第8話 遭遇

 街道沿いの小さな町では、運良く宿を取ることができた。一晩ぐっすりと眠り、食料と水を調達して町を出る。心配していたヤースコ卿の一団もヤレンナミケンの町より先へは進むこともなく、どうやら無事やり過ごせたようだ。一行が泊まった町にも多少噂は流れてきているようだったが、農業を主に生計を立てている人々はそんな噂にかまけている暇は無いとばかりに働いている。それでも、旅装の一行に対しては、不自然な程無関心を貫いていた。

 町を出て街道を歩く。ぽつりぽつりと小さな村が見えたが、やがてそれもなくなり、道も悪くなってきた。周囲に人影は無い。林を進む三人の立てる足音がするだけだ。

「キリル、次はどこへ向かうの?」

「町へは行かずに、この先の山小屋を目指す。数日そこで過ごして、ほとぼりが冷めるのを待とう」

「そうね。慎重に越したことは無いから」

 林を抜けたところで道が分岐していた。再び街道をなぞる道と、山へ続く道。後者を選んで更に緑の深い方へと進む。キリルの言っていた小屋は難なく見付かった。先客がいる様子も無い。

「少し埃っぽいが大丈夫そうだ」

 先に中へ入り、状態を確認したキリルが扉から上半身を乗り出して二人を呼び寄せる。

 シルシィの後ろをゆっくり歩きながらファルチが小屋の中へ足を踏み入れる。それと同時に、ローブの胸元を纏める留め具に手を遣った。シルシィが小さく笑って背後からフードに手を掛ける。

「お疲れ様、もう大丈夫よ」

 気軽な口調で話し掛けながらフードを下ろしてやった。

 深緑の布地の下から飴色の髪が現れ、さらりと揺れる。次いでローブを脱ぎ落とした。

 前髪を指先で払いながら深い深呼吸をする。

「暑かった……、危うく意識が朦朧としかけたよ」

 『ファルチ』がぼやく。

「この時期には辛いわね。分かるわ」

 気遣うシルシィに笑顔を返すのは、まだどこか少年めいたあどけなさを残す青年だ。

「数日は羽を伸ばすといい。最近移動ばかりで碌に執筆の時間も無かったから、ゆっくり集中してくれ」

 ローブから解放されて体を解す彼に話し掛けるキリルもやはり、シルシィと同じく砕けた口調に変わっている。

「ああ、助かる。丁度書きたいものがあったんだ。頭の中ではおおよそ文章をまとめたからそんなに時間はとらせない」

 青年は人懐こい笑みをキリルに向けて言った。

「俺は近くの沢に行ってくる。シルシィは荷解きを頼むよ」

「分かったわ」

 三人分の水筒を持ってキリルが小屋を出る。

 青年は大きく伸びをして小屋の中を見回した。

 頃合の木箱を見付けて埃を払う。シルシィは小さく咳き込み扉を開けた。気温は高いが、小屋で寝起きするには寒いよりずっといい。

 青年は荷物の中からペンと紙を探し出して木箱の上に置いた。ずしりと重いローブを脱ぎ捨ててもその動きは緩慢で気だるそうだ。

「ヤレンナミケンで数日留まるつもりだったから、この誤算は少し堪えるわね」

「いいんだ。旅をするのが俺達の本分だから」

 うっすら汗の滲む額を手の甲で拭い、一度大きく伸びをする。暑さに体力を奪われたのか、青白い顔だ。

「あなたは強いのね」

「ファルチは掟に従順なものだ。特に、掟破りの罪がある者はより厳格に守らないと」

 なんでもないように答える青年が木箱の前に腰を下ろして道具の位置を整える後姿を見て、シルシィは嘆息を漏らす。

「厳しい人。確かに掟は私達にとって最も基本的な行動原理だけれど、あまり繰り返し言っていると、キリルがへそを曲げるわ」

「そうだな、もう止そう。少し執筆に集中するよ。頭の中から景色が消えてしまわない内に」

「ええ、頑張って」

 ペンを手に取った彼の邪魔をしないよう、シルシィは小屋の外に出た。

 木々が光を遮っているから、街道よりも多少は涼しく感じた。この時期は緑も鮮やかで眺望も良い。時折心地の良い風も吹き抜ける。

 小枝を踏み折る乾いた音が聞こえて顔を上げると、水筒を下げたキリルが戻ってきたところだった。

「いい景色だ。君ならこの風景を見て、どんな物語を思いつく?」

 シルシィは微笑んで頭を振る。

「私には無理よ。もうね」

「そうだったな。エイニミはどうしてる?」

「周囲の様子は?」

 咎めるように首を傾げて目配せをするシルシィに肩を竦めてみせる。

「静かなものだ。人はいない、大丈夫だよ」

「そう。それなら安心ね」

 頷きながらもまだどこか得心し切っていない様子の頬を指の背で撫でた。

「たまには本当の名を呼んでやるべきだ。あいつの為にも」

「子供をあやすような真似は止して」

 指を掴んでそっと押し戻す。

「エイニミなら、今は執筆中よ」

「そうか。それなら食事の準備をしておこう。用心の為にも、日が沈んでから煙は見せたくない」

 水筒をシルシィに渡し、足元の木切れを拾い集め出す。

「遣使団は、あのまま引き返すかしら」

「ヤレンナミケンは交易地だ。商人達を集めて礼拝をしているかもしれない」

「牽制の為に?」

 水筒を抱え直して問い掛ける。

「ああ。貿易商は公然と旅をできる数少ない身分だ。王家から許しを得れば国外へも。噂じゃあ、旅に同行して途中の町で姿を消すなんてこともあるらしい」

 町は噂で溢れている。聞き耳を立てるまでもなく、悪い噂は簡単に集めることができた。

 仕立てのいい服で身なりを整えた上流階級の醜聞は、件の『羊たち』にとってご馳走になるようだ。

「あれだけ立派な教会を有していても威光を示す必要があるなら、あの信仰厚いヤースコ卿がヤレンナミケンだけで終わらせるとは考え難いわね」

「他の街や交易拠点に行く可能性は充分ある」

 馬車の一団であれば音も届く。数日街道の様子を窺ってから行き先を改めても慎重に過ぎるということはないだろう。

 連れたって小屋に入ると、青年はちょうどペンを置いたところだったようで、振り返り、出迎えてくれた。

「おかえり。外はどうだった?」

「今のところは人っ子一人いないよ。周辺も粗方見てきた。ここからもっと奥になるが、もう一つ小屋も見付けたし、いざという時は移動もできる。エイニミ、お前は?」

 エイニミ、と呼ばれ、彼は口角を持ち上げた。まだインクの乾かない紙はそのままに立ち上がる。

「こっちもひと段落着いたよ。今日の仕事はもう終わりにする」

「それは良かった。少し時間は早いが夕食にしよう。外は涼しい」

「そうね。用意するわ」

 ローブを脱いで以来、ファルチに対して二人は終始この調子だ。恭しく奉るようだった外での態度とはまるで違うが、これが三人の日常だった。

 ローブを脱いだ青年は、紛れも無くヴァルデマル・ファルチその人であるが、彼にはもう一つ名前があった。

 エイニミ、という。

 人目に触れない場所ではこの名前で呼んでいる。この頃はずっと街に宿を取っていてその名を口にしていなかったが、キリルはその分も取り戻そうとするかのように何度も名前を呼んだ。

「エイニミ、熱いから気をつけて飲むんだぞ」

 スープを飲む時にまでおどけてそんな風に言うものだから、エイニミは顔をくしゃりとさせて参ったように笑った。

「分かってるよ。それに、自分の名前もちゃんと覚えてる。そんなに何度も言わなくても平気だ、キリル」

 わざとらしく名前を呼んで返すと、キリルは眉間に八の字にした。

「だって、お前が『エイニミ』なんていう名前をしているから、心配になるじゃないか」

「人の名前にケチをつけるなよ。崖下に落としても自分の名前くらいは覚えてる」

「キリル、からかい過ぎよ」

 シルシィが咎めると大人しく引いて首の後ろを搔く。

「こんな風に話せるのが久し振りだったからな。悪い」

「いいんだ。俺も、こうして二人と話すのは嫌いじゃない」

「確かに、近頃は難しい話ばかりしていたものね。ずっと気を張り詰めているのも良くないわ」

 それからは他愛の無い話ばかりをして食事を終え、早めに灯りを落として眠ることにした。



 日は沈み切っていたが、まだ時間は早い。町では酒場に客が集まり出す頃だろう。床に着いてもまだ目が冴えていて、それぞれの身動ぎする音が狭い小屋にこそこそと響く。

 お互いに話し掛けたりはしなかった。夜は音がよく響く。特にキリルは、じっと天井を見詰めたまま耳をそばだてていた。

 それは、野宿の時には必ず行う彼の習慣や癖といってもいい。大抵は杞憂で終わる。

 だがこの夜は、それが功を奏してしまった。

 その音は耳を澄ましていなくてもよく聞こえた。

 すっかり暗闇に慣れた目で左右を伺うと、エイニミもシルシィも緊張で強張り、浅い呼吸をしているのがはっきりと分かる。二人の耳にも届いていたのだと確認し、キリルは物音を立てないよう慎重に起き上がる。両手を広げて左右の二人に起き上がらないよう指示すると、息を殺して窓に近付いた。

 その間にも音はどんどん近付いてくる。

 蹄と、車輪がゴトゴトと道を進む音。馬車で間違いない。それも一台ではなさそうだ。

 激しく脈打つ胸を落ち着ける為に、細くゆっくりと呼吸をする。

 馬の嘶きと共に、一度音が止まる。

(まずい)

 窓の外に、木々の隙間から旗が見えた。月明かりでぼわりと浮かび上がったそれを注視する。そこには記号的に簡略化された教会の絵が描かれていた。

 間違いなく、遣使の一団だった。

 再び音が鳴る。馬車の扉が開き、中から数人の男が出てきたようだ。

(こんな辺鄙なところに……)

 忌々しく顔を歪め、舌を打ちそうになったが、慌てて奥歯を噛み締める。

 男達が灯りを片手に、坂道を登ってきているのが見えた。小屋まではいくらもかからない。わざわざ馬車を止めて上ってくるのであれば、無論見過ごしてくれるわけもないだろう。小さな小屋には隠れるような場所も無く、窓から灯りを掲げられれば影で人がいるとすぐにばれてしまうに違いない。

 ―何故?

 ―何故!

 キリルの頭の中が理由を求めて歯車を回し始めるが、彼は強く意識してその疑念を振り払った。

(他事を考えるのは後だ。とにかく上手く切り抜けないといけない)

 小屋の中をもう一度見渡す。目立つ荷物や原稿は、辛うじて隠してある。埃と木屑に塗れた襤褸布や腐りかけの木箱に囲まれているから、一目には分からない。

 シルシィには体に掛けていたマントで顔を隠すように手で合図を送り、エイニミにはそのまま大人しく眠っているよう指示した。

 護身用の短剣をベルトに差し込んで背中に隠し、扉の外を窺う。程なくして木戸を強く叩く音がした。

 小さく返事をして扉を細く開ける。

 外には男が二人立っていた。一人は背も高く屈強で、腰には長剣を差している。もう一人は大男の影になっていてよく見えない。

「こんなところで何をしている」

 屈強な男は居丈高な態度に相応しく高圧的な大声で問い質した。

「旅の者か?」

 キリルが答える前に質問を重ね、扉に手を掛ける。

「この山の薬草が欲しくてやってきたんだ! 連れの病気が悪化して動かせないから一晩留まって様子をみている」

 毅然として言い返すキリルを一瞥すると、男は扉を大きく開いて小屋の中に灯りを掲げた。

 横たわったまま怯えた様子で顔を伏せているエイニミと、その傍に寄り添うシルシィを見て一歩踏み出した。

「何故顔を隠している」

 マントで覆ったシルシィを怪しんだのか、キリルを押しのけて布の端を乱暴に掴んだ。シルシィが小さく悲鳴を上げる。

 キリルは男の手を掴んで怒声を上げた。

「やめろ! こんな山の中でもし賊に女だとばれたらどうなるかくらい分からないのか! 彼女に触るな!」

 男は冷淡な目で布から手を離し、次いでキリルの腕を払いのける。男の怪力で堪らず床に倒れ込んだ。

「お前達の関係は?」

「俺と彼女は婚約している。寝ているのは彼女の弟だ。病気で苦しんでる」

「何の病気だ?」

「知らない! 医者も分からないと言った。だから自分達で薬草を探しに来たんだ。町では気味悪がるからあの子や彼女を置いては行けない」

 キリルは立ち上がって男の顔を下から睨み付ける。シルシィはエイニミに覆い被さるように体を丸めた。

 男は尚も不審そうにその光景を見ていた。引き下がる様子は無い。キリルはごくりと喉を鳴らして唾液を飲み下す。張り詰めた空気だけで皮膚が切れそうな心地だった。

「おい、もういいんじゃないか。なんだか気味の悪い奴らだ。こんなことでヤースコ卿をいつまでもお待たせするわけにはいかないだろう」

 その時、後ろに控えていたもう一人の男が、小屋の中に入ってきて男の腕を掴んだ。

 もう一人はひょろりとした痩身で、武器の類も身に着けていないが、男に対してまるで恐れも無い飄々とした様子で隣に立っている。男は痩身の男をぎろりと睨んだ。

「病人を連れ回すものか、怪しいぞ」

「それなら俺が診ようか? そして俺がヤースコ卿にご報告する。どうだ?」

 キリルの心臓が大きく跳ねた。

(この男、医者か?)

 痩身の男は答えも訊かずにエイニミの傍に膝を付いた。

「ほら、見せてごらん。……ああ、これは確かに酷い顔色だ」

 エイニミの顔を覗き込んでいかにも哀れんだ声で言う。

「唇も乾燥しているし、よく水を飲ませてしっかり眠らせないと……」

「――っ、この、偽善者が! 恥を知れ!」

 男が咆哮を上げるように毒づき、キリルはいよいよ背中に手を回した。

 だが男はキリルには目もくれず、踵を返して小屋を出ると、小石を撒き散らしながら坂道を下りて行った。

「ああ、おい待て。灯りが無くては診察ができないだろう、……まったく」

 痩身の男は立ち上がって小屋の外を覗いたが、灯りは坂の下でゆらゆらと残像を引きながら揺れている。

「全く、俺が暗闇で足でも挫いたらどうしてくれる。短気な奴め」

 やれやれと嘆息を漏らして再びエイニミの近くで膝を折ると、額にそっと手を乗せた。

「悪かったね。怖がらせた」

 呆然として言葉を失った三人に見詰められても男はまるで構わず、ズボンのポケットを探って小さな包みをシルシィに渡した。

「滋養の薬だ。大した効果は無いが、多少体力は戻る。見たところ、彼はかなりくたびれているようだから、飲ませてやるといい」

「ええ……ありがとう……」

 掌の上に乗せられた包みを見たまま呆然と硬直するシルシィに微笑みかけたかと思うと、今度はキリルの方を向いた。

「それと、ここらに薬効のある草は無い。詳しい者はすぐに分かるから、気をつけることだ」

「ああ。助言に感謝する」

「それじゃあ、いい旅を」

 男は静かに去って行った。

 男が坂道を下りた後も暫く馬車は留まっていたが、やがてゆっくりと動き出し、音は遠ざかった。

 キリルが坂の途中まで様子を見に下りたが、辺りは嘘のように静まり返っていた。

「何者だ、あの優男……」

 小屋に戻ってから、今頃のように冷や汗が噴き出す。

「ヤースコ卿の一団だったことは間違いないわよね。それも、恐らく信頼を置かれる立場だわ」

「ヤースコ卿もあまり若くない。もしかすると、持病でもあって、お抱えの医者を連れているのかもしれないな」

「病気ばかりは権威では治せないものね」

 珍しく自ら進んで皮肉を口にするシルシィに曖昧な相槌を打って額を拭った。

「しかし肝を冷やした。あの優男が出てきた時はどうなるかと……」

「でも、なんとか切り抜けたわ。あんな『設定』、咄嗟によく思いついたわね」

「話作りはできなくても、作り話くらいはできるんだ」

 小屋の中に調べが及ぶのは避けられないことだった。その点に関しては早々に覚悟を決めていた。後は腹を括り、この年齢も性別もばらばらの三人連れを繋げるのに最も自然な関係性と理由を考えることに集中した。

「それも結局、あの助け舟が無ければ難しかった。幸運だったよ」

「そうね。ただ、この薬は……使う気にはなれないけれど」

 男から渡された包みを見せる。

「その方がいい。どうして俺達を見逃したかも分からない。助かりはしたが、むしろ危険な相手かもしれないからな」

「ここも安全ではなくなってしまったわね」

「多少危険だが、明日の朝移動しよう。あまり山奥へ行くのは避けたかったが、仕方が無い」

 山の奥深くまで立ち入れば獣と遭遇する可能性も高まるが、背に腹は変えられない。ヤースコ卿の一団がいつ帰路に着くか分からない以上、今はこの場に留まるのも、街道を移動するのも同じだけ危険だ。

 シルシィにも異論はなく、やや緊張の面持ちで首肯する。

 一呼吸置いてから、キリルは体を傾けてシルシィの後方を覗き込んだ。

「――で? あいつは何をしているんだ?」

 シルシィが首だけ振り返り、同じ方を見る。

「この体験を忘れない内に書き止めておきたいんですって」

 二人の視線の先には、壁際に置かれた木箱をテーブル代わりに筆を取るエイニミの姿がある。

 二人の会話には一切の興味も示さず、手の動きは止まらない。

「恐れ入るよ。あれが旅人作家の才覚というやつなのかな」

「あなたを信頼しているのよ。あなたが旅の一切を担ってくれているから、細々としたことに心を砕かなくても執筆に専心できるの」

 エイニミを憚って声を落とすキリルに、シルシィも同じ調子で答えてそっと背中を擦った。

 柔らかな掌の感触に安堵の溜め息が漏れる。強張っていた顔から力が抜けていく。

「それが俺の役目だから」

 エイニミの執筆にはまだ時間がかかりそうだ。あの窮地を一体どんな物語として昇華させているのか、今は知りたいとは思えなかった。

「見張りがてら外に出てくる」

「私も行くわ」

 シルシィもマントを小脇に抱えて着いて出た。

 小屋から少し距離を取り、街道に続く坂道を見渡せる場所を探して腰を下ろす。

 周囲は風にそよぐ木や草の音で微かにざわめいていた。

「何か引っ掛かっているのね。私にはまだ聞かせられないこと?」

 そのざわめきの中に溶け込むようなシルシィの声に、キリルは小さく唸って答える。

「そういうわけじゃない。あの医者のことが少し気になって、考えているんだ」

 暗い小屋の中では背格好以外のことは殆ど何も分からなかった。大男は物騒な長剣を携えていたが、医者の男からはそうした武器の音すらしなかった。恐らくは丸腰に近い状態だったに違いない。武装した男と丸腰の男の二人だけで、何人篭っているかもはっきりしない小屋の様子を探りに来ることにも違和感がある。

「いい旅を、と言っただろう。あの男、エイニミが病人じゃないことも、俺達が旅人だということも見抜いていた」

「でも見逃した……。きっとあの馬車にはヤースコ卿も乗っていたはずよ。普通、わざわざ同行させている医者と別行動は取らない」

「だとすると、ヤースコ卿には、俺達に有利な報告をしてくれたということだな」

 泳がせるためか、大男の言うように、彼が『偽善者』たるせいか、キリルたちには確かめようもないことだ。

「彼が本当に医者なら、哀れんで助けてくれようとしたのかもしれない……なんて考えるのは甘いかしらね」

 大男は、もし旅人だという確証さえ取れれば、すぐにでも切り掛かりそうな剣幕だった。

「そうだな。医者も色々だよ。特にコティティエ教に傾倒した中には、人の生き死にですら意に介さず、黙殺できるようなやつもいる」

「彼もそうした一人だと思う?」

 シルシィに問われて、キリルは言葉を詰まらせた。

 奇妙な男ではあったが、現状三人は無事に生きている。明日の朝にはまた旅を続けられるだろう。それはあの男が何かを掴んでいながら甘んじて看過したという事実あってこそだ。

 奇妙に思う気持ちは拭えないが、その事実に関しては素直に喜ぶべきかもしれないとキリルは自身に言い聞かせた。

「あの男に限っては、神より慈悲深いのかもしれないな。俺が何か信仰する時はあの医者にするよ」

 結果口から出たのはやはりどこか皮肉な響きを持つ言葉でしかなかったが、シルシィは充分な譲歩だと理解している。

 二人の間を冷えた風がすり抜けていく。シルシィはマントを羽織り、フードを深く被った。

「家無き地を探すのが私達の目的……、でも、なかなか首尾よくはいかないものね」

 物憂げな溜め息を打ち消すように、キリルは努めて明るい声を発した。

「だが、『目覚めの朝』を広めるのも重要なことだろう?」

「『旅立ちの朝』よ」

 間違いを取り成すようにひとつ咳払いをする。

「……確かに、旅とは行っても、同じ街にこうして戻ってくる。国境近くは警備が厳重過ぎてとても突破できそうにもないから、もう何年も同じことの繰り返しだ」

「状況を変化させるには、もっと知らなくてはいけないことがあるのかもしれないわね。私達はただ、掟に沿って忠実に旅を続けているだけだもの」

「そうだな。戒律を守るだけでなく、もっと決定的に現状を打破できるような、重要な何か……」

 話しながら、何かに吸い込まれるように語尾が弱まっていくキリルを、シルシィは怪訝な顔で振り向いた。

「どうしたの?」

「いや、博識な知り合いを一人思い出したから。でも駄目だ、旅には出られない」

「そうね、誰もが容易にできることじゃないもの。当然だわ」

 シルシィは頷いて正面に向き直る。この国の奥深くにまで根を張るコティティエ教の教えによって、人々は故郷を捨てて旅することを嫌悪する。生きながらにして自ら家族と離れる選択をする者は軽蔑され、残された家族もまた、教えを充分に伝えなかったと忌み嫌われてしまう。

 ファルチ一行は、生み出す作品によって表立った蔑視の対象とはならないが、ヤースコ卿のような『正統派』コティティエ教信者には、その存在を疎ましく思っている者もいる。稀ではあるが、あの大男のように、人目が無ければ手にかけてしまえと強い憎悪を抱き、それを実行できる者すらいる。決して安全な立場では無い。

 キリルは暫く黙りこくった後、ぽつりと呟いた。

「……そうじゃないんだ。そいつは、旅をできる体じゃないから。足が、悪くて」

 シルシィの頭に、ヤレンナミケンですれ違った青年の姿がふと思い出された。涼やかな顔立ちに怜悧な印象を持つ青年。上等の服に、飾り細工のついた杖を携える姿は紛れも無く上流階級の出で立ちだった。

「逢ったのね、その彼と」

「偶然だったんだ……」

 何故知っているのか、などとは言わなかった。今夜ばかりは何故、と思うことに辟易していた。

 旧友のことを思い出すと、自然と口が動き出す。

「今は家庭教師をしていると言っていたかな。ぴったりだ。あいつはなんでも知っているし、無口だけど人に教えて聞かせるのはとても上手かった。俺の妹なんて、あいつの話を聞く度うっとりしたような顔で……いや、どうでもいいな、こんな話は」

 笑顔を形作り始めていた口角を下げ、力なく頭を振る。下らない話だと自ら貶めるような姿に、シルシィは眉尻を下げた。

「そんなことないわ。友人なんでしょう? 予期せぬ再会が嬉しいのは自然なことよ」

「友人だったよ。あいつの家は厳しくて、あまり頻繁に会えはしなかったけど、色々なことを話したり、教え合ったりしたのは楽しかった」

「今は違うの?」

 シルシィはできる限り慎重に言葉を掛けた。つい先刻まで嬉しそうに、どこか誇らしげにも見えたキリルが、目に見えて憔悴していくのが心配だった。

 続きを促すべきか、開きかけた記憶の蓋をそっと閉じて押えてやるべきか、じっと様子を伺う。

 キリルは静かに一呼吸ついてから、薄く唇を開いた。

「今でも友人と思っていいのか分からない」

「どうして?」

「俺はいい友人じゃなかった」

 気弱な告白は、懺悔にも聞こえる。

 ―彼の足のことにあなたが関係しているとでもいうの?

 シルシィは喉の奥までせり上がった言葉を唾液と共に飲み下した。

「後悔があるのね」

 後悔、の一言を、キリルは何度か繰り返した。

「そうかもしれない。今でもあの時のことを思い出して苦しいのは、後悔というのかな」

「でも彼はあなたの話に応じたのでしょう? 近況も話して聞かせた。友人と思っていなければ、そんなことはしないわ」

 シルシィを見上げる顔は、そんなことはこれまで考え付かなかったと言わんばかりに戸惑っていた。精悍な青年の姿に、怯える少年の影が差す。両眼はシルシィを通り越し、どこともない中空を漂っていた。

「あいつは酷い怪我をしたんだ。もうきっと良くなることはない大怪我だった。ヤレンナミケンで会った時も、痛んだ筈なんだ……、馬車に揺られて、主人に付いて歩き回って……」

 キリルの目には今、夜の森ではなく、友人の姿がまざまざと浮かび上がっているようだ。シルシィはじっと黙して息を殺し、耳を傾けていた。

「痛かった筈なのに、平気だと言っていた。そういう奴なんだ。冷淡そうな態度を取るが、心の一番内側で人を思い遣る……、妹はそういうところに惚れていた。似合いの二人だったんだ。それなのに、俺のせいで……」

 短い前髪をぐしゃりと乱暴に掴んで奥歯を噛み締める。

 シルシィはそっと一撫でしてから手を重ねた。口は閉ざしたままでいた。思いつく限りのどんな言葉を尽くしても、今の彼に寄り添うには値しない詰まらないものに感じた。

(ただ熱を添えることしかできないけれど……)

 過去に連れ去られそうな意識をこの場に留め置くことくらいはできるだろうかと思った。

 それで充分だったようだ。

 キリルは細くゆっくりと息を吐き出し、シルシィの手を握って膝の上に置いた。

「俺は無知で浅はかだった。そういう欠点は、時に人を傷付ける」

 立てた膝の上に顔を伏せる。彼の独白はそれで終わった。

「あなたは物知りだし、賢い人よ。少なくとも今はね。今夜だってあなたの機転で危難を切り抜けた」

 キリルの手を少し力を入れて握る。それをほんの少し上回る力で、キリルが握り返した。

「すまない」

「いいのよ」

 夜が明ければまた移動しなくてはならない。時がくれば再び歩き出さなくてはいけない。

 旅は彼らの使命だ。

 誰もが容易にできることではない。

 旅に出る者には、それぞれに理由がある。

 それがどんなものか知らなくても、彼らは仲間として旅を続けている。

 彼らの中には、『掟』という絶対的道標が存在している。

 それから数日を山奥の小屋で過ごし、三人は再び次の町を目指して旅立った。

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