第11話 クルトの帰還
馬車の音が街の入り口から聞こえてくると、ブランデル夫人は少女のような満面の笑みを咲かせて庭から門へと足を早めた。ロニもその後に続く。
予定通りの行程だったが、夫人は待ちきれずにロニを連れ出して庭から様子を窺っていた。
ようやく馬車の音がして、ロニは心底ほっとしている。朝食を済ませてからもう一時間近く庭を彷徨っていたのだ。
程なくして屋敷の前に馬車が止まり、ブランデルが堂々と石畳に降り立った。
「お帰りなさい」
使用人よりも先に夫人が前に出る。
「戻ったよ」
腕を絡めそうな程寄り添う夫人に苦笑を噛み殺しながら、ブランデルは少し離れた位置に立つロニに軽く手を上げた。
「出迎えありがとう」
「お帰りなさいませ」
落ち着かない母の横で庭に立たされ続けたロニの笑顔はどこか力無く弱っている。
そんなことはお構いなしに、夫人はぴったりとブランデルの側について屋敷に入るのも待ちきれないと矢継ぎ早に問い掛けた。
「お仕事はいかがでした? ヤレンナミケンの大教会は?」
「順調だよ。教会も美しかった。なにより、僅かだがヤースコ卿とお話ができたんだ」
「まあ、あのヤースコ卿と? 素晴らしいわ!」
「着替えを済ませたら、話して聞かせよう」
「楽しみですわ」
仲睦まじく屋敷の中へ入って行く二人を見送るロニの耳に、コツン、と耳慣れた音が聞こえるや否や、素早く振り返った。
「お帰りなさい、兄さん」
「ああ、……ただいま」
馬車から降り立ったクルトに向けて両手を差し出す。
「荷物、部屋まで運びます」
久し振りに見る人懐こい笑顔が、有無を言わさずにクルトの手から大振りの鞄を手放させた。
いつもより心なしか速度を緩めて前を進む少年の背をぼんやりと眺めながら着いて行く。数日分の身の回りの品が詰められた鞄はそう軽くない筈だが、ロニの足取りは安定していて、重みに振り回される様子も無い。
本来ならば荷物持ちなどという使用人のような真似はやめさせるべきなのだが、旅の疲れのせいか、窘める言葉が出て来なかった。
「お帰りなさいませ」
扉を開けた使用人が頭を下げるのはロニに対してだけだ。
クルトは居心地悪い思いを会釈で誤魔化して廊下を進む。
その途中、厨房へと続く扉の前で、夫人が使用人と話し込んでいるところへ出くわした。
先に現れたロニの手元に気付いたようだが、取り成すように艶やかな笑みを浮かべる。
「ご苦労様でしたね、クルト。供として良い働きをしてくれたのは主人を見れば分かりますよ」
「恐縮です」
クルトが頭を下げてすぐ、二人の会話など興味がないとばかりの明るい声が夫人を呼んだ。
「ねぇ、お母さん、先生が着替えを済ませたら、勉強を教えて貰ってもいいでしょう? 貿易史の本、聞きたいことがたくさんあるんだ」
「まぁ、ロニったら、勉強熱心だこと。あの本も随分一生懸命読んでいたものね」
「うん。難しいけど、とっても面白いんだ。教えてもらえるのが待ちきれないよ」
夫人の含みの無い笑顔を見て、自分が不在の間、ロニも上手くやっていたのだとクルトはほっと胸を撫で下ろす。
「ああ、そういえば」
勉強に夢中で、旅から戻ったばかりの家庭教師から荷物を取り上げて急かす、熱心であどけない息子に表情を蕩けさせたのも束の間、再び強張った面持ちでクルトに向き直った。
「図書館の館長ですけどね。家族を連れて街を出たそうですよ」
夫人の横を通り抜けようとしたロニの足が止まる。
「そうですか」
「クルト、あなたは館長と親しかったかしら?」
「いえ。僕には特別親しい方はおりませんので。館長とも、失礼の無い挨拶だけを」
「そうね。そうでしょうとも」
ややヒステリックに高揚し始めた夫人の言葉は止まらない。
「バックルンド家は元々、騎士と内通していたということで王都守護役を追われた一族ですもの。騎士などと、戦争礼賛の野蛮な者らと親しくしてただなんて、出て行ってくれて本当に安心したわ。折角与えられた温情と役目も放棄するくらいですもの」
鼻息荒く弁舌を振るう夫人の後ろで、ロニは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
夫人には悟られなくとも、クルトからは隠しようも無い程よく見える。
「ええ、本当に」
静かな相槌で返しながら、僅かに困惑していた。
(こんな顔をしてみせるのは、彼が子供だからなのか、それとも、)
―それとも、自分を信用に足る人物だと思っているからなのか。
夫人の横をすり抜けて再びロニの後ろに着いて行く。その後姿を見ていると、無意識に腕が持ち上がっていた。上着の内側に手を入れかけて、はたと気付き、そっと下ろした。
部屋に入り、扉を閉めると、ロニは丁寧に鞄を下ろしてくるりと振り返る。
「先生、上着をどうぞ」
「いや、大丈夫だ。自分でできる。それよりすまないが、その鞄を机の上に置いて欲しい」
「分かりました」
ロニが鞄を移動させている内に、すっかり埃っぽくなった上着を脱いでホールスタンドに掛ける。
「足のお加減はいかがですか?」
大人びた口調で問い掛けられると、一瞬言葉に詰まる。
「ああ、少し休めば問題ないよ」
「他に、何か手伝えることはありませんか?」
「ロニ、君は使用人じゃない。さっきは上手く誤魔化せたようだが、旦那様や奥様の前でああしたことは……」
「分かっています」
ロニはあくまで冷静に答えた。
「でも、先生の姿を見たら、居ても立っても居られなくて。何かしたいと思ってしまったんです」
言い終えると、気まずそうに視線を彷徨わせて俯く。
「僕、部屋に戻りますね」
伏せた顔をそのまま、部屋を出て行くロニに、何も言うことができなかった。
扉が閉ざされると、途端に体から力が抜けていく。張り詰めたものがぷつりと切れて、堪えていた痛みに自然と手が伸びた。血の流れを如実に感じさせる程じんじんと熱を孕む左足を擦りながらホールスタンドに凭れ掛かる。
上着に摺り寄せた頭の下で硬い感触がした。
杖を持つ手に力を込め、体勢を戻す。
上着の内側に手を差し入れ、ポケットから探り出されたのは、小さな布袋だ。
ぎゅっと握り込めば手の中にすっかり収まってしまうそれを拳ごと額に押し付け、深く息を吐く。
「僕は、どうしたい……?」
吐息と共に吐き出された自問に答えることなく、クルトは暫くの間、そうしていた。
クルトの体調は数日で回復し、程なく日常が戻ってきた。ロニに勉強を教え、命じられればブランデルの手伝いをし、日々注意深く夫妻の様子を窺う。足の調子が良ければ早朝の散歩だとして、ハルトネンの元を訪ねることもあった。どうすべきか悩んだが、彼の息子、キリルと偶然に出会ったことは、話しておきたいと思ったのだ。ハルトネンは息災の報せにうっすらと涙を浮かべながら礼を言った。
一方でロニは、これまでよりずっと落ち着いた雰囲気を纏うようになっていた。仕草や話し方、顔付きから無邪気さが取り払われ、彼の特徴ともいえる快活な笑顔はどこか力の無い微笑に成り代わっていった。
夫妻は漸く跡継ぎとしての意識が芽生えたのだと手を取り合って喜んでいる。
ロニは浮つく両親など眼中に無いようで、ひたすら勉強に励んだ。苦手とする分野にも、以前のように渋面を見せない。
そうした変化こそあれ、大方、それらは『日常』だった。
「最近は、随分励んでいるね」
星見について教える為、日が落ちてからロニの部屋を訪れたクルトは、夜空を眺めながら何気なく話し掛けた。
「あ、はい……」
話しかけられたことに驚いたのか、はっきりしない返事だ。
「留守の間、何かあった?」
すぐには答えなかった。ちらちらと濃紺の闇を控えめに彩る星を見詰めたまま、たっぷりと時間をかけて何事か思案した後、躊躇いながら徐に唇を開く。
「僕、やっぱり変ですか?」
「そんな風には思っていないが、何も無かったようにも見えない」
「先生は不思議ですね」
「僕が?」
意外な返しに視線を動かす。ロニは未だ空に目を向けたままだ。ランプの明かりに照らされる横顔は、まだあどけない柔らかな頬の線を残している。
「普段の生活は特に何も。先生が不在の間、図書館へ行くことができなかったのはちょっとした不満です」
刺々しい感情を笑顔で隠したのもほんの僅かのことで、すうっと表情が消えていく。
「ホルガーさんのことも、先生が戻られたあの日に初めて知りました」
(ああ、なるほど。それで)
あんなにも苦々しい顔をしていたのか、と合点がいく。
唐突に知らされた事実に驚き、咄嗟に反応してしまったのだろう。
「お別れも言えなかった」
ロニのように、沈痛な面持ちこそ見せなかったが、クルトも共感するものはあった。
「彼は好人物だった。挨拶ができなかったのは、そうだね、僕も残念だ」
親しげで大らかな老爺の顔が浮かぶようだ。自身の孫でも見るかのようにロニのことを気に掛けていた。
「家系のこと、少しも知りませんでした」
ホルガーは家名で呼ばれることを嫌った。素直な性格のロニは、請われるまま、何の疑問も持たずに彼の名を呼んでいたのだ。
それに意味があることを、クルトのみならず、街の大人達は知っている。
「……バックルンド家は、王都守護を担う兵士の家系だった。敵軍が侵攻した場合、最終防衛線ともなる王都の門を堅く守る役目だ。門の外周を警備する騎士隊と懇意にしていたのは、別段不思議なことではなかった」
「それなら、どうして」
「騎士がその役目を追われた時、恐らく繋がりを断ち切ることができなかったんだろう」
「それだけですか?」
「憶測だが、それ以上のことをしていたら、街にもいられないだろうからね」
「ただ騎士と仲良くしていただけ? たったそれだけで、直接は関係無いホルガーさんまで、あんな風に言われてしまうんですか?」
ホルガーはバックルンド家の生まれではあるが、戦後の生まれだ。そしてそれを非難する夫人は、そのホルガーよりもずっと若い。
だが、彼について話す夫人の侮蔑に満ちた両眼は、まるでその瞬間をしかと我が目で見たかのようだった。
到底理解し難い感情だと、ロニは困惑しているらしい。
(奥様は、こうした教育というのには向いておられない)
クルトは嘆息を噛み殺す。
ロニを理想通り健やかに育てようと思うのであれば、あのような物言い、あのような態度は控えるべきだったのだ。この純真で真っ直ぐな少年が、他意無く懐いていた相手を悪し様に罵られることを受け流せるわけもない。
「与えられた温情と役目って、どういうことですか?」
疑問でいっぱいになった教え子をいなすのは骨が折れる。ロニは気が幼くとも間違いなく聡明だ。誤魔化しの為の嘘や屁理屈は見抜いてしまう。
(さて、どうする)
クルトが自問する為に費やす時間がじれったく、ロニは身を乗り出して詰め寄った。
「僕が大人じゃないから、まだ教えてもらえないの?」
「ロニ」
声を荒げるロニの前に、クルトは人差し指を立てて見せた。強いまじないのように、ロニは即座に従い、自身を落ち着かせる為深呼吸をする。
「この頃の振る舞いは、その為に?」
緊張の糸がぷつりと切れたのだろう、ロニはだらしなく椅子に凭れ掛かり、天井を仰ぎ見た。
「先生がいない間、色々と考えてばかりでした」
「勉強のことではなさそうだね?」
「出発の前、『歴史は客観的過去』だと」
「ああ、話したね」
「あの時の話もそうなら、勉強のことについても考えていました」
「そうか」
「でも、一人じゃ答えが出なくて」
上体を起こし、座り直す。表情はすっかり落ち着いていたが、同時に酷く疲れてきっているようにも見えた。
「喋り方を変えたところで、身の丈に合っていないのは分かっていました。でも、僕が大人になれば教えてもらえると思って……、だから……」
「なるほど」
素っ気無い相槌だが、ロニには充分だった。黙殺されても仕様の無いことだとは分かっているのだ。僅かでも反応があることが、話を続けることへの許しに思えて、安心する。
「お父さんもお母さんも喜んでくれているようだけど、僕は違和感で変な気分でした。肝心の先生には、やっぱり通用しなかったし」
「通用しなかったわけじゃない。やや性急な変化だったから、確かめたかったんだ」
「やっぱり不思議です」
「さっきも言っていたが、僕がそんなに不思議か?」
「だって、先生は僕に勉強や作法を教えて、一人前にするのが『仕事』でしょう? 僕が早く大人になれば、お父さんもお母さんも、きっと先生のことをもっと認めて、褒めてくれる。それなのに、観劇の時」
夫人が熱を上げている歌劇を観に連れて行かれた夜、ブランデル一家を支配人が直々に出迎えた。歌劇に興味の無いロニは、その施設の責任者である支配人、アンヌッカの名前を覚えていなかったのだが、彼と対面する直前、クルトがその名をこっそり耳打ちしたのだ。
ロニは怪訝な気持ちを押し隠しながら、支配人の名を呼び、行儀良く挨拶をこなしてみせた。
何故怪訝に思ったか、それは、クルトがアンヌッカの名を教えるのと同時に、教えたことを黙っているようにとも言ったからだ。
「あの時、先生が教えてくれたのだと僕が言えば、先生の評価になった筈です。教えなければ、お父さんの叱責が先生に向くのも知っていますが、自分の功績を隠してしまうなんて」
「その事について気分が晴れないのなら、教えられたことをそのまま答えて褒められた、というのが、心の奥底で卑怯な真似に思えているのかもしれない。だけど気にしなくていい、君が言う通り、それが僕の仕事だし、それを覚えるのが君の仕事だから」
「そういうことじゃ――」
また大声を出しかけて、慌てて一度口を閉じる。
「上手く言えないけど……。そういうことじゃ、ないんです」
それ以上、ロニの言葉は続かなかった。
しんと静まり返った室内に、庭の木々が風にざわめく音が流れ込んでくる。
「夜は音がよく響く」
クルトは独り言を呟きながら窓に手を翳した。
「……だから、窓を閉めたまま星見をしていたんですか? 会話が聞こえないように」
「いや、ただ、落ちてしまうといけないだろう」
「落ちたりなんかしませんよ」
「そうか」
手を膝の上に戻し、瞼を下ろす。
「勉強という感じではなくなってしまったから、少し話しをしようか」
目を開けたクルトに顔を向けられ、ロニは訝りながらもこくりと頷いた。
「人それぞれに与えられた役割というものがある。逃れがたい、定めとも言えるかもしれない」
「定め、ですか?」
具体的とも、抽象的ともつかない切り出しに小首を傾げるロニは、まだ頭がついていかないようだ。
クルトは構わず話を続けた。
「君にもそれがある。僕にもあるように」
矛先が向けられるとは思わず、ロニは胸の辺りをぎゅっと握った。
「もしそれが、自分の望むものじゃなかったら、どうすれば?」
「色々だよ。抗う者もいるし、受け入れる者もいる。だが、抗った末の結末が、本当の自由意志だったかは誰にも分からないし、受け入れた未来がただ不幸なものだとも言い切れない」
「結果は、いつ分かるんですか?」
「どうかな。少なくとも、すぐに分かるものじゃない」
少しずつだが、ロニはクルトの話に引き込まれ始めていた。
理知的で清廉で、抑揚に乏しい声。ロニが思わず心酔する、いつものクルトの声だ。
この声で語り始めれば、自然と耳が傾き、話に吸い込まれるよう、癖付いている。
「例えば、選択の結果、一見して不幸な人生が待っていたとしよう。だが、もう一つの選択肢を取ったとして、より困難な人生が待っていたかもしれない。逆も然りだね。幸福と思っていても、選ばなかったもう一つの道は、より満ち足りたものかもしれない。一方を選べば不幸になり、他方を選べば幸福になる、というような単純明快なものだと人は無意識に思い込んでいるが、そんな保証は無いし、そもそもそうした性質のものでもない」
「一度選択をした後、残された選択肢を再び選んだら?」
「うん、それも有り得ることだね。そこで問題なのは、再び選択する際のその人は、既に一つの選択を意識的に終えた後だということだよ。時間が経過した時点で、比較の為の条件は歪んでしまっている。更には、その人には、経験や経年による思考や肉体の変化が起きている。これもまた、条件の歪みだ」
いささか観念的な話であったが、ロニは真剣そのもので聞き入り、また自身もこの問題について思考し始めていた。そこにいるのは、足が攣りそうな程の背伸びをするでも、周囲の空気を緩める程に幼くあるでもない、ただ好奇心にのみ囚われたロニ・ブランデルだ。
「仮に、ある選択の瞬間、自分と全く同じものがいて、同時に別の選択肢全てを経験することができれば、多少は真実味のある比較結果が出るかもしれない」
「でも、そんなことは魔法でも使わなければ不可能だし、『自分のような自分』が現れたところで、――例えそれが自分から分裂したものだとしても、自分を離れた時点で同じものかを完璧に証明することはできない……」
「そう。どうあがいても、人は、自分の人生同士を比較することはできない。だからどうしても比較したい時は仕方なく、もう一人の自分の代用として、他人を比較に立てる。だがいくらそうしたところで、それは自分じゃない。だから、その時の選択が、真に最良で最善たるものだったかは、確かめようがない」
それじゃあ、とロニは呟く。
「どんな選択をしても、何が正しいかは一生分からないの?」
「人生というのは、正しさという尺度では測り難いものなんだ。正しくないと罵られても、幸せだと思うことはできる。正しい生き方だと誉めそやされても、決して満たされないこともね」
「なんだか、生きて行くのはあまり楽しいことじゃないように思えてきます」
「そうだね。君は好きじゃない勉強と向き合っている時はこの世の終わりかという程苦悩して見える。反対に、大好きな物語を読むときは、この上ない幸福を噛み締めたような顔をする」
再び矛先を向けられ、ロニは不満そうにクルトを見た。
「人生もそれと同じ?」
「全ての事象は、あらゆる小さなものの延長だよ。
「なんだか変な感じ……。安心するような、どこか虚しい気もします」
「君は若いから」
目を細めて、口角が僅かに上がる。心なしか、声音も柔らかくなった。ロニが瞠目すると、すぐに表情を正して小さく咳払いをした。
「それでも、人は選択を要する。それと意識していなくても、この数日で、君が立派な大人たろうとして態度を改めたように。その選択が無ければ、今僕と君は、こんな話をしていなかったかもしれないが、もしかしたらしていたかも」
「分からない、ということが唯一分かっていることなんですね」
「そう。だから、誰かの選択を、別の誰かが評価することは、とても無意味で、滑稽だと、僕は思っている」
ロニは更に驚きを重ねていた。
無意味で、滑稽。
クルトがそんな風に自身の考えを言うのは珍しい。書物の現象や理論にではなく、はっきりと『人』に向けられた非難は、これまで聞いたことがなかった。
「バックルンド氏……ホルガーさんも、他人の選択にあれこれと評価を下すような人ではなかった」
ホルガー・バックルンドという男は、クルトの知る限り、単なる好々爺というわけではなかった。
彼はしたたかで、油断のならない老獪さをも持ち合わせており、クルトに対してはそうした部分を隠しもしなかった。
バックルンド、という家名は、この街で生きる限りずっと付き纏う呪詛のようなものだったが、それを嫌いながらも、己の生まれを呪い、先祖の行いを恨む様子は見せなかった、精神の強靭な人物だ。
(それでも、免罪の為に与えられた役割は、彼を悩ませていたのだろう)
だから彼も選択をした。それだけのことだ、とクルトは目を閉じ、胸中で自身に言い聞かせた。
ロニはクルトの様子を窺いながら、隙間に入り込むような慎重さで問い掛ける。
「僕の役割は、ブランデルの家名に恥じないよう学んで、後を継ぐことですよね?」
「そうだね。それがブランデルの家に生まれた君の宿命だ」
「たとえば、望むものじゃなくても」
「正しさにも関係なく」
ロニは膝の上で作った両手の拳を見ながらしばし黙り込んだ。
「あまり生真面目に考えなくてもいい」
何故こんな話になったのか、何故自分にこんな話をして聞かせたのか、と考えを巡らせているのだろうと、クルトはその思考を制止した。
正にそうしたことをぐるぐると考えていた最中のロニは、はっとして顔を上げる。
「これはあくまで、僕の経験上の自論でしかないから」
「先生も、そういう選択をしたことがあるんですか?」
「そうだね」
答えながら、左足を擦るのを、ロニは視界の端に捉えていた。膝の辺りをゆっくり一往復して、その後は何事も無かったように止まったから、痛んだわけではなさそうだった。癖のようなものだろうか、とロニはあまり気にかけず話に意識を戻す。
「それは、先生にとって正しい選択だったの?」
「言ったろう。人生は、正しさという尺度でははかりにくいものなんだ」
「そうでした」
ロニは自身の物分りの悪さを恥じていたが、クルトには責める様子もなく、風にカタカタと音を鳴らす窓枠の辺りを見ていた。
夜の帳を下ろした窓の外では、心許無い星明りがちらちらと主張している。
「ただ、自分の役割があるというのは、恵まれたことだと思っている」
カーテンを引いて窓を隠してしまいながら呟いた。それは、ロニに向けてというより、独り言のような、中空に向けて放たれたようだった。
「今日はここまでにしよう。あまり考え事はせず、ゆっくり休む方がいい」
机の上に広げられた本や紙を片付け、クルトは杖に手を伸ばす。
「ロニ?」
呼び掛けるが、椅子に座ったまま、動く気配が無い。
「夜更かしで目が冴えたのか? ベッドで横になっていれば、いずれ眠くなってくる」
星見をしていたと知っていても、だらしなく朝食の時間に遅れる息子を夫妻は許さないだろう。
長話が過ぎたのだと、クルトは杖を持ち、立ち上がった。
それでも、ロニは座ったまま、どこかぼうっとしている。
「夢を見るんです」
そして、その空ろな視線を投げやったまま、ぽつりと呟いた。
「いえ、夢は、子供の頃からよく見ているけど、最近は、これまでと少し違う夢で」
クルトは諦めてその話に付き合うことにした。元はと言えば、彼が始めた雑談でロニの興味を引いてしまったのだろう。
「お父さんと先生の行き先がヤレンナミケンと聞いた後から、突然見るようになりました」
「嫌な夢?」
小さく唸って少し考えてから、ロニは頭を振った。
「胸が温かくなる感じ。その後、少し寂しくて、だんだん体が冷えていくような感じの夢です。嬉しい気持ちと、そわそわするような気持ち。きっと昔のことです。僕の夢は、いつもそうだから」
クルトは何も言わない。その沈黙の意味を考える余裕もなく、ロニは思い付いたままの言葉を連ねた。
「僕、きっとヤレンナミケンに行ったことがあるんだ。小さい頃、物見遊山で連れて行ってもらった場所が、そうなんだと思う。夢を見るまでずっと忘れていたけど、あの時、何かとても大切なことがあったような……」
ヤレンナミケンへの物見遊山というのは、クルトにとっては比較的鮮明な記憶として残っている。同行こそしていないが、あれは六年前、ロニが九つの時のことだ。ブランデルは以前からヤレンナミケンに強い関心を寄せ、いずれはこの地で交易をと野心を抱いていた。噂に聞くだけでは堪らず、一度は我が目で見たいと熱望していたのだ。
そしてもう一つ、当時のロニは、一日の内に度々、魂が抜け落ちたように呆けていることがあった。
その原因に思い当たる節のあったブランデルが、気分転換にと連れ出した。それらがあの物見遊山の目的だった。
ブランデルの思惑について知らなかったのは無理もないことだが、その短い旅についてすら、ロニの記憶からは抜け落ちているようだ。
六年前、九つの子供。別段記憶力に難があるわけでもない少年から、およそ日常的ではない、別の町へ出掛けるという出来事が曖昧に霞んでいる。
(過去の出来事が夢として現れる、というのは確か――)
人の記憶について考察した学者の著書に記されていたのを思い出す。
その本では、生まれてから現在に至るまで、人が積み重ねてきた一連の経験は、全て頭の中に収められているのだという理論を唱えていた。その時々によって必要なものを思い出し、不要なものは『忘れて』しまう。
そして時折、忘れるべきではなかった必要な経験が、眠っている間、夢という形で現れるのだと。
クルトはその手の分野についてはさほど興味は無く、殆ど息抜きのようなものとして目を通しただけであったが、成る程、必要があれば確かに思い出せる。
ならば、ロニが見たという夢の意味は――。
(必要なことだと言うのか、あれが)
「先生」
深く思い詰めた声がクルトに呼び掛ける。
「今の僕は、過去に囚われていると思いますか?」
何のことか、すぐに思い当たった。
(あの時のことか)
自分の言葉が思いがけずロニを縛り付けていることに気付かされる。
歴史の中の人物に深く感情移入しているような言動について苦言を呈したことはあるが、ほんの小言程度のつもりだった。
「あの時僕が言ったのは、歴史に傾倒し過ぎる姿勢についてだ。今の君が言う過去は、紛れもなく君自身のものだろう?」
ロニは意外そうに目を丸くした。
「君の記憶をどう扱うかは、君の自由だ」
「どう、扱うか……」
「忘れたままでいても、思い出しても、それは君の決断だ。僕はその選択を無粋に評価するつもりはないよ」
椅子に座ったまま、何も言えないでいるロニをそのままにして、クルトは燭台を一つ持ち、歩き出した。
「僕はもう戻るから、君も早く支度を済ませてベッドへ」
返事を待たず、杖を持つ腕を押し付けるようにして扉を閉める。
廊下を暫く歩いて、ふと一つの窓の前で立ち止まった。
(彼の選択を評価する気は元よりない。だが、)
燭台を掲げ、庭を見下ろす。
(どちらを選択するかは分かっていると思うのは、自惚れが過ぎるかな)
手入れの行き届いた庭を少しの間眺めていたが、やがて自嘲気味な笑みを零し、再び歩き出した。
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