第4話 礼拝の夜
その日はコティティエ教の礼拝の日だった。
礼拝は決まって夜に行われる。街の大人達は皆教会へ赴き、子供達は家で留守番をするのが決まりだ。
ロニとクルトは、身支度を整えたブランデル夫妻を見送る為、並んで立っていた。
「さあ、ロニ。見送りはもう充分だから部屋へ戻りなさい。出迎えもしなくて構わないからね」
ブランデルは甘い声でロニの頭をくしゃりと撫でて、一人自室へと帰らせた。
充分時間を取ってから、静かに控えているクルトへと視線を向ける。
ぎょろり、と皺の寄った瞼の下で眼球が動く様は爬虫類のようだ。
「ロニの様子はどうかね?」
クルトはその目に臆することなく、はい、と答えた。
「よく勉強しています。言われた通りの課題をこなしますし、向学心も見受けられます」
「そうか。君には全て任せきりにしてしまってすまないね」
「いえ、それが仕事ですから」
淡々と言葉を返して寄越すクルトを、ブランデルは品定めでもするようにじろりと見る。
「昨日はロニと図書館へ行っただろう」
そして、殊更低く威圧的な声でもって、そう言った。
だが、それでもクルトは眉一つ動かさず、
「はい」
とだけ答える。
ブランデルは拍子抜けしたのか、呆れ返って溜め息をついた。
「あの子はまだああいったものを読むのか? ほら、あの低俗な……」
「ああ、旅人作家の本ですか」
ブランデルは、その名を口にするのもおぞましいと言わんばかりに顔を歪めて額を押える。
「そうだ。あれは子供向けにいいとは聞くが、私はあんなものを読んだこともないし、読もうと思ったこともない。噂に聞くだけで耳がどうにかなりそうだ」
隣で夫人も大きく頷いている。夫の手前、慎ましやかに口をつぐんでいるが、腹の底では思うところがあるのだろう。
「ブランデルさん、心配いりません。ロニはまだ子供ですから、ただ純粋に創作物を楽しんでいるようです」
「そうかね?」
「ええ」
疑いの眼差しを向けられていると分かっていても尚クルトは神色自若としている。
「それに、ロニは勤勉ですが、まだ教養書を読み解ける程専門的な言葉は知りません。無理に押し付けて毛嫌いをするようでは困ります。なにせ、彼はこのブランデル家の跡取り息子、僕はその家庭教師ですから」
ブランデルは嘲笑を浮かべて鼻を鳴らした。
「ふん。確かにその通りだ。大事な一人息子が商売嫌いになっては困る。信用しているぞ、クルト」
「はい。ですかブランデルさんのご心配もご尤もですので、そろそろ生業に関わる本を見繕って読むよう勧めて見ます」
「うんうん、そうしてくれ」
顎髭を撫でながら首肯する様は、すっかり満足し切っている。
クルトが見るところ、このブランデルという男は相手を屈服させることに、ある種の快感らしきものを得ているようだった。したり顔で頷く姿には筆舌に尽くしがたい程醜悪ないやらしさがある。そして夫人も、そんな夫の姿にはまるで気付いていないようで、むしろ振りかざされた権力の残滓に心地よく浸っている。
「一日でも早く旅人作家なんてものからは卒業させてくれ。何故お前をあの子の家庭教師として迎えたか、忘れたわけではないだろう」
「勿論です。僕なら分かりますから。物語への憧れが、一線を超える瞬間が」
「そうだろうな」
ブランデルの声に、強い侮蔑の感情が滲む。それでもクルトは平静を崩すことなく真っ直ぐに見返していた。その手応えの無さに嘆息を漏らす。
「この様子なら今日はカレン氏に良い報告ができそうだ」
「恐縮です」
「カレン氏はお前のことを随分気に掛けているからな。立派にやっていると話せば、さぞ安心することだろう」
クルトは、そうであればいいのですが、と幾分歯切れ悪く零した。
「貴重な時間を愚息の不出来を嘆くことに充てさせるのでは申し訳なくありますから」
「案ずるな。ここでよく働けば、口添えくらいはしてやれる」
「ありがとうございます」
交わされる言葉とはまるで噛み合わない剣呑とした空気の中、夫人が辟易した様子で咳払いをする。
「あなた、そろそろ……」
「ああ、そうだな。では行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
扉が閉まるまで、クルトは静かに頭を垂れていた。
コティティエ教の礼拝は何よりも優先されるべきことだ。勿論、使用人をじわりじわりと言葉で追い詰める下卑た趣味よりもずっと。
夫妻が外出すると、広い屋敷にはクルトとロニだけとなった。他の使用達は皆自分達の家へ帰っている。
主人の帰宅を迎えないことは、さしたる問題ではない。
何故ならブランデル夫妻も、使用人達もコティティエ教を信教としているからだ。
コティティエ教は『家』を重んじている。
始まりは国境防衛戦争を和平協定締結という形で終えた頃まで遡るという。
激しい交戦によって国境周辺の町は焼かれ、多くの人々も犠牲になった。弱った国を慰める為、いつしか自然発生したという。
『家』と『家族』を何よりも崇高なものとし、それらを守ることが健全な人間の務めとしている。
教典は存在するが教主は存在しない。それぞれの教会には『教会守』という立場の者が置かれ、礼拝等を取り仕切る。
教典によれば、コティティエ教において婚姻以外に家を出ることは、家族の愛と繋がりに真っ向から対峙する背徳的行為であり、家を捨てた者は勿論、捨て置かれた家族にも不幸が及ぶとしている。
子供達は、生まれ育った街で一生を過ごし、新たな家族と共に『家』を繋いでいくことが人生最大の役目と教えられる。
コティティエ教は一般市民以上に上流階級達の中で広く支持され、貴族階級は皆入信している。高貴な立場の者達がこぞってが信仰していることで、中流階級以下の市民達も関心を示した。商売や社交会で上流階級に肩を並べる為、華やかな世界への憧れ……そんな軽率な理由も手伝って、今では国中に広がっている。
そして今では、人々の生活様式や道徳観念にまで根を張っていた。
先述通り、コティティエ教においては家を出ることを厳しく禁じている。故に貴族屋敷に仕える使用人達も、夜になれば必ずそれぞれの家に帰り、翌朝屋敷にやってくるという具合だ。貴族達の生活もその流れに沿うようになっている。供を必要とするような夜歩きはしないし、朝の身支度や朝食も一般市民よりずっと遅い時間だ。
それを、一般階級の間では『平等』を重んじていると大いに礼賛された。下位階級の者を支配すると言われている他国の横暴で粗野な貴族とは違っていると。
そうしたことを、大人達は自分の子へと伝えていく。これを教典の中で『訓戒伝播』といい、子供達は一人前となるまで礼拝に通わない代わりに、その親たる大人達が責任をもってコティティエ教について伝える義務がある、というものだ。
ロニもブランデル夫妻によくよく言い含められている。
そしてクルトも、彼の親に教えられた。
クルトは正式なブランデル家の人間ではない。『兄さん』と呼ばれることもあるが、ロニとも血縁関係は無く、八年前までは全くの他人同士だった。
八年前、クルトはブランデル家に養子として迎えられた。
彼の持つ本来の家名は、カレン、という。
カレン家は元王族親衛隊の一族で、祖先は突出した武才を見込まれ王家に仕えたが、和平協定締結以後、隊は解散、それまでの功績を賞賛する意味で貴族としての地位を与えられたという経緯を持つ。現在は上流階級に教える教師を多く輩出する家系として新たな地位を築いていた。
クルトはそのカレン家の中でも、群を抜いて優秀な頭脳を持ち、幼い頃から多くの教師に囲まれて知識を蓄えてきた。勤勉な少年であった彼だが、九年前、とある事故で足に怪我を負い、家督を継ぐことを断念した。
一方その当時、ブランデル家では良い家庭教師を探していた。
ロニを立派な後継として育てる為に、通いの教師では心許無い。日々いかなる時も教えを請うことができる環境が必要だとの考えで、ブランデル家に常駐できる人材が必要だった。だが、コティティエ教はたとえ同じ街の中であっても、家を離れることを決して許さない。その為に、ブランデル家はカレン家から『養子』としてクルトを譲り受けた。
そういう風に説明を受けているロニは、クルトのことを家の中では『先生』と、家の外では『兄』と呼ぶように指示され、それを疑うこともなく守っている。
クルトは学問だけでなく、上流階級の者に必要な作法や振る舞い、身だしなみについても細かく教育し、今のところは概ねブランデルの思惑通りに役目を果たしていた。
――但し、ある一点を除いては。
ブランデルは一つの大きな心配事を抱いている。
それは、ロニの趣味である読書についてだ。
ロニは観劇や楽器演奏、舞踊にはあまり関心が無い。かといっても、剣や馬術というのも遠い世界の話だとぴんときていないようだ。
ロニ少年がなによりこよなく愛するのは『物語』だ。
それもただの物語ではない。
ブランデル夫妻が望むような教養書ではなく、むしろ疎ましく思う物語書――旅人作家の作品なのだ。
旅をしながらひらめきを得て作品を生み出す旅人作家――その中でも、最も著名な作家がいる。
名を、ヴァルデマル・ファルチ。和平協定締結後、まだ大地も人々も戦禍の傷が癒えぬ頃に処女作が発表されたというが、作者たる人物については明らかでないことが多い。
『彼』は恐らく男性であると言われている。その名が男性名であることだけが根拠だ。作品の古さを考慮すると老年であると考えるのが自然だが、実際に彼が歩く姿を見た者は、老人の動きではなかったとも話す。
また、その作品の豊かな感性と巧緻な文章から、貴族以上の教育を受けた教養ある人物とも言われている。
だが、それらは全て噂に過ぎない。
ファルチは深い緑色のローブに身を包み、決して姿を曝すことは無く、声も出せないという。
謎めいた奇妙な振る舞いでありながら、実際に目撃されているのだから、これは確かに生きている人物として、様々な憶測や噂が飛び交い、もはや彼自身が物語の一つのようになっている。
(巧緻な文章というのも初期の作品に見られる傾向で、近年ではむしろ比較的平易な言葉選びをしているようだが)
ファルチの作品は文学的価値のあるものだと一部では認められている。初期の作品は架空の国家を舞台にした戦記であり、勇壮な戦士達の物語に加え、城中での陰謀渦巻く策略についても細やかに描かれている。それでいて、栄光の裏側にある悲壮な民の生活についてまで筆が及んでいる。これが史実であったならば、戦後のどの歴史書よりも価値高いものになっていたと書き残した歴史学者も存在している。
だが、現在においては、彼に夢中になるのは子供達ばかりになっていた。
大人達は旅人作家――中でも絶大な影響力を誇るヴァルデマル・ファルチを疎ましく思っている。
コティティエ教の信者達にとって、定住地を持たず旅暮らしに耽る旅人作家は、教義の真反対に位置する存在で、コティティエ教とは相容れない存在なのだ。
殊に上流階級の貴族の子息ともなれば、体面上の問題もある。ブランデルが気にしているのはそこだった。
街でも名の知れた貿易商であるブランデル家の後継が、旅人作家の作品を読み耽っているというのは、どうにもまずいのだ。
だが、夫妻はロニに対してどこか甘い。ロニ本人に対して、行動を制限したり戒めるようなことは直接言わず、クルトに然るべき教育をするよう言いつけるだけだ。
(ブランデルさんの手前、ああは言ったが、ロニから突然物語を取り上げるわけにもいかないだろうな)
ロニは至極無邪気な好奇心でもってヴァルデマル・ファルチの著作を読んでいる。コティティエ教と旅人作家の因縁については、『教義上水が合わない』という程度の認識しか持っていない。
そんな彼に対して、大義名分なく抑圧するような真似をしたくないのはクルトも同じだ。
ロニは年齢の割りに少し幼い。同年代の少年達の中には家業の手伝いをし始める者も出てくる頃だが、ロニ・ブランデルは未だに『坊ちゃん』のまま、暢気ともとれる鷹揚さで日々を過ごしている。
目下ロニの『仕事』は、いずれ引き継ぐであろう家業の為に惜しまず学ぶことなのだが、相応な自覚を持っているかどうかは疑わしい。
(お互いの為にも、早々に手を打つべきだな……)
ブランデルはこの家の絶対的主だ。そして、上流階級の貴族であり、街の中でも最も権威ある存在の一人に数えられている。
その家に召抱えられた者として、クルトにはロニを上手く教育する責務がある。
とてつもない重責ではあるが、クルトの振る舞いからは、怖気付いている様子も無い。
一定のテンポで杖を着き、廊下を進む。張り付いたような無表情で前方を見据える怜悧な瞳に、思いがけないものが映りこんだ。
自室の前に人影がある。
壁に背中をつけ、小脇には分厚い本を抱えて俯いているロニを確認して、クルトは小さく溜め息を漏らした。
クルトに気付いたロニがはっとして顔を上げる。目が合うと、ばつが悪そうに顔を曇らせた。
「あの、先生、僕……」
「まだ寝ていなかったのか」
呆れ顔を向けられたロニは肩を竦めて縮こまる。
(これは随分、堪えているな)
普段のロニならば、礼拝の夜は決まってクルトを待ち伏せ、爛々と輝く目で、興味のあるあれやこれやを教えて欲しいとせがんでくるくらいなのだが、今夜は様子が違う。
「ごめんなさい……眠れなくて。あの、読めない文字がいくつかあって、教えてもらえませんか?」
酷く遠慮がちで、腫れ物に触るような慎重さは、間違いなく昨日の遣り取りに起因するものだ。
例の苦言が思いの外効いたらしい。多少釘を刺すつもりはあれども、ここまで萎縮させるつもりも無かったクルトは、気まずさを押し隠して、手を差し出した。
「構わないよ。見せてご覧」
ロニは、尚も恐縮した様子でおずおずと本を渡す。
受け取った本の表紙を見て、クルトは思わず顔を顰めた。
「ヴァルデマル・ファルチか……。随分古い作品を借りて来たんだね」
「最近のものは読んでしまったから……でも、遡るほど内容が難しくて」
「ファルチは旅人作家の中でも、先駆者だからね。初期の作品はずっと古典的な表現や文法を使っているから無理もないよ」
ロニが分からないという単語を一つ一つ丁寧に教えてやると、途端に表情が明るく晴れた。
「君は本当に好きなんだな、ファルチが」
それは非難でもなく、無論賞賛でもない。まるで感情的意図を滲ませない一言だった。
だが、ロニは大きく頷いて目を輝かせる。
「勿論だよ! 彼は、手に汗を握る冒険活劇も書くし、抒情的な恋物語も書ける。それに歌うように軽やかな詩も作り出せる。作品が変わる度に、文体も、表現も、単語も、纏う雰囲気すら変えてしまうんだから、彼は言葉を操る魔術師だね!でも、僕が一番好きなのは、脳裏に絵画が浮かぶような旅物語。読んでいると、まるで同じ景色を見ているような気持ちになるんだ」
興奮して一息に言い切ってから、ロニは慌てて口を噤んで俯いた。
遅ればせながら、自分に向けられた、氷のように冷たい目に気付いたからだ。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだ?」
しん、と冷えた雪の中に放り出された気分だった。怜悧な双眸が放つ鋭い視線で、手足の先がひやりとしてくる。この賢い少年には、大声で叱責されるよりむしろ、こうしてじわりじわりと失態を突き付ける方が堪えるらしい。
「その……、旅人作家の話を、してしまったから」
ロニにとっては、ブランデルや自分の懸念などまるで伝わっていないのだなとクルトは改めて認識する。
まずいことをしているという自覚は薄いと見える。こうして周囲の空気に曝されて初めて、良くないことをしているのだと気付くようだ。
全くその『純粋さ』たるや底抜けだと、呆れも通り越して感心すらしてしまう。
「ああ、そうだな。人は気を付けていても、習慣というのはふとしたところでつい出てしまうものだ。ブランデルさんの立場というものもある」
「はい、先生」
殊勝な様子で頷く仕草も体の大きさに似合わず幼い。
ロニは十五歳になる。今はクルトの見下ろす位置に頭があるものの、長い手足を見るに、まだまだ背丈は伸びそうだ。少年から青年へと緩やかに変遷していく渦中にある独特の体のバランスや声質を、ブランデル夫妻は愛らしいと感じる反面頼りなくも思っていることだろう。
この街を始めとしたこの国の多くの地域で、子供と大人を明確に線引きする儀式というものは伝統的に存在しない。子が親の仕事を継いだ時や結婚をした時などに一人前だと認められる。ロニくらいの年の頃の少年達は家業を継ぐことを漠然とでも考え始めるし、少女達は将来の結婚相手を意識し出す。ロニは街の子供達と交流が無い為に、そうした空気に疎いのだ。
ロニが日常的に触れている世界といえば、ブランデル夫妻とクルト、そして数々の『物語』でしかない。
「先生……?」
沈黙に耐えかねたロニが不安そうにクルトを呼ぶ。
ロニが過ぎる程に純真無垢としているのには、彼の育った環境が起因しているとよくよく理解しているクルトは、こういう時にふと迷うことがある。
(どこまでを、どれだけ、教えるべきか)
昨夜クルトは、『もう少し大人になったら』とロニに告げた。だがそれがいつを指すのか、クルト自身曖昧にしてしまっている。周りと足並みを揃えて自然と大人への支度を始める街の子供達とは違い、ロニには足並みを揃える対象が存在しない。今のまま屋敷の中に篭りがちでいては、何年も遅れをとることになるだろう。
そうならないように雇われているのが他ならぬクルトであるが、この頃は常に崩すことのない無表情の下で、こうして密かに思案することが増えていた。
黙りこくっていてくっ付いてしまいそうな喉を小さな咳払いで刺激する。
「何でもない」
正にその悩みの種を前にして延々と考え込んでいても仕様が無い。
「あまり夜更かしをしないように」
事務的に言い付けて、クルトは部屋に戻ってしまった。
ロニは静まりかえった廊下に暫く立ち尽くしていたが、やがてとぼとぼと自室に向かって歩き出した。
人気の無い広い屋敷は寂しく生気を失っている。物音はロニが立てるそれだけで、余計に物悲しさを煽った。
足の悪いクルトは一階に居室を与えられている。ブランデル夫妻やロニの居室は二階にあるから、使用人達が皆帰宅した後の一階はクルト以外に全くの無人となる。
養子の体を成した住み込みの家庭教師とはいえ、クルトの立場は他の使用人らと大きな差は無い。ロニはそのちぐはぐな状態に慣れるまで随分かかったし、今でもどこか胸に引っ掛かる感覚を覚える瞬間がある。
特に、クルトの態度が、ロニを静かな混乱へと導いていた。
(先生は凄く冷たい目をするけど、本を読むことを咎めたりはしない。こうして読み方や意味を教えてくれる。どうしてなんだろう……)
抱えた本がずしりと重く感じる。
ロニにはクルトの考えがまるで分からない。教師と生徒、そして建前上の兄弟としての付き合いは八年になるが、クルトが個人的な考えや感情を表に出すことはただの一度も無かった。常に淡々と与えられた役目を全うする、それがロニの知るクルトの姿全てだ。
博識で眉目秀麗な家庭教師はロニの自慢でもあった。自分ほど優秀な教師に教わっている者はいないと思うし、彼の指導に報いる為に努力すべきとも思っている。
父や母の期待にも応えなくてはいけない、とも。
頭では分かっている。自分がどういう人間であるべきか。
従順かつ勤勉であれ。それが周囲の大人達の求めるロニ・ブランデルの姿だと気付いている。
勉強では苦手な分野もあるが、決して嫌いではない。腕のいい家庭教師に教われば自然と知識も増え、世界の謎が一つずつ解決していく。
だが、ずっとロニの中で消えない疑問が胸の中につかえていて、現状を受け入れきれないでいた。
(物語を読むことは、どうしていけないんだろう。訊いてもいいことなんだろうか)
それが旅人作家の本だから、というのは理解できる。
もっと幼い頃には、他の作家の作品を読んだこともあった。旅人作家以外のものも。
だが、ロニの心に突き刺さるような衝撃と感動を与えたのは、知る限りヴァルデマル・ファルチしかいない。
誰にも言うことはできないが、ヴァルデマル・ファルチはロニにとって特別な存在だった。
言うべきではないと頭では分かっていながらも、クルトに訊ねられて、その魅力を語ってしまう程、深く敬愛する作家だ。他に代えの利くようなものではない。
(でもそんなことを口走ったら、きっと、もっと怒らせてしまう)
凍て付くようだったクルトの目を思い出し、胸の内に暗く重たいものが圧し掛かる。
あの目は、恐らく不快と怒りだったのだと思う。感情などどこかに埋めてきたとでも言わんばかりのあの寒々しく整った顔に、確かな負の空気が纏わりついていた。
それがクルトの怒りを表す印なのかは分からないが、負の感情といえばそれくらいしか思い浮かばなかった。
(それでも、教えて欲しいと請えば、答えてくれるだろうか)
それはとても難しいことだとロニは思う。
図書館に同行することも、ファルチの本を読むことも、基本的に咎めはしない。だが、きっと快くも思っていない。
もし、と考えることがある。
(もし本当の兄さんだったら、こんな風に思うこともないのかな……)
窓の外はとっぷりと日が暮れて暗い。大人達のいない家はどこも明かりを落としていて、薄ぼんやりとその形を月明かりに浮かべるだけだ。
礼拝の夜は、静かに更けていく。
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