第6話 邂逅

 ヤレンナミケンはさほど大きな町ではないが、山脈の合間に広がる平原という立地で、交易地として栄えている。

 町をぐるりと囲う山々を越した先はそれぞれ天候や土壌が異なり、作物や雑草の一つに至っても種類を違える。各地の商人が余りものを安く卸したそれらを町の屋台で売れば、種々様々な品物に人々は喜んで金を払う。中流階級にも届かない一般生産者達にも疲労や不満の色は少なく、町全体が独特の活気で満たされていた。

 馬車を降りて数歩進んだところで、随分歩き易いことにクルトは気付いた。

 足元は石畳だが、隙間が少なく、表面もなだらかで整然としている。馬車の往来やそれに伴う上流貴族の来訪に備え、熱心に道を整えているらしい。

 宿が複数建てられ、何れも立派な造りをしている。これもまた他の町には無い特徴だ。

 貿易商が交渉やその他の交流を持つ為の専用の商館もあり、ブランデルはそこへ向かっていた。

 使用人に荷物を運ばせながら先を急ぐブランデルに遅れないよう懸命に足を進める。杖先がいつもより性急に石畳を叩き付ける音を聞いて、ブランデルは漸く振り返った。

 杖と、遅れがちな左足をじろりと見る視線には、隠そうともしない蔑みの感情が塗りこめられている。

「お耳障りでしたか。申し訳ありません」

 クルトは、常通りの落ち着き払った様子で謝罪した。

「いや、すまないね。無理をさせた」

 足から視線を外して周囲をぐるりと見回す。商館の入り口まではもう少しだ。ブランデルはやや思案した後、唐突に人の良さそうな笑顔を浮かべた。

「クルト、町でも見て待っていなさい。商館では与太話で時間を取られるだろうから」

「分かりました」

 クルトは素直に応じた。

 クルトが旅の共をするのは、凡そ体面上の問題だ。勿論クルト自身のことではなく、養父であるブランデル氏のことに他ならない。

 貿易商は上流階級の中でも更に選び抜かれた家柄の者しか就くことを許されない。ブランデル家は彼の故郷であるウァル=クニンカーンの街で、その家柄と信心の深さを評価され貿易商を営むことを許された。国への忠誠や秩序を遵守する為の法は存在しないこの国において、コティティエ教への信仰心はそれに代わるものとして最も重要視されている。

 それだけ信心深い家系において養子を迎えるということは本来とても危うい決断だが、ブランデル氏にとっては背に腹も変えられぬ事情というものがあった。

 その事情をよく理解しているクルトは、慣れない旅歩きで足が痛んでも堪えることしかできない。

 貿易商同士は品物だけでなく、各地の情報交換も行う。それは互いの家についても話題が及ぶらしい。クルトはその為の保険として、時折こうして同行を指示される。

 殆どは共をする程度で、実際の商談に参加することは無い。止むを得ず晩餐会に顔を出したこともあるが、勝手に話すことはブランデルに禁じられているから、必要な挨拶を終えた後は足を理由に壁際で置物と化している。

 その時のことを思えば、町を自由に散策できるというのは恵まれた状況だった。

 ブランデルの背を見送ってゆっくりと踵を返す。使用人の数は限られているから、クルトに付く者はいなかった。

(うん、気楽でいい)

 杖を着き、足を軽く一撫でしてみる。じわりと熱を孕み始めているが、無理をしなければ問題はなさそうだと判断して歩き始めた。

 先ずは町の中で最も大きな建物に近付いてみることにした。

 それは、町のどこからでも見えるだろう程の建物、――この町の名物である教会だ。

 目的を定めた後は、ゆっくりと足を運ぶ。

 彼独特の不規則な足音に誰一人頑なに振り返らない。すれ違い様にクルトの姿を視界に捉えると、顔を背け、少し遠回りをして道を譲る。

 気遣いというより、関わることを拒絶している行動だ。上等なフロックコートに飾り細工付きの杖を持ちながら足を不自由にしている若い男の事情を、それぞれ頭の中に描いてみた妥当な結果だろうとクルトは気にも留めない。

 故郷においては、比べ物にならない程露骨な態度を取られている。事情を知らぬ者の腰の引けた臆病な倦厭行動など、笑えるくらいに可愛いものだ。

 教会は見えてはいるが、目指してみるとなかなかに距離があった。用事があるわけではない。単なる好奇心と、打算故のことだ。

(どうせ時間はあるのだから、店でも眺めながら行くとしよう)

 露天の多さに見落としがちだが、衣類や宝飾品を扱う店、図書館もあった。

 図書館を通り過ぎた辺り、町の入り口近くにも店らしき一軒を見付けて看板に目を凝らす。

 その時、その店に向かって一直線に歩く男が目に入った。

 両腕に荷物を抱えている。袋に収められているが、中身が四角に膨らんでいるのが見えて、クルトは何気なく男の顔を見た。

「キリル?」

 その名は、自然と口から零れ出た。

 杖を遠めに着き、大股で一歩踏み出す。後に続く左足がズキンと鈍く痛んだが構う暇は無かった。

「キリル、キリル・ハルトネン!」

 元々周囲に人影は殆ど無く、近くにはその男くらいなものだったが、何度も名前を呼んで、漸く気付かせることができた。

 キリル、と呼ばれた男はクルトを見て足を止めた。始めは夢から覚めたばかりのような顔をしていたが、みるみる現実に引き戻されて、目を瞠る。

「お前……、クルトじゃないか!」

 荷物を片手で抱え直し、尚も自分に向かって足を踏み出そうとするクルトを掌で制した。

 小走りに駆け寄り、左肩を支えてやると、クルトは躊躇うことなくその腕を掴んだ。

「まさか、こんなところで出会うなんて」

「それは僕の台詞だ。偶然にも程がある」

 日頃は硬く引き結ばれているクルトの口元が緩み、冷えた瞳を浮かべる目に微かだがはっきりと

熱が差した。

「よく俺だと分かったな」

「当たり前だろう? 最後に会ったのは随分昔のことだが、面影はある」

「お前も、そうして笑ってると子供の頃のままだ」

 クルトにつられるように、男もまた目を眇めて表情を柔らかくする。

 その男は間違いなく、クルトの友人にして、ハルトネンの息子、キリルだった。

「キリル、もしかして、旅人作家になったのか?」

 キリルの持つ荷物と、目と鼻の先に建つ店の看板とを見比べた。キリルが向かっていた店は出版協会だった。恐らく手にしているのは原稿だろう。

「いや、違う。俺は修行中だ。先生について旅をしている」

 旅人作家になると言って家を出た友人の快活な笑顔を見て、クルトは安堵の溜め息を零した。

「そうか。いい先生に会えたんだな」

「ああ。飛び切りだよ」

 そこで一度会話が途切れてしまう。話すべきことが無くなったわけではなく、むしろその逆で、あまりにも話すべきことが積み重なっていて、何から切り出すものか悩んでいた。

 それはどうやらキリルも同じようで、唇を開いては逡巡し閉じるのを繰り返している。

 思案するクルトの頭の中に、旅の前に話をした二人の顔がふっと浮かんだ。

「ハルトネンさん、元気にしているぞ。エレナも」

 父と妹の名を聞いて、キリルは安堵の溜め息をつく。

「それは良かった。いい報せを聞くのは数年振りだ」

「手紙を送っているそうじゃないか。喜んでいたよ」

「自己満足だよ。自分のことばかり伝えて、返事は受け取れないんだから、歯痒い思いもさせてる」

 自嘲して俯くと、余計に表情を曇らせる。

「足は……、相変わらずか」

 クルトは微笑んで首を左右に振った。

「もう九年も前のことだ。殆ど痛まないよ」

 キリルは目を伏せ、小さく頷く。

「そうか。それも、いい報せだ」

 顔を上げた時には再び穏やかな微笑を浮かべていた。

「今は何を?」

「ああ、家庭教師をしている。今日はそれとは別で、旦那様の手伝いだ」

「そうか。お前に教えを受けているのなら、優秀な生徒なんだろうな」

「そうだな……、好みの分野に関心が偏りがちではあるけど、熱心で素直な子だよ」

「なんだかエレナを思い出すよ。お前に倣って小難しい本を好んで読んでた」

「その甲斐あって、今ではハルトネンさんの片腕を立派に勤めているよ。聡明な子だ」

「うん、あいつはしっかり者だから、親父のことも安心して任せられる。本当に、立派な妹だよ」

 キリルの目は遠い彼方を向いていた。静かな声音の中に抑え切れない寂寞感が入り混じっている。

 それが何故か知るクルトは同じように彼方へと視線をやった。

 山の向こうにまで広がる晴れやかな青空程、二人の胸の内は清々しいものではない。

「もう会えないんだろうな」

 ぽつりと零れた言葉が、クルト自身思いも寄らぬ程ひっそりとうそ寂しく響く。

「僕はこの通りだし」

 杖を軽く持ち上げ、石畳の上でコツンと慣らしてみせる。取り成すようなおどけた振る舞いにキリルは苦笑した。

「そうだなぁ、三年も経てば、ここでまたこんな風にひょっこり会えるかもな」

「どういう意味だ?」

「……冗談だ。忘れろ」

 荷物を抱え直す姿を見ていると、別れが差し迫っていると感じた。

 キリルは旅人作家の元で修行をしている。つまり、旅から旅への生活をしている。

 一方クルトは不自由な身で、自らの意思で家を出ることもできない。ロニが成長すればブランデルの供という役目も無くなる。

 今も、もしブランデルが近くにいれば、こんな風に呼び止めて心安く会話することもできなかっただろう。このキリル・ハルトネンという男は、故郷の街を出たのだから。

「そうだ、クルト。今後こうして話せない代わりに、というのはなんだが、一つ頼みがある」

「頼み?」

「手紙のことを聞いたなら、きっと『荷物』のことも知っているだろう?」

「ああ、お前の作品なんだろう?」

「そんな立派なものじゃない。あれには作品価値なんてまるで無いからな」

 自虐的なことを言っているが、言葉の醸し出すいじけた雰囲気を、明朗な笑声がすっかり打ち消してしまっている。クルトもつられて小さく一笑した。

 柔らかな空気も束の間、キリルは凛々しく整った精悍な顔をくっと引き締めた。

「あれに僅かでも価値があるとしたら、それを見出せるのはお前だけだ、クルト」

 肩を支える手に、じわりと力が込められる。

 真剣で力強い眼差しに気圧されそうになりながらも、クルトは微笑顔を崩すことなく答えた。

「随分買い被るじゃないか。期待に添えるか分からないけど、お前が望むなら、約束する」

「ありがとう」

 キリルが父に向けて送り続けている『作品』について、沸騰し始めた水のようにふつふつと疑問が沸きだしてくる。

 だがそれも、友人との貴重な時間が残り少ないことを思えば、自然に頭の隅へ押しやられた。

 考えることは後でもできる。今はただ、この偶然を享受すべきだと素直に思える。

「とても幸運な巡り合わせだった」

 キリルの目を正面から見据えてそう告げると、彼もまた、同じようにして深く頷いた。

「会えて良かった。それじゃあ、元気でな」

 その言葉を合図に、どちらからともなく手を離す。

「ああ、キリルも。道中気を付けて」

 杖をしっかりと着いたのを見届けると、キリルは片手を上げて笑顔を向け、くるりと振り返った。迷いの無い足取りで出版協会の中へ入って行く。

 キリルの支えを失うと、途端に足の痛みを感じた。

(教会まではもう少し。それを見たら、どこか町の片隅で足を休めよう)

 待っていればもう一度話すことができると考えないでもなかったが、時間は容赦なく流れていく。ブランデル家の使用人に二人でいるところを見られでもしたら、お互いに苦しい状況になるのは火を見るより明らかだった。

 未練がましい考えを振り切るように、痛む足を半ば引き摺るようにして歩調を速めた。

(これだけ経っても、何も変わらない足だ)

 キリルの反応を見て、すぐに下手な嘘がばれたのだと気付いた。

 だが、不思議と嘘をついた罪悪感は無く、この場で自分が言える最良の一言だったとさえクルトは自負していた。

 九年振りに再会した旧友に告げる真実の数は、そう多くなくてもいい。

 一歩、また一歩と距離が開く毎に表情が消えていくのを感じる。

 教会の前に立つ頃には、すっかり平静を取り戻し、怜悧な顔つきに戻っていた。

(町の規模に不釣合いな程大きな教会だ。交易地はこういうものか)

 真新しい色合いの外壁を見て驚嘆の溜め息を漏らす。

 家を離れた地で交易することに他意は無いと身の潔白を証明する為に、仰々しいまでの教会を建立しているのだろうとは分かる。

 分かるが、クルトの驚きというのは感嘆や賛美のそれとは全く違っていた。

(そうまでして交易が必要だろうか。この町も、この町へやってくる貿易商達の街々も、不作や物資不足に喘いでいるわけでもないのに)

 それはブランデル家の養子となってから幾度と無く胸中に燻っていた疑問だった。

(生活に必要不可欠とは言えない装飾品や花の類を求める欲求が、信心と矛盾しないとでも思っているのか)

 道行く人々を見渡すと、そそくさと落ち着きなく動き回っているようだ。木々のざわめきのような話し声があちこちで上がり、町全体がそわそわと浮ついてきている。先刻とは明らかに様子が違っている。

 屋台の主人達はクルトと目が合うと、愛想良く微笑んで会釈なんかをしてみせた。彼程の身なりをしていれば、誰でも上流階級だと分かる。関わりたくない気持ちもあるが、懐具合に見当を付け、内心では戯れにでも何か買って行ってはくれまいかと思っていることだろう。

 クルトは懐から小銭入れを取り出すと、その内の一軒に近付いた。

「少し、品物を見せてもらっても?」

「勿論、どうぞ。うちで扱っているのは、ここらの名産の細工物ですよ」

 両手を広げて心底誇らしげにしている店主の年の頃は、恐らくクルトと同じくらいだろう。どっしりとどこかふてぶてしく構えている他の店主達とは一風変わった雰囲気を纏う青年だった。

「へぇ、鉱石を磨いて細工を施しているのか……、面白いね」

「硬貨にも宝石にもならないクズ石が土台なもんで、女は嫌いますがね、これがなかなか、細工師の腕は一級品ですよ。なにせ、教会の補修の時にも呼ばれたくらいですからね」

「ああ、美しいと思ったら、補修をしたんだね」

 教会を振り返って頷きながらそう言うと、主人は気を良くして破顔一笑する。

「そうでしょう? 町の者が総出で直したようなもんで、すっかり建て直したみたいにぴかぴかですよ。今日はこれからヤースコ卿が遣使を連れておいでになるっていうんですから、見て頂くのが今から楽しみでね」

「ヤースコ卿が……」

「ええ、ええ。報せを受けて、皆お迎えの準備で忙しくしているところですよ」

「成る程」

 急にそわそわしくなったのはこの為かとクルトは得心しながら小銭入れに指を差し入れた。

「僕のような旅人は早々に退散すべきかな?」

 中を探りながら問い掛けると、主人は手を叩いて心底可笑しそうに声を上げた。

「何を仰る。旦那様は見た所良いお家柄のご子息でしょうに。旅芸人や旅人作家ならばいざ知らず、いかに厳格で有名なヤースコ卿とはいえ、この教会を美しいと賞賛する方を無碍にはなさらないでしょう」

 明朗な主人は、クルトの身分を信じて疑わないようだ。教会の正面に店を出し、大教会からの遣使の来訪を心から喜んでいる様子からするに、打算はなく、底抜けに実直で人の良い男らしい。

「女性ではなく、故郷で留守番をしている弟に贈りたい。何か見繕ってくれないか」

「はい、はい。喜んで」

 硬貨を幾らか渡して頼むと、主人は恭しく受け取り、笑みを深くして物色を始めた。

「坊ちゃんはお幾つくらいで?」

「十五だ。飴色の髪と、グレーの瞳に合いそうなものを」

 主人は布の上に置かれた品物から一つを摘んで持ち上げた。

「これなんかはいかがです? 細工職人の故郷では、成人の祝いに贈るものです」

 主人が見せたのは指輪だった。磨き上げられた鉱石の表面に細かな彫刻が施されている。中心には小ぶりだが緑色に光る石が嵌め込まれていた。

「うん、これにしよう」

 クルトが頷くと、主人は指輪を小さな布袋に収めて寄越した。

「弟想いでいらっしゃる」

「気紛れだよ」

 品物を受け取り、上着の内ポケットにすとんと忍ばせる。

 商品を買ったのは、クルトなりの情報料のつもりだった。

 『弟』の顔が浮かんだのは、恐らく偶然だ。

 立ち去る前に、もう一度教会へ向き直った。上から下までじっくりと見て、吐息の一つも無く立ち去る。

 気のいい主人は誇らしげにこの教会を語ったが、クルトの目には、圧倒的威勢を誇示する浅ましい権力者の立ち姿そのものとして映っている。

(しかし、ヤースコ卿が向かっているとは……、ブランデルさんが喜びそうな話だ)

 教会周辺は大きく道を取っていて見通しがいい。往路を戻らずとも商館へ行けるかもしれないと辺りを見回しているクルトの死角を一つの人影が掠めた。

 虚を衝かれてびくりと肩が跳ね、その拍子にバランスを崩してしまう。慌てて石畳に杖を突き立てるが、踏ん張りの利かない左足ががくんと曲がった。

(しまった――)

 衝撃に備えて咄嗟に目を閉じたが、地面に体を打ち付ける前に、誰かに支えられた。

 柔らかな感触に続いて、ふわり、と甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「ごめんなさい。お怪我はありませんか?」

 目を開けると、真っ直ぐに伸びた長いブロンドが揺れていた。

「あの、もし……、どこか痛みますか?」

 新緑を思わせる浅緑の瞳が不安げにクルトを見ている。

 倒れ込みそうだった上体を女に支えられていると漸く気付いてクルトは体勢を立て直した。

「本当にごめんなさい。先を急いで周りをよく見ていなくて……」

 マントを羽織った旅装姿の女は、憂えた眼差しをクルトの足へ向けている。

「いえ、少しぼうっとしていて、驚いただけですから、お気になさらず」

「でも……」

「こちらこそ、女性に凭れ掛かるとは、失礼をご容赦頂きたい」

 慇懃に頭を下げられてはそれ以上謝罪を重ねることもできず、女も丁寧なお辞儀を残してマントを翻した。急いでいるという言葉通り、小走りで駆けていく。

 気を取り直してクルトも歩き出す。向かいから歩いて来る人波を避けて道の端へ移動した。

 建物の裏を通る道は所々舗装が甘く足を取られかけたが、教会へ向かっているであろう集団から逃げるには好都合でもあった。

(人の流れができ始めている。いよいよ町中に報せが回ったということだろう。となれば……)

 恐らく、ブランデルが自分を探している筈、とクルトは商館を目指していた。

 自由にしろと言われてからいくらも時間は経っていないが、状況が変わった。コティティエ教の中でも最も権勢を誇る幹部の一人であるヤースコ卿が来たとなれば、ブランデル達貿易商はご機嫌伺いに殺到する。その場に、同行者であるクルトが不在というのは、色々と具合が悪いのだ。

(叱責は御免だ)

 気は焦るが、商会の建物が中々近付いてこない。

 逸る気持ちを抑える為に、何気なく町とは反対側を見た。石畳が途中から芝生に変わっている、町の外れの方だ。

 大きな荷物がいくつか固めて置かれている。

 そしてよくよく目を凝らして見ると、それらに埋もれるようにして、人が一人、座っていた。

 芝生の色よりも濃い、深緑のローブで全身を覆われていて、性別も年の頃も分からないが、それは確かに人だった。

 ――まさか。

 その出で立ちにクルトの心臓が大きく脈打つ。

 キリルは、旅人作家にはなっていないものの、師について旅をしていると言っていた。

 師のことを、キリルははっきりと褒めた。『飛び切りだ』と。

 クルトの頭の中で断片的な情報が一つの仮説として組み上がっていく。

 飛び切りの先生を見つけたというキリル。形振り構わず先を急ぐ旅装の女。ローブで姿を覆い隠した旅人。

 ある人物の名が頭に浮かび、クルトは思わず目を逸らした。

(もしそうなら、キリルは一刻も早く移動すべきだ)

 露天商の言葉が蘇る。

 ――旅芸人や旅人作家ならいざ知らず。

 今この町へ馬車を走らせているのは、コティティエ教の厳格なる幹部だ。

 それがまずい状況だとクルトは知っていたが、報せは既に町に広まっている。商会は勿論のこと、旅人作家から原稿を買い取る出版協会にも真っ先に伝えられるだろう。お互いの利益の為、すぐに町を出るよう進められるに違いないとクルトは高を括っていた。

 だが、もしあのローブの人物が『その人』で、キリルがその弟子だとするならば、話は変わってくる。

 クルトは何度か足踏みをするようにその場で右往左往した。

(気付いているだろうか。これだけ町の様子がざわついていればさすがに気付いている筈だ。もしあの女性が旅仲間だとするならば、確実に報せは耳に入る。だがそれは都合のいい解釈でしかないか?)

 自問自答を繰り返しながらもう一度視線を向けたが、ローブの人物は眠っているのかという程微動だにせず、ただ静かに荷物の一部と化している。

 とにかく、この場からは離れるべきだろうと杖を持ち上げた時、正面から見知った顔が駆け寄ってきた。

「ああ、よかった。クルトさん! 旦那様がお呼びですよ!」

 走ってきたのはブランデル家の使用人だった。随分探し回ったのか、額に汗を浮かべている。

 クルトは人知れず奥歯を噛み締めた。

「すみません、すぐに向かいます」

「そうして下さい。さあ、手を貸しましょう」

「折角ですが、杖に慣れているので」

 使用人は何も言わずに差し出した手を引っ込めた。彼の思惑は分かっている。一刻も早く主人の元へ向かわせる為、僅かでも早く歩かせたいのだろう。痛みを堪えて歩き出したクルトを横目に見る侮蔑を含んだ眼差しが全て物語っていた。

 だからといって、クルトは別段腹を立てることも、悲しむこともない。彼もまた、特別な許可の下に家を離れているという状況で、神経が昂ぶっているのだろう。

 クルトの頭の中は、別の心配ごとでいっぱいになっている。

(呼びつけられては仕方ないと、僕は今安心しているのだろうか)

 使用人に遅れないよう足を速めながら、ふとそんなことを考えた。

(この足ではどの道間に合いようも無かったと、大義名分を求めているのか)

 ――人並みに走ることができたなら。

 怪我を負って以来、随分久し振りにそんなことを考えた。

 商館の周りには人だかりができていた。皆正装で畏まっているが、ヤースコ卿来訪で子供のようにはしゃぎたがってうずうずしているのが見て取れた。

 人垣の中からブランデルが興奮気味にクルトを呼ぶ。呼んではいるが、クルトにその場で留まるよう手で合図を送り、珍しく小走りをしてきた。

「遅くなり、申し訳ありません」

「そんなことはいい。報せが早くてな、実際にはまだ一つ前の町を発たれたばかりのようだ」

「そうでしたか。間に合って良かった……」

「殊勝なことだ。結構、結構」

 ブランデルは安堵の溜め息を漏らすクルトの肩を叩きながら哄笑する。

(うまく誤解してくれて良かった)

 クルトの溜め息は、ブランデルが考えているようなものではない。

 それだけ時間があれば、キリルも、『彼』も無事逃げおおせるだろうと安心したのだ。

「ヤースコ卿にお会いできるとは幸運なことだからな! ああそうだ、その時なんだが……」

 ブランデルがこそりと耳打ちをしてきた。

「『あれ』の振りはしなくて良い。ヤースコ卿にはいずれ正式にご挨拶の機会があるかもしれないからな」

 成る程そうきたか、とクルトは頷いた。

 クルトはその時々、必要に応じて与えられた役目を演じている。

 故郷の街の中では『事故死した兄代わりの養子にして家庭教師』、遠く離れた街では『事故で怪我をしたブランデル家長男』と名乗る。

 今回もてっきり長男のアルヴィー・ブランデルとして振舞うことを要求されるかと思ったが、それすら不要のようだ。

(ヤレンナミケンには今後もやってくるつもりなんだろうな)

 クルトは養子として迎え入れられ、長男という位置に据えられてはいるが、世継ぎは実子のロニだ。後数年もすれば、こうして旅の供をするのはロニになる。

 ブランデルはそれまで体裁を保つことばかり考えている。

 商会で挨拶をさせなかったのも、自ら人垣を外れてクルトに歩み寄ったのも、この為だったのだ。

 声の届かない距離にいる同業者達には、足の悪い使用人にまで心配りをする大人物に見えていることだろう。

「承知しました。必要があれば、私のことは使用人の一人としてご紹介ください」

「お前は理解が早くて助かる」

 ブランデルは安堵感と傲慢さがない交ぜになった悪辣な顔で深い笑みを浮かべると、クルトの肩を軽く叩いた。

 ブランデル家におけるクルトの立場は複雑怪奇なものだ。仕事の面ではロニの家庭教師というのが一番の割合を占めているが、こうしてブランデルの顔を立てる為の役者になることもある。

 ブランデルは実に注意深く相手を見極めて、死んだ筈の息子が一命を取りとめてこうして回復したと嘯くこともあれば、元より長兄などいなかったかのようにロニの話しかしないこともある。そして今回、ここに集まった同業者とヤースコ卿には、後者の態度を取るのだろう。

(まるで道化だ)

 変わらぬ顔のずっと奥で、静かに毒づく。

(とても哀れで、後ろ暗い道化だが、それ以外に僕が生きる術はもう無いんだ)

 体の奥底から湧き上がってくるような自嘲の笑みを押し込め、左足を擦る。

「ところでクルト、教会は見たか?」

「ええ、補修をしたようで。細部まで立派なものです」

「そうだろう。私も感心したよ。これだけの規模の町で、よくあれだけのものを管理している」

 ブランデルはまるで自らの功績のように誇らしげな顔をしている。コティティエ教に心酔し切っている彼にとって、ヤースコ卿は絶対真理にも等しい存在なのだ。恐らく、理屈の及ばない程の熱狂なのだろう。

 例えるなら、ロニがヴァルデマル・ファルチについてそうであるように。

 その点においてのみ、この父子の親子たる類似を感じる。

「お前の荷物は宿に運ばせている。後で場所を訊いておきなさい。卿への挨拶さえ済めば、今日はもうゆっくり休むといい」

 常らしからぬ柔和な面持ちで甘いことを言う。

 彼の人を心待ちにするあまり、嗜虐趣味もなりを潜めたのだろう。

 クルトは、畏まって頭を下げた。

「旦那様、このように素晴らしい機会を賜ったこと、心から感謝致します」

「うん、うん。良い心掛けだ」

 益々笑みを深くし、クルトの肩を親しげにぽんと叩く。

「では、卿が到着なされたら、頼んだぞ」

「はい、旦那様」

 すっかり気をよくしたブランデルが悠然と歩き出し、意気揚々と人垣の中へ消えて行くのを見送って、クルトは一目に付き辛い建物の端に寄った。

(哀れな道化でも、今回ばかりは、感謝すべきだな)

 キリルに会えたこと、僅かでも言葉を交わせたことは、面倒な役目も、痛む足をも軽く凌駕する喜びだった。

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