第9話 新たな弟子

 夕暮れが近付き、一行は宿場町を目指した。老夫婦が営む宿屋は小さなものだったが、用意された部屋は清潔で充分な広さだった。

「今日は天気が良かったから、暑かったな。さっさと脱ぐといい」

「ああ、そうしよう」

 足元まで覆うローブを脱ぎ落とし、ベッドに倒れ込む。顔をすっぽりと隠すことのできるフードの付いたローブは、重いし、暑い。

「何か食べる?」

 シルシィが布袋を覗き込んで尋ねるが、ファルチは起き上がる様子も無い。

「いや、いい。今日はよく歩いたし、あまり創作意欲も湧かなかった。こういう日は眠りたい」

「随分疲れているじゃないか」

 荷解きをして必要な物を確認しながら様子を窺うキリルにも反応を示さなかった。

「キリル、私達は下へ」

「分かった」

 シルシィに促され、荷物の始末もそこそこに部屋を出て行く。

 連れ立って宿の外へ出ると、辺りは最後の抵抗とばかりに放たれた夕陽で小金色に染まっていた。

「少し飲むか、シルシィ」

「そうね。少しだけ」

 多くが店仕舞いを始めている中で灯りを点けた一件を見てキリルが誘うと、シルシィも笑顔で応えた。

「先生には何か食べるものを。目が覚めた頃にはきっと空腹でしょうから」

「そうだな。珍しい菓子でもあればいいが」

「菓子だなんて、先生は子供じゃないのよ?」

「酒が飲めない者は菓子好きと決まっているだろう」

 古くからの友人同士のように言葉を交わしながら小さく微笑み合う。小屋での一件以来久し振りに宿が取れた。何よりコティティエ教の影が無い。道中常に気を張っていたが、少なくとも今夜はもう心配事がないのだから、自然と表情も緩む。

 町の飲み屋は地元の者や旅人で盛況な賑わいを見せていた。暮れ行く外の景色とは対照的に、真昼間のような活気だ。

 二人はカウンターの隅に並んで座り、名物だという酒を一杯ずつ頼んだ。少し癖はあるが悪くない味に旅の疲れを溶かしつつ、自然と会話も増える。

「明日は少し出発を遅らせるか。ここから近くにもう一つ宿場町がある。そこから先は山越えになるから、一度ゆっくり休ませた方がいいだろう」

「ええ、そうね。道中で何か先生を刺激できるような景色でもあればいいのだけど」

「先生は目がいい。俺達が心を砕かなくても、そこばかりは一人でやってのけるさ」

 顔を曇らせるシルシィの細い肩を軽く叩いて苦笑する。

「俺には文才というものが無いから、その点では先生の助けにはなれないが、勘定方としてなら役立てる。旅の仲間とはそういうものじゃないか」

「あなたはいつも前向きなのね。確かに、私や先生には無いものだわ」

 シルシィの顔に穏やかな微笑が戻った。

 しかし、その和やかな雰囲気は長くは続かなかった。

「失礼、旅のお方」

 二人の間から、年若い少女の声が割り込んだ。

 先に振り返ったのはキリルだった。一泊遅れてシルシィも少女を見る。

 質素な衣服に身を包み、胸に大きな布袋をしっかりと抱きかかえていた。

「何か? 店の人ではないようだけど?」

 キリルは酒を煽りながら、素っ気無く答えた。

 少女は不機嫌そうに吊り上げた目で二人のことをじろりと見て、

「あなた方、ファルチ先生の御付の方でしょう?」

 と小声で問い掛ける。

 シルシィの眉がぴくりと動いた。

「お願いがあるの。私、先生の弟子になりたいのよ」

 宝石玉のように大きく透き通った青い目が二人を交互に見遣る。

「あなた方が町に入った時に見掛けたの。あのマント姿、噂される通りのファルチ先生だったわ」

 キリルは感情を殺した目で少女を見下ろしている。

 反応を示さない二人に臆したのか、布袋を握る細い手に力が篭った。

「突然の非礼は承知です。でも、私はどうしても弟子になりたい。作品もここにあるわ」

 シルシィと目配せをして、漸くキリルがグラスを置き、少女と正面から向き合う。

「悪いが、先生は長旅で酷くお疲れだ。今も宿で休んでおられる」

 キリルの言葉に嘘は無い。ファルチは気温と長旅ですっかり疲れ、宿で眠っている。

 だが、少女は納得のいかない顔でキリルをきっと睨み付けた。

「それは、先生がご高齢だから?」

 それにはシルシィが答えた。

「随分と不躾ね。どこかで聞いたような醜聞で探ろうだなんて……、あなた、弟子になりたいのじゃなかったかしら?」

 少女の目付きも二人を射抜くような迫力であったが、シルシィの冬の川底のようなそれとはまるで熱量が違っている。少女は早々に適わないと見るや、抱き込んでいた布袋をおずおずと差し出した。

「無礼は詫びるわ。でもお願い、せめてファルチ先生に、この作品だけでも読んで欲しいの。私の全てを詰め込んだ、この作品を。ファルチ先生と同じ町にいるだなんて、こんな僥倖はこの先生きていても、きっと無いでしょうから」

 シルシィとキリルは再び目配せをした。一拍の後、キリルが緩慢な仕草で手を伸ばす。

「君は、この町に住んでいるのか?」

「今は、そうよ。町の中で手伝いをして生活をしているわ」

「名前は?」

「ロッタよ。この町にその名前は私一人だけだから、すぐに分かる筈」

 ロッタと名乗った少女は、キリルの手が布袋を掴んだのを確認して、そろりと指を離した。

「確かに預かった。ただしすまないが、先生がご覧になるかは保証できない」

 布袋はずしりと重く、キリルはもう片方の手もそれに添えた。

 ロッタは軽く目を伏せ、しおらしく頷いてみせる。

「分かったわ。もし悪い返事なら、私には伝えなくて結構よ。この町を出る時に、私に声が掛からないのであれば、観念して貴方達を見送ることにする」

「本当にそれでいいの? 少なくとも、これを、返す必要はあると思ったけれど」

 キリルの持つ布袋の上を、シルシィの手がするりと撫でる。

 ロッタは再び頷いた。

 突然人が変わったように気勢を弱めた少女に、シルシィはすっかり調子を崩されてしまった。

「旅人作家になりたいのでしょう? 決して多くはないけれど、先生の他にも著名な旅人作家はいるわ。この町も、山越えに必要な中継地なのだから、辛抱強く待っていれば、いずれ会えるかもしれない。その時に見せる作品は必要でしょうに」

 旅人作家への憧れを抱く若者はどの町にも一人はいる。その中でもとりわけ高名なファルチ一行と知るや弟子入りを志願する者も少ないながらに存在した。だが大抵はこうしてキリルにあしらわれ、あるいはシルシィに諭されてその道を諦める。

 稀に見る真摯に志願した者でも、『ヴァルデマル・ファルチ』でなければならない、という明確な理由を持つ者はおらず、他の旅人作家の元で学んで作品を発表した者もいる。

「私は他の誰でもなく、ファルチ先生に弟子入りがしたいの。別の旅人作家では意味がないのよ」

 つまり、このロッタという少女は、二人がこれまで出会った志願者達とは一線を画していたのだ。

「ファルチ先生に認めてもらえないのなら、それはもう必要無いもの」

 自身の全てを詰め込んだ、とまで言い切った作品を、そうして切り捨ててしまえる程には、『ファルチ』に拘っているようだった。



 その後、少女は改めて無礼を詫びて飲み屋を出た。すっかり酒の醒めた二人は、ファルチのことも心配になり、早々に切り上げて宿に戻ることにした。

 部屋に戻ってすぐ、布袋の中から分厚い紙束を取り出した。

 燭台を引き寄せ、揺らめく炎で照らす。

「整った字ね。幼い頃から書き慣れているようだわ」

「文字だけじゃなく文法も正しいな。身寄りの無い娘が一人きりで学んだとは考えにくい」

 紙面を覗き込み、書かれた文字をなぞる様に読み進めていく。書き連ねられた物語は、悲恋を描いたものだった。

 身分違いの恋に苦しむ男女。上流階級の女は密かに逢瀬を重ねていた男との関係を父に見咎められる。父は激しく叱責し、娘を責め立て、二度と男と逢わぬよう厳しく言い含めた。

 女はその言いつけに準じ、燃える恋心に蓋をして、屋敷の中で常闇のような毎日を暮らす。

 そしてついに耐え切れず、愛しい男を求めて屋敷の外へ出た時、既に父によって男が殺されていたことを知る。

 物語はそこで寸断されたように終わっている。

「なんだかこれは……あまりにも感情的ね」

 全て読み終えて、シルシィはそう呟いた。

「ああ、俺でも分かるぞ。文字も文法も合っているが、私的なものが溢れ出ている。これじゃあこちらの感情を入れる余地が無い。壮大な愚痴を聞かされているようだ」

 額を押さえて深い溜め息をつく。

「才能が無いわけじゃないのでしょうけど……。どんなものであれ、破綻せずに一つの物語を書き上げることは簡単ではないから」

 頭を悩ませていたのは二人だけではなかった。

 ベッドに腰掛け、険しい表情で思案する青年に、キリルは視線を向けた。

「お前はどう思う、エイニミ?」

 エイニミ、と呼ばれ、顔を上げる。その目からは一時的に疲労の色が消えていた。

「目的は感じる。彼女は、旅人作家になるという目的ではなく、何か別の強い意思で動いているんだろうな」

「彼女は、ヴァルデマル・ファルチでなければ意味は無いと言っていたわ。そして、この私小説のような物語。エイニミ、これは正しい形ではないけど、彼女も辿り着いた者の一人かも……」

「そうだな。俺もそう思う」

 蝋燭の光に照らされて陰影を濃くした二人の顔を交互に見て、キリルはごくりと唾液を飲み下した。

 キリルは最も新しい『弟子』だ。

 加えて、キリルは普通の弟子とは異なる立場にある。

 弟子を迎えるということが、本来どれほど深い意味を持つのか思い知らされるようだった。


 二人はただ作品の出来を評価するだけではない。作品を通して、その裏にあるものを見定めようとしている。

(俺には分からないことだ。『正しい形』を知る者ではないから)

 口を挟むことは憚られたし、実際に拒絶するような空気を感じはしたが、キリルは軽く頭を振ってその気弱な考えを打ち消し、口を開いた。

「意見するつもりは無いんだが、」

 二人が同時に視線を向ける。キリルは少し緊張気味に声を絞り出す。

「彼女が『旅立ちの朝』を知る者ではなくて、別の目的で俺達を探していたならどうする? その時は厄介なことになると思うが」

 このことは、どうしても確認しておきたかった。

 『弟子』について、口出しをする気は無い。だが、それに付随する心配事については言及せざるを得ない。それが彼の役割の一つでもある。

「尤もだ」

「ええ、尤もだわ」

 二人は存外容易に首肯してみせた。その途端、張り詰めた糸のようだった空気がほんの微かに和らぐ。

「二人共、悪いが暫く俺のことは『先生』と。様子を探ることにしよう」

「ええ、分かったわ」

 二人の放つ神妙な空気に気圧されそうになりながらも、キリルは自身の役目を確認するように再度声を発した。

「俺は明日、彼女を訪ねてみる」

「ああ、頼む」

 短く答えたかと思うと、エイニミは抗えなかったように体を横たえ、瞳を閉じた。間を置かず規則正しく静かな寝息が聞こえ出す。

「気の休まる暇がないわね」

 布袋に紙束を片付けながらシルシィが呟く。不思議とあの少女を責めるような感はなかったが、彼女もまた、疲労の色を隠せないでいた。

 無理もないことだった。

 二人はこの短い間、たった一作を読んだだけで、重要な決断を下すことになったのだから。

 それを肌で感じたキリルは、エイニミの体に掛け布をそっと掛けてやり、シルシィから布袋を預かった。

「後のことは俺に任せて、君も明日はよく休むといい」

「ありがとう、キリル。でも、あなたも無理は禁物よ。今の私達は、みんな疲れている。助け合わないと」

「分かってるよ」

 ヤレンナミケンでコティティエ教の幹部と鉢合わせかけたかと思えば、山小屋では奇妙な男に助けられ、やっと一息というところで、今度は『弟子』の志願者だ。

(次々と堪ったものじゃないが、何かが動き出そうとしているのかもしれない)

 現に今も、これまで繰り返し利用してきた道筋とは異なる町にいる。

 ほんの僅かでも、何かがずれることで大きな変化に繋がることもある。

 なかなか首尾よく成果に繋がらないとぼやいていたこの旅も、目的に向けて前進できるかもしれない。

 ――いや、そう思うしかないじゃないか。

 持ち前の前向きさで、キリルは不安を打ち消した。

 先行きはまるで見えないが、旅とはそうしたものだ。臆すくらいなら、誰も望んで家を出ない。

 家を出ると決めた時、覚悟は決めた。

(戻りたくても、守りたくても、俺にはもう手が届かない)

 だから、せめて手の届く位置にいるこの二人だけでも。

 灯りを消す前、周囲の様子を注意深く窺ってから、漸くキリルも眠ることにした。



 翌朝、キリルは一人宿を出て慌しい町を歩いていた。市場の準備に忙しくしている女主人に尋ねると、偶然にもロッタはこの女主人の元で下働きのようなことをしていることが分かった。他にも細々した手伝いをしながら、町の外れの空き家で一人寝起きしているらしい。

「あの子はふらっとこの町に現れたのさ。小奇麗な格好はしてたけど、あれは旅慣れなんてしてなかったね」

 木箱を並べて台を作る女主人を手伝いながらキリルはロッタの話を聞き出していた。というよりは、話し好きなこの女主人が独りでに語り出したので聞くことにした、というのが正しい。

「どこから来たのかはついぞ言わなかったよ。ただ路銀が尽きそうだから何か仕事をさせてくれって頭を下げて回ってた。このちんけな町じゃあそんな余裕のある家はないからね、断られてるのを見る内に哀れに思っちまったのさ」

「彼女はまだ若いようだけど、たった一人で?」

「さあね。もしかしたら連れがいたのかもしれないが、あの子は話したがらない。ただ、ここに来て何年かはそりゃあ陰気で参ったもんさ」

 今では多少快活さを取り戻したという当人は今、女主人の言い付けで使いに出ているという。キリルは店の手伝いをしながら待つことにした。

「なかなか手際がいいね。助かるよ」

 野菜や干した果物を並べるキリルの手付きを見て女主人は破顔一笑する。

「ああ……、故郷では父を手伝ってよく力仕事をしていたから」

「そうかい」

 女主人の表情は笑みのまま変わらない。

「あなたは旅人にも柔らかい目をするんですね」

 日に焼けた手がぴたりと止まった。

「滅多なことはお言いでないよ。セウランタ分教会の遣使だって巡回してるんだから」

 女主人の目が鋭く周囲を見回した。誰もが仕事の準備に忙しく、聞き耳を立てている様子は無い。

「旅人にも色々と種類がいるだろうし、ここは随分昔から宿場町としてやってきてる。旅人がいなけりゃ稼ぎにならないのも事実だからね」

 小さな村や町であれば、大抵それぞれの家が手仕事を持ち、何かを生産している。それを人々の間で物々交換をして生活を成立させることが殆どだ。この宿場町も、決して大きな町ではない。こうして市場を開き、活気付いているのは、旅に必要な食料や日用品を買い込む旅人があってこそだ。

 女主人の言うことは至極最もで、不整合なことはないように聞こえる。

「すみません。あなたが、旅人である俺にも普通に接してくれたので、少し意外で」

 旅人は歓待を受けることは無い。特に旅人作家と知れると大人達は蔑みや奇異の目で見る。或いは子供を誑かす悪魔として忌避されることもあった。

 旅人でありながらコティティエ教を信仰することは原則できない。つまり信仰を捨てた落伍者の烙印を押されるのだ。

 稼ぎの為に薄ら笑いを浮かべる者は多いが、心を許す者はまず居ない。

 信仰を捨てた者らと親しげに話したらどうなるかなど、考えるまでも無いことだ。

 女主人の立場を考えると、軽率な一言だった。

 暫くは黙々と作業を続けた。麻袋に入った野菜が転がり落ちないよう丁寧に整えていると、ふと小声で問いかけられた。

「あんたが有名な作家先生かい」

「いや、俺は弟子の一人で、手伝いをしている」

「そうかい」

 女主人は木箱の一つを引き寄せて腰を下ろした。

「昨日の晩、あの子が酒場に行ったのは知ってる。あの子は酒なんて飲めやしないから、妙だと思ってた」

 手を伸ばして干し果物を一つ取り、キリルに差し出した。甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「頭のいい子だよ。文字も書けるし、金勘定もできる。最近はこれの作り方も教えてた。飲み込みが早くてね、この調子なら……」

 言い掛けて、ふと顔を上げた。軽い足音が近付いてくる。

「カトラおばさん、配達終わったよ」

 駆け寄ってきたのは使いに出されていたロッタだ。

「ご苦労だったね。ほら、あんたを訪ねてこの人が来てたんだよ」

「あ……」

 ロッタは一瞬表情を曇らせた。

「昨日はどうも。少し話がしたいんだ」

「行って来な。店はこの人が手伝ってくれたからもう準備はできてる」

 女主人はぶっきらぼうに言い放ち、ロッタは顔を上げないまま頷いた。

「こっちに来て」

 ロッタは踵を返して歩き始めた。キリルは黙ってその後に続く。

 町の外れまでそうして歩き、ようやくロッタが足を止めた。目の前には薪小屋程度の大きさの家がある。

「入って」

 戸を開けてまずは自分が中に入り、キリルを呼び寄せる。恐らくここが、ロッタが暮らしている家なのだろう。

「こんなところでごめんなさいね。今朝からコティティエ教の遣使が来ているみたいなの」

「なら、手短に済まそう。先生は君の作品を読まれた。明日の朝出立する予定だ」

「え……」

「弟子として認められなければ何も知らせなくていいと言ったのは君だろう? 俺はこうして会いに来た。つまり君は弟子として迎えられる。急ぎになってすまないが、支度をしてくれ」

 木の実のように丸い両目がキリルを凝視している。事態を飲み込めていないのか、喜ぶ様子は無い。昨夜の気勢が嘘のようだ。あれだけ豪語したのだから、キリルの顔を見たことで、自身の悲願が叶ったと喜びそうなものだが、そうではなかった。

「遣使がいるなら尚更、あまり長居はしたくない」

 コティティエ教と旅人作家は水と油のように相容れない。長逗留をして存在を嗅ぎ付けられるのは避けたいところだ。

「そうね。その通りだわ」

 相槌というより、自分自身へ言い聞かせているようだった。腕を組み、俯いて長く息を吐き出す。

「食料や最低限の日用品はこちらで用意する。君は自分の荷物だけ用意してくれ」

「分かったわ。明日の朝、必ず行く」

「先生にもそう伝えよう」

 踵を返し戸に向かって歩き出したキリルだが、ふと足を止めた。

「準備は、後悔が無いようにな」

 ロッタは一瞬沈黙して怪訝そうに眉根を寄せる。振り返りもしないこの男は一体何の話をしているのだろうと考えていた。

「この家を見たら分かるでしょう? 私の持ち物なんてほとんど無いの。心配には及ばないわ」

「そうか」

 キリルは再び歩き出して、今度こそ外へ出た。

 宿へ帰る途中、女主人の店の前を通った。手馴れた様子で野菜や干し果物を売りさばいている。

 一瞬、目が合ったが、キリルは小さな会釈を残して通り過ぎた。

 近付いて気軽な様子で話せば彼女の仕事の妨げになるだろう。そうでなくとも、何を話せばいいのかは分からなかった。

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