第7話 キリル・ハルトネンとファルチ一行

 ヤレンナミケンの出版協会の男はキリルの手元を一瞥して羽虫を払うような仕草をした。

「持ち込みなら受けていないよ」

 キリルは精悍な顔をくしゃりと崩して苦笑する。人好きのする笑みに男は肩透かしを食らったように目を丸くした。

「俺の顔を見てそう思うなら尤もだと言うところなんだが、使いで来ているんだ。作者の名前だけでも見てくれないか?」

 原稿を差し出すと、男はカウンターから身を乗り出して、最初のページを確認する。

 タイトルの横に書き付けられた署名と封蝋を見て、男が目を見開く。

「こいつは悪かった。あんたあの大先生の弟子か。それは新作だな? うちでいいのか」

 露骨に態度を違える男に、キリルは笑顔を崩すこともなくはっきりと首肯してみせた。

「勿論。買って出版してもらわなければ意味が無いからね。 今回先生は二作書き上げているから、できれば両方買い取ってもらいたいんだ」

 キリルは原稿を差し出しているものの、紙束を掴む手から力を抜かない。男がそれを受け取ろうとしてもにこにこと笑顔を向けているだけだ。

「……まったく、大先生の弟子ともなると、商魂逞しいのが付くもんだな。どれ、まずは本物か確かめたい。これで読ませてもらえるか?」

 男は硬貨を数枚取り出してカウンターの上に置いた。紙とインク代くらいにはなる額だ。

「申し訳ない。こちらも生活があるのでね」

 それを掴んでポケットに収めてから、まずは一作、とようやく原稿を渡した。

「前回この町に来たのは三年前だな? 記録が残ってる。その時は女が来たな。舞台歌手みたく綺麗な顔をしていたからよく覚えているぞ」

「あら、嬉しい。もしかして、私の話かしら?」

 原稿に目を通していた男が、涼やかな女の声に目線を上げた。

 戸口に立つ旅装の女を見て、はっきりと答える。

「ああ、そうだ、あんただ」

「覚えていてくださって光栄だわ」

 女が艶やかに微笑むと男の顔も綻ぶ。旅から旅の生活とは思えない程手入れされたブロンドの毛先をゆったりと揺らしながら近付き、共に紙面を覗き込んだ。

「いかがです、今回の作品は? これまでのものともいずれ劣らぬ力作だと思うのですが」

 甘い声が窺いたてると、男は目尻を下げて何度も頷いた。

「うん、うん、間違いなく本物だ。相変わらず巧緻な文章だよ。大きな声じゃ言えないが、物好き貴族が喜んで注文するし、新作がまずうちの町から出たとなれば話題もあって図書館も喜ぶ筈だ」

「まぁ、頼もしい」

 嬉しそうに手を合わせて喜ぶ女の横からもう一つの作品も渡すと、男はキリルには視線もくれず受け取って、そちらも封蝋と中身を確認する。

「大先生にもお会いしたいところだが、なかなか気難しい人なのは噂通りらしい」

「先生は旅疲れが出てお休みになっているので」

「それは仕方ない。あの山越えはなかなかに堪えると聞くからな」

 会話に夢中になりながらも男が硬貨を積み始めると、キリルは途端に鋭い目付きになり、視線だけでその山を数えた。男は苦笑しながらもう一握り追加する。

「やれやれ、新しいお弟子さんは物書きより金勘定の方が得意なんじゃないか。新作を二つ、多少色は付けた、どうかな?」

「充分ですよ。どうも」

 皮袋に硬貨を入れてしまうと、柔らかい表情に戻って男と握手をする。女はその傍らで愛想良く立っていた。

 建物の外へ出てすぐ、女はキリルの前に立って足早に町中を進む。忙しなく翻るマントの裾が、彼女の焦りを物語っていた。

「シルシィ」

 その少し後ろに着くキリルが女を呼んだ。

「横槍を入れてごめんなさいね」

 シルシィ、というその女は振り返ることもなくそう言った。

「それはいいんだが」

 つい先刻とは打って変わって硬く絞り出された声音に、キリルはただならぬものを感じて問い掛ける。

「外で何かあったのか?」

 出版協会へ入る前とは町の様子が違う。いくらも時間が経っていないというのに、随分な変わり様だ。そして、旅仲間である彼女の抱える焦燥感も尋常なことではない。

「実は、」

 シルシィは周囲を見回した。忙しなく行き交う人々を憚って囁き声になる。

「ヤースコ卿がこの町に向かっているらしいの。先生には念の為、人目に付かないところで待っていただいているわ。次の町に急ぎたいところね」

 事情を聞き、キリルの顔も途端に険しくなった。

「ヤースコ卿か……、それはよくないな。旅人作家や旅芸人を殊更敵視している上流階級じゃないか」

「噂によると最近では教会守もしているらしいわ。町で出会うには相手が悪いわね」

「分かった、急ごう。金も手に入ったばかりだし、多少は無理もきく」

 人々は町でも一際大きな建物の方へと集まっていく。それとは別の方向へと急ぐ二人を時折気にする町人もいたが、詰まらないものを見るような目はすぐに逸らされ、彼らの目的地へ向く。

「先生」

 町の外れでその姿を見つけたシルシィが更に足を速める。

 深緑のローブに頭から足先まで包んだ人物は、荷物の前で自身もその一つだといわんばかりにじっと座っていた。

「すみません、先生。荷物番などさせて」

 シルシィの呼び掛けに小さく反応し、徐に立ち上がってローブの土埃を払う。キリルは荷物を背負い、地図を開いた。

「急ですが、出発します。少し無理はしますが、近くに小さな宿場町があるので、一先ずそこで一晩やり過ごして、翌朝は大きな街を目指しましょう」

 ローブが揺れ、頷いたのが分かる。既に知ってか知らずか、急な出立の事情を訊こうともせず、二人に従うだけだ。荷物を身に着けたキリルとシルシィが一度顔を見合わせ、互いに頷き合ってから歩き出した。

「まだ多少の猶予はありそうだな」

「どうして分かるの?」

 シルシィに問われ、キリルが町の入り口を指差す。

 そちらへ向かう者は殆ど居なかった。

「油断はならないが、もしすぐ近くまで来ているとしたら、出迎えが立たないわけがないからな」

「確かにそうね。情報が広まるのが早くて助かったわ」

「あとは、熱心な信者にでも捕まらなければいいだけだ」

 一行の心配を余所に、誰にも見咎められることもなく町を出ることができた。

 地図を持つキリルが先導し、誰一人言葉無く、無心に歩を進める。

 太陽の位置が下がり始め、見晴らしのいい小高い丘まで辿り着いた時に背後の景色を振り返ると、微かに馬車の列が視認できた。色や形の揃った馬車は、身分の高い人物が乗っているものに違いない。向こうから見付からないように、そのまま丘を少し下った。

「よし、なんとかなりそうだ。少し足を休めよう」

 大木が影を作っているのを見付けて、キリルが指差す。

「しかし、シルシィのおかげで交渉が早く済んで助かったよ」

 荷物を降ろし、水を一口飲むと、溜め息と共に本音が漏れる。

 シルシィは頬に手を当てて眉根を寄せた。

「もし覚えていたらと思ってのことだったのだけど、運が良かったわ。いくらあの出版協会の主人が協力的な人物でも、ヤースコ卿の一団が来ていると知ったら、さすがに買い渋られるでしょうから」

「ああ、この辺りで出版協会を持つ町はそう無いからな」

 ヤレンナミケンの出版協会で原稿の管理を行うあの人物は、著名な旅人作家のものであれば喜んで買い取る一風変わった男だった。

 交易地であるヤレンナミケンには、交易品だけでなく、変わった品を求めてくる商人もいる。

 旅人作家の本、というのもその一つだ。

 ごく一部の物好きな上流階級が、信頼のおける貿易商に依頼して、旅人作家の新作を入手させることがあるのだ。

 いずれは世に広がるものではあるが、遠い町になる程時間がかかる。旅人作家は立ち寄った町で原稿を売る生活をしているから、それが自分の街かもしれないし、遥か遠い場所かもしれない。

 焦れた貴族が、噂を聞きつけて貿易商に依頼する。出版協会は、遠い街からであればあるほど価値を上げて売る、という具合だ。

 主人はキリルのことを金勘定に煩い男だと言わんばかりだったが、事前にそうした仕組みをシルシィから聞き及んでいたからこそ、高額での買い取りを要求したのだ。

「それにしてもあの主人、俺の顔を一目見て追い返そうとした。いい判断だよ」

 恐らく、無名な作家が売り込みに来たと思い違いをしたのだろう。『弟子』であるキリルは、腹を立てるどころか、面白がっている風ですらあった。シルシィは呆れて苦笑いを浮かべる。

「あなたはその軽口が好きね。創作的才能なんて、顔に現れるものじゃないわ」

「交渉役にしても、もう少し風格っていうものが必要だな」

 髭でも蓄えてみるかと顎を擦ればシルシィが呆れながらも声を上げて笑う。そうしてみて、顔の筋肉が酷く強張っていたことに気付いた。酷く緊張したから、その名残がまだ抜けていなかったようだ。

「しかし先生の名前は本当に凄い。サインとあの印璽を見れば、誰でも目の色を変える」

「そうね。大きな出版協会ならサインと印璽の控えを記録に残しているくらいだから」

 先生、と二人が呼ぶローブ姿の人物は、水筒を抱えたまま幹に凭れ掛かっている。二人は声を抑えて会話を続けた。

「無理もないわ。今日は日差しが強いものね」

「ああ。体力を考えてもあまり無理はさせたくなかったが、仕方ない……。もう少し日が傾くまで待ってから移動しよう」

「ヤースコ卿はどこまで視察するつもりかしら。他の町にも足を運ばなければいいけど」

「その件に関しては祈るしかないな。小さな町や村まで回るほど時間を持て余しているとは思えないが、コティティエ教遵守を説く正統派の幹部が来たとなれば、周囲の町も自然と意識はするだろう」

 コティティエ教という宗教は、この国に深く根を張っている。その教えは国民の道徳観念の一つとして入り込み、幼い子供達まで染み渡っている。正式な国教ではないが、事実上はそうといえる。

 それに加えて、コティティエ教の教えの中には、大人が子供へ教義を教える『訓戒伝播』があり、親が信仰すれば子もそうするような仕組みになっていた。

 大きな街には必ず教会が建っているし、大人達は熱心に礼拝へ通う。

 教会の建てられない小さな町や村の人々は近くの町の教会を訪れ、それ以外にも定期的に遣使が訪れる。ヤレンナミケンに向かうヤースコ卿の一団はその遣使の一環だ。多くの大人達にとってヤースコ卿に拝謁することは恐れ多く、名誉なことだった。

「宿を取る前で良かったわ」

「ああ、こそこそと夜逃げする羽目になるところだった」

 キリルは冗談めかして言ったが、目は真剣そのものだ。シルシィも同じような顔をしている。

 キリルが原稿を売りに行っている間、シルシィは宿を探す予定だった。いつになく多い貿易商のせいで部屋を確保するのに難儀していたのが結果的に幸いした。

 コティティエ教は、教義の中で『家』を重んずる宗教だ。家とは、文字通りの一家庭を示しながらも、同時に村や町、国家ですら、市民が集い住まう広義での『家』だとして位置付けている。

 コティティエ教を信仰しないことによって何らかの罰が下るということは無いが、周囲からの蔑みの視線に曝され、流れ者は新たな町で家や店を構えることも難しい。まして、そうした者達がコティティエ教の信者と婚姻することなどは人々の目が決して許さない。それは事実上の罰と言えた。

 ヤレンナミケンにおける二人の実感としては、むしろ住民達は視線を向けることすら厭っているようだった。関わることそのものを避け、厄介な流れ者は黙殺するように心掛けているのかもしれない。

 常に教会からの監視を受けているような町だ、住人達も警戒心が強まるのだろう。

 キリルはふと思い出したようにシルシィの方を向いた。

「俺は町の様子があまり見られなかったな。三年振りに見てどう思った?」

 町に着いてすぐ、荷物だけを置いて仕事へ向かったから、キリルは実質出版協会くらいしか見ていない。

 シルシィは少し考えてから口を開いた。

「教会の補修がされていたようだわ。まだ真新しいようだったから、視察はこの完成に伴うものかも」

「そうか……、ただ待っているだけでは教会の威光は弱まらないな」

「ええ。あれだけ大きな教会なら、町を挙げて作業したでしょうから」

「穏健派と言える者も決して少ないわけじゃないが、あの町はコティティエ教には逆らえない」

 本来コティティエ教の教義で言えば、数日『家』を空けて行う商売など許されるものでは無い。それでも、貿易品無くしては物が揃わない土地もあるし、何より国内での金回りが滞ってしまう。

 交易とは、そうした政治的側面でもって、暗黙の了解のように看過されている仕事なのだ。

 教会と繋がりが強く、充分に信頼された上流階級でなければこの仕事に就くことが許されないのも、そうした部分に所以を持つ。

 そして、交易地であるヤレンナミケンのような町は、より深く真摯な信仰心というのを必要とされる。

 キリルは町を出る前に見た光景を思い起こして鼻を鳴らした。

「教会に向かう列が、まるで放牧帰りの羊の群れだったな。王都にも出入りするヤースコ卿ともなれば、馬車馬の蹄の音だけで信者を操れるらしい」

 揶揄だけでなく嘲りも混じった言い様にシルシィは苦笑を漏らす。

 ヤースコ卿は当代きっての信者として名を馳せている。信仰に厚く、コティティエ教絶対主義者だ。とある大都市の教会で教会守として仕えながらも、度々王都出向をし、こうして地方都市の視察もする。

「今頃どんなご高説を垂れているんだか。一度くらいは聴いてみたいものだ」

「あら、無為な時間は過ごすものじゃないわ。どうせあなたはすぐに居眠りよ」

 皮肉をたっぷり込めたキリルに、シルシィも刺々しく同意する。

 コティティエ教を信教とする者達にとって、旅人は忌むべき存在だ。ことに旅人作家は旅という行為を美化して若者を誑かす悪書を生産していると教会から睨まれている。

 そんな情勢の中でも継続的に出版される旅人作家達は、その作品の文学性の高さ、他の作家には無い独特の世界観を買われて受け入れられている。図書館に並べれば子供達が競って借りていくし、物好きな貴族が出版協会から直接買い付けることもある。子供達の中には旅や旅人作家に憧れを抱く者も現れるが、その度親は厳しく叱り付け、思い直すよう教育する。それでも本は出版され続ける。

 勿論、教会は規制したがっているだろう。

 だが、先述の通り、コティティエ教には、この宗教を信仰しない者を罰する教義が無い。

 旅人に冷ややかな目を向けてやることくらいはできるが、生み出された本や歌、詩を頭から否定して焼き捨てるということもできない。適度な娯楽は民衆の抱く不安や不満の目くらましになる。それを奪うということで何らかの弊害が生じることは想像に難くない事だ。

 教会や正統派信者達は苦々しく思いながらも黙って見逃すことしかできないのが現状だ。

 だが、先より話題に上り、二人の端正な顔を歪めさせている男、ヤースコ卿は例外的存在と言える。

 彼は、ただ粛々とコティティエ教に準じ、教えを広めるだけの男ではない。

 報せを受けた一行がヤレンナミケンから逃げ出したのには理由がある。二人が酷く険しい顔をしているのも同じ理由だ。

「ヤースコ卿の一団には、腕利きの者が雇われているという話だ。一団が泊まった夜、宿に血糊を残して忽然と消えた旅人もいるそうだからな」

「酷い置き土産ね」

 粛々と教義を順守する男は、従順ならざる者を密かに粛清しているという。

 噂ではあるが、単なる醜聞というには無理がある。コティティエ教の幹部を軽率な噂の種にするなどという命知らずな不敬を働く者は多くない。皆我が身は可愛いのだ。根も葉もない噂に尾ひれを付ける悪趣味な遊びに興じる者も相手は選んでいる。それでもこの類の噂はひそひそと物陰や地を這い、誰かの耳に入る。

 それは、噂が事実であるからだ、とキリル達は考えている。

 コティティエ教には、信仰の無い者や異教徒に対しての制裁を良しとする教義は存在しない。

 だが、それらを行ったものを咎める教義もまた、存在しない。

 まして秘密裏に行われたそれの真偽を調べる機関も、道理すらも無い。

 シルシィは細い指を頬に添えて小首を傾げた。

「そういえば、どこで聞いたのだったかしら……、ヤースコ卿には娘が何人かいるらしいのだけど、その内の一人は、若くして亡くなっているそうよ」

「ふうん……、病か?」

「そういうことになっているようね。ただ、その噂によると、棺は夜更けに街の外へ運ばれていったとか」

「ヤースコ卿の娘が、葬列も無しにか」

 身分の高い者の弔われ方としては不自然な粗末さだ。

「棺を一刻も早く処分してしまいたい理由でもあったのかしらね」

 不思議だわ、と嘯くシルシィにキリルは眉間の皺を更に深くして唸った。

「なんにせよ、関わるべき相手ではないな」

「ええ。ヤースコ卿は他の遣使とも貴族とも違う。彼の異常なまでの執心は、噂に聞くだけで充分だわ」

「ともかく今は、上手く一団を避けることを第一に考えよう」

 ふと目を向けると、『先生』は深く俯いたまま眠ってしまったようで、フードは鼻まで下がっていた。

「息苦しそうだ」

 フードだけでなく、口元も布で覆っている。

 フードに伸ばした手を、キリルは少し考えて引っ込めた。

「もしヤースコ卿に見付かって、先生のことが知れたら、確実に……」

「そうね。先生の風貌は特徴的だから、知る者には一目でそうと分かるもの」

 深い緑色のローブで全身を覆い、一言も話さない。性別も、年齢も一見して定かでない。

 二人が『先生』と呼ぶその人物は、紛れも無く『ヴァルデマル・ファルチ』だった。

 ファルチは旅人作家の中でも群を抜いた知名度と影響力を持っている。その名を見ただけで、出版協会が露骨に態度を変える程だ。

 もしヤースコ卿がファルチと遭遇したなら、純真無垢な子供達に旅生活への憧れを持たせないよう、できることなら消してしまいたいと思うかもしれない。少なくとも、所在を突き止められた上で黙殺してもらえるとは思えない。

 決して考えたくはないことだが、考えなくてはならないことでもあった。

 行き場をなくしたキリルの手に、シルシィのそれがそっと重ねられた。

「私達で終わらせたりはしないわ、絶対に」

 ぎゅう、と力を込めて握る。浅い緑の瞳に、強い光が差した。

 その瞳の強さに圧倒され、キリルは照れくさそうに顔をくしゃりとさせる。

「すまない。町で色々あって、少し気弱になっていた」

 素直に白状すれば、シルシィも安堵したように息を吐き出す。手を離す頃には微笑を浮かべていた。

「いいのよ。ヤースコ卿のことは本当に想定外だったもの。あなたも私も、今は冷静じゃない。暫くは気を抜くこともできないし、正直に言えば恐ろしくもあるわ」

「だとしても、今、先生の前でする話ではなかったな」

 ファルチは何も言わない。顔がすっかり隠れてしまうと、本当に眠っているのかどうかも分からない。目を閉じて休んでいるだけかもしれないし、考え事をしているのかもしれない。

 ただ、色濃い疲労がローブの中の肢体に纏わりついていることは重々承知していた。

「あの二作を書き上げる為に、宿でも殆ど眠ってらっしゃらなかったから。余計な心労まで背負わせたくはないわ」

 シルシィは更に小声で、半ば独白のように呟く。

 ふと空を見上げると、徐々に日が傾き始めていた。強烈な西日になる前に、とキリルが立ち上がる。荷物を背負いながら、未だ深く俯いているファルチを見た。

「代わってやれたら、と思うのはおこがましい考えかな」

 シルシィが首を振る。

「それはあなたの役目じゃない。勿論、私でも」

 キリルというのは、気の優しい男だ。シルシィが出会った中で一番と言ってもいい。

 互いの境遇を話したことはないが、キリルがファルチの一行に加わる際、出自についてだけ簡単に聞いた覚えがある。とある街の、貴族と交流を持つ中流階級の出だと言うから、嫌味の無い気さくさと、意識せずとも漂う気品が入り混じる彼独特の雰囲気は、なるほどそういうことかと納得したものだ。

 だが同時に、キリルのそうした性格は、どこか危ういとシルシィは時折案じている。

 優しい人間は、言わば感情の生き物だ。そして優しさや哀れというのは、ある種恵まれた者にしか許されない感情でもある。そうした種類の人間が、厳しい選択を迫られる中で、正否を見誤ることが、シルシィは怖い。

「先生を、ヴァルデマル・ファルチを生かし続けることが、私達の役目」

「大丈夫、忘れていないよ」

 そんなシルシィの懸念を察したのか、殊更明るい声で答える。

「そろそろ行こう」

 腕を伸ばして体を解すキリルを横目に、シルシィはファルチの肩にそっと触れた。

「気分はどうですか、先生。そろそろ出発しましょう」

 ファルチはやはり一言も発さぬまま、こくりと頷いてフードを揺らし、静かに立ち上がった。

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