第10話 偽りの弟子
一行は夜明けと共に宿を出た。
町は静まり返っている。耳を澄ませば寝息の一つも聞こえてきそうなほどだ。
町の出口には、既に旅装を整えたロッタの姿があった。
「おはよう。よく眠れた?」
シルシィが問い掛けると、ロッタは小さく頷いて応えた。
「出発するか。ここからは山を下るだけとはいえ大きな町まで距離がある。急ごう」
地図を持つキリルが先導し、長い坂道を下り始める。
一行は黙々と歩いた。文字通り一言も発することなく、ただ足だけを動かす。
途中日が高くなった頃に一度腰を下ろして軽い食事を摂ったが、その間も話す者はいなかった。
食事を終え、再び歩き出してから暫く経って、シルシィが口を開く。
「順調に進んでいるようだけど、目的地はまだ聞いていなかったわね」
「セラウンタまで行こう。ここらで一番大きな街だし、出版協会もある。先生が先頃書き上げた作品を売り込んでみよう」
「そうね。あの瀑布の描写は見事だったもの。きっと気に入られるわ」
「これまでの作品の中でも、先生の旅物語は特に評判がいいからな。まるで絵画のようだとあちこちで絶賛されている」
作品の話になり、ロッタがファルチを睥睨した。背の低いロッタはファルチを見上げる位置にいるが、目元まで隠れそうなフードが影を落として顔は分からない。その上口元にも覆うように布が被さっているようだ。キリルやシルシィが話していても、そちらを気にかける様子すら無く、淡々と歩を進めている。
分厚いローブに覆われ言葉無く歩き続ける姿は、天に昇り損ねた亡霊のように見えた。
「前を向いて歩け。転んで怪我をされたら困る。薬は高いんだぞ」
「分かってるわ」
キリルに咎められ、歩調を速めて前へ出る。キリルの横に付き、今度は彼を見上げて問い掛けた。
「セラウンタへ行くの?」
「ああ。この辺りは夜になると冷え込む。野宿はできるだけ避けたいから、多少時間は掛かっても宿を取る方がいい。まだ歩けるな?」
「ええ、大丈夫。だけど、あそこにはコティティエ教の分教会があるわ」
「確かに俺達旅人作家はコティティエ教に嫌われているが、何も問答無用で追い出されるわけじゃない。以前にも原稿を売ったことがある街だから問題は無いよ」
「そう……、それなら、いいのだけど」
言葉とは裏腹に得心がいかない風なロッタにシルシィが後ろから声を掛けた。
「セラウンタに行ったことは?」
「無いわ。教会の無い近くの町はあそこへ礼拝へ行くけど、私は正式にあの町の人間として迎えられたわけではないから。流れ者が着いて行っても誰も喜ばないもの」
「じゃあ、礼拝の日は町に一人なの?」
「出向く場合は二月に一度でいいの。町の半分ずつに分かれて……。無人になる日を狙う盗賊もいたから、辺境の町では教会が正式に許可しているのよ。その代わり、定期的に遣使が来るけれど」
淀みない説明にキリルが顎をしゃくった。
「随分詳しいんだな」
「生まれてすぐ独りになったわけじゃないわ。親がコティティエ教のことを自分の子に伝えるのは重要な勤めの一つ。貴方達だってそうでしょう?」
「そうかもな」
下から睨み付けてくるロッタをあしらって、キリルは地図を広げた。
「この調子なら日暮れには着くな。出版協会はもう閉まっているだろうから、すぐに宿を探そう」
ロッタはまだ何事か言いたげにしていたが、キリルにまるで取り合う気が無いと見るや諦めて俯いた。
見上げる度、太陽はじわりじわりと傾いていく。夜の山に取り残されることがどれ程危険か、ロッタも承知していた。
口を噤んで歩き続けていると、街が近いことが分かった。ごろごろと足元を邪魔していた大きな石が無い。道の合流地点では馬車の轍が見えた。それも安っぽい農耕用のそれではない。きちんと揃って地面に沈む車輪の跡だ。上流階級が移動に使っているのだろうとロッタは目を眇めた。
なだらかな道を更に進むと前方にそれは見えた。
「相変わらず、静かなところだ」
キリルが呟く。
平原に唐突な程高い木々が列を成している。まるで城壁のように囲まれたそこが目的地のセラウンタだ。人の目を忍ぶようなその街は、大きな分教会が建つだけあって、旅人の来訪を特に好まない。
「ねぇ、本当に大丈夫なの? 礼拝日でもないのに、教会から音が聞こえる。何か特別なことをしているんじゃあ……」
近付くにつれ、木々の合間から楽器の音が聞こえてくる。弦楽器が奏でる、物悲しくてどこか威圧的な音色は特徴的なものだ。
一行は木々に溶け込むように造られた街の門へと辿り着いた。夕暮れ前に到着したお陰で門は大きく開かれている。注目を受けないよう立ち止まることなく門を通過し、すぐに宿を探した。
「宿を頼む。二部屋用意してくれ」
「あんた達、旅芸人か何かかい?」
宿の主人は皺だらけの顔を更に顰めて一行を見た。キリルは真正面から見返すが、シルシィは無関心そうに視線を逸らして壁に飾られた絵の方を向いていた。
「いや、違う。旅人作家だ。作品を売りに来たが、この時間じゃあ出版協会は終わっているだろう? 明日仕事をするつもりだから、今夜は宿を頼みたい」
「まぁいいが……、宿からは出ないことだ。今夜は重要な日なんでな」
「重要な日?」
宿代を差し出しながらキリルが訊ねる。主人は受け取った硬貨を握った手の指を一本だけ立てて顎をしゃくった。その動きに促されてキリルとロッタが戸口を振り返る。
「白い装束の信徒か……」
「なるほど。私達は場違いというわけね」
ロッタの皮肉めいた独り言を主人は聞き逃さなかった。
「そうだお嬢ちゃん。分かったなら、さっさと部屋で寝ちまってくれ。あんた達の部屋は二階だよ」
不機嫌な主人に追い遣られて階段を上る。
「食事は簡単なもので済まそう。部屋に用意しておくから、荷物を置いたら来てくれ」
宿の主人は警戒心たっぷりだった。二階の一番奥まった二部屋を用意されたのも、偶然ではないだろう。階段を降りるだけでも文句が飛んできそうだ。その理由に思い当たる一行は宿が取れただけでも奇跡だと、大人しく主人の言に従うことにした。
キリルは荷物を下ろして中から食料を取り出す。パンと干し肉を人数分。あとは水だ。野菜や果物は街や村の大衆食堂に寄った時にしかありつけない。旅人を快適にさせる携行品を作ることに興味を持つ者などいないのだ。
テーブルの上が整ったところでシルシィがロッタを連れて現れた。ロッタはシルシィの斜め後ろをのろのろと着いて来る。ファルチとキリルはベッドの上に座り、椅子はシルシィ達に譲った。食事の為の祈りなんてものも当然無く、誰からともなく食事に手を伸ばせばそれが始まりの合図だった。
窓の外から隙間風と共にあの音楽が流れ込んでくる。かすかに聞こえるそれが気になるのか、ロッタはちらちらと視線を泳がせた。
「それにしても、こんなに大きな分教会がある街で白装束だなんて、街の人が殺気立つのも無理はないわね」
ロッタの挙動には気付かない振りをしながらシルシィが話題を持ちかけた。
キリルが低く唸る。
「白の装束が用意されるくらいなら、余程の階級だろうからな。貴族の子供あたりじゃないか」
「そうね。良くて家出人、酷ければ人死にがあったかもしれないわ」
「家出人なら最悪だな。状況によっては、出版協会も機能していないかもしれない」
二人の会話は淡々と続いた。物騒な言葉にまるで似つかわしくない冷静な口調だ。
ロッタはパンを齧りながら、上目遣いで二人の様子を窺った。
そして、未だフードすら下ろさないファルチを見る。野生動物が注意深く外を様子見るようにじっと目を凝らすが、相変わらずその中にあるはずの顔は影に包まれている。
「それはお前の癖か、ロッタ?」
ロッタの細い肩がびくりと跳ねた。自分には全くの無関心で話をしていたキリルが唐突に声を掛けたことに驚いて、危うくパンを喉に詰まらせそうになる。
「癖って、何の話?」
水を飲み干して大きく息を吐き出し、キリルの仏頂面を睨みつけるが、ふんと鼻を鳴らして一蹴されてしまった。
「じろじろと先生を見ているからだ。道すがらにも何度かそういう風にしていたな。そんな失礼な弟子があるか」
「だって、先生は一言も話さないし、ずっとこのローブを着てる。様子を見る人が必要だわ」
「そんなことは新入りのお前が気にしなくていい。先生のことはシルシィが全て把握している。道中無駄口を叩かないのは、先生の創作のお邪魔をしないようにだ」
「でも私は弟子になれたのでしょう? ただ黙って先生と歩くだけでは、何も学べないじゃない」
「確かに弟子として同行は許された。ただし、まだ様子見といったところだ。調子に乗って先刻みたいにうっかり口を滑らすなよ」
「先刻?」
「宿の主人に対して言ったことだ。あまり訳知り顔をするんじゃない。交渉や商談は俺がする」
「場違いなのは事実じゃない。あの人が不機嫌だったのは私のせいじゃないわ。あなたが不機嫌なのは、確かに私のせいでしょうけど!」
語気を強めて言い合う二人を前にしても、ファルチは衣擦れの音一つ鳴らさない。
「二人とも、先生はお疲れなのよ。それに、こんなところを誰かに見聞きされたら、益々この街に居辛くなるわ。これくらいにしましょう」
シルシィの仲裁を受けて、二人は睨み合ったまま口を閉じた。
ぐっと堪えるように押し黙るロッタの肩に触れ、シルシィはすうっと目を細め、表情を険しくした。
「ロッタ、私達の旅にはいくつか決まりのようなものがあるの。でも、今のあなたにはまだ教えることはできない」
シルシィの声は小川のせせらぎのように静々としていて、その語り口は絹の手触りを思わせる流麗さを含んでいるが、諌め、諭す時には、喉元に針を突きつけられた気分にさせる。
その凄みに、ロッタは蛇に睨まれた蛙の如く萎縮して下唇を噛む。唇は荒れていて、じわりと血が滲んでいる。強く噛み締めていたせいではなさそうだ。
シルシィは溜め息を漏らした。
「慣れない旅歩きに疲れているのはあなたも同じことよね。ロッタ、部屋に戻って体を休めた方がいいわ。私もすぐに行くから」
その声からは冷たく刺々しいものが抜け落ちていた。
「……分かったわ」
ロッタは素直に従い、すっかり消沈した様子でのろのろと部屋へ戻って行く。
首を振り返らせてそれを見送り、隣室の扉が閉まる音を確認してから、シルシィはもう一度、今度は大きく溜め息をついた。
「キリル、今のは少し性急に思うわ」
用心深く声を潜めているが、非難の響きはしっかりとキリルに伝わっていた。ばつが悪そうに頭を掻きながら、口をもごもごとさせている。
「例のことを確かめるには、この街の状況が好機だと思ったのは私も同じ。だからと言って、あんな風に追い詰めるのが得策と言えるかしら?」
「俺も途中から頭に血が上っていたのは認める。だがなシルシィ、道中の様子も考慮してみろ。俺は背中に目なんてついちゃいないが、気配でもはっきりと分かったぞ、彼女は『先生』を異常に気にしている。憧れの名士に出会って胸躍らせる弟子の姿とは到底思えない」
「勿論分かっているわ。だからこそ、警戒心を剥き出しにしてはいけないと思うの。あなたの態度に触発されて、どんどん頑なで懐疑的になっていくだけよ」
「そうは言っても、不審な点が既に山積みだ。作品や弟子としての役目よりも、他事に気を取られているのは彼女自身だぞ?」
一向に退く気配の無いキリルに、シルシィはじっと視線を向けた。眉間に皺が寄り、その双眸には、懇願じみた感情が垣間見える。
「だからこそ慎重に見極めようとしているんでしょう? キリル、これはまだ『弟子』選びの範疇よ。独断で逸らないで」
反論はぴたりと止まった。
「そうだよな」
両手で顔を覆ってゆっくりと息を吐き出す。
「悪い……、俺は、ただお前達を……」
「いいのよ」
それ以上言葉を継げなくなってしまった。水を打ったような静寂が下りる。
長い沈黙のベールをそっと割り開く衣擦れの音で二人が顔を持ち上げると、フードを脱ぎ落としたエイニミが顎に手をやって思案顔をしていた。
「シルシィ、頼まれてくれないか」
「彼女のこと?」
「ああ、こうなればいっそ、早い内にはっきりとさせておこう。今更二人を和解させても不自然だし、しこりも残る」
エイニミに迷いは無かった。その理由は、彼自身が語った通りだ。
綻ぶ糸は、いっそ一度全て解いてしまえばいい。必要ならば、紡ぎ直せばいいのだから。
シルシィは深く頷き、部屋を出た。
「済まない。俺は方法を間違えた」
「シルシィとキリルは請け負う役目が違う。今回のことは、その丁度間を漂う問題だっただけだ。キリルが悪かったわけじゃない」
エイニミが穏やかに微笑んでみせる。
「それに、多少筋書きが違ったくらいでうろたえるようでは、『ヴァルデマル・ファルチ』らしくないだろう?」
――ファルチは物語を紡ぐ為に存在しているのだから。
そう言って、エイニミは悪戯っぽく口角を持ち上げた。
シルシィが部屋に戻った時、ロッタはベッドの上でうつ伏せになっていた。
「起きてる?」
枕に顔を埋めているが、声に応えて頭が動いた。
ベッドの横に椅子を置き、静かに腰掛ける。
「ねぇ、ロッタ。幾つか、あなたに関することを教えて欲しいのだけど、質問をしてもいいかしら?」
一呼吸の後、ロッタがのそりと上体を起こしてベッドの上に座り込んだ。
「いいわ」
「あなたは、セラウンタに来たくなかったのかしら?」
「ええ、そうよ」
躊躇無く即答する。
「ここの遣使の殆どは、私の居たあの町の住人の顔を覚えているの。迷惑をかけたくなかったから、目に留まるような危険は冒したくなかった」
「なるほど。あなたはまだ若いのに、文字の読み書きができて、思考力もある。それに、コティティエ教についても、一定以上の教育を受けているわね」
「何が言いたいの?」
「あなたの作品が、もし本当にあなた自身の書いたものだとするなら、とても素晴らしい素地があると思う。整った文字、正しく連ねた文法に、破綻することなく纏め上げられた文章。内容はともかく、誰もが書けるものでないことは確かだわ」
シルシィは途切れることなく言葉を紡ぐ。
「ただ、才能というには少し違うわね。教育された知識に則って堅実に組み上げられているだけ。技量、と表現する方が近いかも」
用意された台詞を読み上げる役者のような独壇場に、ロッタは口を挟む隙も無い。
「あなたを見てこんな風に思ったの。中流階級以上の豊かな一族の生まれで、充分な教育も受けた。勿論、そういった家柄の例外に漏れず、コティティエ教についても詳しく相伝されている。成人までに教えを受け継がせるのがコティティエ教の慣わしだから、あなたの知識水準と現在の年齢からすると、数年前まではそうした生活の中にいたんじゃないか、ってね……」
そこで一度シルシィの話は途切れ、ロッタはその隙を逃すまいと身を乗り出した。
「階級の高い家に生まれた娘が孤独に暮らしているとして、前例が全く無いわけじゃない。現に今日だって、この街では白い装束の貴族が――!」
「ああ、やっぱり知っていたのね。コティティエ教で、白い装束が何を意味するのか」
だが、全て言い終える前に、再びシルシィが主導権を奪い去る。
ロッタの顔が青ざめていく。
彼女は、シルシィの、尋問とも言える質問が意味するところを理解し始めているようだった。
「お互いに嘘は好ましくない状況よ。荒事は避けたいけれど、あなたの出方によっては、こちらも保身を優先しなくてはいけないから、よく考えて」
ロッタは咄嗟に戸口を見た。薄く開かれたままの扉付近に、人影のようなものは見当たらない。
シルシィに視線を戻す。室内用の軽装に身を包んだ彼女は、ただ膝の上で手を重ねて上品に座っている。言葉で脅していても、身の危険は感じない。
だが、逃げられるとも思えなかった。
ロッタは観念したように項垂れた。
「あなたはファルチ先生の作品を幾つ知っているかしら? 弟子入りを志願したのは彼の才能への憧憬が確かにある?」
シルシィの質問は止まらない。だが、その声音は先ほどよりも柔らかく、子供に話し掛ける時に似ていた。
「もっと簡潔に訊きましょうか。ロッタ、あなたが私達に近付いた目的は何?」
「私は……」
両手が拳を作る。震える手の上に、ぽたりと雫が落ちた。
ぽたり、ぽたりと続けて落ち、小さな手の甲が濡れていく。
「あなたも疲れているんだったわね。今夜はもう眠った方がいいわ」
そう言い残して立ち上がり、シルシィは部屋を出た。
「大丈夫か」
廊下にはキリルが待っていた。
「ええ、平気。でも、上手くいったかは分からない」
「あとは彼女次第だ。先生が呼んでる、こっちの部屋に来てくれ」
キリルの後に着く。隣り合う部屋を往復しただけだが、体がぐったりと疲れていた。
ローブを脱ぎ、すっかりただの青年になったエイニミが微苦笑で迎える。
「シルシィ、ありがとう。嫌な思いをさせてしまったな」
「いいのよ。それが私の役目だもの」
人を追い詰めるというのは当然気分のいいものではない。必要にかられたとはいえ、自分よりも歳若い少女を涙するまで責め立てた罪悪感はどうしても拭い去れず、内側から疲弊させる。
儚げに微笑むシルシィに、エイニミは感謝こそすれ、謝りはしない。
彼女が言う通り、それが彼女の役目だからだ。強いられたわけではない、望んで負う責務なのだから、謝ってやればかえって彼女を惨めたらしくするのだとエイニミは知っていた。
そしてエイニミは、彼女が己の仕事を全うせんとしている間、一つの決意をしていた。
「神経が昂ぶっているのか、眠れそうに無いんだ」
二人を近くに呼び寄せて、それぞれの顔を交互に見る。
「俺の思い出話を聞いてくれないか」
思いがけない頼み事に二人は怪訝そうな顔をしたが、物憂げでいて、意志の宿った灰色の瞳に、自然と頷いていた。
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