第3話 ロニ・ブランデル少年の回想

 その日も夢を見ていた。

 いつもと同じあの夢だ。

 だが、少しばかり違うところもあった。

 夢は、馬車に乗る少し前から始まった。

 ――兄さん、とってもご機嫌なんだね。

 ――そりゃあそうだよ。旅立ちの朝だもの。

 父に手を引かれて馬車に乗せられながら、喜色満面でそう告げた。

 そしてその後は相変わらず同じ展開が続き、同じ場面で目が覚める。

 使用人の重苦しく、どこか落ち着き払った声が森の奥から響き、走り出そうにも狩人に制止される。

 そこでいつもと同じく、はっと目を見開いて体を起こす。部屋の中は真っ暗で、まだ夜が明けていないとすぐに分かった。

 こうした夢を見て、朝の来ぬ間に目覚めるというのはとても不幸なことだ。深い恐怖の中にまだ両脚が埋もれているようで、ねっとりとした不安が背筋を這い上がり、奥歯を鳴らす。

 ロニは暫く胸を押さえて深呼吸を繰り返した。

(兄さんは、あの日、崖から落ちて……)

 だがそれは、もうずっと前のことだ。

 だからあれは、もう済んだ事なのだと自身に言い聞かせる。

 そうでもしなければ、生々しい蘇りを繰り返すこの夢に、正気を奪われそうだった。

「兄さん……」

 膝の間に顔を埋めて呟く声を聞く者はいない。ロニにはそれが孤独でもあり、安堵でもあった。



 その日は週に一度の、勉強の時間が無い日だった。

 朝食を終えて一度は自室に戻ったが、庭にでも出ようと階段を降りたところで、身支度を整えたクルトと鉢合わせた。

「出掛けるんですか?」

「ああ、図書館に」

「僕も、一緒に行ってもいい?」

「好きにすればいい」

 クルトは目もくれずに答えた。

 淡々と交わされる会話はいつものことだが、感情を含ませないクルトの声に胸の奥がひやりとする。この感覚にはどうしても慣れない。

 明確な拒絶が無い代わりに、明確な受諾の言葉も無い。

 その様子は正も負も感じさせない『無』という言葉そのもの。深い暗闇の中を手探りするような感覚に近い。

 クルトの持つ冷ややかさというのは、そういう質のものだ。

 ロニや他の家人に向けている感情というものがまるで読めない。

 ――あの顔、話し方。まるで人間味というものがない。

 父の言葉が脳裏を掠める。

 耳の奥にへばり付くそれを追い払おうと頭を左右に振った。

「上着を取ってきます」

 クルトの返事を待たず階段を駆け上がって自室に戻り、ひったくるようにして上着を掴む。両親や使用人に見咎められないよう周囲に目を配りながらも、クルトを待たせたくなくて、やはり駆け戻った。

「慌てる必要は無いよ」

「だって、嬉しいから」

 基本的に、ロニは一人での外出を認められていない。

 必要なものは使用人らが用意してくれるし、勉強も屋敷内で行っている。まだ仕事にも携わっていないから、外へ出る用事というのが殆ど無い。

 特別な用が無くとも、街の中を気侭に歩いてみたいという願望はあるが、口にする前に父に禁じられてしまっている。散歩ならば庭で。街に行きたければ、必ず供を付けなくてはいけない、と。

 その中でも、図書館というのは更に厳しく、クルトと一緒でなければ行くことができない。

 図書館へ行きたい時は、その旨をクルトに依頼するか、こうして彼が個人的に出向く機会に同行するしかないのだ。

「兄さんは、何の本を探しに?」

「特には決めていない。何か興味を引くものがあればそれを読むよ」

 道すがら交わしたのはそんな会話だけで、それでもロニは高揚する気持ちで自然と笑みを浮かべていた。

 ブランデル邸から図書館まではクルトの足でも負担なく通える距離にある。闊達な少年の足で走ればあっという間だ。だがロニはクルトの側で歩調を合わせることを忘れない。そわそわと心が浮き立つのを抑えながら、杖と革靴の立てる足音にも意識を向けている。

 クルトは石畳の上を慣れた様子で歩きながら、ロニのつむじを見下ろした。

「君は本当に、」

「はい?」

「いや、なんでもない」

 珍しく歯切れの悪いクルトを不思議そうに眺めていたのも束の間で、目的地へ着くと、ロニはいよいよ我慢が利かず大股になった。

 扉を抜けると、ロニは迷いの無い足取りで書棚に向かう。静まり返った館内に軽い足音を響かせながら急ぐそこは、彼のお決まりの場所だ。

 ロニが体を滑り込ませた棚の側面に掛けられている見出し札には『旅人作家』と記されている。

 ちょうどその近くで書架の整理をしていた館長と目が合うと微笑んでお辞儀をするが、挨拶の言葉は強い関心の前で消え去ったようだ。館長もよく心得た様子で何も言わずに見送った。

「やあ、クルト」

 少し遅れてやってきたクルトに気付くと、いかにも人好きのする好々爺らしい表情を向ける。

「こんにちは、バックルンドさん」

「ホルガーでいいといつも言っているだろう。この仰々しい家名はあまり好きでは無いんだ」

「そうでした、ホルガーさん」

 淡白な返しにも、館長ホルガー・バックルンドは鷹揚に笑って受け流す。

「堅苦しいのは不向きだ。ここは知識の探求という娯楽に溺れる為の場所、『知の娼館』だからね」

 目尻に深い皺を刻んだホルガーが少年のような悪戯っぽさでやや下卑た言い回しをすると、クルトはこっそりと口元を緩めて小さく息を漏らした。

「その言葉、ロニにはまだ教えていないんです。うっかり口走らないようにお願いしますよ。質問責めにされるのは避けたい」

「いかに優秀な君でも、教え難いものはある。道理だ。実際のところ、世間はそうしたもので溢れているくらいだが、あの子は」

 二人の視線が同時に動く。棚の間から、目当ての本を大事そうに抱えてロニが出てきたところだ。

 そわそわと席に着き、いそいそと本を開く様は、すっかり没頭して周囲などまるで気にかけていない。

「あの子は本当に旅人作家が好きだ。他事には目もくれない。子供は大抵好きなものだが、あの子は特別だな」

 静かな館内に穏やかな老人の声が溶け込む。

 クルトは僅かに顔を顰めて、小さく咳払いをした。

「……ロニは、無邪気で、少し幼過ぎるところがありますから」

 ホルガーは周囲を見渡し、クルトの目を見て微笑む。

「確かにそうだな。あの子は穢れというものを知らない顔をしている。ブランデルさんが手塩にかけて育てた箱入り息子というのがよくわかるよ。礼拝の時にもよく話題に上がる」

 ブランデルという名は、決して小さくはないこの ウァル=クニンカーンの街でもよく知られている。

 王都を囲う壁のような形で整備された都市の名物は、他の街とは比較にならない最大級の規模を誇る『教会』だ。

 この国に国教というものは存在しないが、それと称して差し支えないものがある。

 それはコティティエ教という宗派で、国民のほぼ全てがこの宗教に関わっており、礼拝の日ともなれば大人達は揃って教会を訪れる。

 王家もこのコティティエ教の信仰を積極的に推奨しており、事実上この国固有の宗教となっている。

 ブランデルは、そのコティティエ教の中でも幹部的な位置にあたる為、街では知らぬ者はいない程だった。

 当然、その息子ともなれば自然と周囲の目が集まってくる。

 ロニは今のところ、そうした視線についてはあまり意識を向けていないようだが、時間の問題だろうとクルトは思っている。

「こんなことを、君に言うべきではないのかもしれないが、旅人作家はもっと広く愛されてもいい。それだけ価値もあるし、難しい理屈を並べなくてもあれは素晴らしいものだ」

 幾らか声を潜めているせいか、それはホルガーの独白じみて聞こえた。

「いつまで読んでくれるかは知らないが、あの子には許される限り読み続けて欲しいよ」

「……今のところ、興味が薄れていく様子はありませんよ。良くも、悪くも」

「そうだな。良くも、悪くも……、その通りだ」

 ホルガーは再び人の良さそうな笑顔を浮かべて頭を下げた。

「すまないね。配慮に欠ける話だったかな?」

「いえ……、僕のことはお気になさらず」

 ロニが夢中になって読んでいる本を書いたのが、二人の話す『旅人作家』だ。

 書かれた物語ではなく、その創作様式に特化して分類されている。

 彼らは決まった街や村に定住せず、常に旅歩き、行く先々で見た出来事や心に浮かんだ詩を書くなど、旅の中で構想を得て創作活動を行う。

 作品を書き起こす作業も旅の中で行い、大きな街に立ち寄り、その原稿を売って生活している。

 職業として地位のあるものではなく、生み出す作品に高尚な学術的価値があるわけでもない。大抵は娯楽作品としての枠組みに収められてしまう。

 人々からは吟遊詩人の生き残りだとか、学のある旅芸人だなどと揶揄され、どの街でも決して歓待を受けることはない。

 だが、『旅人』という物珍しさによって、庶民や一部の上流階級から一定数の支持を受け、大きな図書館であれば大抵は取り揃えている。

 人々にとって『旅』とは、それだけ馴染みの無い行動なのだ。

 この国では今、特定の身分や職業の者を除いて『旅』をすることがない。庶民は勿論のこと、貴族らも同じだ。殆どの人々が、一日の内に往復できない範囲の土地には足を向けることすらなく、生まれた地以外の場所を知らないまま一生を終える。

 だからこそ、人々は旅人作家という人種を奇異の目で見る反面、未知の世界である『旅』と密接な彼らが生み出す作品にどこか心惹かれている。

 そしてこの図書館の館長であるホルガーは、そんな旅人作家を好意的に受け入れている稀有な人物だった。

「とはいえ、未来の青年貿易商にとってみれば、悪名高い娯楽作品も、多少は知識の肥やしになるというもの。そうは思わないかね?」

「旅人作家を好む程度ならそうでしょう。ですが、それに傾倒することは、僕はあの子には勧められません」

「それはどういう意味だい?」

 皺が寄った目元、垂れた瞼の下で、老人の青い瞳が一瞬鋭い光を帯びた。

 クルトは小さく溜め息を漏らしてゆるゆると左右に首を振る。

「ホルガーさん、僕は読み書きに関しては幾らか自惚れがありますが、会話の才能はまるで無い。ご存知でしょう? あまりからかわないで下さい」

 窘めるような口調に、ホルガーはばつが悪そうに顎鬚を撫でた。

「重ね重ね不躾だったな。すまない。私も仕事に戻ろう」

 ホルガーから解放されたクルトは、ロニとはまったく別の書棚に杖先を向けた。

 見出しには『歴史』と記されている。クルトが取り出す書物はどれも、ロニに読ませているものより分厚い。その内容も比べ物にならない程難解であると、題名だけで充分に誇示しているような代物ばかりだ。

 二冊程小脇に抱えて近場の椅子に腰掛ける。ロニとは互いに視界に入る位置にあるが、会話をするには憚られる距離だ。クルトは時折紙面から顔を上げて様子を窺うが、ロニがそうすることは無いようで、目を輝かせながら読書に没頭している。

 どれくらいそうしていたのか、窓の外では影が位置を変えていた。

 クルトが立ち上がると、意外にも敏感にロニは顔を上げた。

 話しかける前に、本を閉じて側に寄って来る。

「帰る時間ですか?」

「ああ、そうだね。そろそろ日が傾きだした。気になる本があるなら、貸し出してもらうといい」

「兄さんの本は? 一緒にホルガーさんのところへ持って行きます」

「僕はいい。粗方読んでしまったから」

「分かりました」

 読みかけの本を抱えてホルガーの元へと向かうロニに背を向け、書棚に本を戻す。

 ホルガーの定位置であるカウンターでは、ロニが布袋に収められた本を受け取るところだった。

「重たいから、気をつけて」

「いつもありがとう、ホルガーさん」

「こちらこそ、いつもご贔屓に」

 楽しそうに話すロニと違って、クルトは会釈だけを交わして図書館を出ると、二人は再び連れたって石畳の道を歩き、屋敷に戻った。

 使用人達は夕食の準備に借り出されていて、出迎えはいない。

「そういえば、兄さんは何の本を読んでいたんですか?」

 まだいくらかはしゃいで人気の無い廊下を歩きながら、ロニはクルトの顔を見上げて問い掛けた。

「ロニ、家では『先生』と」

 間を置かずぴしゃりと言い付けられると、弾んでいた声はあっという間に小さく萎んでしまう。

「ごめんなさい、先生」

「ああ。気を付けて」

 相槌を打つクルトはどこか上の空だった。

 会話が途切れ、二人の足音だけが鳴る。

 二階へ続く階段の前を通り過ぎても、ロニはクルトの隣を歩いていた。

「歴史書を少し、読んでいた」

 沈黙に根負けしたのか、クルトが答えた。

「歴史書ですか」

「ああ。君に話して聞かせた辺りで、少し読み返したいところがあったから」

 クルトの部屋の前で二人は立ち止まる。

 ロニは口元に手を当てて小さく唸っている。ほんの僅かな間そうして迷っていたかと思うと、灰色の澄んだ瞳がクルトに向けられた。

「あの、先生、質問してもいいですか? 前回の内容で、少し気になったことがあって」

「構わないよ」

 歴史の勉強を終えてロニの部屋を出た時、何か言いたげにしていたことを思い出し、クルトは頷いた。

「政策については概ね理解できたつもりです。一部の人たちを除いて、凡その民衆には受け入れられた。用心深い宰相の手腕で、その後も反乱を起こさせることなく、スヴァンテ王に治世を託した」

「そうだね」

 大雑把な要約に引っ掛かるが、本題は別にあると見て取ったクルトは指摘することなく先を促した。

「でも、乱れた国と荒んだ人の心を、本当にそれだけで纏めることができたんでしょうか」

「ああ……、それは難しかったと思うよ」

 クルトの答えは酷く淡白だった。あまりの簡潔さに、ロニは話題を切り捨てられたのだと項垂れる。

 だが、クルトの話は続いていた。

「ロニ、着替えを済ませたら君の部屋へ行く。夕食の時間までだが、少しは疑問解消に付き合えるだろう」

「本当ですか?」

 ロニの顔が、みるみる明るくなる。

「ああ。だから君も、まずは部屋に戻って、その重たい荷物を置くことだ」

 両腕に抱えた本を指差し、クルトは部屋の中へ消えていった。

 閉ざされた扉の前で、ロニはこみ上げる気持ちを抑えきれずに深くお辞儀をした。

 部屋まで駆け出したい気分だったが、ぐっと堪えて足音を殺すようにしずしずと歩く。夕刻ともなれば、屋敷の中には恐らく父も母もいることだろう。耳障りな物音を立てて、品の無い所作を叱り付けられるのは避けたい。

 ブランデル夫妻はロニ対してはあまり厳しい言葉や態度は見せない。だからと言って、ロニを全くの自由にさせているわけではない。

 ロニの失態でありながら、ロニが直接的に叱られないというだけのことだ。

 ロニの素行については、その周囲に飛び火がいく。教育係や使用人達だ。

 ロニにとっては、自身が厳しく追及されるよりもずっと胸の痛いことだった。

 結果として、ロニはあらゆる面において、概ね夫妻の期待通りに育っている。



 布袋から取り出した本を机の端に沿わせるように置き、上着をポールに掛けた頃、クルトは宣言通り、ロニの部屋を訪れた。

 いつもの椅子に座ると、最初に、と前置きから始まる。

「これから話す内容については、あまり確実性の無いものだと言っておく」

 いつも正しい知識を与えてくれるクルトの口から出た意外な言葉に、ロニは驚きつつも頷いた。

「先の戦争において、我が国は決して戦勝国とは言えない。実質的被害から考えれば、敗戦国のそれに相違無い」

 とある歴史研究書曰く、人的・物質的被害共に敵国たる同盟軍とは倍以上の差があったという。特に交戦地となった国境付近の村や町は壊滅状態とも伝えられている。

「肥沃な大地と資源を侵略の主目的としていながら、同盟軍は農村地や山岳地も躊躇無く強大な兵器を用いて破壊した。その時点でも謎は残る。いかに国土の広い我が国相手とはいえ、もし徹底抗戦をされていたら、一体どこまで焼き尽くす気だったのか……」

「容赦の無い攻勢を見せれば、いずれ降伏すると考えていたとか? 若しくは戦線を押し上げて重圧を与え、有利な交渉に持ち込む気だったとか」

 積極的に思考するロニに多少感心した様子で頷くが、次の瞬間には気難しい顔で緩く首を振る。

「どちらも考え得る。だが、確証が無い」

「どうしてですか?」

「我が国には、他国の情報が存在しないからだ」

 何の感慨も無く、クルトはそう答えた。

 ロニの口がぽかんと開く。

「そうなんですか?」

「ああ。少なくとも、あの図書館には一冊も存在しない」

 二人が足しげく通う図書館は、国の中でも最大級の規模だと言われている。王都に程近く、住人の殆どが裕福で家柄の良い貴族である為か、教養に関するものには力を入れているようだ。だがその中に詰め込まれた蔵書には、国外のものは勿論、国外について記述されたものすら無い。

「我が国に残されているのは、侵略された側としての記録のみだ。それらも、敗戦した上宰相の反乱もあって、当時の正確な政情を記す文献は無いに等しい。和平協定の内容についても定かではない。劣勢だった我が国が、どういった交渉で国土を保ったまま終戦に至ったのか」

「言われてみれば……」

 ロニが読み進めている歴史書の中には触れられてすらいない部分だった。和平協定を結び、平和が戻ったという趣旨が簡潔に書かれているだけだ。

「君の質問は、戦後の混乱期における求心力についてだったと思うけど、今話した通り、その頃の記録は余り頼りにならない。だが、特別な働きかけ無くして人々の心が一致したと考えるのは不自然だ」

 数多の人々の、その境遇や胸中の想いが正に千差万別であることは、文献に載るまでもなくごく当然のことだ。それらを一掬いも取りこぼさずに纏め上げ、同じ方向へ向かせる方法を、為政者は度々模索してきた。つまりは、自然偶発的にそのようなことが起こり得るわけがないという証明でもある。

「それなら、政策だけではなくて、この国の人々全てを同じ思いにするような何かがあったんじゃないのかな……」

 難しい顔で思案げにしていると、どこか大人びた雰囲気が差す。

 この少年は、過ぎる程に純粋で知識は未だ未熟であるが、生まれ持っての明敏さで今のように大人をどきりとさせることもあった。

「仮にそうしたものが存在したとして、それは何だと思う?」

「え?」

 その答えを教えてくれるのではなかったのか、とロニは目を丸くした。

 クルトは常通りの無感情な顔で灰色の瞳を見詰め返す。

「先生?」

 不思議そうにこちらを凝視している少年の無垢な瞳から視線を逸らし、クルトは咳払いを一つした。

「矢張りこの話はここまでにしよう。こういう曖昧な内容については、もう少し後にするべきだ」

「もっと勉強したら、教えてくれますか?」

「そうだね、君が、もう少し大人になったら、話して聞かせる日が来るだろうね」

「大人……」

 自身の両手を見ながら呟く。小さくも、大きくもない、何の変哲も無い手だ。父のように節くれ立ってもいないし、クルトのようにすらりと長い指も無い。

 背丈も伸びてはいるが、まだクルトには追いつかない。大人というのは、体ばかりのことではないと分かってはいても、比べずにはいられなかった。

(これは、はぐらかされたんだろうか)

 神妙な面持ちで掌をぎゅっと閉じるのを睥睨して、クルトは細く息を吐く。

「質問は以上かな?」

 もう一つだけ、とロニは慌てた様子で早口に言った。

「ザクリス王には、もう一人王子がいらっしゃいましたよね? 三番目の王子で……」 

「ああ……。彼の皇位継承権と名前は言えるかな?」

「ええと……継承権五位、名前はヴィルヘルム王子」

「そう、正解だ。彼について気になることが?」

 話を聞いてもらえると安心したのか、徐々に口調が落ち着いていく。

「ヴィルヘルム王子は、スヴァンテ王子と同じく、戦後も存命だった王族ですよね? なぜ、彼については記述が無いんだろう……」

「ヴィルヘルム王子は幼い頃から病がちで、長くは生きられないと言われていたそうだよ。継承権が最下位になっているのもその為だ。聡明な王子であったそうだが、戦後は城内の自室から出ることもなかったと言われている」

 クルトの話に聞き入るロニの目には、夜空に一番星が光るように爛々とした輝きが差している。

「彼の記述がされた本もあるが、それは一般的な歴史学に於いては主軸から外れた内容とされているから、雑学の範疇になるね。この本を読み終える頃に教えてあげよう」

 まだ半分以上を残した分厚い歴史書を指差されても、ロニはむしろ喜色満面で頷いて見せた。

「しかし、よく覚えていたね? 王子については、前回少し話して聞かせただけだったと思うけど。この本も、よく読み進めているみたいだ」

 クルトにもう一度頷くと、件の歴史書を恭しく手に取り、表紙をするり撫でる。

「歴史は好きです。物語みたいだから」

「なるほど。好きなことが覚え易いのは道理だね。それなら今度からは数学や地理学を中心にやろう。ロニは天文学も苦手だったね?」

「あ、はい……」

 気まずそうに肩を竦めて目を逸らす。迂闊な失言であったと後悔しているのだろう。

 ロニは特別不真面目ではないが、殊更勉強熱心とも言えない少年だ。言いつけられたこと、与えられたことには義務的に励むが、こうして自ら率先して知ろうとするのは、大抵読み書きと歴史の話に終始する。

 クルトはそのことに、人知れず頭を悩ませていた。

「ヴィルヘルム王子について、どんなことが知りたいのかな、君は?」

「ええと……、貴重な存命人物について歴史的記述が無いことに関心があったのが一つです。確か、出征したこともあった筈ですから、ずっと城の中で一生を終えたわけでもなさそうだったし」

「ああ、皮肉にも、彼の王子が城へ呼び戻されたその後、二人の兄王子は戦死している」

「そして宰相の謀反、玉座に据えられたのは弟のスヴェンテ王子……」

 ロニは、自身が関心を向けたものに対して、深く没頭するきらいがある。

「表では弟が持て囃されている声を聞きながら、部屋に押し込められて、飼い殺しにされた兄君は、一体どんなことを思っていたんだろう……」

 神妙な面持ちでひとりごちる様子には、嘆息を禁じ得ない。

「ロニ、歴史というのは、客観的過去なんだよ」

「客観的、過去?」

「そう。客観的過去とは、今に無い世界に熱狂することでもなく、まして嘆くことでもなく、『変えられたら』などと傲慢な夢想するのは言語道断であって、辿ってきた先人の足跡を見詰め、その功罪全てを受け止め、教訓として利用する為にある」

「利用、ですか」

「引っ掛かりを感じるなら言葉を変えよう。過去を活かす――活用するんだ」

 活用、という言葉で安心し、憮然として顰めていた表情をふっと緩めた。

「歴史は単なる教養として見られることが多い。有用性に欠けたる学問だと」

 でも、本当にそうかな、とクルトは自問するように言った。

「馬に跨り、剣や軍旗を振り翳していた時代は、たった七十年前だ。その頃、君の祖父君は既に誕生されていたし、その父君たる方も戦渦の中を生きていた。彼らが生きていたからこそ君がいる」

 腕を伸ばし、ロニの持つ本を軽く指で叩く。

「その頃の人々と、今の人々、本質的なものはさして変化していない。体の構造だって同じだし、水を飲んでパンや木の実を食べていた。草刈りや料理に用いるように剣や火薬は身近で、鍛冶屋はその技を磨いては名の知れた騎士のお抱えになろうと競い合っていた。確かに今は見られない光景だが、何代か前というだけの、誰かの家族が営んできた生活だ」

 ロニは本を抱き込むように持ち直し、ごくりと唾液を飲み下した。

 クルトが何を言いたいのか核心を量りかねている。だが、何か重要なことを言って聞かされているだろうことは、皮膚がひりつくような緊張として伝わっていた。

「過去を読むと、ともすれば全てを見知った気になって、あまつさえ今が最も優れていると思いたがる者がいる」

(違う、僕はそんな風には思っていない)

 胸中での反論を見透かしたかのように、クルトの冷え切った両眼がロニを捉える。

「そして君のように、文字の羅列に吸い込まれ、まるで息遣いを耳元で聞いたかのように錯覚する者もいる」

 ドクン、と痛む程強く心臓が脈打った。

「いずれにせよ、それは過去に併呑されている者の特徴だ」

 澄んだ花緑青色の瞳に射抜かれ、圧倒される。自然と呼吸が浅くなった。

「歴史書を物語のように感じるなら、君にとってはそれくらいで丁度いい。そこに生きた者がいて、誰かの人生だったと考えるのはよしなさい。君は過去に心を砕き過ぎているからそんな風に思うんだよ。ここに書かれているのは、かつて起きた事の記録。それ以下でも、以上でもない」

 返事をする前に、扉の向こうから夕食の時間を告げる使用人の声がした。ロニはそちらに短く返事をしてゆっくりと立ち上がる。

 クルトとの会話を遮られて安堵したのは、思いつく限り、初めてのことだった。

 


 夕食は粛々とした雰囲気で済み、食事を終えてすぐ、クルトは自室へ戻って行った。

 酒を飲んですっかり機嫌なブランデルが、席を立とうとするロニを引き止める。

「ロニ、明日は礼拝の日だからね」

 顎に蓄えた髭を整えるように撫で、貼り付けたような笑顔をロニへ向けた。

「日が暮れてからはクルトと二人きりになるが、なあに、気にすることなく眠っていればいい。夜更けには戻るからね」

 語りかけるのは、べったりと甘い、猫撫で声だ。

「はい、お父さん」

 この声音で話す時のブランデルは、決まってロニを従わせようとしている。ロニはこの声音が苦手だった。

 どんなに甘く優しい声を出されても、その中身は重苦しい命令ばかりだ。それらを思い出して、今ではブランデルがそうした声音で名前を呼んでくるだけで、既に体が強張ってしまう。

「それでは、僕は部屋に戻ります。おやすみなさい」

 悟られる前にと早々に夜の挨拶を交わし、ロニはやや足早に階段を上った。頭の中は考え事でいっぱいになっている。

(明日は、先生と二人きり……)

 普段のロニならば、これはまたとない機会だとして、知りたかったあれやこれやを指折り数えていたところだが、この日はそんな気分にはならなかった。

 先刻クルトに言われたことが、まだ耳の奥で反響しているようだ。

 ――過去に併呑されている。

 胸を刺されるような、鋭い一言だった。

 部屋に戻り、洋服もそのままベッドに倒れ込む。胸の辺りをぎゅうっと掴み、上等な服に深い皺を寄せる。

(先生は、どこまで知っているんだろう。もしかすると、全て?)

 細く長い溜め息をついて、瞼を下ろすと、重たく圧し掛かるような眠気が襲ってきた。

(ああ、着替えもしていない。掛け布も……)

 こんな寝苦しい格好では、また、あの夢を見るかもしれない。

 懐かしく、寂しく、恐ろしい夢。

「兄さん……どこにいるの……」

 眠りに落ちる寸前、微かに呟いた言葉は、ロニ自身の耳にすら入ることはなかった。

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