

封筒が折れてしまわないよう、丁寧に扱うロニを見ながら、クルトは思い出したように声を発した。

「ああ、もう一つ、忘れていた」

「はい? なんですか?」

 やたら演技がかった口調にロニが首を傾げる。

 クルトは先程とは反対のポケットを探って、小さな布袋を取り出した。

「これを、君に」

 ロニは怪訝な顔をしながらもそれを受け取り、指先で中を探る。

 何かが指先に引っ掛かったと感じて取り出すと、人差し指の中ほどまで指輪が引っ掛かっている。

「以前、ブランデルさんに着いてヤレンナミケンに行ったとき、露天商から買い求めたんだ。成人の祝いに贈るものだそうだよ」

「先生……」

「ほら、手を貸して。そのままだと落ちてしまう」

 言われるままに差し出すロニの指を軽く掴んで滑らせ、指輪をぐっと押し込んだ。

「先生、僕、何て言ったらいいのか……。ありがとう、ございます」

 ぴったりと沿う指輪を見て、ロニは微かに唇を震わせる。その様子を見て、クルトは懐かしむように目を細めて微笑んだ。

「やっと渡せた」

 馬車の用意ができたと御者が告げる。ブランデルもそろそろこちらへやって来るようだ。

「じゃあ、元気で、ロニ」

「はい、先生も」

 馬車に鞄を積み込む背中に、クルトはやや未練がましく声を掛けた。

「もう一つ、頼んでもいいだろうか」

「なんですか?」

「久し振りに君の顔を見たら、なんだか妙に懐かしくなってしまった。もう一度だけ、昔のように呼んでくれないかな」

 ロニは振り返り、杖を持つ手に自身のそれを重ねた。

「どうかお元気で、兄さん」

 目を伏せ、穏やかな微笑を浮かべるクルト手の上を撫でるように滑らせ、離す。

 馬車に乗り込んだロニはそれ以上何も言わずただ前を向いて背筋を伸ばした。馬車の近くに立つクルトを、ブランデルは冷え切った目で一瞥したが、言葉は発せず、ロニの隣にどっかりと腰を下ろす。

 鞭がしなり、蹄が石畳を鳴らす。車輪が軋んだ音を立てながら動き出した。

 馬車が走り出してからずっと、ロニは無言のまま窓の外を流れる景色を見ていた。

「眩しくないのか」

 父にそう訊ねられ、ロニは短く、大丈夫ですとだけ答えた。

 小石を踏んだのか、時折馬車が僅かに傾いて音を立てる。ブランデルはその度御者を叱り付けたが、ロニは知らぬ顔で窓の外ばかり見ていた。

「旅立ちの朝を目覚めし者……」

「何か言ったか、ロニ?」

「いえ、独り言です」

 声を張り上げて顔を赤くした父を見て、ロニは静かに首を振った。

 窓の外では、灰色を混ぜたような空に、上等の金細工のような光を纏った太陽が昇っていく。地平から道を作るように伸びる朝陽は、やがてロニの頬も金色に染めた。



 同じ頃、夜明け前に出発したファルチ一行は、小休止を終えて歩みを再開させようとしていた。ロッタは昇り始めた朝陽に目を細めながら荷物を背負い直す。

 細い肩に紐が食い込んで痛むが、その表情に苦痛の影は無い。それどころか、キリルの後ろを着いて歩く足取りはどこか楽しそうにすら見えた。

「いい調子で歩いてきてる。これなら昼前にはヤレンナミケンに着くだろうから、原稿料を貰って色々買い込まないとな」

 地図を確認しながらキリルが独りごちるのをロッタは聞き逃さない。

「これ以上荷物が重くなるの? 嫌だなあ」

「文句を言うなよ。暫くは教会のある町を避けて山小屋を渡り歩く予定なんだ。今の内に必要なものは揃えておかないといけないんだよ」

「分かってるわよ。でも、これ以上持ち物が増えれば移動の足が鈍るわ」

 ローブ越しにくぐもった笑い声が聞こえて、二人は同時に振り返った。

「ヤレンナミケンで、若い荷物持ちが見付かればいいんだがな」

「エイニミ?」

 シルシィが怪訝な顔をしてフードの内側を窺う。

 エイニミはフードを後ろに下げて顔を見せた。灰色の瞳が朝陽を受けて煌いている。

「シルシィ、俺は今、どうにも高揚しているらしいんだ」

 口を覆う布も引き下げて発せられる明瞭な声はいつになく弾んでいた。

「珍しいわね、あなたがそんな風に感情を語るなんて」

「自分でも不思議なんだが、とてもいい予感がしてる。魂が揺さ振られるような」

 エイニミはシルシィに向かってにこりと微笑んでみせると、地平線に向かって目を凝らした。

「透き通るような青灰色、綿を割いて流したような雲、目を焼くほど強い純白の太陽が、磨き抜かれた金細工のような光を纏って青灰を塗り替える」

「本当に珍しいな。普段は文章を考えても口に出したりしないのに」

「無性に言いたくなったんだ。あまりに美しかったから」

「それは分かるが……、眩しくないのか?」

 キリルが呆れたように問い掛ける。

 エイニミは平気だ、と短く答えてフードを被り直した。

「ねぇ、そういえば、弟子には『最も正しい形』というのがあるのよね? それって一体どういうこと?」

 エイニミの言った荷物持ちというのが気になったのか、ロッタが問い掛けた。

 シルシィが数歩前に出てロッタの隣に並ぶ。

「ロッタにはまだ教えていなかったわね。ファルチの作品に、同志に呼び掛ける一文があるの。最初の作品の、最後のページ。全て読み終えて、更にもう一枚、白紙を捲った先にある」

「なにそれ。わざと見付かり難くしているみたいね」

「そのページを間違いだと思わせない為に、実際は端に読点が一つ打ってあるそうよ」

「エイニミは見たの?」

「見た。見事なラストシーンだったのに、読点を入れるなんて妙だと思ったから、よく覚えてる」

「最後のページには、なんて?」

 エイニミはもう一度遠景に目を遣った。

 こうして話している間にも、光は尚一層強く広がっていく。

「旅立ちの朝を目覚めし者 箱庭の空木を出でて 吟行の果て 家無き地を見顕すまで」

 そして旅は、新たな始まりを迎える。

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旅人作家 ヴァルデマル・ファルチ 蔭山 小桔 @ding

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