第12話 魂の兄弟 一

 その夜、ロニは机に向かったまま転寝をしていた。

 浅い眠りの幕を悪戯につつくのは、近頃見るようになった夢だ。

 活気に満ちた町に、今よりずっと体の小さいロニが立っている。屋台が並び、往来は人で溢れ、とても賑やかそうだ。

 夢のせいか、音は無い。壁一面に貼られた絵のようなその光景を、少し上から眺めている感覚だ。

 ロニは一人で歩いていた。

 人波に飲まれ、使用人とははぐれてしまったのだ。

 幼いロニには、一人歩きを心細く思う様子もなく、興味津々で町を見て回っている。

 そして、ふと、町の外れに目を向けた。

 書割のような背景を振り切って、ロニが走り出す。

 すっかり人通りの無い、いかにも閑静な町外れで、ロニは道中のどの景色よりも目を輝かせた。

 ――あなたは、

 弾んだ声が、途中で掻き消える。

 きっと誰かに何かを話しかけたのだろうが、思い出すことができない。

 歯痒く思う間もなく、絵本のように風景が変化し、ロニの視線の先が見えた。

 ぼんやりとした塊にしか見えないが、人が居る。座っている人だと、直感的に理解した。

 ――今日のことは二人だけの秘密にしよう。

 その人物は、姿こそはっきりしないが、澄んだ声でそう言った。

 その直後に暗転する。

 ここからは、また見たことの無い夢だった。

 明るくなったかと思うと、そこはロニの自室になっていた。やはり少し上から眺めているような視界で、先程の夢よりも更に体の小さなロニが床に座っている。

 ノブの音が小さく鳴り、細くドアが開く。

 ロニはそちらを見て満面の笑みを浮かべる。

 ――今日は何を教えてくれるの?

 ――今日は文字だよ。ほら、ご覧。

 ロニの目の前に絵本が開かれる。

 ――これが木、これが花、これは鳥。

 ――じゃあこれは?

 ――これは太陽。

 穏やかな笑みを含んだ声は、ロニとそう変わらず幼い。

 やはり姿は見えないが、どうしたことか、声ばかりがはっきりと聞こえる。

 ――もう帰らなくちゃ。おやすみ、ロニ。僕がここへ来たのは二人だけの秘密だよ。

(あれ?)

 胸がざわつく。

(今、何かが重なったような)

 だが、夢はそこで終わった。しゅるしゅると糸が解けていくように暗闇へと飲み込まれていく。

(待って、もう少し、もう少しで何か……)

 懇願も意味を成さず、静かな夢の世界から弾き出されるようにして、ロニは目を覚ました。



 目が覚めてまず知覚したのは、扉を叩く音だった。

 コン、コン、と一定のリズムが几帳面な音を立てる。

「ロニ」

 扉越しで多少くぐもってはいたが、呼ばれているのが分かった。

「兄さん……?」

 机に伏せて眠っていたロニは、上体をのそりと起こして扉を振り返る。

「ロニ、起きているか?」

 無感情な声で、朦朧とした意識が覚醒した。

「起きてます!」

 廊下に立っているであろう人物に答え、椅子を引く。

 勢い良く立ち上がると、手に触れた何かが床に落ちた。

「あ……!」

 反射的に拾い上げる。

 それは一冊の本だった。

 勉強の為の本でも、旅人作家の本でも無い。表紙には『嘆きの王子 ヴィルヘルム』とある。

 歴史の勉強の進みが良いことを言葉で褒める代わりに、クルトが与えてくれたものだ。

 それを読みながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。

「入るよ」

 待ちくたびれたのか、扉は外側から開かれた。

「ごめんなさい、先生。少しぼうっとしていて」

「いや、こんな時間に済まない」

 部屋に一歩足を踏み入れたクルトは、外套を着込み、手には外出用のランプを持っていた。

(そうだ、今日は――)

 今日は礼拝の日で、ブランデル夫妻は既に教会へ出向いており、屋敷の中はロニとクルトの二人だけとなっていたのだ。

 クルトが出掛けてしまえば屋敷はロニ一人きりとなるから、知らせに来たのだろう。

 そう、ロニは思っていたが、

「図書館へ行くが、君はどうする?」

 クルトは、ロニを誘った。

「僕も行きたいです」

 考える間もなく、ロニは答えていた。

 慌てて本を置き、手頃な外套を探そうとすると、クルトがランプを持つ手と反対側を差し出した。手にはいつもの杖が掴まれていたが、よく見ると、腕には外套が掛かっている。

「僕のでも着れるだろう」

「いいんですか?」

 肯定する代わりに、外套をロニの手に押し付けた。

「時間が惜しいから」

 淡白に言い放つと、そのまま廊下に出てしまう。杖を着きながら歩く彼独特の靴音が少しずつ離れていくのを聞きながら、慌しく外套を羽織った。

 少し大きいが、動くのに支障は無い。走り出て追いかける。クルトは振り返ることなく廊下を進み、玄関を出、施錠を確認すると図書館へ向かって石畳を注意深く歩いた。石の隙間に杖が入り込むと危ないから、夜はあまり外出したがらないのに、どういう風の吹き回しだろうかとロニは内心首を傾げていた。

(それに、こんな風に誘ってくれるなんて、思っていなかった)

 星見の日以来、ロニとクルトの間には透明な壁ができたようになっていた。

 クルトはこれまで通り優秀で寡黙な家庭教師として如才なく立ち回っている。

 その壁を作ったとすれば、ロニの方だ。

 そしてそれを、本人も自覚していた。

(やっぱり、先生は不思議だ)

 クルトが不在の間、ロニは思うところがあって意識的に己の振る舞いを改めてみた。これまでとは違って少し堅い言葉を使い、動作にも常に落ち着きを持つよう留意した。一先ず形からでも、大人になろうとしたのだ。

 父も母もそうした変化を喜ぶばかりだったのに、クルトは違っていた。

 何かあったのか、とロニに訊ねた。

 詰問でも、皮肉でもない、感情という余分な色付けが一切されていない、言葉そのままの意味で、ロニの様子を窺ったのだ。

 理由など聞く必要があったのだろうかと、ロニは後になって考えた。

 クルトの『仕事』においては、ロニが早々に跡継ぎとしての自覚を持ってくれる方がいいに決まっている。ブランデル夫妻のように、漸くこの時がきたのだと安心しても良かった筈だ。

 だが、クルトはその変化を黙殺しなかった。珍しく長い雑談をしながら、自論なんてものを語ってもみせた。

 あの日以来、ロニはクルトに対してだけ、これまで通りの少し砕けた口調で話すようになった。思惑を見透かされた以上、頬をちりちり焼くような羞恥でとても続けていられなかったのだ。

 クルトは何も言わなかった。ブランデル夫妻や他の使用人に対するものとは違うと気付いているだろうが、否定も肯定もなく、ただ常通りに過ごしている。

 気が付くとロニは、クルトに話し掛けることを躊躇するようになっていた。

 分からないことは決められた勉強の時間の中で訊ねるようになったし、時折共に外出する際にも『兄さん』とはあまり呼ばないよう努めた。

 明確な理由があるわけではない。あれこれと慮る内に、気が付けばそうした行動を取るようになっていた。

 そしてそれが、壁のようになっている。

 だが、クルトはそんなものなど意にかけないようで、こうしてロニを図書館に誘った。

 長い袖をたくし上げて空を仰ぐ。

 窓越しでないから星がよく見えた。白く煌々と輝いて、濃紺の夜空を彩っている。

 図書館までの道程は、そうしている内に終わってしまった。



 礼拝日ということもあって、館内に人の姿は殆ど無い。館長の代理であろう若い司書はカウンターの奥で居眠りをしている。

 ロニは新しく出版されたファルチの本は無いかと書棚へ向かった。ファルチの作品はどれも好きだが、旅物語は格別だ。風景そのものが浮かぶような描写に胸が躍る。時にその作品を、写実性から離れ、過度な絵画的表現を用いていると言う者もいるが、そういう評価をする者達は、本当に美しい風景を見たことがないのだとロニは思っている。

 それほど、ファルチの書き連ねる言葉は、ロニが美しいと思う世界の姿そのものを捉えていた。木々や花の色、岩や大地の力強さ、満ち溢れる太陽の光の粒一つまでも、ロニの視界と相違ない。

(あった)

 ファルチの名前が続く書棚から、見たことのない題名のものを引き出す。その時、すぐ近くで人の気配がした。

 先客がいたのかと顔を向けると、そこに立っていたのは、クルトだった。

(先生? 先生が、どうしてここに)

 そこは、旅人作家の作品ばかりを集めた書棚だ。ロニは決まってここへやって来るが、自分以外に熱心な読者を見たことは殆ど無い。まさか、そこにクルトがいるとは思いもよらなかった。

「閉館までそう時間は無いから、読むなら早くした方がいい」

 いつも通りの冷えた声が忠告するが、言葉は耳を通り抜けて行った。

 クルトは手にしっかりと本を掴んでいた。タイトルを確認すると、それは間違いなく旅人作家のもので、作家名はヴァルデマル・ファルチだった。

 目を丸くするロニを一瞥して、クルトは杖を一歩前へ出す。

 杖と靴の音を交互に鳴らしながらテーブルに向かい、静かに椅子を引き、腰を掛け、ページを捲り始めた。いつも通りの手順で、いつもとは違う本を読んでいる。

 ロニはそろりそろりと歩き、クルトの対面の椅子をそうっと引き出した。咎められなかったので、そのまま座る。

 暫くそれぞれのページを捲る音だけが響いた。

 そうしている間に、図書館の中には、二人と、居眠り中の司書だけになる。

 ファルチの新作は、見事な滝に感銘を受けたという内容のものだったが、目の前でファルチの本を読み続けているクルトに気を取られて、どうにも頭に入ってこない。

 クルトは本を読むのが早い。紙面を滑らかに撫でるような視線の動きには、以前からずっと憧れていた。

「分からない単語でも?」

 本の影から見ていたのに気付いていたのだろう、クルトが視線はそのままに短く訊いた。

「あ、そうではなくて……」

「そうか」

 また一つ、ページを捲る。

 ロニは唾液を飲み下し、小さく息を吐いた。

 周りを見渡してみる。やはり周囲に人はおらず、利用客は二人だけのようだった。

「あの」

 意を決して、声を掛ける。

 クルトは無言のまま、視線を上げて応えた。

「兄さんは、旅人作家を嫌っているんじゃないんですか?」

 言った直後から後悔が始まった。

 酷い切り出しだった。あまりにも藪から棒。単刀直入だ。頭の中が真っ白で何も考えられない。

(きっと怒らせてしまう。どうしてこんなことを訊いてしまったんだろう)

 このところ、会話らしい会話も無く、むしろ己から避けていたというのに。

 図書館に誘い、旅人作家の本を読むクルトに、何を期待したというのか。

 膝に両手を乗せ、外套の分厚い生地をぐっと握り締める。緊張のせいか、なんだか寒気もするし、同時に火照っている気もする。

 クルトは姿勢を崩さない。背筋を伸ばして椅子に座ったまま、本から手を離すこともない。

 だが、唇は動いた。

「どうしてそう思う?」

 小さな声だったが、はっきりと、続きを促した。

 ロニは酷い緊張で乱れた息を無理矢理押さえ込むような深呼吸をして、覚悟を決めた。

(全て言おう。無かったことにはできない)

 どういった意図でクルトがこの会話に応じたのか、ロニには皆目検討もつかない。だが、この時を逃しては、もう二度と訊けることではないと、妙にはっきりとした確信があった。

「僕が旅人作家の作品ばかり読むことを、良く思っていないようだし、旅人作家のことになると、凄く、

 ――怒ったように見えるから。

 と続けようとして、ロニは一度口を閉ざした。

 無礼な言葉を口にすることを躊躇ったのではなく、クルトの顔を見て、その言葉が打ち消されたのだ。

 氷のように冷たい目。眉間に寄った小さな皺。引き結ばれた薄い唇。

 ファルチについて語ったことを牽制した、あの時と同じ表情だった。

 あの時は、不快か怒りの意思表示だと思っていた。

 負の感情といえば、それくらいしか思い浮かばなかった為だ。

 だが、改めてクルトに向き合ってみると、どちらも的外れな気がしてならなかった。

 自室の机に置き去りにしてきた本の題名が脳裏を掠める。

 嘆きの王子。

(ああ、そうか。嘆き、あれも)

 負の感情の一つだったか、と胸にすとんと落ち着くような心持になったロニは、当初とは別の言葉で答えた。

「凄く、苦しそうな顔をするから」

「苦しそうか、僕は?」

「僕には、そう見えて……」

 質問ばかりが続く。ロニへの答えは無い。

 一瞬、全ての音が消え失せたような沈黙が降りた。

 だが、それはすぐに一つの溜息によって破られる。

「そうか、そう見えていたのか」

 クルトは言葉の意味を奥歯でゆっくりと噛み締めるように呟いた。

「なら、そのままの意味だ。僕は苦しいんだよ、ロニ」

 まさか肯定されると思ってもみなかったロニは、瞠目してクルトを見詰める。

 旅人作家に苛まれれる理由など思い浮かばない。こんなにも苦悩した表情の意味も。

「じきに閉館だ。ロニ、帰り支度を」

 司書を横目に見て、相変わらず冷淡な口調がロニを促す。ロニは厳格な教師に従う癖でもって素直に立ち上がり、貸し出しの許可を得る為に本を抱えた。

「これも頼む」

 呼び止められて振り返ると、手元にもう一冊、本を差し出された。

 それは先刻までクルトが読んでいた本――ヴァルデマル・ファルチの本だった。

「でも、これは……」

「頼む。続きは、家に戻ってからだ」

 クルトの真意が分からないまま、ロニは一つ頷いて本を受け取り、司書の元へと駆けた。

 無事に本を借りると、いつも通りの帰途に着いた。会話は無く、慎重に石畳の上を探る杖の音と、二人の靴音だけが暗い夜道に響いては溶けていく。

 屋敷の鍵を開ける。ブランデル夫妻はまだ帰っていない。

 まずは自室に戻ろうとするロニを、クルトが呼び止めた。

「少し歩き過ぎたみたいだ……、膝が痛む。悪いが着替えを手伝ってくれないか?」

「はい、先生」

 ロニはクルトの後ろに着いて歩き、部屋の扉の前でだけ先行した。扉を開け放つと、短い礼の言葉と共にクルトが室内へ入って行く。

「ドアを閉めて」

 言われるまま閉めた扉を背にして、ロニは立ち尽くした。

 クルトは着替えを手伝うよう彼に言ったが、着替えるような様子は無い。外套もそのまま、書斎机に腰掛けてしまった。いつも凜と背筋を伸ばしている彼とは別人のように、背凭れにぐったりと体を預けている。

 クルトの私室に入るのはどれくらい振りだろうかとロニは考えた。もしかすると、初めてかもしれない、と。

 室内の印象は、寒々しい、の一言だった。

 部屋の中には必要なものが一通り揃っている。小振りのティーテーブル、寝台、チェストは勿論のこと、簡易的な洗面台もあり、扉の横にはホールスタンドまで置かれていた。

(これじゃあまるで)

 ロニの背筋に冷たいものが走る。えも言われぬ寒々しさの正体に至ったのだ。

(この部屋から出るなと言われているみたいだ)

 そう思わずにいられないほど、クルトの部屋には家具が揃いすぎていた。

 無言のまま硬直しているロニに、クルトは漸く言葉を掛ける。

「君は、そこに」

 クルトの指先は力なくティーテーブルを指し示していた。

 少し離れてはいるが、向かい合わせになるよう椅子の向きを変えて座った。クルトはそれを睥睨したが、咎めなかった。

 一瞬の沈黙があり、クルトが長い息を吐き出す。ロニは固唾を飲んでその様を見つめていた。

 ロニの真っ直ぐな視線を受けて、クルトはもう一度溜息をつくと、薄い唇を開く。

「長い話になる……ブランデルさんが帰ってくるまでには終わらせるつもりだが、なにせ人に話すこと自体が初めてだから、上手く説明できるかは分からない」

「構いません。聞きたいです」

 ロニは逸る気持ちを抑えながら、クルトの目を見て頷いた。

 今からクルトが話そうとしていることは、ロニ自身にとっても重要な何かだと直感していた。

「君は、僕の足について何か知っているか?」

「いえ……。ずっと昔に怪我をしたのだということ以外には、何も」

「そうか」

 クルトは足を擦って何度か頷いた。

「この怪我は、事故によるものだ。事故……、いや、罠と言うべきかもしれない」

「罠、ですか?」

 ロニは不思議そうな顔でクルトを見た。その無垢な瞳を見ていると、クルトの決心がゆらゆらと揺れだす。

 だが、一度話し始めたことはもう止めることなどできはしない。

 クルトはズボンの裾をたくし上げて、ロニに灯りを近付けるよう言い付けた。

「あ……」

 言葉を飲む。

 仕立てのいい服に包まれた足に、これ程のものが隠されているとは、想像もしなかった。

「肉が引き攣れているだろう? 治療が遅かったから、あまりいい形では繋がらなかった。獣用の罠が足に食い込み、皮膚を裂き、肉を割って、その下の神経や腱まで傷つけた……」

「獣用の罠……。罠を、事故で?」

「いいや、そうじゃない。罠を、事故と……見せかけて、だ」

 クルトの足には、足首から膝の下までかけて酷い傷跡が残っていた。彼自身が言った通り、皮膚は引き攣れ、一部肉が不自然に盛り上がったような箇所もあり、その部分は色も異なる。傷跡と称するには、未だ生々しく彼を苛んでいるように見えた。

「ロニ。ブランデル氏は、コティティエ教の中でも、特に顔の広い人物だ。そして、僕の生家であるカレン家もそうだった」

 クルトは乱雑な縫い痕を指先でなぞりながら静かに話し始めた。

 クルトの生まれたカレン家は、元々は王族を護衛する親衛隊の末裔で、終戦後も貴族として地位を守られていた。内政事情が変わり、平和を取り戻して以来は武力を誇りとする兵士の価値は落ちたが、過去の栄光は未だ『格』としてカレン家を支えている。

 クルトはその家の一人息子として、乳母や使用人達に囲まれて育まれた。

 カレン家の当主は、クルトに教養を身に付けさせ、武力ではなく知力によって更なる繁栄を続けさせようとしていた。

 家を守る為、当主は厳格なまでにクルトを躾けさせた。

 使用人達は誰もが礼儀正しく、幼い頃からクルトを大切に育てたが、誰もが皆一様にどこか余所余所しかった。

 母は自室に篭りがちで、父は仕事と社交界、それからコティティエ教に執心していた。

 それでもクルトは自身の境遇が特別不幸だなどとは思ってもみなかった。

 使用人達が余所余所しい態度を取るのは、他人である自分に対して仕様の無いことだと思っていたし、父というものは多忙で然るべきだとも思っていた。

 唯一、母のことだけはよく分からなかったが、衣食住に不足は無く、その重大な必要性についてはついに実感を得ないまま、彼女は病に罹り、クルトが幼い内にこの世を去った。

 それでもクルトは、自身の境遇が特別不幸なのだとは思いもしなかった。

 クルトは様々な教養を身に付けることを一種の娯楽として捉えていた。代わる代わるやってくる教師達は、高価にして上等な遊具の如き喜びを彼に与えた。

 あらゆる学問を習得する内、クルトは読書に目覚める。

 多くの子供達がそうするように、まずは平易な作品から手に取った。

 それが、ヴァルデマル・ファルチだった。

 その冒険活劇に胸が高鳴った。

 屋敷内しか自由に歩き回ることを許されなかったクルトは、初めて自身に不足していたものの内の一つを知る。

 二本の足がありながら、柵と塀の向こう側へ行くことは一人では適わない。

 冒険活劇の主人公は、物語の中の人物なのだから自分とは違って当然なのだと無意識に言い聞かせながらも、ページを捲る手を止められなかった。

 そして、その作品を読み進める内、彼は更なる衝撃を知ることになる。

「旅人作家というものを知らなかったんだ。勿論当時既に、その存在は広く知られていた」

 あらゆる学問は習得したが、彼を教える者達の中に、外界のことを語る者は一人とていなかった。

「知識を得ることだけを喜びに、自分の人生には何も疑問を持ち得なかったが、結局は究極の浅学……愚か者だったんだ」

 旅人作家と出会うことができたのは奇跡にも等しかった。

 すっかり従順で勤勉な息子を、当主は微塵も疑うことはなかったのだから。

「すぐに夢中になった。家から離れ、旅をしている人物がいる。そんな人間が存在していることが、それだけで酷く、眩しかった」

 不足していたもの、それは『自由』だった。

「旅人作家への憧れは日々強まり、一人で出歩くことが許されると図書館へ通い詰めた。それがいけないことだとは思わなかった。友人もできて、楽しかった」

 だが、その新たな幸福と充足感は、長くは続かなかった。

 外出を許可されたとはいえ、クルトの周囲には常に使用人がいた。そして彼らは、クルトの動向について密かに探り、その詳細を全て報告していたらしい。

「父からの風当たりが強くなったのを感じて、旅人作家になることはできないとすぐに悟った。それどころか、その著書を読むことすらじきに禁じられると……」

 クルトは、僅かな荷物を纏め、家を出ることを決心した。

「それが、一番の過ちだった」

「家を出ることが、過ち……」

「先にも言ったろう? 僕の生まれたカレン家は、コティティエ教信者の中でも、特別顔の知れた家の一つだと」

 コティティエ教の教典には、家を出ることは家族を捨てる行為として忌み嫌われ、激しく糾弾される。

 クルトが出奔を図っていると知れて、無事でいられるわけがなかった。

「後に聞いた話だが、僕が家を出ようとしたその前日……、どうも獣の罠を仕掛けた使用人がいたらしい」

 出奔を企てる少し前から、クルトの自室の窓の下には、刈り取られた下草が山と積まれていた。その上に上手く飛び降りることができれば、人知れず逃げ出せると思っていた。

 その夜、その下草の山を布が覆っていたと気付くことができなかった。

 当然、その布の下に、獣用の罠が隠されていたことにも。

「じゃあ、その傷は……」

 クルトは一つ頷き、爪を立てるように曲げた五指を、反対の手にぐり、と食い込ませる。

「助けを呼んだが、人が来たのは夜明け前だった。その頃には、足から流れ出た血で意識が朦朧としていたよ」

 使用人に呼ばれたお抱えの医者が治療にあたったが、傷は深い上発見が遅く、命があるだけ幸運だと言われた。元通りにはならないと言われたことも覚えている。

 そしてその時、父であるカレン家当主が、顔を歪めたことも。

「笑った……? 本当なんですか?」

「間違い無い。父は笑っていた。片足を失ったにも等しい僕を見て、口元を歪ませた」

 そして、意識の回復と共に再び激しい痛みに襲われ苦しむクルトの額を撫で、『これでもう、安心だ』と囁いたのだ。

「その時に全て悟ったよ。僕のような愚か者のことを、世間知らずと言うらしい。当主の息子である僕の部屋の真下に見栄えの悪い下草の山を作ったのも、助けが来たのが夜明け前だったのも、何もかもが計略の中のことだったんだ」

「でも、実の息子に、そんな仕打ちを……。死んでしまうかもしれないのに」

「……ロニ、君は一つ大事なことを忘れている。いや、見ない振りをしている」

 ロニの心臓が、ドクン、と激しく脈打った。

「実の息子にそんな仕打ちができる親を、君は知っている」

「あ……」

 心臓が痛む。今までに経験したことの無い強さで脈打つ。

「僕なりに、君を哀れに思っていた。だから、君が見たくないと思うのなら、僕も同じように見ない振りを続けようと思っていた」

「先生、僕は……」

「コティティエ教に関与して行方知れずになった者がいるのを、君は知っているだろう? 街で噂になっている。君は決まって耳を塞いだけど、掌で覆った程度で音を遮断することはできない。聞こえていたね?」

 呼吸が乱れる。動悸に合わせて浅く、速く。

「君は一度も疑問に思ったことは無かったか? この家にいた、もう一人の息子――君の兄について」

「アルヴィー、兄さん」

 空ろな声がぽつりと呟く。

「兄さんは、幼い頃から気の病を患って、部屋に閉じ込められていた……」

「そう。そういう噂だった。そんな子を、狩りになんて連れて行くだろうか?」

「狩りの朝、兄さんは笑ってた、旅立ちの朝だと言って、でも、崖で足を滑らせて……」

 どんなに固く目を閉じても、頭の中で記憶が蘇る。鮮烈なまでの色彩を伴って、むしろ目を閉じれば、瞼の内に広がる闇の中をより激しく暴れ回るようだ。

「ロニ、君は、君の兄がその時本当に滑落死してしまったと、思っているか?」

「え?」

 クルトの冷静な声に、思わず目を開ける。

「でも、父さん達はそう言って……」

「つまり、君は見ていないんだな」

「僕は兄さん達と離れた場所にいたから、だから……」

 あの朝のことがロニの頭に再び蘇る。

 日頃は部屋の中に閉じ込めるようにしていた兄を狩りに誘った父は、上機嫌な彼を決して一度たりとも振り返りはしなかった。

 兄は歌でも歌い出しそうな程浮かれた様子で大荷物を持っていた。

 ――兄さん、とってもご機嫌なんだね。

 ――そりゃあそうだよ。旅立ちの朝だもの。

 満面の笑みを浮かべてそう言った。

 馬車は深い森に分け入り、ロニ達を下ろした。ロニは父に雇われた狩人の近くで、花を摘みながら野兎が走り回るのを見ていた。

 ――大変だ。坊ちゃんが崖から足を滑らせて……

 いくらも経たない内に聞こえてきた使用人の声は、重苦しい響きだったが、緊迫感は無かった。妙に落ち着いた『報告』。足元には、草を食む野兎。

「そう、君は何も見ていない。狩りに出た朝、馬車に乗るまでが、君が持つ兄との記憶なんだろうね。そこから先は全て、周囲の人間に言われたことを鵜呑みにしているだけだ」

 クルトの言葉で、目の奥で光が閃いたような衝撃があった。弾かれるようにして身を乗り出す。

「あの時、森は凄く静かだった。崖から落ちたような音なんてしなかった。小さな兎が安心し切っていたくらい」

 何度夢に見ても、終ぞ見られなかった『続き』が、唐突に甦る。

 使用人の声が聞こえてすぐ、ロニはわけがわからないまま、馬車に押し込められた。同乗した狩人は何も喋らず、その異様な空気に気圧されて、何も訊くことができなかった。

 屋敷に戻ってからメイドによって湯浴みをさせられ、二階の私室で待っているよう言われた。

 昼過ぎになって戻ってきた父によって、何があったか告げられた。

 寝台に腰掛けていたロニの両肩に手を置き、ゆっくりと、言い含めた。

 一行とはぐれて森の奥へと駆けて行った兄は、そのまま足を滑らせ、崖下へ落ちてしまったという。

 そして、死んでしまったのだと。

 兄の姿は見ていない。

 兄の体はどうなったのだと聞いても、そんな酷いものは見せられない、諦めなさいと父は言った。

 それで終わりだった。

 葬儀の日ばかりは父と母も、いくらか忙しくしているようだったが、ロニは一人家に残された。ひらりと舞う、強い太陽光のように真っ白な服を纏い、粛々と出て行ったその日が終わってしまうと、両親はすっかりこれまで通りに接してきたように思う。

 ロニとその兄は、あの狩りの日を境に、ぷつりと糸を切るような呆気なさで、永遠に離れ離れとなったのだ。幼い少年には、兄を失ったという実感を得ることができなかった。

 そしてそのまま時だけが経っていった。

「あの時、僕は五つだった。兄さんは……、兄さんは幾つだったんだろう……」

 分からない、とロニは震える声で呟いた。

「あの狩りの日まで、兄さんはどこにいたんだろう? 僕、兄さんの部屋も知らない。今どうなっているのかも」

 喉の奥からせり上がる言葉をそのまま吐き出せば、動揺は更に強まる。

「どうして……、確かに、この家にいたはずなのに」

 鼻と目がじわりと熱を孕み、吐く息まで熱くさせた。

 小刻みに震える両手で顔を覆う。

「どうして、どうして……」

 ロニの頭の中は、呼び戻した記憶と疑問とで雑然としていた。

「僕は、何も知ろうとしなかったんだ」

 五つだった子供は、十五の少年になった。

 十年の間、繰り返し見続けてきた夢の続きを思い出すのが、何故今なのか。何故今まで思い出せなかったのかと、憤りすら感じる。

 過ごして来た日常は、酷く無為で罪深いものだったのではないかと、眩暈がした。

「ロニ。ロニ・ブランデル」

 クルトの声が、ロニの名を呼ぶ。

 冷たい水を浴びせられたように、はっとした。

「君はかつての僕と同じ病に罹っている。無知と、盲目。一歩外に出れば皆が口を揃えてそう言うだろう」

 クルトの言葉が、床の埃を掃き清めるように、ロニの頭の中を明瞭にしていく。

 クルトは、ロニに貸し出し手続きをさせた本を手に取り、ページを捲った。

「今の君には読めるだろう。ヴァルデマル・ファルチの初期の作品は難解な単語や言い回しが多く、大抵の者はここまで遡って読みはしない。だが、君は読むべきだ」

 最後のページを捲り、ロニに渡す。

 ロニは目元を拭い、その短い文章が刻まれたページを食い入るように凝視した。

「ロニ、もう一度訊く」

 杖を頼りに立ち上がり、そのページの最後を指先でなぞる。

「君の兄が、その時確かに死んでしまったと、魂から思っているのか?」

 何故今なのか。

 何故今まで思い出せなかったのか。

 繰り返し見た夢は、ずっと訴え続けてきたのだろうか。

 もう一度目を擦って、涙の一滴すら追い払う。

(これは、本に記された誰かの過去じゃない。僕の、僕自身の記憶だ)

 それをどう扱うかは、ロニの自由なのだ。

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