第2話 ロニ・ブランデル少年の日常
ロニ・ブランデルは、ある夢をずっと繰り返し見ている。
生まれて初めて狩りに連れて行ってもらった日のことだ。
馬車は二つ。一つには、自分と使用人、それから父の雇った腕のいい狩人が乗った。
もう一つには、父と、使用人、それから、兄が乗っていた。
――花を手土産にされると奥様が喜ばれると思いますよ。
兄の後に続こうとしたロニを制止した使用人の言葉に説得されて、まだ幼いロニは狩人と森の入り口で鳥や兎を見ながら花を摘んでいた。
父は使用人と上機嫌な兄と共に森の奥へと進んでいった。
折角兄と一緒に出掛けられたというのに、すぐに離れてしまって詰まらなかった。
――大変だ。坊ちゃんが崖から足を滑らせて……
森の奥から使用人の声がする。
弾かれる様に走り出したロニを捕まえて離さなかった狩人の大きな手。
足元で、じっと留まったまま草を食む兎――。
そこで決まって目が覚める。
白く柔らかそうな瞼がぱっと開いて露になった灰色の瞳が見慣れた天井を映し出す。
「また……この夢……」
全身にじっとりと嫌な汗を搔いていた。心臓は早鐘を打ち、呼吸も荒い。
呼吸を整えて上体を起こすと、使用人が扉をノックする。
「坊ちゃん、朝食のお時間に遅れますよ」
「もう起きてるよ」
扉の向こうに声を掛け、寝台から降りて水差しの水を一杯飲むと少し頭がすっきりした。
顔を洗い、昨晩使用人が用意していった服に着替え、鏡の前で飴色の髪を梳く。
この夢を見るのは何度目になるだろうか。夢という形をしているが、これはロニの記憶だ。
幼い頃、普段はなかなか会えない兄と共に初めて出掛けた日。
幼いロニに狩りは危険だからと、森の入り口で待たされた。
そこから先はどんどん曖昧になっていく。
そして、いつも同じ場面で目を覚まし、それ以上のことはどうしても思い出すことができない。
ロニは無意識に胸の辺りをぎゅっと掴んでいた。
この夢を見た日は、いつも同じ気持ちになる。
怖くて、哀しくて、とても寂しい気持ち。
堪らなく苦しいのは、激しい鼓動せいばかりではない。
「ロニ坊ちゃん」
「今行くよ」
いつもと寸分違わぬ調子のノックが響いてロニを急かす。朝食の時間に遅刻をしないという約束の代わりに、朝の身支度は自分でさせてもらえるよう母へ頼んだのは最近のことだ。小言を貰わないようもう一度鏡の前で確認をしてから扉を開けると、使用人が頭を下げて待っていた。
「おはようございます、坊ちゃん」
「おはよう。待たせてごめん」
いつからその姿勢で留まっていたのかと思うと申し訳ない気持ちになる。だが、侘びを受けた使用人は持ち上げた顔に困惑の色を浮かべていた。
「私などにそのようなお言葉は……。さあ、参りましょう」
くるりと背を向けた使用人の後ろに着いて廊下を進む。窓からは朝の日差しが差し込み、廊下に置かれた鏡や燭台の飾りに当たってきらきらと光を反射させている。鮮やかな緑の葉をつける庭木の生気溢れる様には、すうっと胸がすく思いだった。
美しい景色は、黒ずんだ気持ちを浄化する力があるように思う。
ロニはそうした景色を眺めているのが好きだった。
朝食室の食卓には、既に三人が席に着いていた。
壮年の男女と、青年が一人。ロニはやや慌てた様子で自分の席へ向かう。
「おはようございます」
「おはよう、ロニ」
壮年の男はにこやかに挨拶を返した。女もその横で品のいい微笑を浮かべる。
幸い小言は無かった。どうやら時間には間に合ったようだ。
「さあ、食事にしよう。いい朝と、いい家族に」
男の合図で食事が始まる。
暫くはそれぞれにパンを割いたり、スープを飲んだりして食事を進めるが、壮年の女が思い出したようにロニへ微笑みかけた。
「ロニ、夜には歌劇を観に行きますからね。人気の演目だそうですよ」
ロニは口の中のパンのせいで答えられない振りをしながら笑顔で頷いた。
次いで女は、ロニの隣にいる青年へと視線を向けた。
「クルトも一緒においでなさい。用意を忘れずにね」
「はい」
クルト、と呼ばれた青年は手元の皿から視線を上げないまま短く答えた。
「歌劇まではしっかりお勉強なさいね、ロニ」
「はい」
女に釘を刺され、ロニが素直らしく頷く。
立派なテーブルに、豪華な食事、決して多くは無いがよく行き届いた使用人達。上品で質のいい服を身に纏い、観劇の予定もある。
ロニの生まれたブランデル家は街でも有名な上流階級の一つだ。広い庭を有する立派な屋敷に住み、学校に通うことなく、家庭内で教えを授かりながら学んでいる。
「ロニ、今はどんな勉強をしているんだ?」
男に問われ、ロニは口の中のものをごくりと嚥下した。
「はい。最近は計算が速くなりました。それから、歴史学の勉強も始めています。難しい話も多いですが、とても楽しいです」
「そうか、そうか」
ロニが答える一つ一つに頷きながら、男は満足そうにしている。青年は、そんな男の様子をこっそりと窺っていた。
「計算が得意なのはとてもいいことだ。商売に勘定事はつきものだから。それに歴史学もいい。自国の成り立ちを知るのは当然の嗜みだ。しっかり励みなさい」
「はい、お父さん」
朝食を終えて一息つくと、ロニは自室に戻る為席を立った。
続いて青年が傍らに立て掛けていた杖を手に取り、立ち上がろうと腰を浮かせる。
「ああ、クルト、お前はもう少しここに。話がある」
椅子から体が離れたその時、男は思い出したように青年を呼び止めた。
「分かりました」
青年は杖を持つ手に力を入れ、ゆっくりと体を落として椅子に座り直す。
その会話を聞いたロニは立ち止まり、じっと二人の様子を見ていた。
「ロニ、お前は勉強の準備をするんだろう? さあ、早く部屋に戻りなさい」
男は甘い猫撫で声で話しかけるが、言葉の最後へ向かうにつれ、語調が強まる。ロニは顎を引き、目を伏せるようにして顔を逸らした。
「はい、お父さん……」
明朗さを欠いた、呟きと大差無い声で答える。
仮面を貼り付けたような笑顔が、動き出すまでじっと凝視している。
ロニは観念したように足を前へ一歩踏み出した。
「ロニ、背筋を伸ばして。家の中とはいえ、そんな所作は君に相応しくない」
小さく丸まった後姿に声を掛けたのは、男ではなく、青年だった。
無感情な指摘に答える代わりに、ロニは一度立ち止まり、姿勢を正して部屋を出て行った。
「あれはお前の言うことの方が素直に聞き入れるようだな」
「あのくらいの年頃は、歳の近い者の言葉の方が抵抗なく耳に入るそうです」
「そういうものかね」
部屋から漏れ聞こえる男と青年の会話を振り切るように、ロニは歩調を速めた。
二人の会話を聞くのは好きではない。自分に向けられるのとは違う刺々しさを纏った男の声は、ロニをたまらなく不安にさせる。
それは珍しいことではなかった。ロニは時折、ああした二人を目にしている。
だが、誰もそれをおかしなことだとは思っていないようだ。青年に向けられる辛辣な言葉を耳にしても、表情を変える者はいない。女は涼しげな顔で食事を続け、使用人達はそれぞれの仕事に意識を傾けている。
ロニは、しばしば悩まされるあの夢を見た後と同じような、重苦しく、苦々しい気持ちで胸の辺りを充満させながら階段を上り、自室に戻った。
動悸が治まった頃、部屋に近付く足音に気付いて、ロニは椅子から立ち上がった。
ノックがするよりも少し早く扉を開ける。
「ああ、すまないね」
扉にあと数歩という所に居たのは、食卓に同席していた青年、クルトだった。
杖を着き、ゆっくりとした足取りで室内に進む。その足元に注意しながら、ロニは丁寧な仕草で扉を閉めた。
机の横に置かれた椅子はクルトの専用となっている。ロニのものや朝食室のそれとは違い、装飾らしいものも無ければ、座面には布も張られておらず、堅い木がそのまま組み上げられたような造りだ。
クルトはいつも通りその椅子に腰を下ろすと、肘置きに杖を立て掛けた。
「前回で我が国の開戦から戦中の話は済んだから、今日は和平協定から終戦後の話をしよう」
分厚い歴史書を開いてロニの手前に置くと、自身は何も見ることなく、静かに話し始めた。
「少しおさらいもしようか」
ロニの生まれ育ったこの国は、七十年程前まで周辺諸国との戦争の最中にあった。
様々な地形故の豊富な資源に恵まれたこの国の領土を奪わんと宣戦布告が成されたのだ。
戦術家として名高いザクリス王は、諸侯への強硬な姿勢を崩すことなく、自身も最前線に隊を置いて奮戦した。戦力は十二分に蓄えられていたが、結託した同盟軍に複数方向から押されたことで、長引くほどに戦況は悪化していった。騎士を始め多くの兵士が死に、農家や町人の男達も借り出されるようになった。
ザクリス王の五人の息子の内、長兄のグスタフ王子と次兄のヨアキム王子は、父王に遜色の無い勇猛さで兵士達を大いに勇気付けたが、激化の一途を辿る中、共に戦場で落命した。
王族を討ち取ったことで敵国の士気は高まり、国内には混乱が広まりつつあった。
そんな中、父王に代わって国を任されていたクリスト王子が、突如この世を去る。この歳若く治世に秀でた四番目の王子は、降伏によって戦争を終結せしめるべしと説く穏健派の宰相の手によって、城内で暗殺されたのだ。ザクリス王もその報せを受けて間もなく、戦場で受けた傷が悪化し、憤死した。
長引く戦争によって土地や家族を失った民衆は、このことを受けて一気に穏健派支持へと流れた。宰相ら穏健派は末子のスヴァンテ王子を擁立し、王族の名でもって実質上の降伏宣言を強行、戦争は終結する。
「スヴァンテ王子は急ぎ王位に即位されたが、まだ十にも満たぬ幼子だった。当然政治能力は無い。和平協定においても、一切は宰相が執行した。この頃を後に『王無き玉座の時代』と呼び、宰相による実質的政治権掌握は、スヴァンテ王子が成人するまで続いた」
語り部のように紡がれる話が、開かれた書物の内容と一言一句と言っていい程に合致しているのを確認して、ロニは感嘆の溜め息を漏らす。
歴史の話だけに限らず、クルトの記憶力は驚異的なまでだ。彼自身が学んだことは全て余さず頭の中に収まっているのではないか、そしてその中にはきっと立派で美しい図書館が建立されているに違いない、とロニは夢想していた。
クルトの無感情で抑揚に貧する話し振りにしばしば萎縮しているが、この時ばかりはうっとりと聞き惚れる。
クルトの読み上げる音は、ロニの頭に浮かぶやはり夢想じみた――この誇り高い歴史書に魔術がかかり、自ら語りだしたのならきっとこうであろうというような――イメージと正に吻合していた。
クルトが一通り話し終えるまでは質問などしない。この完璧な講義はロニにとってある種神聖なものであり、中断させるというのはとても罪深い行為に思えた。
「和平協定から終戦までのおおまかな流れは今の通りだね。この続きを読んでおくよう言っていたけど、読み進められた?」
ロニは控えめに頷く。クルトはロニの手元に広げた本に長い指を伸ばして静かに閉じた。
「戦争の後、新政権が行った主だった政策は?」
ロニは細く息を吸い込んで背筋を伸ばす。
「戦力の象徴である騎士団や近衛兵らの解散。それから、農耕地に補助金を出し、働き手が兵士として消えた農地の再興です。対外政策でなく、内政を重視し、国力の回復を図った」
僅かに緊張した様子ながら、ふっくらと柔らかそうな唇からはするすると回答が出てきた。
クルトは聞きながら再び本を開き、ページの一部分を指差した。
「騎士団と近衛兵は『一部が』解散だ。特に近衛兵の殆どは貴族として地位を残したままでいる。この町にも、そうした経緯を持つ貴族がいるだろう?」
「はい……」
「細かいが、政策とはそういうものだ。それに、近衛兵の系脈を持つ貴族が今のような回答を聞けば、目くじらを立てるかもしれない」
「分かりました……」
肩を落とし、ロニはすっかり意気消沈してしまった。
しっかりと読み込んだつもりだったのだが、まだ不足していたことに恥ずかしくて居た堪れなくなる。
対してクルトは、さして気にもしていない様子で水差しを手に取り、グラスに注いだ水で唇を潤した。
「簡単に続きを話そうか」
和平協定締結後、宰相らはこと内政に力を入れた。
長引く戦争によって家族を失った民衆の怒りと悲しみは根深く、終戦を迎えても尚、国内は不穏な空気に包まれていた為だ。
国境近くの街や村は土地も傷み、特に農村部の受けた被害は甚大なものだった。田畑や山を焼かれては、作物を育てることができない。押し寄せる不安は不満となり、人々はそれをぶつけることのできる対象を探していた。
国家の中枢が宰相らになったことで、国そのものは反戦と復興へ向けて動き出している。だが、それだけでは足りない。
和平協定という事実上の『敗北』の屈辱と、何も得ることができなかった憤り。それに対して、失ったものはあまりに多く、大きすぎた。
宰相らはその心痛に寄り添うと嘯き、完全なる戦いの放棄の象徴として、騎士団や近衛兵といった身分を廃止し、事実上それらを解散させる。その下部組織であった兵士らも、当然存続はできず、故郷へ戻ってそれぞれの家業に従事することになったという。
だが、その中でも例外が存在した。
スヴァンテ王子の警護に当たっていた近衛兵の部隊は、ほぼ丸ごと貴族として家名を残している。
この、スヴァンテ王子の親衛隊とも言うべき部隊は、クリスト王子暗殺の際、宰相の協力者として手引きしていた。
戦上手で名を揚げたザクリス王も、内部で燻っていた反乱の芽に気付くことはできなかった。
対照的に、宰相はこの静謐なる戦争について造詣が深く、覇権を得た後も、強過ぎる猜疑心をそのままに、嘗ての側近らにも決して気を許すことはなかったという。
スヴァンテ王子にすっかり自身の思想を刷り込んでしまう頃には、城内には文官らしか存在しておらず、城内外の警備にも、決して長く同じ者を立たせなかった。
「よって、この戦後の一連の流れは、『傷付いた民衆の心を安らげる為に』という大義名分の下、近く台頭したであろう反乱の芽を摘むことに成功したといえる」
今度は文献通りではなく、クルトによって簡潔に纏められた内容を聞き終えると、ロニは独り言のように呟いた。
「宰相は、誰も信用することは無かったのかな」
クルトはもう一度水を飲む。
「因果なことに思えるかもしれないが、理屈には合っているとも言える。誰かを欺き、出し抜いた者が、自分だけはその対象にならないと信じるには無理がある」
「そういうものですか? だって、宰相のしたことは、忠誠を誓った王家への裏切りとはいえ、勝算に乏しかった祖国を他国の蹂躙から守る結果にもなった……。どちらにせよ水際の策でしかなかったと言われているけど、宰相の反乱によって、確かに民衆は守られた一面はあります」
「国家の為に蜂起した者、恩恵を被った者には裏切る理由が無いというわけだね?」
「平和の最中において、更なる蜂起を志す切っ掛けは、そう転がっているものではないと思って」
「確かに、大多数はそうだったかもしれない。だが、身分を奪われ、仕事を追われた騎士や兵士は?」
「あ……」
ロニの瞳に翳りが差す。
「兵士の幾人かは、むしろ訪れた平和を享受したかもしれないね。家を守る為に望まず命を懸けた者もいる。だが、騎士は違う」
クルトは構わず話を続けた。無感情でありながら、凜と澄み切った冬の空気のような声が、寒々しくも流麗に言葉を綴る。
「騎士の家系は、兵士とも、近衛兵ともまるで質が違う。彼らは身分そのものに固執したりはしない。彼らは自身が国の盾であり矛であるという一族の『誇り』を何よりも重視し、それを守り、踏襲することに命を尽くす」
それにね、ロニ。と幾分か和らいだ声でクルトは語りかけた。
「質の違う者というなら他にも、権力への偏執狂も存在している。後世に名を残すこともできなかった宰相がそれに当たるか、それとも真実憂国の士であったかは、既に七十年以上経った今となっては分かり得ないことだが、どの時代にも、絶対的権力を握ることに並々ならぬ野望を抱く者は尽きない」
「全ての人が望む平和は存在しないんですね」
文献に指先を滑らせ、物憂げな伏し目で文字を追う少年の顔を見て、クルトはそれ以上の説明を止めた。
ロニは思考の幼さこそ目立つが、決して愚鈍では無い。クルトの言わんとしているところを、話の半ばにして汲み取ったようだ。
「僕……、まだ何も分かってないですね」
「謙虚は美徳だが、卑下していても知識は増えない。思考は人の数だけ存在する。それぞれの立場や出自、生育歴に因って変化するからね。いずれそうした人々と渡り合っていかなくてはいけないのだから、君に偏った思考は禁物だ」
「はい。分かっています」
意気消沈というだけでなく、ロニの表情が曇っていく。
クルトは本を閉じ、杖を手に取った。
「今日はこのくらいにしておこう。休んだら、出掛ける支度をするといい」
床に杖先をぐっと押し付け、椅子からゆっくりと立ち上がる。ロニは先回りをして扉を開けておく。
「……そう甲斐甲斐しくする必要は無い」
「いいんです。僕が勝手にしていることだから」
珍しくぶっきらぼうな口振りだ。不機嫌、というよりは拗ねているようだった。
「そうか」
短い一言を置いて、クルトは廊下に出る。ロニはノブに手を掛けたまま俯いていた。
小さな咳払いが響いて、ロニはびくりと肩を震わせた。
「政策についての解答は、不足はあれども、充分に内容を把握していたと思うよ」
「え?」
「自力で読み進めたにしては、上出来だった」
ロニは弾かれたように顔を上げ、灰色の瞳がころんと浮く程に目を見開いたが、クルトは廊下の先を見遣っていて、二人の視線が合うことはなかった。
「それじゃあ、僕は部屋へ戻る」
「あ、待って、」
クルトを呼び止めようとしたところで、背後で鳴る重い足音に気付いた。反転させた体がぎくりと硬直する。
「ロニ、勉強は済んだのか? なら、こっちへ来なさい。珍しい菓子があるから、お茶を飲もう」
長い廊下を闊歩するのは、この家の主たる男、ブランデル氏だ。
「お父さん、お仕事は……」
「今しがた客人が帰ったところだ。一休みに付き合いなさい」
「分かりました」
笑顔で手招きする父の方へと爪先を向ける。
「では、僕は部屋へ戻ります」
ロニが一歩踏み出すと、クルトが一礼して階段へ向かう。
「ああ、そうしなさい」
朝食を終えた後と同じく、二人の会話は硬質で冷淡だ。ロニは努めて関心を向けないよう、こっそりと奥歯を噛んだ。
「さあ、行こうか」
「はい」
父の分厚い背の影に隠れるようにしながら着いて歩く。
ブランデルの私室は、立派な調度品や美しい装飾品に埋め尽くされている。この街では売っていないようなものばかりで、彼の自尊心を描き出したかのような煌びやかさだ。
先頃買い付けたという分厚く柔らかな絨毯の上を大股で進み、体が沈み込んでいきそうな程贅沢に綿を詰めたソファにのっしりと座る。その向かいにロニもちょこんと腰を下ろし、肩を窄め、足を揃えて大人しくしていた。
よく磨かれたテーブルの上には、既に湯気を燻らせるティーカップと、甘い匂いを放つ菓子が山と盛られた皿が用意されていた。人影は無いから、部屋に戻るまでに使用人が用意したものだろう。
「さあ、遠慮なく食べなさい。果物の砂糖漬けを使った焼き菓子だ」
「いただきます」
一番上に乗せられた菓子を摘んで口に運ぶ。歯を立てると、砂糖と果物の香りで口の中がいっぱいになった。この街の周辺では土の質が適さないらしく、果物はあまり育たない。それらを使った食べ物や飲み物は貿易品として高値を付けられている。
客人の手土産とはいえ、ブランデル家ではこうしたものを家人の茶請けにしてしまえる程度には裕福で恵まれていた。
それを正しく理解しているかはさておき、よくよく味わっているロニを見詰めるブランデルの目が眇められる。
「クルトと何を話そうとしていた?」
ティーカップに伸ばした手がぎくりと硬直する。
「歴史の勉強の話を……。質問を思い出したので、訊こうとしていました」
ブランデルは動かないロニの手元近くにカップを寄せてやりながら、妙に甘ったるい猫撫で声でもってその名を呼んだ。
「あれとはあまり話すな。あれは確かに賢く、知識を学ぶにはいいが、それ以外はまるで駄目だ。あの顔、話し方。まるで人間味というものがない。お前とは違うんだよ、ロニ」
ロニはカップに口を付けて、飴色の水面にふうと息を吹きかけた。尖った唇を一瞥して、ブランデルが溜め息をつく。
「お前は人懐っこいのが良いところでもあるが、大きな心配の種でもある」
ロニは何も答えない。カップを置き、もう一つ菓子を摘む。
ブランデルはそれを咎めるでもなく、再びの溜め息と共に額を押えた。
「お前がこの家を継ぐのだから、そろそろ気構えを持たなくてはな」
いいか、ロニ、といささか強い口調に変われば、いよいよ観念して短く返事をする。
「お前は兄とは違う。このブランデル家に息子は元より一人と思いなさい」
噛み砕いた菓子を飲み込む間の沈黙だけが、ロニにできる唯一の抵抗だった。
「……はい。お父さん」
隠し切れない渋面であっても、自分の命に形ばかりは従ったと、ブランデルはそれなりの満足で頷いてみせた。
「さて、私はもう一仕事といこう。それを食べたら、部屋で待っていなさい」
「分かりました」
ブランデルは重い足音を鳴らしながら部屋を出て行った。
華美な部屋に残されたロニは、カップの残りを大きく煽って行儀悪く飲み干すと、それ以上は菓子には目もくれず立ち上がった。
廊下はしんとしている。
足の悪いクルトの居室は一階だし、ブランデルが仕事場にしている応接室も一階だ。夫人は今頃使用人と共に観劇用のドレス選びに夢中になっているのだろう。
勉強の時間を終えてしまえば、ロニはこの広い屋敷にたった一人取り残されたような心地になる。
苦手な分野も多いが、一人きりで所在無くしているよりは格段に楽しい。
(もっと色々なことを聞きたいし、聞いて欲しいのに……)
自室に戻ると、机の隅に寄せられた歴史書を掴んで椅子に座る。
(もっと勉強して、もっと賢くなったら、もっと話してくれるかな)
建国から七十年前の戦争、そして現在に至るまでを書き記した歴史書は堅い表現が多く、特に武力から離れて久しい現状に生きる者としては遠く、物語じみて感じる。馬といえば馬車を引く生き物であって、鎧で全身を覆った兵士を乗せ死地に向かうものではない。剣もそうだ。鞘に収まったそれを下げている衛兵を見かけないでもないが、勇ましく抜き取って荒々しく振るう姿が日常だったとはとても想像できない。
だが、例えそれが遠い昔の話だとしても、確かに今へと繋がってきたのだとクルトに言われたことがある。
一見不可解に思えるものも、逆行すれば合点がいくという。
(兄さんのことも、『分かる』時がくるのかな)
窓辺に椅子を引き寄せて外の景色を眺める。広がるのは手入れの行き届いた庭だ。庭を囲う塀と木々。その先には立派な屋敷の壁だ。
暖かな日差しを柔らかな頬に受けながらじっとしていれば、ほどなく瞼が重くなる。物憂げな灰色の瞳は、ゆっくりと閉ざされた。
日が落ち、一家は観劇の為に屋敷を出た。劇場まではそう遠くなく、馬車を使わずに歩いて向かう。
薄暗い街はひそひそととした話し声で溢れていた。
どこへ行こうとも、それは変わらない。人が集まれば自然発生しているようだ。
街灯の下に集まる男女は、今日も誰かの噂話をしている。
ロニは、そうした人々の習慣が下卑たものに思えて、とても好きになれない。
「ねぇ聞いた? 家出人が出たそうよ」
「知っているわ。ずいぶん噂になっているもの」
「あの家もおしまいだな。気の毒に。家出人なんか出てしまってはね」
「例外もあるだろう」
「そりゃあ中流階級でも、ハルトネンさんくらいになれば別だろうが、教会からは睨まれていると専らの噂だろう。普通は――」
ロニは両手で耳を塞いだ。掌できつく押さえつけ、五指は行き場なく髪を掴む。
街はこうした噂で溢れ返っている。
良い噂は殆ど耳に入らない。人々は皆、悪い噂を好んでいるようだ。
失踪した家人の話、没落した家の話と、不幸になっていく誰かの話は不思議と尽きることはなく、申し訳程度に声を潜める口元は決まってにやついている。立派な口髭を生やした紳士も、綺麗な化粧を施した淑女も、この時は皆同じ顔だ。
ねっとりとした声音にこの表情も相俟って、純粋なロニ少年には耐え難い不快感を与えた。
ブランデル夫妻は涼しげな顔をして歩いている。こんな噂など、取るに足らない児戯のようなものだと言わんばかりに、視線を向けることすらない。後ろを歩くロニとクルトを振り返ることもなく、少し距離を保ったまま、劇場への道を真っ直ぐに進んでいる。
ロニは耳を塞ぐ手を離せないまま、とぼとぼと二人の後ろを着いて歩いていた。
クルトの無感情な目がその姿をじっと見下ろす。
やがていつまでも手を離す様子が無いと見て取ったクルトは、ロニの手をそっと掴んだ。
「あ……」
はっとして顔を上げた先には、常通りの怜悧な双眸がある。
「きちんと歩きなさい。危ないから」
「はい……、兄さん……」
淡々と窘められてようやく両手を下ろした。クルトはそれ以上何も言わない。彼も前を向いて歩くだけだ。
やがて煌々と明かりを灯した劇場が眼前に現れ、ブランデルが軽く手を挙げて入り口の前に立つ人物へ挨拶をした。夫人は隣で笑顔を浮かべながらも、長いドレスの裾を煩わしそうに捌いて石の階段を上る。
「ロニ、すまないが、少し手を貸してくれないか」
その少し後ろ、一段目に杖を着いたクルトが小声でロニに手助けを求めた。
ロニは首肯して近付き、杖を持たない手を取って支える。
腰を屈めるようにして慎重に一段上るクルトの顔がロニの耳元にぐっと近付いた。
吐息の温度が分かる程の距離は、ほんの一瞬のことだった。
ロニの目が見上げるより早く、クルトは前を向き、次の段に杖を着いて、
「もう大丈夫だ。ありがとう」
と、静かながら有無を言わさぬ声で告げた。
階段はまだ残っていると目で問うが、クルトは涼しい顔で手を引っ込めてしまう。
「杖が滑るかと用心したが、そんなこともなさそうだ。杞憂だったね」
ロニは何も言えずに、ただ歩調を合わせることしかできなかった。
一家が階段を上り終える頃に合わせて、タキシードに身を包んだ壮年の男が足早に近寄ってきた。
「やあ、ブランデルさん。本日はご家族お揃いで、ありがとうございます」
「支配人、いい席をありがとう。人気の演目だと妻が執心していてね。息子にも良い経験をさせてやれる」
息子、と言われて男の視線が自分に向けられたのに気付くと、ロニはにっこりと微笑んでみせた。
「こんばんは、アンヌッカさん。歌劇、とても楽しみです」
アンヌッカと呼ばれた男は、喜色満面で口髭を弄りながら哄笑を上げた。
「ロニ坊ちゃん、暫くお見かけしない内に随分と大きくなられて。これはいよいよ将来が楽しみでしょう」
ブランデルもまた、上機嫌で頷いている。
「積もる話は、また礼拝の日にゆっくりと。どうぞ良い時間を」
深いお辞儀をするアンヌッカの側を通り抜けると、ブランデルはロニの頬をするりと撫でた。
「よく支配人の名を覚えていたね。いい子だ」
「……ありがとうございます」
褒められても浮かない様子の息子にそれ以上の関心も咎めもなく、ブランデルは夫人の手を取り席へと向かう。
ロニはやや後方に控えていたクルトを振り返り、眉を八の字にした。
「兄さん、僕……」
「遅れてしまうよ」
最後まで聞くことなく、淡白にそう言い残して、傍らをすり抜けていく。
ロニはぐっと奥歯を噛み締めて、取り残されないようにと足を動かした。
幕が開き、高い天井に突き刺さりそうな女の高音が鳴り響く。
ロニは灰色の目を眇めてこっそりと溜め息をつく。
夜も更け、概ね常通りの一日が終わろうとしていた。
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