第14話 魂の兄弟三
蝋燭の炎が揺れる度、クルトの顔にかかる影がその形を変える。
「これは推測に過ぎないが」
常通りの無表情であったが、発する声には、感情らしきものが滲み始めていた。
「コティティエ教は単なる宗教ではない。王政を固持し続ける為に仕立て上げられた一つのカードだと思う」
ロニは本を閉じ、膝の上に置いて姿勢を正した。
「知っての通り、この国は豊かで安全だが、国の行く末を担うのは王と一部の上流階級達だ。民衆はその恩恵に預かり、多くが生産者として一生を終える」
平凡な家に生まれ、清く働き、いずれ伴侶を得、子を生し、平凡な家を守り、そして死ぬ。
誰にでも当てはまる『幸福な人生』という階段をせっせと上っていく一生。
民衆からは、その階段を用意されていることが、『善良な国家』と信じられている。
何故なら、この国に住まう殆どの者が、『家と家族こそが至宝』と考えている。
「家族を愛する考えは素晴らしいものだが、誰かに教えられ、規律に則って実践するものでもない。現に僕は家族によって足を奪われたし、夢も消えた。僕には、体の自由や精神の自由を亡くしてまで愛する家族は元からいなかったと思う」
無意識に足を擦っていた。古傷は未だに痛む。あの時のことを忘れさせない為に痛むのか、いつまでも忘れないから痛むのか、クルトは時折そんなことを考える。
「僕は考えた。人の幸福というのは、果たして本当に規定された行動の中で満たされるものなのかと」
君はどう思う、とロニへ問い掛けた。
ロニは本の上で拳を握り、覚悟を決めたように頭を振る。
「コティティエ教は、家を守る為の大切なものだと教えられてきたけど……、この家に兄さんはいないし、父さんも母さんも、兄さんを愛してはいない。それに、先生も……。僕はもう知ってしまったから、それは違うと思います」
「僕もそう思う。だが、ブランデル家も、カレン家も、それと信じてコティティエ教の教えを真摯に捉え、守り続ける敬虔で模範的一族だ。それなのに、」
クルトは硬い表情の中に、ほんの微かな躊躇いのようなものを見せた。微かに眉が動き、目を細める。
真っ直ぐで美しい灰色の両眼を見据えて言うには憚られる言葉が、喉のすぐそこまで出てきている。
――あの子は不思議な子だ。賢い子なのに、あの環境の中でも真っ直ぐでいられる。
ロニの目を見ていると、いつかそう言ったハルトネンの声が脳裏に蘇った。
――君のおかげなのかな?
――いえ、僕はむしろ、
そこで話は中断したが、再び続きを訊ねられた時、クルトは忘れてしまったと応えた。忘れる程、大した話ではなかったのだと。
本当は違う。
つい口を滑らせてしまうところだったから、話が途切れて良かったと、忘れた振りをしたのだ。
ハルトネンにならば白状してもいいような気がしたが、言葉にして口から出してしまうと、途端に気持ちが柔らかく弱まりそうで、黙してしまうことを選んだ。
(僕はむしろ、ロニの存在で、生きることが辛く孤独なだけじゃないと分かったんだ)
クルトは、この少年を教え導く者として僅かながら自身の価値を見出していた。
自由な足を失い、家を追放され、気の置けない友も街を去った。年若い青年が持てるものは全て奪われた中で、残っているのは頭の中の知識だけだった。
クルトにとって、そんなものは自身の残滓でしかなかったが、ロニは、目を輝かせ、頭を悩ませ、何度も食い下がってはそれを得ようとした。
新しい文字を覚える度、それがお気に入りの遊びであるかのように何度も紙に書き連ねていた頃から見ている。多少は成長したが、まだ教えることは多い。
ロニには悟られないようにしていたが、『先生』と呼ばれ、時には偽りでも『兄』と呼ばれるそんな日々が、クルトにとって、ささやかな幸福に変わっていった。
だが今クルトは、自分に幸福を与えた少年から、それを奪おうとしている。
こうしてロニの目を見ていると、今更ながらに疑問が沸いた。
少なくともロニは、彼の兄とは違って両親に愛されている。世継ぎとして囲われているだけとはいえ、笑顔を向けられ、抱き締められることもある。物語で描写されれば、それは厳しくも暖かく、幸せな光景として定義されるだろう。
だが、クルトには、その物語の本文だけでなく、脚注まで見えているようなものだ。ロニ・ブランデルという少年以前の物語も既に読んでいて、その繋がり、今後への伏線も頭に入っている。
自分と同じものを見せてやるべきか、それとも、先回りしてそれらを全て破り捨てて書き換えてやるべきか――
貿易商を生業とする豊かな家に生まれ、両親や使用人に愛されながら育つ少年。幼い頃から病に侵されていた兄は、不幸な事故でこの世を去る。少年は寂しさを抱えながらも義兄となった家庭教師の下で知識を蓄え、立派な世継ぎとなって華々しい上流階級の世界へ旅立つ。
そんな筋書きを現実にすることも可能だったかもしれない。そんな思いが押し寄せる。
真実を教えれば、選択を迫ることになる。真実を知ってしまった以上、これまでのように無垢な気持ちで両親を見ることはできないだろう。コティティエ教は、盲信という特性無くしては成立しない程、本来は脆く杜撰なものなのだ。
この期に及んでこんな後悔は意味をなさないと分かっていても躊躇する。
自ら口火を切った以上、後には退けないと分かっていても、胸が痛む。
「先生」
押し黙るクルトを、ロニの明瞭な声が呼ぶ。
ロニは、未だ迷いのない真摯な眼差しでクルトを見詰めていた。
「続きを聞かせて下さい。僕は大丈夫」
長い沈黙の意味を理解して、はっきりと言い放つ。
その姿に、クルトも細く息を吐き、背筋を伸した。
(逃げてはいけない)
そう思った。
(僕は、この子の先生なんだ。教えてやれるのは、きっと僕しかいない)
ようやく続きを話す決心がつく。
「――それなのに、君も僕も、幸せじゃない」
ロニは微動だにせず、粛々とその言葉を受け入れた。
そこから先は、教師然とした話し振りに戻った。
「コティティエ教を宗教だと思うのは幻想に違いない。それに気付いている者も実際には多くいる。君や僕のように、真の幸福というものを奪われた者達だ」
だが大抵は行動に起こすことはできない。陥った状況以上の困難に曝されない様、息を殺してひっそりと生きて行くことを選ぶ。恐怖や屈辱、悲哀を全て飲み込み、無気力で従順な人格を演じる。
その典型例が正に自分自身であるクルトには論じるまでもない事実だ。
「そうした中に、『家』というしがらみから抜け出て、新天地を探そうとする者が現れた。それが旅人作家『ヴァルデマル・ファルチ』だ」
旅はコティティエ教に真っ向から対立する行為になる。現在ではその作品の娯楽性と文学的価値によって多少態度は軟化しているとはいえ、誰もいい顔はしないし、深く関わることを恐れていることすらある。
白い目で見られ、後ろ指をさされ、時には明確な迫害の対象にもなり得るその生活を続けるには、堅固な意志を必要とする。
(誰もが選べることじゃない。例えば僕の足が、長い旅路を踏みしめるのに耐え得る程治っていたとしても)
醜い悪意に曝されたクルトは、その恐怖に足を絡めとられてしまった。歩けなくなったのは、足だけの話ではない。彼の心が、歩むことを拒絶している。
「家とは何か。それはね、ロニ、僕や君が求めた暖かな家庭とは全く異なる物なんだと思う。この国は建国以来、たった一つの民族だけで成立させてきた。古い戦争の時代が終わった今も、周辺諸国は国の安寧を揺るがしかねない脅威としての存在でしかないんだ」
「同盟軍との和平協定を結んだ後も、国交は最小限に留めて、物資や人の出入国は厳しく管理されているんですよね。父さんのような貿易商も、王族からの信頼の厚い上流階級でなければその仕事に就く事もできない」
クルトの説明の後にロニが続ける。クルトは目を瞠った。
一方でロニは、そんな反応も想定していたのか、はにかみながら無言の質問に答える。
「少しだけ、自分でも勉強を進めてます。読むように言われていた貿易史の本は、まだ半分までしか進んでいないけど……」
「半分か」
クルトが後学の為にと勧めたその本は、今のロニにとってはまだ煩雑な内容だと分かっていた。読ませた目的は、学ぶべきことがまだ溢れているのだと自覚させる為だ。
それを、半分も読み進めていたとは。
自然と口元が緩みそうになるのを堪えながらクルトは話を再開する。
「それだけじゃない。国家の中枢に深く入り込んでいた者の一部はその権利を剥奪された。かつて王都守護役だった近衛兵や騎士団もその対象になった。恐らく、新王の治世に異議申し立てた者達だ」
「第五王子、スヴァンテ様が即位した頃ですね。幼い彼に代わって宰相が実質の政権を握り、和平交渉を強行したことで戦は終わったけれど、一方で弱腰の外交を酷く非難する者も居た」
それは、『嘆きの王子』に記述されたものだった。歴史書から省かれていたその部分を読んだ時、驚くよりもむしろ、そうであったろうとロニは妙に納得した。
全ての人にとっての平和は存在しない。ならば、戦においても、徹底抗戦し、最後の一兵まで戦うべきという気勢の者らもいたことだろう。正しさには関係なく、現象として理解できることだ。
「そうだ。その荒れた治世の為には、大きな柱が必要だった。負け戦に疲弊した国家を再興させる為、国民の意思を一つに纏める為の頑健な柱が」
それは一体何か、とロニは以前訊ねた。
その時には半ばはぐらかされて終わってしまったが、今なら答えが分かる。
「それが……、コティティエ教、なんですか?」
クルトが頷く。聡明な生徒は、当惑しながらもよく理解し、クルトの話に着いて来る。
「彼らの説く『家』には、ただそれだけの意味しかない。言うならば器か枠だ。そこから零れ出さないように囲っているだけのもの。零れてしまったのなら、いっそ遠くまで捨て去ってしまおうというのが彼らの考え方なんだろうね。戦の後、混乱した国民を、『家』という甘い言葉で懐柔しようとしたんだ。国に反発していても、愛する家族の為ならばと思う人は多い。まして宗教という形を隠れ蓑にしていれば、騙されもする」
家を守り、家に留まることで家族を守れるのだという思想は、人々の間、特に下級の生産者階層で広まった。戦で国の外へ出たことが不幸の始まりだった、そんなものが無ければ愛する夫や息子を失うことにもならなかったと、都合のいい怒りと悲しみの逃げ場になった。
「単一民族による強固な支配の国家を維持すること。それが王族の意向だ。その為には、人や物の国外への流出、あるいは流入を進めようとするする風潮は、その思想ごと消さなければならない」
戦が終わって久しい現在においても、他国の書物が無いのはそういう意味だったのかと合点がいく。クルトにそのことを教えられた時は、ただ面食らうばかりだったが、順を追って考えれば、成る程、そんなものを置くわけがない。
「家は、その為のものなんですね」
筋道を立てて考えれば、するすると全てが繋がっていく。
「そう。戒律はその目的に準じて作られている。民衆を騙し切るには、あまりに必要充分にだけ作りすぎたんだ。家、町、国に人を縛り付けるものばかりで、宗教という名を騙る『制度』だね。だからコティティエ教には絶対的な神も、陶酔した幻想的理想論や神秘的体験、偽善的教えも何も無い」
だからこそ、自然発生的な幸福にも狭量で、仮借ない仕打ちも厭わない。
肉体を傷つけることも、精神の自由を奪うことも、篭絡し従わせることもできる。
一人一人の幸福と安寧を保障するものではなく、教義によって規範意識を植え付け、思考力を奪い、支配する為のものでしかないのだ。
「それなら、こんなにも街が噂で溢れているのも……」
「人の口に戸は立てられない。噂というのはどの状況下でも起こり得ることだが、この場合は、そうして監視し合うだろうことを視野に入れて利用していると考えるのが自然だね」
コティティエ教を強く信じている者程、噂話に熱を上げる。教義に反するもの、異端者に目を配り、あわよくば失脚をも願う。権力者達が目を配り、手を下すまでもなく、彼らは知らぬ間にその代役を演じさせられている。
「そこから逃げ出した者達が、果たして己の解放だけを求めて行ったのか、それともこの世界を変える為か、あるいは、新たな世界を探しているのか、僕には知り得ないが……」
「そうした人たちが、旅人作家になるんですね」
ロニは敬愛してやまない作家の作品を改めて思い起こす。
(彼は、手に汗を握る冒険活劇も書くし、抒情的な恋物語も書ける。歌うように軽やかな詩も作り出せる……)
たった一人の人物が、あらゆる様式の作品を、その度に変化する豊富な文体や語彙、感情で作り上げている。それはあたかも言葉を操って魅せる魔術師のようだとロニは思っていた。作品ごとにそれらを使い分け、最も効果的な表現でもって形成する天才なのだと。
それは無垢な少年の心のまま思考が凝り固まった自分の、暢気な思い違いだったと気付かされる。
だが、クルトの見解は違っていた。
「感覚の上では、真実に近いところまで辿り着いていた。文学を愛し、作品を読み解き分析する力があるからこそ、君は作品毎にがらりと様相を違えているという特性に気付いたんだ」
それを不審と思うか、はたまた天賦の才を持つものと思うか、その水際で、ロニの思考は後者に向いた。ロニの性質を考えれば無理からぬことだった。
そんなロニが興奮気味にファルチの才能を絶賛する姿に、自身の複雑な心境を悟らせまいと努めてきたが、最早その必要も無い。
「今後は、こういった読み方も教えなければならないかな」
至極真面目に独りごちると、クルトはロニの膝上に乗せられた本に手を伸ばし、表紙を捲る。
「ここには原稿を所持している出版協会の名前と、作品が発表された年が書かれている」
「これ……、もう七十年も前だ……」
「実際こうした形で製本されたのは技術的にも最近のことだと思うが、紛れも無く、和平協定の時代に発表されたものだ。その時代で既にこれだけの知識と教養を持っていた人物が、まだ存命しているとは考えにくい」
例え生きていたとしても、旅から旅への生活に耐え得る年齢ではない。
「違う。ファルチは、もっと若い……」
ロニは無意識に呟いていた。さして口も開かずに小声で漏れ出たそれは、夜の静寂がなければクルトの耳まで届かなかっただろう。
ヴァルデマル・ファルチは若い男だとする噂は確かに流れている。その名は男性名であるし、生涯旅を続けるという過酷な生活は女には不可能だと考えるのが自然だ。
クルトは人目を盗んでそうしたことについて調べ続けてきた。そして自身の推論は、真実に程近いところにあると自負している。
「逆行して考えるんだ。ヴァルデマル・ファルチと名乗る人物は確かに存在していて、噂に聞く所作などを考えると、少なくとも老人とは言えない。だが作品は七十年も昔から発表され続け、彼を証明する印璽は今も欠かさず押されている」
考える方向を変えさえすれば、そう複雑な話ではない。
「ファルチになっているんですね。真実に気付いた人たちが、ここに、書いてあるように……」
一度本を閉じて、今度は背表紙側から捲る。
最後のページを穴が開くほど凝視しているロニを見遣りながら、クルトはひとつ深呼吸をした。
「ファルチの意志を継ぐ者は、ファルチである為に個人の存在を消すんだろう。自分の姿、声、過去……、自身を構成するもの全てを押し隠してしまう。ファルチに行き着く経緯を考えれば難しいことではないだろうが、それは酷い孤独だろうね。新しいファルチを必要とするのは、単に才能の限界や寿命の問題ではなくて、その孤独に蝕まれて耐えられなくなる日がくるからかもしれない」
それは珍しくも、同情的かつ感傷的な物言いだった。
「君や、大多数の人がファルチについて気が付かないのも無理からぬことだ。彼らは、そうした代償を払って、ファルチという人物を、始まりの形そのままに踏襲しようとしている」
それを可能にする強固な意志は、誰にでも宿るものではない。
(僕のように、しくじって心を砕かれた者、そして安寧を手に入れた者には、とても真似できないことだ)
ロニの様子を見て、クルトはそこで一度話を中断させた。
ロニは何度も何度も本のページを指先でなぞっている。
そして、そこに書かれていることを、やはり繰り返し呟いていた。
ロニは今、過去に無い程考え抜いている。自分自身の力で、自分自身の記憶を。
そうなれば、クルトに成すべきことは無い。ただその作業を妨げぬよう、黙して見守るばかりだ。
やがてロニは、ゆっくりと話し出した。
「兄さんは、狩りの朝、『旅立ちの朝』だと言っていた。気が触れて、おかしなものを見たんだと父さんや母さんは言っていたけど、僕は信じられなかった。だって、夜中にこっそり僕の部屋にやってきて読み書きを教えてくれた兄さんはどこもおかしくなんか無かったし、僕のことをとても大事にしてくれた。その優しい声、上手に文字が書けた時に手を撫でてくれたこと……、凄く嬉しかったのに……」
近頃何度も見てきたあの夢が、目を開けながらも幻のように浮かび上がる。
あれらはやはり、ロニが体験した過去の記憶そのものだったのだ。
父と物見遊山に出掛けたヤレンナミケンで、使用人とはぐれて一人歩いていたロニが見付けた人物、それがファルチだった。
ロニは偶然の巡り合わせに酷く興奮して、体を震わせるような感動を捲くし立てた。ファルチはその話を聞き終えると、こっそり、声を発したのだ。
「この町に着く前に見てきたんだよって、とても柔らかい声で、旅の話を聞かせてくれた」
「君は、ファルチの声を聞いたのか」
クルトの問い掛けにも、ロニは緩慢に視線を動かしただけだった。彼は今、次々と蘇る記憶を追うことに神経を奪われている。
「水車の村の話……、先生は読んだ? 『時を汲み上げる水輪』。僕、あの本の内容は読む前に知ってた。ファルチが語ったのと同じ内容で凄く驚いたし、僕が出会った人は本物だったと証明されて嬉しかった。でも、彼の声に乗せて語られた言葉は、もっと鮮やかで、生き生きしていて、まるで彼とそっくり同じ光景を見たような気持ちになれたんだ」
灰色の瞳が輝き、翳り、当時の記憶を眼前に見ているかのように忙しなく揺れる。
(なるほど、これで得心がいく)
ロニがこれ程までに強くヴァルデマル・ファルチに惹かれていた理由は、大部分がそこにあるのだろう。
六年前、『兄』が『死んで』以来塞ぎ込みがちだったロニを案じて、ブランデルは物見遊山に連れて行くことを決めた。残された希望とも言うべきロニまで失うわけにはいかないと、多少は態度を軟化させる必要があった。楽しい思い出で気を紛らわせることができたらとの思惑だったが、旅から戻ったロニは、周囲の期待以上に気力を取り戻した。そしてそれ以来、無邪気で溌剌なあのロニのまま、年月が過ぎていくこととなる。
家族を失った痛みがたった一日の旅行で癒えるものかと不審に思ったが、その頃のクルトには深入りをする気がなかった。
やがて時が経つにつれて、ロニの傷が癒えたわけでも、かといって人知れず耐え忍んでいるわけでもないことを知った。
ロニはいつの間にか、――恐らくはあの旅の日を切っ掛けとして、兄に関する記憶を曖昧にさせていた。
幼い少年には残酷な記憶だからだろう。クルトはそう理解して、その件には触れることなく、ただ黙して見守ることに決めた。
だがロニは全てを忘れたわけではなかった。時を待つように、夢という形で、少しずつ奥底から這い出て来たのだ。
「僕、忘れてしまっていた……。あの時、旅の素晴らしさを語った声は、少し変わっていたけど、確かにアルヴィ兄さんのものだった。世界の美しさを連ねる言葉は、僕と共に庭を愛でた兄さんの言葉だ。姿は見ていないけど、ずっと長い間会っていないけど、分かる。あれは、兄さんだ」
成長して多少の変化が起きたとしても、仕草や話し方、面影は残る。
姿を見せず、名を明かさなくても、親しい間柄なら、僅かな情報だけでもそれと気付くことができる。
クルトがヤレンナミケンの町で、かつての友人を見つけたように。
兄は死んだと信じ込まされ、ファルチは偶像にも似た存在だった。無意識下でいかに似通った特徴を察知していても、それらを繋げることは、理性が邪魔立てしたのだろう。
本を持つ手が震えている。
記憶が蘇り、真実が是正された今、まず何を思うのだろうかとクルトは様子を窺った。
今すぐにでも家を飛び出し、兄を探す為の旅を始めたいと思っているだろうか。
自分を騙し続けた両親や使用人達を責め立てたいと思っているだろうか。
(それとも、今まで肝心なことを教えないできた僕を恨むだろうか)
ロニは大きく息を吸い込んで、吐き出した。
その顔は、微笑んでいた。
「兄さんは生きてる。生きてるんだ……」
クルトの考えたどれでもなく、ロニの心と頭の中は、ただ兄が生きていたという喜びに震えている。
手も、唇も、そこから発する声も、叫び出したい程の強い歓喜で震えている。
「それが君の魂の出した答えだ。下らない教典の文字をなぞることしかできない者らには、永遠に分かり得ようも無い、真理だよ」
ロニの手の中から落ちてしまいそうな本を取り、クルトは膝の上に置いた。
今だけは、何にも構うことなくただ、押し寄せる感情の波の中に溺れさせてやりたかった。
「兄さん」
柔らかな頬を、一滴の涙が伝い落ちる。
(ああ、ここ暫くあまり聞いていなかったが)
聞き慣れた言葉が、クルトの耳を心地良く通り抜けていく。
だが、これはクルトに向けられた言葉ではない。
(だから、僕が差し伸べるべき手を間違えてはいけない)
肩を抱いて慰めるのも、涙を拭ってやるのも、自分の役目ではないのだと、クルトは杖を握る手に力を込めた。
「僕はね、ロニ」
はたはたと手の甲に落ちる涙を見ながら、クルトは静かに語り掛けた。
「君が見ない振りをするなら、そのまま付き合うつもりだった。だが逆に、君が向き合うというのなら、僕もそれに付き合おうと思っている」
「僕を、哀れだと思ったから?」
「そうだね。この気持ちを表現するなら正にその言葉だった」
クルトの返答に、ぎゅっと手を握り込む。
「僕の境遇に、同情したってことですか?」
「少し違う。その意味じゃない」
「え?」
顔を上げると、ロニはぽかんと口を開けた。
「まだ勉強不足のようだね」
そう言ってクルトが笑っていた。目を柔らかく細め、口角は上品に持ち上がり、声音は春風のように穏やかだった。
「僕にできることは限られているが、知識は旅支度の中で最も軽く、嵩張らないものだ。その上、持とうと思えばいくらでも持てる」
ロニはすっかり赤くなった目を白黒させた。
気の毒な子供に人知れず憐憫の情を抱いていたのかと思ったが、そうではないという。
そしてクルトの口から出た言葉が、驚愕を上乗せした。
『旅支度』――。
次の瞬間、ロニは声を上げて笑った。あれこれと考え過ぎたせいもあって、全身から余分な力が抜けていくようだった。
「やっぱり、先生は不思議ですね」
氷のように冷たい目で、感情を捨て去ったような振る舞いをしながら、度々ロニに助け舟を出すことを不思議に思っていた。クルトの本心はどこにあるのだろうと恐れをなしていた。
漸く、その片鱗に触れた気がする。
ロニは目元を力強く拭って、表情を引き締めた。
「僕は二度と忘れません。兄さんのこと、……お父さんが僕らにしたこと。そして、それを引き起こしたもののこと……」
だから、とロニは続けた。
「僕に、力を貸して下さい」
「分かった。約束しよう」
答えて頷くと、クルトは立ち上がって外套を脱いだ。ロニもそれに倣い、自分の着ていたものと併せてホールスタンドに掛けた。
身軽になったクルトは、ついでに襟元を緩めて寛がせ、軽く体を伸ばす。
「ありがとう、ロニ」
「いえ、これくらい」
「そうじゃない」
外套のことだと思っていたロニはきょとんとする。
「ありがとう、僕の話を聴いてくれて。話すのは草臥れたが、なんだか身軽になった気分だ」
「そんな、僕は何も……」
礼を言うのは自分の方だと言い掛けたのを、クルトが一度、軽快に手を叩いて遮った。
「さて、ロニ。ファルチである為には、意思と才能だけでもまだ足りない。それを補う存在が必要だ」
「補う存在?」
「これから先、僕が教えることをよく覚えるように。まずは、旅人作家がその作品で収入を得る為の仕組みを教えてあげよう。行動に制約のある彼が、どうやって交渉するのかをね」
唐突な話の転換に動揺を隠せないロニを見ながら、クルトはもう一度柔らかく微笑んだ。
「そうだな……、三年もあれば、君を送り出してやれる。だからロニ、僕を信じて」
クルトの言葉に首肯しながら、ロニはその顔から目を離すことができなかった。
(三年経ったら、僕がもっと大人になったら、分かるのかな……)
「大丈夫。君は歩ける」
優しく微笑むその奥に、どこか寂しそうな影が差した、その意味を。
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