録幕 セセラギヲ荒ラセ
私の恋が叶う日が来ないことは理解している。
しかし、その人が私を選ばないからといって嫌いになれるものではない。
好きになった相手が自分を振ったからと嫌いになれる器用な人が羨ましいと思う日もある。
そういう人は、誰よりも自分を大切に思える人だ。諦める大切さを、強さを持っている人だ。
それは人が生きる上で、とても大切な感情だと思う。
私は、片倉雪斗という男が好きだ。
抱きしめたいし、抱きしめてもらいたい。
彼も、私が嫌いというわけではないと思う。
会えば話をするし、軽口だって叩ける。酷いことも言い合える。
だけど、彼が私との間には、距離があるのも事実で。
彼が私を見る目は優しい。
痛々しい私を、残念そうな目で見ることもある。
そんな視線、心の機微、全部分かっている。
それでも、私は彼のことが好きなんだ。
理由なんて私が知りたい。ただ、彼が、好きなんだ。
堂々とした物腰。だけど、肝心なところは決して媚びない姿勢。
言うことは言う言葉選び。時折見せるやさぐれた態度。
表情。笑顔。抱きしめたくなる、つらそうな顔。
すきだ。
私の恋が叶う日が来ないことは理解している。
彼はセツナと付き合いだした事を理由に、私とは付き合えないと言った。
だけど、セツナが死んでも、私とは付き合っていない。
これからもそうだろう。
だけど私は、彼を想う気持ちを捨てたりはしなかった。できなかった。
だから、私はこれから、叶わない恋なりの結末を迎えようと思う。
―――この想いを、彼の心に残す為に。
録幕 セセラギヲ荒ラセ
それぞれ燃え盛る倉庫から散り散りに脱出を果たしていた【被害者の会】のメンバーを待っていたのは、【トラブルメーカー】北原狂哉の訃報であった。
ニュースキャスターが読み上げる言葉は事実の響きを強める。北原キョウヤという男性が殺害された、ということ。容疑者は自殺幇助を主張しているとのこと。故人の遺志で遺体は海中に沈めたと供述しているらしいこと。
北原狂哉の葬儀の場で、【被害者の会】のメンバーは再会を果たす。しかし各々に言葉はほとんど交わされなかった。
何かが始まる。そう思っていた。何かが始まっている。そう思っていた。これで何かが終わったのか。何が終わったというのか。さっぱりわからない。わかりっこなかった。
喪服は雨に映える。さびれた喫茶店で、男女がひと組。
「痩せたな。疲れた顔をしているぞ、アゲハ」
「そうだね、雪斗。やっぱり色々とあったし。それも理解できないことばかり、手の届かないところでばかり。…悔しいね、情けないや」
「仕方ねぇよ。こんな結末だなんて、誰も思わない。まさか、狂哉のばかが本当に死ぬ日が来るなんて、想像だにしてなかった」
言いながら、片倉雪斗は漆黒の液体を飲み干した。腹の底まで黒で満たされていくかのような表情を見せる。
今日、舞原アゲハは片倉雪斗と会わなければいけない理由があった。
舞原アゲハは、ため息交じりに天を仰ぐ。
全てが有耶無耶になった廃倉庫の夜に、頭を冷やせば明らかになる事実がある。
それは
あの夜には、確実に何かの打算があった。
爆発物が仕込まれている事を知っていながら、それでも【被害者の会】の中止を訴えず強行させるメリットのある人物がいる。そして、明らかな意図をもって、露骨な妖しさをメッセージに変えている人物がひとりいる。―――言うまでもなく主催者である、片倉雪斗。
店内を、聞き覚えのない音楽が暖房混じりの音とカラカラ廻る。
今の自分には果たすべき役回りが無いことを、アゲハは気が付いていた。自分が蚊帳の外にいる人間であり、実は現状に何も関われていない部外者であるということに。
【ごっこ遊び】にすら参加できていない自分。何かが進行している。それぞれがそれぞれに打算を抱いている。まだ、何も終わっていない。そもそも何も始まっちゃいない。
今の自分はワイドショーを見て悪人を蔑むだけしか出来ない人間のようなものだ。何にも解決に貢献していない、そしてすることもない。なのに当事者ヅラで偉そうなことを言う、そういう人種でしか成りえていない。
渇いた喉で静かに、だけどはっきりとしたアゲハの声が、雰囲気を裂いた。
「…―――キミは、わたしに、何をしてもらいたいの?」
決意が無ければ覚悟が無ければ人は、何時まで経っても変われないと言う人がいる。それはきっと真実であり、そしてまた、何も分かっていない人の意見でもある。
人は変わっている最中に、揺るぎそうになる自分を支える為に決意を抱き、覚悟を固めるのだ。歩きださなければ道は変わらない。歩き出した先を見据える行為、
変わろうと言葉にして決めたわけではないし、意識して変わったわけではない。それでも舞原アゲハは、明らかに変わっていた。
もしも舞原アゲハに決意があったとすれば、それは屈辱感からだったのもかもしれない。しかし、それでも。かつての自分なら傍観を決めていたであろう状況で、自分から動き罪の構図に挑むアゲハの姿は、間違いなく決意と覚悟に依る。
果たして人は、何かきっかけがないと変われないのだろうか。 人は本当に、何かきっかけがないと変わらないのだろうか。
違う。
人が人を騙る上で、きっかけというエピソードはただ、語れば知った風を振る舞えるだけのものである。しかし本来きっかけなどには、何ら価値も無い。
人がひとつの出来事をきっかけに変わった事例などいくらでもあるだろう。それでもきっかけには価値がない。何故ならきっかけとは、理由として後付けのカテゴリーに分類されるものなのである。その人の変化もあくまで日々の営みによって積み重ねられた結果に過ぎないのだ。
人は変わることができる。
人はドラマチックなきっかけが無くとも変わることができる。人は決意など無くとも、変わることができるのだ。その時、求められるのはただひとつだけ。つまり気持ちの整理である。
舞原アゲハの変化にも、大したきっかけは無かった。
ただ状況を整理して、不要な出来事を除外すれば、それだけで自然とやるべきことが固まるのである。
違和感を無視する事は非常に簡単で、違和感を無視する事は非常に難しい。気づかない振りひとつで違和感は黙殺され、罪悪感ひとつで違和感は黄泉還る。
兄・舞原翼の死は、自殺であった。
現場に残された無傷同然の右腕という違和感も、簡単な論理で説明が可能な現場であろう。
切断されていることを除けば無傷の右腕を小脇に抱えて、飛び込みを図ればいい。そして最中、右腕を落とせばいい。それだけで、ぼくのみぎてをしりませんか。アゲハが不自然と考える状況の疑問は解消されるのだ。
真実はいつだって、ドラマチックである必要など無い。問題は、何故舞原翼が自らの死を望んだかであった。
だが、実のところそれを理解できる者など、そう多くは無いに違いない。何故なら舞原翼は、その右腕を切断されたが故に自殺を決意したのだ。人の心が、常に理解可能である必要もない。
証拠も確信さえも必要なかった。目を背けていた気持ちの整理ひとつで、人は歩きだせる。逃げていたことに立ち向かう行為に、言い訳など必要ない。
アゲハは、窓の外に視線を向けた。
「…ねぇ、雪斗」
「うん、アゲハ」
「わたしはね、やっぱり、きみがすきなんだ」
「…そうか、本当にすまないな。ありがとう」
「きみがすき。すきですきで、どうしようもない」
「…そうか、ありがとう。…ごめんな」
「うん。何よりも誰よりもきみがすき」
「最低だな俺は」
「そんな事ない」
「ごめんな」
「…いいよ」
「おれも、おまえのことは、絶対に嫌いじゃない」
「うん。そう言ってくれると、悲しいけど嬉しい」
「ごめんな」
「ううん、いいの。私じゃ駄目なのはわかってた」
「お前といると楽しいよ。それは本当に、誓うよ」
「それはいい友達に出会えましたね」
「なのに酷い事をしちまったけどな」
「ほんと、傷つくよね。優しくされるとさ」
「知ってる。見てればわかる。痛々しいな」
「ごめんね」
「人生、なかなかうまくいかないな」
「ううん、それは、きっと違うんだ」
「何が言いたい?」
「ねぇきかせて?」
真っ直ぐ目を。口づけできなくても、目は交わせる。だから。
きっと人生は思い通りにいかないように廻っている。そうして見える景色があって、その中で出会った奇跡で人生は成立するのだ。わたしが、あなたが、ここで、ここではないどこかで。そうして未来を描く彼方で、また笑って、出会えますように。今はまだ、今だからこそ、その隣を譲ってはいけない時。
人生に数多溢れる穏やかな日々に土足で踏み込むように。諦めに早い遅いは無い。有意義無意味など、論じるだけ机上の空論。無駄でも、残るのが人生経験なのだから。きっとそれは、無駄じゃない思い出。
全ての報われない恋に、与えることの許されない愛に。欲望に。
強くなろう。
「…ねぇ、もうそろそろ本当に本当のこと。きかせて」
過去があるから戦える。想いがあるから戦える。
人生のあらゆる困難も。自らを打ち砕く切なさでさえも。
今こそ、強くなろう。失恋すらも乗り越えられるように。だから―――。
「きみの本当を全部わたしに聞かせてほしいの。わたしは、気付いているんだよ、…雪斗が、狂哉君を殺してココに来ていること」
舞原アゲハは今日という日に、愛する人を告発すると決めていた。自らの叶わない想いを乗せて。あなたに届きますように。
北原キョウヤの自殺を幇助したと出頭した男は、アゲハに付きまとっていた、あの愚かしいストーカー男であった。その男は、罪の証明として、北原狂哉の切断された右腕を持参したという。
それは、明らかに舞原アゲハへ向けられたメッセージだった。
片倉雪斗は何も言わない。やがてアゲハが天を仰いだまま口を開いた。
「まさか彼が殺人者として出頭するだなんて、作為的にもほどがあるな。私や、みんなに積んだお金、それで彼の事も買ったのかしら。冷蔵庫に置いてくれた腕も、みんなキミ、雪斗の仕業だったのね」
あの日の不自然な夜に。ストーカー男に始まり、多くの暴漢に因縁をつけられた夜。処刑道化と木偶人形。そして来訪者。テロリストであった兄の真実を知っていた男。
「死を証明するには不十分としか言えない、だけど確かな右腕という肉体という証拠を持って自首。ていうか自殺幇助と死体遺棄ってのが絶妙だね。弁護士次第で幾らでも裁判はもつれるよ。ていうか先日の頭の螺子が外れた彼なら、心神喪失、下手すれば普通に無罪だって勝ち取れる気がするね。そんな勝ち目のある"お仕事"。大金と確かな勝算をチラつかせたなら、行き過ぎたストーカー行為にまで手を染めるほど追いつめられた人間を"買う"ことはきっと可能だよ。まるで狂哉くんみたいなやり口だね、厭らしい」
とても回りくどいやり方にも理由がある。それはつまり、はぐらかしたい何かがあったと言うこと。そうすることで有耶無耶になる程度の、だからこそ隠さなければならない真実がそこには潜んでいるということ。たとえば、自身の行為を推理させたいあまりに、想い人の周囲にトラブルを配置した、あの日の北原狂哉のように。
「きみが犯人だ。ロペスピエーロとか、色々な誤魔化しを挟んでいたみたいだけど、そんなものは演出であって目的じゃあない。きみはただ、狂哉くんを殺せればそれで良かったんだから」
片倉雪斗は微動だにしない。
「きみは狂哉くんを殺すしかなかった。セツナの事もあるしね」
小学生の時、暴力教師と真っ向から立ち向かったのが雪斗だった。中学校の時、先頭に立って立てこもりの壁と化し仲間たちを守ろうとしたのが雪斗だった。高校生の時、あらゆる不良と良識者に忌み嫌われながら、率先して夜の街の悪党を吊るして回ったのも雪斗だった。そして大学生の時、思い出すのも忌まわしい地獄に何もできなかったのも雪斗だった。
「でもわたしはには。きみが、わたしに送ってくれたメッセージ。それが何を意味するか、わたしにはわからなかったよ。だけど、わたしはきみがおくってくれたメッセージに応えたいの」
舞原アゲハは、その全てをただ、見ていることしかできなかった。何もしていないのと同じだった。そんなザマで、選ばれるはずもない。
「だから、話して。教えて。聞かせてほしいの。きみはまだ何かを企んでいて、そこに私を利用しようとしているんだろう?」
舞原アゲハは、じぃっと愛しい男の眼を見た。手は震えたし、また首ごと目を逸らしてしまいそうになる衝動にも耐えた。
「本当の意味で、私の望むままにわたしを選んでくれなくていい。むしろ選ばなくていいよ。それでいい。利用してくれたらそれでいい。頼ってくれたらそれだけで嬉しい。だからこそ。わたしにも背負わせてほしいんだ。きみの罪を。きみがこれからまだ背負おうとしている罰を」
片倉雪斗が沈黙を保つ。アゲハは目の前の男が、沈黙を破るまでの時間に、耐えた。
やがて、片倉雪斗がアゲハの眼に答える。
「…本当に、いいのか?」
「選択の余地はくれたでしょ。躊躇わなくていい。きみはわたしに、どんな道化を演じてほしいか、ただそれだけを言ってくれれば、わたしは絶対にそうなってみせる」
それはきっと男なら、愛する女性には決して出来ない仕打ち。共犯とも違う、いたってシンプルな破滅への経路。駒として、尊厳すらも打ち捨てて、それでも願い想い抱く気持ち。
こうして、世界の構図は対決の世界を描く。
舞原アゲハは自らの意志で物語の歯車により身を砕かれる道を選び、片倉雪斗の暗躍が形になる時は近づいていく程に、無常。そうして描かれる新世界へ。
走り出した物語には、既に不幸と罪と悪が多すぎた。決して救われない程に不幸と罪と悪は重ねられた。ここまで来ると人の意志や希望などは全てが無駄となり、もう後は誰かが犠牲になるかの世界になる。
それでも戦るというのであれば。ようこそ、素敵な物語の世界へ。
最後に歌が流れれば、全てが丸く収まってハッピーエンドになりますように。最後に唄さえ流しとけば、全てがハッピーエンドになりますように。
「…―――おれは、【被害者の会】の連中を、皆殺しにするつもりだぞ」
その動機は今何処。
未来とは変えることができない運命であるように、未来は決して甘っちょろく人を出迎えたりはしない。不幸と罪の数だけ、未来にはろくでも無い事が待っていて、それを避けることはできなくて。
だが、人は本能で知っている。たとえ変えられない未来がほとんどであるとしても、その先の未来なら変わるということを、人は知っているのだ。
―――だから、抗うのだろう。
この世界に於いて、対決というものはそう多くない。
人は無難という保険に執着するが故に、不透明決着に満足を覚えるから。
しかし、人は本能的に他人の不幸を求めるように。そうやって、比較により自身の幸せを確認するように。
人は、安全から外れることを極度に恐れる知恵を持つ。そうやって、失われた牙がある。
研ぎ澄ませ、人生を。貫き通せ、人生を。
思い出せ、生きることはいつだって対決の連続だ。目を覚ませ、今を見据えろ。あなたが座するその位置すらも、既に渦中の中心なんだぞ。
道行く彼は誰と戦っている。空を見上げる彼女は何と戦っている。そして、あなたはあなたと戦っているのか。理解しろ、その逃げの一手すらも、新たな対決への布石となることを。
人生は続く。【トラブル】もまた、決して無くならない。
これより物語は、幾年月かの日々を経過し、終幕の世界へと時間軸を移す。そこは【トラブルメーカー】の死した世界。だが、世間に蔓延る人生から【トラブル】が消失するわけも無く。
だからといって、救いも遺されているのではないだろうか。
此の物語は、現実に満足できなかった子供たちが、大人になってもそのごっこ遊びを続けていた、袋小路の末路である。
日本という恵まれた国に生まれ、現実がこれでもかと「日常も悪くないよ」と手を差し伸べているにも関わらず、あくまで非日常事態に拘った愚か者たちの行き着く先の物語。
そこには、一切の同情する余地が無いだろう。ならば非日常に死ぬがいい。
ドラマチックに咬ませ犬してくれる安い不良がいないなら、まずは因縁をつけてくれる人間になりきればいい。
退屈な授業中に乱入してくれるテロリストがいないなら、襲うだけの価値をメッキ加工して広めればいい。
もしも救いがないと言うのなら、それでもあなたが、即破滅の刹那に願いが折られて砕けるのを待つのみならば。ただ、ひたすらに逃げるな。立ち向かえ。挑め。戦え。対決だ。
これは、罪か罰かを問うような物語ではない。―――どうか、希望を。物語とは、人生とは、本来その為だけにあるべきなのだ。
近い昔、酷い事があった。
あれは片倉ユキトが大学生の頃。教育実習の為に戻ってきた地元で再会した北原狂哉と、子供たちの悪企みに手を貸してしまう。そして、静嶺セツナは死に至る物語。
これは静嶺セツナという女性の死という破滅について。その顛末。
それは二人の母校が、歪んだ思想に支配されていたかのような閉塞感で満ち溢れていたことが始まりであった。そこにあった露骨なヒエラルキー。それが、誰も幸せにしない責任転嫁の構図を完成させていた過去の死物語。
露骨なヒエラルキーとは、つまり「教師<子供<保護者」という、安いドラマや現実にありがちな縮図である。
もしも有力な人間が先頭に立ち、「正しいことをしろ」と押しつける社会が正しいかと言われればそうではないように。正しいこととは前提として自身がするべきことであり、人に押し付けてはいけない。
発言権を持ちすぎた保護者。有り余る時間を、正しい意見をする為に費やす正しい行為。具体的な解決策の提案をせず、実行に協力もしない。ただ、「○○するべき」という言葉を振りかざして、正しいを言葉に代えるだけの行為。立場上、真っ向から抗えない現場の教育者。そして、その構図を理解してしまった子供たち。
誰もが"子供たちの為"という正義をかざしているにもかかわらずに発生する、それば言うまでもなく悲劇だった。
だが、子供たちが望む望んだ世界とはそうではないはずである。ただ笑顔で過ごせればいい純粋さと悪意を併せ持つ子供。軽蔑にも値するだろう自分たちだけの狭い視野で笑顔を望む大人数人。それに翻弄されてしまう善良なる大人多数、無邪気な子供。
それは、かつてから今にかけて未来をも閉ざす責任転嫁の世界観である。各人が認識する前提が既にズレているから引き起こされる、よくある話なのだろう。
雪斗たちの母校でも、全ては悪循環だった。
たとえば教師たちが「よかれ」とした事が、特定の子供に不自由をもたらす事は仕方がないことである。にも関わらず、どこかには必ずそれに納得しない大人がいるのだ。声を上げれば、簡単に自体はややこしくなる。そういう事態がよくあるからこそ、悪循環は加速を続けてきたのだろう。
いい年をした愚か者達は、自分の都合に反する存在をことさら憎む。テレビや学校は決してベビーシッターではないのに、それを理解していないのだ。
教育に悪いものはすべて子供たちにとって害悪であり、その存在には子供たちを決して近づけてはならない。ならば逆も然り。教育に良い番組と学校があれば子供たちは真っすぐ育つと信じている大人は、実際に信じられないほどに多いということになる。
学ぶ主体はあくまで子供であり、大人のエゴを押し付ける行為を教育と呼んではいけないのである。―――そもそも真っ直ぐな子供とは何だ?
実際、状況に最も不自由を被っていたのは子供たちだった。
運動会はくだらないお遊戯をするだけの退屈な一日となり、図書室から『見たこともない物語』は消え、誰でも名前の聞くような興味のない本ばかりが並ぶようになる。画一的で時代錯誤な頭髪を強いる校則は、理不尽そのもので、愚の骨頂だろう。それでは子供たちが、自身を大量生産品だと誤解してしまう。「そうあれかし」と、挑戦しないことがこそが無難であると学んでしまう。そうしたささいなことほど、子供たちに与えるプレッシャーは効果的なのである。
勝手に試行錯誤を続けた大人たちがたどり着く答えは、いつだってもっとも安易で確実な手段であった。
徹底した『子供たちのための細かいルール』の制定と徹底通知。バカに理解を強いる究極の言葉は「しかし、そう決まっているのです」だということを知っている大人による、計算づくの暴挙であった。勿論、全ての大義名分は『子供たちのため』である。
そうして学校は、画一的で奴隷的で退屈な"作業"環境として整えられた。
悪循環は加速し連鎖し、そして辿り着く絶望的な社会。それが、ユキトやキョウヤという大学生が帰ってきた母校の実態であった。
それを不幸だと知らなければ、きっと幸せに生きていけるかもしれない。だが、それを不幸だと知る外部の人間からすれば「どうにかしてやりたい」状況に違いない。
革命が求められていた。少なくとも、北原キョウヤという大学生は、その必要性を片倉ユキトという悪友に説いた。
それは、テロや暴力行為で綺麗な未来が来るわけがない等という非論理的な話ではない。テロや暴力が新秩序を築きあげたとき、革命という美しい言葉が表に出るだけの話に過ぎないのだから。所詮、テロはテロであり、革命も綺麗でカッコいいお題目の単なる言葉なのである。
大切なのは、悪が悪で悪を穿つコトは可能で、ならば暴挙をもって暴挙を制することも可能だろうという論法であった。
だからこそ、全てを破綻させる方向で歪みを加速させた人間が現れた時、世界の構図は壊滅的な破局を描く。
暴挙が動き出すきっかけも、北原狂哉が子供たちに知恵を授けたことで始まった。
誰が腐ったリンゴかは、問題ではなく、話にもならない。なるほど、アダムとイブは誤ちを犯し罰を受けたかもしれない。だが、そうやって始まった人の営みは、なんと素晴らしい世界か。ああ、世界はこんなに丸くて美しくできている。
始まってしまえば、世界は案外まるっとまわるのである。だからこそ大切なのは、腐ったリンゴを毒杯と合わせて飲み干す『きっかけ』であった。暴挙には、必ず理由が必要であるということを理解できる人間は、強い。強かった。
【トラブルメーカー】が子供たちに与えた魔法は大人の論理であった。それは悪魔的発想などではない、どこまでも地に足のついた現実的着想。大人とは"何かのせい"にできれば満足する人種である、という着眼。
北原キョウヤは言った。
「大人ってのは『何かのせい』にできれば満足する人種なんだ。だったら、そういう旗を掲げて暴挙をすればいい。そうすれば君たち子供たちは罪に問われないさ。見てな、テレビか漫画かインターネットか、きっと大人たちは勝手に何かに罪をなすりつけようとする。実際に罪を犯した人間が何をしたかなんか目も向けない。ありもしない犯人探しと、後ろめたさなしに、『けしからん』と言える対象があれば奴らそれでいいのさ。俺に言わせれば子供なんかよりもよっぽど、大人にテレビなんか見せちゃいけないって思うけどな」
こうして、子供たちの一斉蜂起は行われた。
子供たちは、「けんえつ反対」の旗を掲げ、そして立ち上がる。彼らの言う検閲とは、自由を奪う行為を指した。彼らは自由を求め、自由を主張したのである。服装の自由、休み時間中の自由、競争の自由。打算的な言葉は加味せずに、ただ自分たちが不自由を強いられている事実だけをシンプルな言葉にする暴挙の炎。
暴挙の炎は一瞬で子供たちの価値観を整理した。何が正しくて間違っている論理とは一味違う、許すか許さないかの感情論。子供たちもまた、自分が正しいという錯覚に堕ちる。簡単に似腐ったりんごは地面に堕ちるのだ。
正しいという錯覚は、暴挙を特別に許可する。暴挙の理由、自分たちが正しいという論法と矛盾する暴力的行為。それに対する予防線も完璧であった。
【トラブルメーカー】は準備段階で予め暴力的で排他的で差別的とされるモノを子供たちの近くに配置する。流行らせる必要はなかった。たとえば猥褻な本を色々な所に捨てておいたり、街中で喧嘩を流行らせたり、不良の人たちには出来るだけ外を歩いてもらったり。こういう時に、高校時代にやんちゃをしていた片倉ユキトという男の人脈が効いてくる。
子供たちの近くにあった。だからきっと悪影響を受けたに違いない。そんなバカみたいな論理で動く大人ほど、意外と世間では発言力を持つもの。予め子供たちの傍に不適切を設置しておくだけで、後は全ては悪影響とやらが罪を背負ってくれるという寸法であった。
大人とは理解できないものを類似性のある何かと照らし合わせることで、自身ごと欺く生き物だ。まともな子供なら、暴力的で排他的で差別的な物語など「くだらねー」と笑い飛ばして終わりだというのに。もしくは真っ当に正義感に火がつくかどちらかだというのに。
本当に馬鹿みたいな話だが、現実と仮想の区別がついていない馬鹿な大人なら、撒いた餌にも簡単に乗っかるだろうという確信が、狂哉とユキトにはあった。大人社会において責任を負うことはしばし、敗者として扱われる。ならばこそ論点をズラすことこそが、何よりも世間の目を欺く。自分と近しい人が責任を負ってはいけないという思考を突いてこそ、【トラブルメーカー】の真骨頂。
現実に悪を実行に移すような人間は、いずれイカれていた人間だけである。それは正義や悪の価値観ではなく、ただ犯罪という行為が、現代人にとってリスクがありすぎるから。それだけの簡単な話。ならば人に暴挙をさせたければ、そのリスクを奪い理性を奪えばいい。そんな大義を掲げればよかった。
寒い環境問題でも、特定個人の特別待遇を望むような差別問題でも何でもいい。そこに大人や子供の区別はなく、心を縛るロジックとして全ては成立する。
そういうことを頭で理解しない、そんな大人の存在は何よりも子供たちにとって都合がよかった。勝手に勘違いしてくれる、楽で愚かな相手。そもそもそういう人種がきっかけで出来てしまった不条理。ならば、まさにそれを突き付けてやることが何よりも皮肉になるだろう。たとえ皮肉の通じない人間こそが即ち、憎むべき愚かな大人なのかもしれないとしても。
雪斗も狂哉も、子供たちの傍であらゆる知識と行動を実行した。だが、それは革命とか自由とかを求めての行動ではなかった。彼らは単にかつて自分たちが覚えたように、不条理に立ち向かうという選択肢を子供たちに伝えておきたかっただけなのである。それは動機と呼ぶには余りにも弱く、非難にも値するゲスな判断基準だろうか。
そうではない。
【トラブルメーカー】の行動原理は常にひとつ。つまり、人々に問いかけるということ。
人は選択に理由を求め、真実を知ったか振りする。だが、大切なのは選択することではない。選択を実行に移す最中も、その意味を問い続けることなのである。手段を問うことは、手段を実行に移している最中にこそ求められる。
【トラブルメーカー】とその仲間は、子供たちと協力して徹底した準備を行い、決行の日程選びも選び抜いた。低学年が社会見学へ学外に行き、四年生が体育を運動場でし、五年生が体育館で音楽会の練習をしている時間帯。計算されつくした一斉蜂起。兄弟姉妹のネットワークを駆使すれば、全学年クラスの時間割を入手することはたやすい。
当日、まず水道の蛇口を全て全開にするという混乱を起こした。
同時に一階の保健室でタバコを使用した次元トリックによる小爆発を起こす。もちろんタバコは教師のモノをくすねて使用したかのように見せた。評判が悪い教師が吸う銘柄を確認し、大人である狂哉が普通に買ってきたものだ。
こうして、事態は加速する。
学校にいる全ての教師が対応に追われる中で、指示の通りに校庭へ避難せず逆に階段の踊り場を机椅子で塞ぐ。全教室の机椅子を絡ませれば、撤去は簡単ではない。
それだけでは無い。作業と並行して男子たちは全員が互いの頭部を丸刈りにした。女子たちも三つ編みを結った。あえて時代錯誤で全体主義的な格好に統一したのである。相手の主張を悪意的に受け入れたうえで行う暴挙には説得力があると入れ知恵されたからだ。画一的な外見を喜ぶ大人たちに真っ向から嫌味を突き付けた形である。
そこからは電撃作戦だった。自作自演の人質を演じる役回りを子供たちは担いながら、背後に悪い大人がいることをチラつかせる。どれだけの悪事を犯そうとも、閉ざされた空間の中で主犯の存在をあやふやにしておけば、最後には全てが丸く収まるように相場はできているのだ。
しかし、その全てが【トラブルメーカー】の言いなりであったかと言われれば、そうではない。だが、子供たちが暴挙を犯した本当の動機について、言葉にするのはやめておこう。行動とは動機によって中和されるものではないからだ。罪は罪であり、あくまで罪なのである。
当時、子どもたちは大人に対し許せないコトがあった。だから間違ったやり方を使ってでも立ち向かったのである。真実とはその程度でいい。所詮は戯言にすぎないのだから。子供たちが犯した罪はあくまで子どもたちが心で背負って生きる定めである。それは罰とは別次元の課題なのだ。
そして狂哉と雪斗も、それぞれが自身に起きた過去の出来事を思い出して子供たちに手を貸した。決行日には教育実習も終了していたために立ち会うことをしなかったが、やはり背中を押した手を貸した大人として同罪を背負うべきだろう。罪とは、誰かが肩代わりしたとき意味を失くすものだ。
全ては【トラブルメーカー】の計算づくで起きた暴挙であり、全ては【トラブルメーカー】の計算づくで収縮するはずだった。【トラブルメーカー】が過去に起こしたトラブルと、その結末。それをなぞれば、全ては丸く解決する。
あれは片倉雪斗が中学生の頃。とあるレスラーの事故死が殺人だと看過した友達が、なぜだが学校を占拠する暴挙に出た。それがまさかさらに酷いことの始まりに過ぎなかったとは。
当時、【名探偵役】静嶺セツナが実行した、全てを丸く収める悪魔の一手。同じことをなぞれば矛先は子供たちから外れ、子供たちもいつしか熱も冷め、全てが有耶無耶に向きを変えるハズだった。そのハズだったのである。
暴挙デ始マル明日ガ、キット在ル。ソノハズダッタノニ。
全ての誤算のきっかけは、燈った炎が学校だけに留まらなかったことであった。その学校で、子供たちの立てこもりとは無関係だったある教師のスキャンダル。立てこもりの最中、偶然、明るみに出たスキンダルが、現実に一人の人間を本当に焦がしてしまったのである。
本当に偶然に、一人の人間の暗黒面が表に出た。変態性や異常性に申し分のない、偶然明らかになった一人の大人の暗黒面。明るみに出たのは、少なくとも合法的で、それでいて人間としてはふさわしくない性癖。そうしてオゾマシイ大人が一人、洒落にならない破滅をした。職を失った。
それは、子供たちの手に負えない、取り返しのつかない事態であった。
予定外そのもの。偏った事実が明らかになった時、あろうことか世間は子供たちを英雄扱いしたのである。正義のために戦い、悪を追放した幼き戦士たちとして。
立てこもりが終わった翌日から始まった報道陣の正当なる突撃インタビュー。予め自身の望む答えありきで、誘導を試みながらマイクを向ける百戦錬磨の大人たちによる手練手管が子供たちを包囲した。それはもはや、子供たちの手に負えない流れだろう。
子供たちの罪は、いつしか有耶無耶になろうとしていた。
もしも誰も罰を受けない世界ならば、それは本当にハッピーエンドという奴だろうか。しかし物語にハッピーエンドがあっても、人生の場合は未来がある。めでたしめでたしで終わるのはあくまで物語であり、人生はそうもいかない。
破滅した教師は確実に復讐の念を抱く。それはある意味で当然の心理であろう。子どもたちは、取り返しのつかない事態に恐怖していた。
たまらず真実を話そうとした子供も、世間からはただただ黙殺された。世間とやらはただ話題性を望む。水をさす言葉を伝えることは、ジャーナリズムではない。燃料を、ガソリンを流し込んでこそジャーナリズムなのである。油にならない真実は、真実として扱う価値がない。
正に荒れ果て収拾のつかない混沌だった。
狂哉やユキトも、子供たちに不自然な不幸が起こらないように動くことしかできなかった。それでも限界は当然ある。【トラブルメーカー】とは、あくまでトラブルの誘発に長けた者なのである。
その混沌全てを、たったひとつの冴えたやり方を使って全ての罪を背負った人間が現れた。つまり、【名探偵役】静嶺雪菜の、満を持した登場である。
彼女は、彼女の愚かな友人がきっかけで始まった事態に怒りを覚えることはなかった。なぜなら彼女の性格が、動機に興味を持たないものだったからである。彼女に言わせると、動機は事実に誤魔化しを入れるだけらしい。
過ちを犯さぬ人などいない。ましてや贔屓するべき仲間の行為ならば、その過ちに代償も求めない。彼女にとっては、大切な人と友達がバカをして困っている。ただそれだけであった。
物事を解決に運ぶには、答えをくれてやればいい。また、世間とやらは口のない死者を決して追及したりしない。事態を冷静に収縮させようと動き出した静嶺雪那は、そこを手段として突いた。
少女は偽りの告白として、全ての罪が自身に向かう文体の日誌をインターネット上に残した。子供たちを操り誘導し、私の躰を汚したあの男に破滅を与えてやりたかったのだ、と。
世間に気づかれる必要はない。復讐に躍起になっている人間が釣れればそれでいい。破滅した人間は手当たり次第の傾向にある。だからきっと釣れると確信したうえでの暴挙。
そうして、出会いは果たされた。
まるで慈母のように恨むべき全ての行為を赦し、死と死は出会った。大切な人と友達を、子供たちを、そして巻き込まれてしまっただけの不幸で罪な大人たちに、罪を自覚させ罰を与えないために。
その女性はナイフを手に取った。
駆け付けたユキトが守る前に止める前に、少女は破滅した教師を殺していた。そして、自身も先に教師から受けた致命傷が原因で死んだ過去の物語。
その全ては、諍いの最中、もみ合いの最中での不幸な事故として処理をされた。
全ての目撃者である静嶺雪菜の妹が、姉の望んだ偽りの証言をしただけで、全ては有耶無耶に終わったのである。それが、静嶺雪菜の遺言ともなった。
現実離れした言葉によって真実は偽りの黒で塗りつぶされて、事件は悲劇として収まったのである。全ては過去として過ぎ去り、子供たちは未来に影を落とすことなく復讐に怯えることもなく。―――それでも物語にはバッドエンドはあるが、人生の場合は未来があるように。
【あの日】から、カタクラ雪斗の名には"雪"の字が刻まれた。心の傷を隠すように、大人になった男は修羅の覆面を被り、命をかけて茶番を演じる輪の中に身を委ねた。それが軽蔑に値する自己満足であることは、自身が嫌というほど知っていた。
つくづく、片倉雪斗は自分の愚かさには嫌気がさす。それは懺悔の余地もない、最低の罪と罰だった。もう親しい人間が死ぬのは嫌だった。後になって全ての動機を語るならそれが全てなのである。感情移入の価値すらない過去があって、今の雪斗という男は構成されていた。
だからこそ、言い訳を重ねて罪に背を向けて、文字通りの悪戯に死のうとしている北原狂哉だけは、許すわけにはいかなかった。生かしておくわけにはいかなかったのである。
せせらぎを荒らす、殺意と死は、必然であった。
溢れたこの血も 穏やかな流れのように
それでも きみが悪いんだからねと殺し
どうか このせせらぎを荒らしておくれ
そうして その先の未来を探してこうぜ
また会えるかな いつか
きっと それが確かな絆
だけどまるで叶わない唄
今はおかえりなさい修羅
人間は争うことを生業とし
だれもが味わう間違いと死
秩序という名の定めと法に
あえて刃向いまた手を汚し
全てを諦めたくなる退屈な日常も
変化の無いサイクルは死にそうと
かなしいかな せせらいだ世界を
それでもまだ責めないだけマシと
愛を探そう ありのままの 未来を笑おう
街を彷徨うも ぬらりと漂う二人のままと
旅の中も辛いのだろうが償いを果たそうや
無駄な血を流そうがせせらぎを荒らそうか
どれほどの言葉遊びを幾つ重ねても
現実には無駄な理屈 バカね でも
そこが素晴らしい 真っ白な世界で
きみの優しさは 誰にも負けないぜ
まだやり直せると唄う歌でさえ泣く僕に
どうか優しい最後が迎えられますように
いつも どこだって 寝れない子だらけ
だから いつだって せせらぎを荒らせ
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