第13話 魂の兄弟二 ヴァルデマル・ファルチの自伝的独白
エイニミはすうっと息を吸い込み、話し始めた。
「俺は、とある街の上流階級の家に生まれた」
長子として生まれたエイニミには、物心がついた頃既に、貿易商である父の跡継ぎに相応しい人物になるべく教育が施された。
家名に恥じることのない教養を身に付けるまで、決して人前に出てはならないという父の厳命を受け、屋敷内ですらも殆ど自由に動き回ることは適わなかった。
「その状況に疑問を持つまで、そう時間は要らなかった」
エイニミはそうした言い付けを悲しく思うより、『ばかばかしい』と感じたという。そうした感情は、およそ従順とは言えない態度として現われ、父もまた扱い辛い息子により頑な姿勢を見せた。
「思えば、ある意味で父には素晴らしい先見の明というやつが備わっていたんだろう」
エイニミは低く笑い声を漏らした。
一日の殆どを部屋の中で過ごし、もて余した時間は窓の外を眺めることで気を紛らわせていた。
エイニミは目が良かった。窓の外で走り回る子供達。それを抱き締める母親。夜になれば、決まった部屋にだけ燈る灯り。きっと家族揃って夕食を摂っているのだと分かった。
普通の扱いを受けていないことは知っていたが、それだけでなく、この家自体、何かがおかしいのだと感じ始めた。
「七つの時、弟が生まれた。父は俺を諦め、弟でやり直すことに決めたらしい。弟に対しても厳格なところは変わらなかったが、微かに愛情らしいものも見えた」
それを妬みはしなかった。その愛情は、服従させる為の手段でしかないことを知っていたからだ。厳しいばかりでは自分のようになってしまうと気付いて、別の方法を試すことにしたのだと、その幼さでエイニミは父の思惑を理解していた。
父の関心の薄れから、いくばくかの自由を得たエイニミは、使用人を通じて本を用意するよう頼んだ。
弟が生まれて以来、教育の機会はみるみる減っていき、自身の力で学ぶしかなかった。コティティエ教の訓戒伝播すら、酷く面倒だというのを隠しもしない尊大な態度で、一通りを四角四面に話して済ませた。
使用人には、自分のような年でも読めるものを、図書館の端から順に借りてくるよう言った。
あらゆる言葉や知識が必要だった。
その時既に、エイニミは家を出る計画を練り始めていた。
「たまに会う弟は可愛かった。薄汚れた打算だらけの父や母とは違う。それだけに哀れだった」
見せ掛けの愛情を疑いなく吸収して、純粋なまま育つ弟。その行く末を考えると、幼い胸が酷く痛んだ。
「守ってやりたいと思った。普段は使用人のいる場所でしか会えなかったが、時々、夜にこっそり部屋を抜け出して、弟に絵本を読んでやったりした。楽しかったよ。家族だと思えた」
疑いなく懐いてくる弟は、エイニミに家族という存在について教えてくれた。温かくて、愛しく思う気持ち。小さな手を撫でてやる度、その思いは募った。
だが、日増しに強まる父の蔑みの視線に曝されては、家に留まろうとは思えなかった。弟が生まれたことで、父とエイニミとの関係は、最早手の施しようの無いところにまで至っていた。仮に心を入れ替えたように殊勝な態度を見せても、父の猜疑心が晴れることはないだろうと肌で感じた。
このまま死ぬまで、屋敷の中に、この部屋一つに押し込められて生を終える――想像するだに恐ろしいことだった。
自分に何ができるのか、何か身に付けられる力はないのかと考え続けながらも、使用人が持ってくる本を読み続けた。そのちっぽけな世界の中に、答えがあるのではないかと縋るしかなかった。
そして、ヴァルデマル・ファルチの本に行き着いた。
その冒険活劇を読んだ時、直感的に、何か思うところがあった。別の旅人作家のものとは何か違うと感じた。
エイニミは使用人に、ファルチの本が気に入ったから、これからは全てファルチのものを借りてくるよう頼み、望んで部屋に篭った。
外界への憧れが強まり過ぎて、御伽噺の中に逃げ込んだと思われたことだろう。それ以来、気の触れた哀れな息子として、彼へ向けられる視線は更に冷え切っていった。
勿論、エイニミは正常そのものだった。むしろ正常過ぎるが故に、家人達は彼を狂ったと思う他正視する術が無かったのだろう。
誰の関心も向けられないことを、その頃になると、むしろ好都合だと思うようになっていた。横槍を入れられる心配もなく、読書に没頭できる。誰も知ることはなかったが、エイニミの読み書きに関する上達振りは凄まじいものがあった。
「そして辿り着いた。ヴァルデマル・ファルチが書いた、最初の一冊。その最後のページに」
「あなたは、歴代の中でも、最も正しい形でファルチに辿り着いた。私はそうでなかったから、とても驚いたわ」
「そうか……、その時には既にシルシィが」
キリルの呟きにシルシィが頷く。
「そう。私がファルチだった。エイニミの存在は僥倖だと思ったわ。彼が素晴らしい才能を持っていることは疑うまでもなかったし、私にはそろそろ作品を生み出す限界が来ていた。先代も、エイニミを気に入ってらしたから」
「しかし、子供の一人旅は危険だったろう? まして屋敷以外に世間を知らなかったんだ」
「そうだな、まずは路銀の調達に難儀したが、幸い身につけていたものは高価なものが多かったようだから、部屋の中にあるものは殆ど詰めさせてもらった。悪いかと思ったが、まぁ、『死人』の部屋の片付けには困らなかったんじゃないかな」
諧謔深のある物言いにも二人は笑うことなどできない。
「荷物を纏めて、父の狩りに着いて行きたいとせがんだ。父も何かしら感じるところがあったんだろう。要するに、互いの利害は一致していた」
突然狩りに同行したいと言われ、父は確かに驚いた顔をしていた。だが狡猾な彼は、これは好機だとすぐに考えた。
自身の処遇をどうするか、弟の成長に伴って頭を悩ませていた筈だとエイニミは睨んでいたが、まさにその通りだったのだ。
エイニミは無事同行を許され、その日が来るまで興奮を抑えながら何度も荷造りの確認をした。
当日、馬車は二台用意されており、何を思ったのか、幼い弟まで一緒に来るという。
「今思えば、弟に、兄の顛末を知らしめる為だったのかもしれない」
弟は久し振りに会う兄に大喜びで話し掛けた。エイニミも、その時ばかりは皮肉った考えも浮かばず、素直に応じた。
同じ馬車に乗れるのではないかとほんの僅かに希望を抱いたが、父にそのような譲歩も温情もなく、弟は使用人と共に別の馬車に乗り込んだ。
馬車の中では必死になって窓の外を見た。周囲の風景を目に焼きつけ、近くに町や山小屋が無いかと注意して探り続けた。
森に着き、父の背を追って歩き始めた。初めて歩く獣道と大きな荷物に息が上がったが、父を見失わぬよう、黙って進み続けた。
小枝を踏み抜く感触にも慣れ始めた頃、漸く後ろを顧みる余裕ができたが、その時にはもう弟の姿は無かった。
屋敷を出る時が最後になってしまったかと、それだけが後悔になった。
「もっと、顔や声を記憶に残しておきたかったんだ。弟は、俺の唯一の家族だったから」
しかし後戻りすることはできなかった。外の世界の興奮が彼から疲れや躊躇いを拭い去っていた。
やがて視界が明るく開けた。森は終わり、足元にはなだらかな丘が広がっていた。青々として柔らかそうな草が一面に生え、朝の光に輝いている。父は眩しそうに目の上を手で隠しながら、息子に問い掛けた。
――麓に町がある。見えるか。
――見えるよ。あれはきっと羊だね。この丘は牧羊地というやつかな。小屋も人も見える。
身を乗り出して興奮気味にその光景を見回した。
父は傍らに立ち、一言だけ呟いた。
――お前は、目がいいんだな。
――ずっと前からね。
それが最後の会話になった。
使用人が無言で差し出した水と食料を受け取り、丘に向かって歩き出した。
暫くして使用人のものと思しき声が聞こえてきた。
――坊ちゃんが足を滑らせて崖から落ちた。
まるで危機感の無い、声を張り上げただけのお粗末な演技に思わず笑った。
(知っているぞ、そういうの大根役者と言うんだ!)
そして全てに合点がいった。やはり父と息子の利害は一致していて、父は使用人に叫ばせた通り、『そういうこと』にして丸く収めるつもりらしい。あの様子では、誰一人助けも来ないだろうし、『崖から落ちた』のなら、その不幸にも残された魂無き体を拾うのも困難だった言える。
――可哀想に! 心を病んだ長子は、初めての外界に興奮し、足を滑らせてしまいました。崖下には恐ろしい獣が牙を光らせながらうろつき、もう一人の我が子だけでもせめて無事に守ろうと、父は振り返ることなく森を抜け、馬車を走らせました。めでたし、めでたし。そんな滑稽な文章が頭を過ぎった。
そして、それでいいと、心から思った。
「不思議と恐怖は無かったな。無知というのは恐ろしいことだが、仮にもっと世界を知っていたら、あんなにも簡単に決心はできなかっただろうから」
ヴァルデマル・ファルチに出会う。その目的だけが少年を突き動かし続けた。
行く先々で煙たがられることもあったし、当然少年の一人旅を不審がられもした。
それでもエイニミの心は挫けなかった。血の通った両親にすら愛されなかった自分が、見も知らぬ他人から受け入れられないのは至極当然のことだと思っていた。
泥に汚れた鞄から出る高価な装飾品を前に、盗人かと疑われたこともあったが、その度にそれらしい作り話をしては切り抜けた。
大きな街を幾つか渡り歩き、ファルチの情報を入手した。ファルチがどういった形で原稿を売り、生活しているのかを知ったエイニミは、とある街で宿の雑用係として働き出す。仕事の合間に街を歩いては、壁から剥がれ落ちた貼紙を拾って集め、裏に物語を書きつけながらその時を待った。
「そこにシルシィ達が泊まって、俺は部屋の御用聞きの振りをして近付いたわけだ」
「あなたがあの時見せた作品は、その時の経験を綴ったものだったのね」
シルシィがどこか寂しげに呟く。
当時、シルシィの他に、旅の仲間には一組の男女が居た。男はエイニミを宿の部屋へ呼び出し、女が作品について評価を下した。シルシィはローブに身を隠しその様子を窺っていた。
女は、力強く喜びに満ちた作品だと称えた。その評価は、シルシィも同様に感じたものだ。
柔らかな牧草を踏み分けながら太陽に向かって歩く描写の活力溢れる様には、既に畏敬の念を持ち始めていた。自分より幾らか年の若い少年の体には収まりきらぬであろう才能の奔流に気圧された。
それだけでなく、エイニミはシルシィの言うところの、『最も正しい形』で辿り着いたことを証明した。
少年の素性など、二の次になってしまっていた。
背筋を伸ばして女の話に聞き入る姿も、弟子になることを許されて安堵した顔にも、そしてそれから先もずっと、エイニミは幼い頃からの苦境などまるで感じさせなかった。
シルシィの憂いを、エイニミの朗笑が押し退ける。
「俺は、あまり過去のことを苦しいと思ったことがないんだ。父と別れて丘を下ったあの時も、頭にあるのは書いた通りのことだけで、不安や恐れを押し殺していたわけじゃない」
エイニミの言う通り、自身の生い立ちを語ってきた表情は、どこかすっきりとしていて、悲壮な風情というものがまるでなかった。
「話を続けよう」
小さな咳払いで空気を切り替える。
弟子として旅をしながら必要な知識や振る舞いを覚えたエイニミは、程なくしてシルシィからローブを受け継ぎ、『ファルチ』となった。同時にシルシィは再び『弟子』となり、彼らは旅を続けた。
そして、ファルチとなって数年、とある町で運命的な出会いをする。
「物見遊山に来ていた家族だった。使用人とはぐれたのか、一人で俺に近寄って来たのは、間違いなく弟だった」
弟子が原稿を売る間、町角で建物や人を眺めていたエイニミに、爛々と目を輝かせながら近付く彼は、成長して聡明そうな少年となった弟だった。
――あなたはヴァルデマル・ファルチ?
好奇心と憧れと喜びで全身がいっぱいに満たされているように明るく弾んだ声は、記憶の中のものと変わっていなかった。
エイニミは頷いて応えた。少年は今にも歓喜の悲鳴を上げそうになりながらもぐっと堪え、上品らしく丁寧なお辞儀をした。そして、いかにファルチの作品が好きか、尊敬しているかを語り、最後にこう締めくくった。
――僕も、あなたのような旅人作家になりたいんです。
その時、エイニミの唇は、半ば自然と開いていた。
合点がいったとキリルが手を打つ。
「ファルチの四つの戒律の一つ、『声を発してはならない』。その時のことか、お前が言っていた『掟破り』っていうのは」
「ああ。その時、俺は『ファルチ』でありながら、口を利いてしまった」
『ファルチ』には守るべき決まりごとがある。声を発することなく、全身をローブで覆うのもその為だ。その奇妙で謎めいた出で立ちが、旅人作家に関心の無い人々にまで存在を知らしめる。
そのファルチが喋ったのだから、当然少年は驚いた。目を丸くして、咄嗟には何も言えないまま、口を何度かぱくぱくとさせていた。
布で隠した口元を少しだけ明かしてその前に人差し指を翳すと、少年は意図を汲み取って小さく頷いて見せた。
「話したのか、兄だと?」
「まさか。話して聞かせたのは、道中で立ち寄った川沿いの村で見た水車のことだ。まだ作品にも書いていない、見たばかりの新鮮な記憶を伝えただけ。それだけだよ。それに、俺は声が低く変わっていたから、聞いただけでは分からなかったと思う」
尾根を越える時に見付けたその村の、自然と溶け合うような慎ましい美しさについて話した。川のせせらぐ音や、木々の隙間からこぼれる陽光の柔らかさ、中でも古い水車は特に目を引いた。力強く水を汲み上げ、田畑に恵みを与えている。木の色から随分長い間そうして動き続けていると知れたが、隅々まで手入れが行き届いていた。
短い話だった。本当はもっと聞かせたい風景があった。紙面の文字だけでなく、自身の感動を音に乗せ、抑揚をつけて伝えたかった。
水車の村の話を聞きながら、その色彩の美しさが目に浮かぶようだと満面の笑みを浮かべて頷くこの少年なら、同じ目を共有しているかのように、つぶさに理解するだろうと思ったのだ。
しかし物を言わない筈のファルチの前で少年が長々と居座ればいずれ人目につき、怪しまれてしまう。
エイニミは最後に一言だけ、囁くように話し掛けた。
――今日のことは二人だけの秘密にしよう。
聡明な少年はその時も小さな首肯に留めた。そして、礼の言葉とお辞儀を残して、エイニミの前を去った。
「複雑な気持ちになった。胸の中が掻き混ざるような、あんな気持ちになったのは生まれて初めてだったかもしれない」
偶然にも弟と出会えた喜び。
兄と名乗り出ることのできない歯痒さ。
健やかに育っていることへの安堵。
未だ両親の実態に気付いていないことへの憐憫。
僅かな時間のみ共有し、再び離れなくてはいけない寂しさ。
何よりも、同じ風景を美しいと感じているという希望。
「その時に、確かに感じた。俺と弟は、魂で繋がっているんだと」
話し終えたエイニミは足を組み直して扉の方へと体を向けた。
「見張りの首尾はどうだ、ロッタ?」
一拍置いて、細く扉が開く。
隙間からこちらを窺うロッタは、気まずそうに唇を尖らせながら答えた。
「誰にも聞かれていないわ。……私以外には」
「そうか」
エイニミは微笑んでいた。扉の傍から動かないロッタを呼び寄せて、椅子に座るよう促す。
「それで、どうする? 教会に俺達の話を持ち込むか? 彼らにとって俺の個人的な思い出話に価値は無いだろうが、『ファルチ』の実態が知られるところになれば、旅は終わってしまうな」
困ったように笑うエイニミに、ロッタは慌てて立ち上がった。
「違う! 私はそんなことがしたいんじゃない!」
自分の声に驚いて口に手を遣る。エイニミは小首を傾げてその姿を見ていた。
「なら、どうして俺達を探るような素振りを見せた? それに、コティティエ教についても、よく知っているようだ」
エイニミの落ち着いた声音につられるように、ロッタは深い呼吸を繰り返して気を静めた。
「私は、コティティエ教を、潰したい。それが、私の目的」
「嘘は無いな?」
「無いわ」
キリルの念押しにも臆することなく断言する。
ロッタは凛とした顔で三人を見回した。
「私の名前はロッタ・ヤースコ。あなた達なら、この名前で分かってもらえるかしら?」
一番に反応したのはキリルだった。
「ヤースコ卿の娘か……」
ロッタは何も答えなかった。無言の肯定だと受け取り、誰もそれ以上追及しない。
「私のことについて説明するなら、私の書いた作品通りよ。私が愛を誓った人は、かつて王都守護の役目を担った騎士の血筋……父に言わせれば、没落した家系だった」
ロッタの書いた物語が自然と頭に浮かぶ。身分違いの恋、とは正しくその通りだ。
「彼の一族は同盟軍との覇権争いの終結と共に、その役目を追われ、騎士の称号を剥奪されていた。彼らの立場は厳しいものよ。身分は実質一般市民以下。同一視されるからと、馬や馬車を扱う商人から酷い差別を受けてきたこともある」
ヤースコ卿は、コティティエ教の中でも特別に地位の高い人間だ。教会守の立場にもあり、しばしば王都に出向もしていることから、その名は広く知られている。
その娘と、没落した騎士家系の男。
その婚姻の難しさは想像に容易い。
「彼は他の多くの騎士家系の人々と同じく、馬の世話をして生活をしていた。人目を忍んで剣の練習も重ねて、騎士の誇りを継承する為、決して挫けなかった。彼は、私の知る人間の中で、誰よりも清らかな存在だったの。そして私は、現実を知らない馬鹿な子供だった」
一度目を閉じ、自嘲気味な笑いを溢す。
瞼を開くと、幾らか和らいでいた瞳に再び怒りの炎が灯っていた。
「父は、コティティエ教に準じるのが何よりも優先されるべきことだと言っていた。それがこの世の理だと豪語していた」
瞳が揺れ、唇が震える。
唾液を飲み下し、震えを堪えながらも、その言葉ははっきりと発した。
「彼の遺体の前で」
キリルが俯いて奥歯を噛み締める。シルシィは目を伏せていた。
エイニミだけは、正面からロッタを見据えたまま、話を聞き続けた。
ここまでの話は既に知っている。三人共、彼女の自伝を読み終えているのだから、細部に多少の違いこそあれ、大筋は把握していた。
エイニミが知りたいのは、その後、あの寸断された終章の続きだ。
「父が許せなかった。彼の命を奪っておきながら、微塵の後悔もしていない姿はおぞましくすら感じたわ。父と暮らし続けることは、酷く屈辱的だった」
「しかし、よく無事に家を出られたものだな」
心底感心した様子でキリルが呟いた。
「ひとつは姉が三人もいたから。もうひとつは、協力者がいたから」
ヤースコ家には姉が三人、ロッタは末子になる。姉達は結婚しているから、不出来な末子が一人いなくなろうと大きな問題ではない。むしろ、恋人を失ったロッタが自暴自棄になる方が父にとっては心配の種だった。騒ぎを起こされるのではないかと懸念した父は、家を出たいなら協力すると提案した。
「大人しく一人で生きて行くのなら、命までは取らない。愛しているから、ですって。ふふ、口を裂いてやろうかしらと思ったけれど、我慢したわ。機を逃せば、一生を屋敷の中で過ごし、無様に死んでいくだけだったもの」
ともかく、ロッタは塞ぎ込んでいる内に病を得て死んだことになっている。
棺に入れられ、馬車で街の外に運ばれ、見知らぬ地で降ろされた。
「その時に白い装束のことを知ったの。階級の高い家で不審な死人や失踪人が出た時、家人の潔白を証明する為の衣装。家を出る日、父も姉達もそれを着ていたわ」
語られる内容が現在に近付くにつれて、燃え盛る怒りがじわじわと鎮火していく。自身の不遇を撒き散らす為に話しているのではないと平静を取り戻しつつあった。
「ヴァルデマル・ファルチを探したのは、彼がよく話して聞かせてくれたから。自分が騎士でなかったら、ファルチの旅に同行したいと言っていたの」
「彼の言葉を思い出して、遺志を継ごうと?」
キリルの質問を、ロッタは力なく笑って否定した。
「違うわ。普通、夢を見るなら『ファルチのような旅人作家になりたい』と言うものでしょう? 彼は違った。旅に同行することが彼の目的だったの。騎士の誇りを再興させるという意志と同列に語る『旅』には、きっと何かがあると思って、私なりに調べた結果よ」
それ以上先を促す者はいなかった。ロッタの経緯は彼女の物語と物語りで十二分に知れたし、嫌疑を晴らすにも足る。
「思ったより長話になったわ。文字にするより、話すのはずっと大変ね」
そう苦笑する頃には、苛烈さはなりを潜め、すっかり少女らしいしおらしさを取り戻していた。
「私の話は、判断に少しは役立った?」
シルシィと顔を見合わせて目配せをした後、エイニミは片手を差し出した。
「ロッタ、君は今日から正式に『ヴァルデマル・ファルチ』の弟子だ。明日からは必要なことを教えよう」
安堵の溜め息を噛み殺しながら、長い瞬きと共に息を吐き出して、細い手をエイニミに向ける。
「どうも、ファルチ先生。思慮と慎みと従順さに欠けるかもしれないけれど、新入りとして与えられた仕事はやり抜くよう努力しますわ」
握手に応えながら、ちらりとキリルを睥睨する。エイニミはその様子を見て破顔一笑した。
「さて、当面の仕事はシルシィやキリルの手伝いと……、そうだな、まずは君の作品、あれの手直しから初めてもらおうか」
「手直し?」
「そうだ。あの作品は単なる自己紹介に過ぎないだろう? あれを物語として成立させるにはもっと手を加える必要があると感じた。主人公には怒りの感情しか無い。愛した男を失った深い悲しみと激しい怒りを表現するなら、前半にもっと描写を増やすべきだ」
「でも、書き足すことなんて、思い浮かばないわ……」
「避けているだけじゃないか? 主人公とその恋人が過ごした幸せな日々、甘い気持ち、父の命令に逆らって家を飛び出してでも会いたいと願う心。つまり、君の彼に対する愛情の深さが、まるで表現されていない」
エイニミは部屋の隅に固められた荷物の前にしゃがみ、鞄の中を探りながら話を続けた。
「本当に創作の才能があるかどうかは、それを書き上げてからシルシィと改めて判断することになるが、少なくとも今言ったことは問題なくできると思うし、仮に作品を作れなくても、破門にはしないから安心してくれたらいい」
「才能があるかまだ分からないのに、信用してくれるの?」
鞄から目当ての物を探し出したエイニミは、ロッタの目の前まで掲げて小首を傾げる。
「俺が信用するかどうかより、肝要なのは君の強い意思だ。『ファルチ』の作品には『自伝』は無いほうがいい。自分の過去を毎日見詰め直して、客観的な物語に作り直す覚悟はあるか?」
キリルが顔を顰めた。時折彼には、エイニミやシルシィの感性が恐ろしくなる。
『ヴァルデマル・ファルチ』は、複数の人間が繋いでその形を成している創られた存在だ。
それを表沙汰にしないよう、ファルチになった者は個人を特定する一切をローブの中に封印する。どんなに素晴らしい才能を持っていても、発表する作品に自分の本当の名が刻まれることは無い。そんなものより、ファルチになることに価値を見出す強い意思の力が無ければ、続けることはできない役割だ。
(だからといって、あんな話を反復して手直しさせる?)
キリルにはそこが恐ろしい。
ロッタの作品は悲劇だ。実体験をそのまま紙に写し込んだその作品と向き合い、過去の苦痛と悲しみを何度も追体験しながら、その悲劇を更に悲劇たらしめる為に、喪った幸せの思い出も存分に書けと言う。
(それを惨いと感じるから、俺には才能というものが宿らないんだろうか)
こそりと様子を窺うと、ロッタの目には既に強い光が宿っていた。その瞳だけで、エイニミの質問への充分な答えに見える。
「感情豊かな作品になると思う。俺はそういう描写は苦手だから、助言すらできないが、君はできる」
「……なんだか、断言されると、かえって不安になるわね」
「なにも重圧をかけているわけじゃない。話していて怒り以外の感情があると分かったから言っているんだ。その証拠に、恋人のことを語る時の君の目は、とても優しかった」
エイニミの目は、キリルとはまるで違うものを見ている。見ている景色が違うと、感じることも自分とは随分異なるらしいと、キリルはそんなことを考えた。
ロッタは両手を伸ばしてエイニミのもつ分厚い布袋を受け取った。
「分かった。やるわ。書き上げてみせる」
その目と、凛とした声に、キリルも少しずつ彼女の素質を感じ始めていた。
そして同時に、ある懸念が胸の中で頭を擡げ始めていた。
「ねぇ、あなたの名前も教えて。『ファルチ』ではないんでしょう?」
「俺の名前はエイニミだ」
ロッタは眉間に皺を寄せる。
「エイニミ? それ、絵本に出てくる名無し男のことじゃない」
「いいんだ。それ以外は崖下に落としてしまったからな」
エイニミはなんでもないように答える。
納得しきれない様子で、ロッタは探るように問い掛けた。
「ローブを脱いだ時は、そう呼んでも構わないのね?」
「ああ、構わないよ」
二人の遣り取りを見ながら、キリルは眉間に深い皺を刻んでいた。
(もし、ロッタがこのまま次のファルチになったら、エイニミはどうなる?)
役目を終えた『ファルチ』は、シルシィのように再び『弟子』に戻ることができる。そんなことは既に知っている。気に掛かっているのはもっと別のことだ。
無意識にシルシィの方へ視線が滑った。シルシィもそれに気付いて僅かに顔を動かす。かつてファルチであった彼女は、曖昧な笑みを口元に浮かべて、すぐに目を逸らした。
エイニミも、ロッタも、帰る場所を持たない。それは『ファルチ』になる為の最大の素養といえるかもしれない。だが、そうした者達はファルチでなくなった後、何を頼りに自己を形成するというのか。
全てを捨てた者が、それらを易々と拾い集められるとは到底思えない。
(それを酷だと感じるから、俺はこいつらと違うのだろうか)
ファルチの候補から外されていることは時折、ほんの少しだけ彼に疎外感を与える。
シルシィとロッタが隣室に戻っても、エイニミにはまだ寝入る様子が無かった。
キリルは、窓の外を眺めているエイニミに声を掛ける。
一つ、確かめたいことがあった。
「なぁ、お前の出身は、ウァル=クニンカーンの街じゃないのか。家名は、ブランデル」
エイニミは振り返らないまま、肩をぴくりと動かした。
「知っているのか、俺の名前」
「いや、名前までは知らないが、聞き及んでいた話によく似ていた」
「そうか。出身か……俺も話さなかったが、キリルにも聞かなかったな」
ファルチの一行に加わる際にした出自についての話は、ごく簡単なものだった。街の名前や、自身の家名については語らず、中流階級の出であること、とある事情によってコティティエ教から追われたような形で街を出たのだということだけを話した。
「俺はあの町の出版協会の息子でな。お前の弟についても少しばかり知っている。お前は、ロニ坊ちゃんの、『死んだ』兄なんだろう?」
「自分以外の口から、その名前が出るなんてな」
エイニミは、観念したように力無く笑った。
「そうか、同郷だったんだな」
「それで、恐らく、なんだが。俺の友人が、お前の弟の家庭教師をしている」
「歯切れが悪いな」
笑いながらも怪訝そうにしているエイニミに、キリルは何から話すべきかと考えを巡らせた。
エイニミの話が始まった時点では、自分達にそんな繋がりがあるなどと思いも寄らなかった。
だが今となっては、クルトとの再会も、何か意味のあることに思えてならない。
自分が家族の近況を聞けたように、エイニミにも、残してきた弟のことを教えてやりたいと思った。
「ヤレンナミケンでな、故郷の友人と会ったんだ。そいつは、家庭教師をしながら、時折旦那様の仕事の付き添いをしていると言っていた。あの街でそういった仕事といえば、貿易商くらいだろう」
「ああ、貿易商は、あの家だけだったか」
「そうだ。あの街では、ブランデル家しかいない。だから、状況からするに、恐らくその友人が坊ちゃんの家庭教師をしている」
ロニでいい、とエイニミが言った。キリルが首肯で応える。
「それにしても、家庭教師か……。俺がいた時にはそんな話すら無かったが」
「俺の推測だが、そいつ――クルトには事情があった。お前がいなくなった後のブランデル家と、何か噛み合うものがあったのかもしれない」
「事情?」
聞き返されて、キリルは口篭った。
ロニの話をしてやりたいだけだったのに、なにやら話が逸れてきてしまっている。
これ以上は、エイニミには直接関わりの無いことだ。もしそれを話すとしたら、それは自身の手前勝手に過ぎないのではないか。そう思うと、どうしても口が重たくなる。
塞ぎ込んだようなキリルを、エイニミが困り笑いで呼んだ。
「俺は、ロッタの件がなくても、旅には無関係な身の上話をしたい気分だった。それを聞いてくれたんだ、今度は俺が聞き手になるよ」
その申し出に抗えず、キリルはぽつりぽつりと話し出した。
「クルト・カレンは、歳は俺の一つ下で、図書館で出会ったんだが」
小難しい本ばかり読んでいる涼しげな横顔が、どこか妹に雰囲気が似ていて話し掛けた。クルトは幾らか戸惑っていたようだが、無口なところが妹と益々似ていて、つい構っている内、自然と友人になっていた。
そうして話している内に、クルトがあまりいい状況にないことを知った。
「クルトの家は、特に先代の祖父君から当代の父君にかけて、あまりいい噂がなかった。元親衛隊の上流貴族で、地位や権力に対して偏執的な部分があったせいか、家の興隆でいつも頭がいっぱいになっているみたいだった」
コティティエ教信者の中で、ブランデル氏と同等に『敬虔』で『熱心』であったことも付け加えた。
「いつも一人きりで勉強ばかりしていて、父親とも殆ど話したことが無いと言ってた。あいつは、それでも随分長い間、それを不幸とも思わず受け入れていたらしい。だが、ファルチに出会ってから、あいつは変わった」
自由という概念があることを知った友人の、目から鱗が落ちたような顔を今でもはっきりと覚えている。自分とは比べ物にもならないほど賢いというのに、そんなことを知らなかったのかと驚かされた。
「俺は知っていたんだ。あいつが日に日に旅人作家への憧れを強めていることも、家を出られたらと考えていることも。でもまさか、本当に実行するとは思わなかった」
図書館で会えばいつものように話して、妹の相手もしてくれた。窮屈な家を出て旅に出られたら、という夢想を抱く少年は少なくない。大抵が夢を見て、大抵が現実に戻ってくる。聡明なクルトなら、すぐに現実を見て諦めるだろうと思っていた。
「大きな屋敷だったが、部屋の位置は知っていた。窓越しに手を振ったこともあったから。その部屋の下に、草の山ができていくのをおかしいと思っていた」
一家の跡継ぎの部屋の下に、わざわざ見栄えの悪い雑草の山を作るなんて、当主が目くじらを立てるに違い無いと思った。翌日には撤去されているだろうと。
だが、キリルの見立てに反して、数日経ってもそのまま置かれていた。
「最後に見た時、草の上には布が掛けられていた。妙な光景だった。ただの雑草に何故布が被せられているのかと思って、そのまま帰って、誰にも言わずに眠ってしまった」
顔を覆い、ゆっくり息を吐き出す。
「その日の夜、あいつは部屋を抜け出そうとして窓から飛び降り、布の下に隠されていた獣用の鉄の罠で足を……」
「酷いな」
エイニミは顔を歪めて短くそう言った。狩猟用の罠なら、旅の途中で見たことがある。頑丈な鉄製で、足を挟む板の部分が鋸歯状になっていた。あんなもので『足止め』をしようなどと、普通なら考え付きもしない。
「酷い怪我で、家人に発見されるまで、助けを呼ぶこともできないくらい弱っていたらしい。山ほど血が出て、あいつの顔はまるで人形のように白くなっていたとか」
朝になり騒然とする街を、噂が駆け抜けた。命は助かったらしいという報せが聞こえたのは、その日も終わろうかという頃になってからだった。深い傷を負った足が元に戻ることも無いらしいというのも、同じように噂で知った。
「俺は恐ろしくなって父親に全てを話した。父親は話を聞き終わると、今の話を誰にも言っていないかと問い質して、街を出るように勧めた。知らなかった振りを通せないのなら、街を出るしかないと」
真相を知っていることに気付かれたら、どんな危険が及ぶか分からない、場合によっては命を奪われるかもしれないと説得され、キリルも随分悩んだ末に応じた。
コティティエ教の影響が特に強い街で家出人が出れば、残された家族が苦労するのは目に見えている。だが、父は勇ましく胸を叩いて、白い目で見られても死にはしないと言い、妹は『兄さんは顔に出やすいから嘘は吐き通せない』と冷静に言い放った。
父と二人で考え、家出の理由は『旅人作家になる為』とした。旅先から手紙や物を送る口実にもなるし、クルトのことを『不幸な事故』として片付けようとしているカレン家へ、せめてもの意趣返しのつもりだった。
口実とはいえ、クルトの耳に入ったらどう思うだろうかと心配もしたが、いずれ時が来たら自分から話すと父が請け負った。
「それが『事情』だ。ブランデル家も、お前がいなくなったことを、『不幸な事故』と広めていた。恐らく両家が手を組むような形で家庭教師に収まったんじゃないかと思う」
「なるほど、お互いの家の不都合な真実を隠し通す為の牽制を兼ねた協定か」
「だが安心してくれ、クルトは本当に優秀だし、気の優しい奴なんだ。感情面では少し不器用だが、思いやりがある」
本題を思い出し、身を乗り出す。
「そのクルトが、ロニのことを言っていたんだ。熱心で素直な子だ、と」
エイニミは目を細めて頷いた。
「ありがとう。いい友人なんだな」
「ああ、あいつはいいやつだ」
「キリルもだ。今でも大切に思っているのが分かるよ」
遠回りながらも伝えることができて安堵していたキリルの表情が再び暗く曇る。
「俺は駄目だ。俺は、あの時罠に気付いてやることもできなかった。もし俺がもっと賢明だったら、違和感を伝えてやることが出来ていたら……」
激しい慙愧の念で、胸が潰れそうに痛む。
その一言を、ずっと誰かに吐露したかった。
「あいつに怪我を負わせた責任は、俺にもある」
エイニミはただ黙って聞いていた。二人の関係性について知らない自分が口を挟むべきではないという思いと、単純に、そうした友人同士の機微については分からないという微かな戸惑いもあった。
「折角再会できたのに、謝ることもできなかった」
キリルの中に重く圧し掛かっている罪悪感や負い目について理解はできる。
だが、掛ける言葉は思い浮かばない。
「すまない。俺の話になってしまったな」
キリルは幾分吹っ切れた様子ではにかんだ。エイニミには不可解かもしれないが、胸の内を明かしただけで、多少気分が落ち着いた。
「謝らないでくれ。弟の話をありがとう。懐かしいことも思い出した」
「懐かしいこと?」
「ロニと最後に話した時、俺は少しばかり悪戯をしたんだ。いつか気付けばいいと思って、あの日、『旅立ちの朝』だと言った」
「お前、それは……」
「まぁ、これは掟には無いことだから、多めに見てくれ」
ついでに、シルシィは厳しいから黙っていて欲しいと、悪戯っぽく唇の前に指を立てて見せる。
すっかり空気が和らいだところで、キリルも、もう一つ思い出した。
「そうだ、エイニミ。それなら俺も、クルトについ口を滑らせてしまってな」
不思議そうな顔で見返すエイニミに、キリルはすっかり元通りになって、わざとらしく顎を撫でた。
「多少時間は掛かるが、もしかするとその悪戯、成就するかもしれないぞ?」
慌しい日々がもう少し落ち着いたら、また手紙を書こう、とキリルは決心した。
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