第5話 クルト・カレンの日常

 礼拝から戻ったブランデルは着替えもせずクルトを呼びつけた。

 応接間に来るようにと扉越しに言いつけられたクルトは憂鬱な気分で自室を出る。

 応接間は苦手だった。

 来客を迎える場所という特性上個人の私室からは離れた所にあり、内密な相談事にはおあつらえ向きの部屋だ。重厚な調度品の圧迫感がもたらす息苦しさもさることながら、クルトはその部屋に置かれている椅子を嫌っていた。

 職人に細かく注文をつけて作らせた一級品というだけあって、座り心地は良いらしい。

 らしい、ということしかクルトには分からない。

 柔らかく沈む座面は、足の悪いクルトにとっては曲者だ。

 深く腰を沈めてしまうと、立ち上がる時に余計な力が必要になる。杖と肘掛を駆使しても、普段より足を踏ん張らねばならず、無駄な力が入ると痛みが増す。

 そして、この部屋を指定して話すような用件といえば決まっているのだと、クルトはその点でも気分を沈ませていた。

 部屋の前で小さく溜め息を漏らし、覚悟を決めて息を吸い込む。

 扉を叩き、中で待っているであろうブランデルに入室の許可を請う。

「入りなさい」

 尊大な返答を聞いてから扉を開ける。一礼の後顔を上げると、自慢の椅子にどっかりと腰を落ち着けていているブランデルが見えた。

「遅くにすまないな。まぁ、座りなさい」

「失礼します」

 向かいの椅子を示され、杖先を向ける。

 空気の流れが重く淀んでいるように感じた。

 窓もなく、家具の類は全て暗い色で統一されている。壁紙も敷物も、規則正しい模様が連なった堅苦しい柄をしていて、深い赤と濃い茶色という組み合わせもまたこの部屋をいっそう陰鬱なものにせしめている。

 酒の満たされたグラスを持つブランデルはとても居心地が良さそうだ。恐らくこの主人の趣味で覆い尽くした部屋なのだろうことは考えるまでもない。この部屋は、このブランデルという男そのものを映し出したかのように重苦しく、威圧的で、立派な調度品すらも居丈高にこちらを見下しているように感じる。

 クルトが注意深く椅子に座る様を冷然と見遣りながら酒を一口飲み、グラスを置いた。

「ヤレンナミケンという町を知っているか」

「ええ。存じております」

「主だった交易品は?」

「鉱石と宝飾品が有名ですね。周辺の小さな村には細工師が多いとか。それ以上に、山間の拠点地ですから、他の町には無い大規模の商館が特徴的かと」

 ブランデルがにやりと口元を歪めた。

「お前は話が早くて助かる」

「ヤレンナミケンへ行かれるのですね?」

「物見遊山では行ったことがある。その日の内に戻らねばならなかったから、町をぐるりと見て回った程度だったが……あれは何年前だったか」

「六年前ですね」

「ああ、そうだったか。お前には留守を任せていたのだったな」

「僕の足では、ご迷惑をかけることになったでしょうから」

 六年前、クルトは既に養子としてブランデル家で過ごしていたが、その日は一人屋敷の中で一家の帰りを待っていた。

 足の兼ね合い、というのも丸きり嘘というわけではないが、一家団欒に水を差さないように配慮した上でのことだ。クルトとしても、同行せず屋敷内で読書でもしていた方が随分気が楽だと思っていたのを思い出す。

「山間の町とはいえ、貿易拠点なだけあって道が整ってきている。調べさせたところ、そう時間は必要ないようだ。教会守様も、道中気をつけてと笑っていたからな」

「旦那様の信心をもってすれば、遅過ぎた程ですね」

「お前は賢い男だ。私の喜ばせ方を知っている」

 再びグラスに手を伸ばし、上機嫌で酒を飲む。

「使用人共は分かってはおらん。礼拝に来ていた料理番に今の話をしてみたところで、私の信心が漸く教会の信用を得るに届いたなどと言いおって」

「それは、それは……。旦那様の信心は、元より横溢するほど満ちているというのに。不敬な発言です」

「世辞であってもお前の言葉は心地いい」

 クルトの表情は微動だにしない。眉目秀麗な青年が凍て付いたような顔からつらつらと放つ賞賛の言葉は、ブランデルの自尊心を大いに満足させた。

「やはり、仕事の供は愚図ではいかん」

(ああ、やはり――)

 ――思った通りか、とクルトは心中で呟いた。

 ブランデルの旅の供をするように言いつけられるのは初めてではない。知識の多いクルトは何かと旅の助けにもなるし、ブランデルの仕事振りを記録と記憶に残して、後々ロニの頭に押し込むという役割もある。

 ロニはまだ年若く、境遇のせいもあってか、同年代の子供達よりも夢見がちで幼い言動が目に付く。仕事を学ばせるにはまだ浮ついているというのはクルトも概ね同意見だ。

「今回は下見のようなものだから、お前は町の見物でもしてくれればいい。どうだ?」

「承知しました。お供します」

 どうだ、などと伺い立てるような素振りを見せているが、クルトに拒否権など無い。この家の絶対の主人であるこの男に言われれば頷くことしかできないのだ。

 クルトは自身の立場を誰よりもよく理解していた。

「詳しい話は改めてしよう。今日はもう休むといい」

「はい。失礼します」

 絨毯の上に杖を着き、体に力を入れる。手ばかりに集中させると体が傾いてしまうが、両脚を均等に使うことはできない。杖と右足でなんとか立ち上がる姿を、ブランデルはグラスに口を付けながらも、やはりじっと見ていた。

(嗜虐的というべきか……ともかく悪趣味な人だ)

 努めて視線を気にしないよう扉を押し開け、やっとの思いで廊下に出る。

 音を立てないよう注意深く重い扉を閉ざすと、無意識に溜め息が漏れた。

(こういう時は、何も考えない方がいい。部屋に戻って、すぐに眠ることだ)

 暗い廊下を一人で歩いていると、思考も気分も沈んでいくというものだ。

(明日は本を探しに行こう。不在の間、少しでも読ませておけば、ブランデルさんも暫く口出しを控えるようになるだろうから)

 じわじわと這い寄る影のように頭を侵食する不安を振り払う為、クルトは半ば無理矢理に明日のことを考えていた。

 首に縄を繋がれた使用人であると思うと、ひたすらに陰鬱な気持ちになるものだが、教師であると意識を変えてみれば、その重苦しい感情は不思議と僅かに軽くなる。

(自分で思うよりずっと、僕は教師であることを気に入っているらしい)

 自嘲を噛み殺しながら小さく息を吐いて、自室の扉を開けた。



 翌朝、クルトは一人で屋敷の外へ出た。

 歩く人はまばらで、開いている店も少ない。石畳に杖と靴音を響かせながら、クルトは迷いの無い足取りでとある場所へ向かっていた。

 辿り着いたのは街の中でも殊更大きな建物だった。ノッカーを掴み、木戸を叩く。

「やあ、いらっしゃい」

 精悍な顔立ちの壮年の男がにこやかにクルトを出迎える。クルトは恐縮して頭を下げた。

「すみません、まだ早いですよね」

「何を言っている。君と私の仲じゃないか。さあ、こっちへ」

 カウンターの前に椅子を置き、座るよう促す。

 クルトは好意に甘えて腰を下ろした。

「ここへ来るのは久し振りじゃないか」

「ええ、本当に」

 天井まで届く書棚が壁を埋める店内を見回す。

 ここは出版協会だ。

 出版協会とは印刷物を扱う商会のことで、新聞や専門書、絵本や娯楽本まで手広く扱う。

 カウンターの奥には更に広い部屋が幾つもあり、印刷に使う為の装置もある。それぞれ主要な仕事毎に責任者が配置され、その下に下働きが多数控えている。元々はそれぞれ独立した店を構えていたが、戦後、製紙技術が向上したことを切っ掛けに、作業を効率的に行う為合併した。

「元気そうだね」

「ハルトネンさんも」

 ハルトネン、というこの男は、蔵書管理と原稿の買い取りをする部門の責任者で、この出版協会の顔役にもなっている。中流階級ではあるが、商才を認められ、上流階級の間でも一目置かれる人物だ。

「今日は何か探しに?」

 出版協会では一部の本を直接買うこともできる。置かれているのは殆どが貴族向けの硬い内容のものばかりだが、クルトは昔から何度か買い求めたことがある。

「ええ、貿易史について纏められたものが無いかと」

「貿易史ねぇ、今更君が読むのか?」

 分厚い目録を開きかけた手を止めて、問い掛けた。クルトは緩く首を振って答える。

「いえ、僕ではなく、ロニが」

 ハルトネンは更に怪訝そうに眉根を寄せた。

「あの子が? あの子にはまだ難しい内容だろう」

「少し難しいくらいが、向上心を刺激できるかと思いまして」

 クルトがそう言うと、ハルトネンは目を細めて穏やかに微笑む。

「すっかりいい先生だな、君は。どれ、目ぼしいものを幾つか見繕うから、そこで待っていなさい」

「ありがとうございます」

 目録を開いて確認し、書棚から三冊程取り出してきたハルトネンが戻ってくるまでそう時間はかからなかった。カウンターの上に詰まれたそれを手に取り、中身に目を通す。なるべく平易な物を用意してやりたい。ロニは決して不真面目な生徒ではないが、過度に難解な学術書に進んでかぶりつく程、まだ後継者としての自覚や意欲がないのも確かだ。

(できるだけ、物語調で纏められているものがいい。それならあの子も、多少は興味を持つだろう)

「本当に、いい先生だ」

 紙面にじっと視線を落としているクルトに、ハルトネンはもう一度同じ言葉を掛けた。

 クルトは顔を上げ、精悍な顔立ちが作る穏やかな微笑顔を不思議そうに見詰める。

「坊ちゃんはどんな様子だい?」

「相変わらずですよ。相変わらず、無邪気で、夢見がちで、とても純粋だ」

「そうだな。あの子は不思議な子だ。賢い子なのに、あの環境の中でも真っ直ぐでいられる」

「……そうですね」

「君のおかげなのかな?」

「いえ、僕はむしろ、」

 その時表の扉が開いてハルトネンを呼ぶ声がした。

「ああ、馴染みの配達人だ。ちょっと失礼」

 カウンターを出て扉に向かう。二、三言葉を交わして見送ると、一抱えはありそうな荷物を持って戻ってきた。カウンターに戻ってもハルトネンは荷解きはせずにそのまま置いていた。

「ハルトネンさん、お仕事の邪魔になりそうなら、出直しますが……」

「ああ、気を遣わせてしまったな。これは、そういうことじゃないんだ」

 傍らの荷物をぽん、と気軽な様子で叩き、悪戯が見付かった子供のように笑う。

「放蕩息子からだ」

「そうだったんですか。もしかしてそれは、作品、なんですか?」

 ハルトネンは顔を顰めて俯いた。

 ハルトネンには息子が一人いる。今はもうこの街にいないから、正確にはいた、と表現するべきだろう。

 その息子はある日、旅人作家になる、と宣言して街を出たという。

 どうやら、その息子が書いた作品が送られてきた、ということらしい。

「才能に恵まれなかった哀れな息子の作品なんぞ、ここくらいでしか受け取ってやれない。出来が悪くてとても人には見せられないから、うちの倉庫に積み上げてあるんだ」

「そうですか……、内容はどんな?」

「日記みたいなものだよ。何冊もずっとそうだ。諦める気もないようでね」

 ハルトネンの声は硬く、まるで用意された台詞を読み上げているように淡々としていた。つい今しがたまでの打ち解けた空気が、ぴんと張り詰めていく。

 クルトは何も言わずに、足元へと荷物を降ろしてカウンターの中へ隠してしまうまでを見届けた。

 しん、と静まり返った中、ハルトネンは小さな咳払いの後に、小さな声で、『それでも』と続けた。

「一緒に届く手紙は悪くない。他愛もないことばかりだが、ずっと心惹かれるよ」

 息を含んだ密やかな声に、クルトはやはり無言のまま頷いた。

 再び訪れた沈黙を割り開きながら、店の奥からコツ、コツ、と靴音が近付いて来る。

 音の方を見ると、そこには女が一人、盆を持って立っていた。

 その上には二つ、ティーカップが置かれている。

 女は、微かな音だけを立てて、それをクルトとハルトネンの前に置いた。

「どうぞ。今日は冷えますから」

 しっとりと落ち着いた声音は、女にしては少し低めだ。

 癖の無い髪を一つに纏め、化粧気がなく、華やかさこそ無いが、凜として整った美しい顔立ちをしている。

 クルトは彼女の淡褐色の瞳を見て礼を言った。

「ありがとう、エレナ」

「いえ。ごゆっくり」

 エレナ、と呼ばれた女は愛想なく頭を下げたが、クルトには充分な歓待だった。クルトに向かって『ごゆっくり』などと言う者はこの街に殆ど居はしない。ハルトネンと、彼女くらいのものだ。

 エレナはハルトネンの娘で、例の『放蕩息子』の妹に当たる。この兄妹とは幼い時分からの付き合いではあるが、近頃では顔を合わせることも無くなった。

 娘の後ろ姿を見送って、ハルトネンは再び項垂れた。

「あれにも業を負わせてしまった」

「エレナ、ですか?」

「ああ、兄のせいで結婚も難しい。もっとも、本人にもそんな気はないようだが、父親としては心配でね」

 まだ充分に若いが、少女というには少し歳を重ねている。元より彼女には少女然とした雰囲気というものが無いことをクルトはよく知っていた。幼い頃から聡明な才女で、年頃になっても恋愛より学問に没頭していたくらいだ。兄とクルトの間に割って入っては、教えて欲しいことがあるの、と二人を質問責めにしていたのを今でも鮮明な記憶として思い出せる。本を覗き込む真剣な横顔こそ、彼女らしくて愛らしいと思ったものだった。

 カップを手に取り、ゆっくり傾ける。ちょうど飲み頃の温度に彼女の気遣いを感じた。

「もう九年だ」

「はい」

 重苦しい呟きを、クルトも噛み締める。

「足の調子は?」

 ハルトネンの視線は、クルトの杖に向けられていた。

「ええ、変わりなく」

 事情をよく知るハルトネンに対して強がりや気休めを言う気にもなれず、クルトは曖昧な事実だけを答えた。

「そうか」

 知る、というより、共有している、という方が彼らの間では正しいかもしれない。

「すまないことをした、本当に……」

 本の上に乗せられていたクルトの手を両手でそっと包み、恭しく持ち上げ、額に当てた。

 クルトは黙して身を任せていた。

 気休めや強がりは通用しない。

 生温く優しい嘘も意味を成さない。

 例えば杖を隠してしまっても、クルトの足が何ら変わらないように。

 それ程無意味で愚かなことなのだ。

 酷く苦しそうに陳謝する姿は、見ているだけでも沈痛な気持ちになるが、互いにその苦痛を与え合うことが、一種の『懺悔』になるのだろうと、クルトは思っていた。

「少なくとも僕のことは、ハルトネンさんが気に病むことではないですよ。僕はキリルのことを今でも友人だと思っています」

 そうして結局、クルトの口から出るのは、曖昧な事実に終始する。

 ハルトネンの手が離れた。

「君は強い男だ。だが、いつか時がきたら、俺は君にせめてもの償いをしたい」

 真摯な瞳を見ずとも、彼の誠実さは痛い程に伝わり、答える言葉が出てこなかった。

 その申し出を断ることは、ハルトネンという人そのものを拒絶することに等しい。

 だが、彼から償いを受ける必要性を、クルトは本心感じていなかった。

 それを上手く伝える言葉が思い浮かばない。

 そして同時に、それを伝えることは、そもそも彼の為になるのかと考えてしまう。

 償うことを望む者を、そんなものは必要無いのだと説き伏せたところで、彼は心安らかになるのだろうか。行き場の無い思いを抱え、自身の罪の意識に折り合いをつける術を失い、より一層煩悶するだけではないのか。

 あれこれと考えてしまうのはクルトの癖のようなものだが、友人の父相手であれば尚更だった。

「長居をしてしまいました」

 一度考えるのを止め、本を一冊選び、懐から取り出したコインを手渡す。

「ああ、こちらこそすまなかったね。楽しくない話だった」

 我に返ったハルトネンが頭を掻きながら謝れば、強張った空気も徐々に和らいだ。

 コインがハルトネンの掌に触れる寸前、クルトは顔を下向けて、あの、と呟く。

「また話をしに来てもいいですか? 勿論、ご迷惑にならない時にだけ」

 ハルトネンは軽く目を瞠って一瞬動けずにいたが、程なく目尻に皺を寄せ、大きく頷いた。

「ああ、勿論だとも。その時はエレナに茶の用意をさせよう」

「それは有り難い。エレナの淹れたお茶は美味しいですから」

 まるで含みの無いゆったりとした笑顔は、見ている者まで穏やかな心持にさせるようで、答えるクルトも、どこか力の抜けた風だった。

「では、僕はこれで」

 カウンターに手をついてゆっくり立ち上がる。杖を掴み、本を持つ一連の動作を、ハルトネンは心配そうに見守った。

 そうしてクルトが問題なく歩き出したのを確認してからカウンターを出ると、少し先回りをして扉の前に立つ。

 年長者に扉の開閉をさせるというのは申し訳なくて気が引けたが、辞退したところでハルトネンは『自分がしたいだけだから』といつも譲らないのだ。最近ではこの遣り取りもまどろっこしくなり、言葉を交わすこともない、日常的な行動になっていた。

 ノブを掴んだハルトネンが、ふと思い出したように首を捻る。

「そういえば、話が途中になっていなかったかな?」

 配達人が来る前のことだとすぐにぴんときたが、クルトは頭を振った。

「忘れてしまいました。大した話じゃあなかったんですよ」

 朝食の時間に遅れてしまうのでこれで、とやや一方的に別れを告げ、表に出る。

 朝市の屋台で賑わい始めた通りを抜け、ブランデル邸に戻ると、丁度朝食室に向かうところだったロニに鉢合わせた。

「先生、お帰りなさい」

 出掛けているとは知らなかったのか、ロニが目を丸くしながらも出迎える。

「ああ、いいところで会った。ロニ、これを」

 クルトが差し出した本を両手で受け取って、ロニはしげしげと表紙を見た。自分に与えられた物だとは思っていないらしい。

「貿易史の本だ。僕は旦那様の仕事に着いて行くことになったから、その間授業ができない。少しでもいいから読んでおくように」

 ロニは本を抱えてぽかんと口を開けていた。

「どうした? 分からないところは帰って来てから教えるから、導入部だけでも、」

「いいえ、そういうことではなくて……」

「じゃあ、何?」

「次は少し遠出をすると聞いていたので……、先生のお体に障るんじゃないかと」

 おずおずとこちらを窺うロニの目を見ていると、自然にハルトネンの言葉が思い浮かんだ。

 ―― あの子は不思議な子だ。賢い子なのに、あの環境の中でも真っ直ぐでいられる。

 ――君のおかげなのかな?

(いいえ、違います、ハルトネンさん)

 あの時、深く追及されなくて良かったと胸を撫で下ろす。

 クルトの足は元通りになることは無いと医者に言われている。杖無しではただ歩くことすら難しい程だが、周囲の人間は誰も気遣わない。

(例えば、そんな奇特な人間がいるとするならば、あのハルトネン父娘か、あるいは――)

 透き通った灰色の瞳が、黙ったままのクルトの動向を見守っている。

 光の具合で僅かに青みがかっても見えるその色は、両親のどちらとも違う。正真正銘血を分けた親子だが、ロニの形質的な特徴は祖父母のそれに近いという。

 そして、その気質的な特徴も、あまり両親には似ていない。

 ロニの両親であるブランデル夫妻は、クルトの足のことなど歯牙にもかけていない。

 無理を押して歩くと傷口が熱を持ち、それが全身に回って酷く体力を奪うことがあると知っていても、長旅の供を平然と言いつけるのだ。

 クルトは慣れている。そんなことは随分昔に割り切って受け入れることにした。

 ロニは、誰に似たのか、クルトの体に心を配っている。以前旅から帰った後、痛みと発熱に数日苦しんだことがあったが、その時も見舞う彼の方が今にも倒れそうな顔色をしていた。

「先生、お加減が良くないのですか?」

 不安そうに揺れる瞳から思わず目を逸らす。

「いや、なんでもない。僕のことはいいから、勉強に集中するように。他にも課題を出すからそのつもりで」

「……はい、分かりました」

 冷淡で硬い声音に素っ気無く言い放たれたロニは悄然として朝食室へ入った。

(これでいい。彼は僕の家族じゃないのだから)

 小さくなった背中を見送って、確認するように胸中で言い聞かせた。

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