仁幕 タイム・トゥ・プレイ・ザ・ゲーム

 向かい合う二人は、等しい怒りと恐れの配分で震える拳を握っていた。

「屁理屈でくちごたえするとは悪い子だな、北原。先生は悲しいぞ」

「ふざけんなよ。へりくつなんかじゃないだろ。間違ってねえじゃん、いつもオレ達を躾てるとか言って俺らを殴るけど、それって結局ビビらせて縛っているだけじゃんよ」

「悪い子がいたら罰を与える、それが社会のルールだ。これはキミ達の為なんだよ」

「ざけんな。ルールとか、ただ暴力振るう言い訳に便利な言葉使ってるだけだろ」

「屁理屈はやめなさいと言っている」

「屁みたいな理屈だっつうんなら、屁でも無えだろ。悪いけどオレはアンタに殴られても悪いなんて思わねーよ?アンタの暴力じゃ俺の何が悪いのか全然理解できねーもんな」

 その子供は体罰という便利な言葉を知る年ではあったが、あえてそれを使わず、ただ暴力だと表現した。その結果、言葉は事実のみを端的に指すことになる。そこに反論の余地はない。

「コラコラ、悪い子だな。先生をアンタと言っちゃ駄目じゃないか」

「誰がアンタなんか先生なんて思うかよ。アンタが何を教えてくれた?叩けば人を黙らせることができるってことか?じゃあ残念だったな。おれはそんな頭悪い手じゃ黙らねーよッ」

 パァンッと高い音がした。痛みに脳を揺さぶられた子供がうずくまる。その言葉は、教師の心を揺さぶる何かだったのだろう。頬をはたかれた子供の嗚咽を冷たく無視して、教師の男は教育の意味すらも揺さぶりうる外道の声色で次の言葉を言い放った。

「立ちなさい、北原キョウヤ。悪い子には、おしおきだ」

 これは体罰の問題提起ではない。ただ、大人の理不尽な暴力に立ち向かった少年の過去。その相手となった教師は、何よりも隠蔽に長けた男だった。事実として保護者や同僚教師たちの信頼も厚く、大人に対しては至極論理的に自身を正当化できる大人とも言える。

 掌をふるった時も彼の脳裏を掠めたのは、今後とるべき自身の行動だった。

 子供を叩く行為に疑問を感じないタイプであるその男には、新人時代からの積み重ねがある。北原という少年の両親について、先手を打った正しい謝罪の中で少しだけ自身の事情を交えれば、後は勝手に「理解してくれる」両親だと知っていた。ぽたり。

 暴力を体罰だと後ろ指されない秘訣が「親の顔を想像して叩く」ことだと覚えて以降、親の類からクレームを受けたことは一度もない。ぽたり。恐怖こそが子供を縛り、そして正す。それは彼の教師生活を支える哲学にも近い信念だった。

 ぽたり。この教師は何よりも隠蔽に長けた男だった。だから、子供たちは立ち上がったのであろう。ぽたり。

 ―――その赤い液体に気がついた彼の表情は恐怖の色に変わっていった。

 ぽたり。少年の額を赤い血が、どろり。だらり、ぽたり、べちゃり。ぬるり。べっとり。

 目撃者が悲鳴を上げた阿鼻叫喚の始まり。教室の床を染めたのは赤い血。だがそれは物語のはじまりでもおわりでもなく、ただのおかわり。全ては起きた過去の断片である。

 ―――この序章にもならない出来事は、あくまでトラブルメーカーの片鱗に過ぎない。

 



   仁幕 タイム・トゥ・プレイ・ザ・ゲーム




 懐かしのセカンドホームタウン。本格的な冬が来たら、「寒い」を越えた冷たさの最上級、「痛い」風が刺すことになる、大学時代を過ごした湖の街に男はいた。

 男は名を片倉雪斗といい、職場の同僚からは「お前が歓声を浴びているのはネット動画の世界だけだ」などと、どこかのメジャープレイヤーと同じようなことを言われている、つまりそういう程度には成功したプロレスラーであった。興味を持った者は知っている、そんな有名人と言ってもいいだろう。今の時代に覆面レスラーに拘るオールドスクールな男は、自身の名を使用せずに【修羅】の名を騙り、巨体ながら宙を舞う現代的なレスリングを生業としていた。

 子供の頃の夢が叶ったわけではないし、プロレスごっこが好き過ぎてプロレスラーになっていたわけでもない。単に彼という男は、プロレスという競技に真理とやらを見出してしまった極めて残念な人間であった。

 少しでもプロレスを知る者ならば、その全てが虚構であり八百長だと言う者もいるだろう。だが、それはあくまで部分的かつ事実の側面のみを示しているに過ぎない。

 多くのプロレスに脚本があることは、既に周知の事実だろうが、所詮は政治家が汚職をしアイドルが枕営業で職を繋ぐ噂よりは信用のおける都市伝説、程度のものである。事実は遥かに仄暗く罪深い生業だと雪斗は感じていた。虚構であることを利用して過剰な暴力を表現する側面が、プロレスリングにはあるからである。

 バックステージではリング上を凌ぐかもしれない因縁があり、足を引っ張られてもそれを引き摺って全力疾走できる男でなければ頂点に君臨できない世界。だからこそ、そこでの頂点とは、「ただ喧嘩が強い奴」には無い価値がある、だから戦う価値はあると雪斗は感じていた。

 昨日の晩は、デビューしたての外国人ディビッドを売りだすために負け役ジョブを演じた。破られたマスクから溢れた派手な鮮血が自慢の金髪を染めた場面がハイライト。曰く昨今の腑抜けた表現しか放送できない地上波では流せない極上のハードコアマッチ。自分でも全てが、打ち合わせ以上にうまくいったと自負できる出来である。自らの手でネット上に違法アップロードした動画は、一晩の間に国内外のマニアから大絶賛を受けていた。

 予め段取りを綿密に固めていても、「ノンストップ」のリング上では簡単に破ることができるのがプロレスだ。事故を装い嫌いな相手を地味な角度で破壊する事もあれば、不慮の事故で段取り通りに試合を運べない事態もある。脚本無視、掌返しの公開処刑など悲惨そのものか。

 それでもリングから逃げる真似をせず、とてつもなく雄々しい姿であり続けるということは、やはり強い者でなければできないことなのだ。そうした価値観を、片倉雪斗は「大切を守れる奴への憧憬」だと表現する。事実はただの受け売りなのだが、なんとなく気に入って胸の内に刻んでいた。ただひたすらに、『そういふ男に私はなりたひ』と。

 片倉雪斗という男に言わせると、現実の社会の方がよほど罪深い茶番なのらしい。それは真理という確信として、彼が抱く普遍の事実であった。

 子供の頃にプロレスごっこが流行した世代の人間ではない。ただ、二段ベッドからのダイブはよくしていた程度の子供時代。彼がこの道を選んだ決定打は、高校生の頃にインターネット動画で見た海外のプロレスだった。幸い学生時代は発音の綺麗な若手英語教師に恵まれていたこともあり、英語の聞き取りをある程度こなせたことが大きかっただろう。海の向こうの愉快な世界で描かれていたエゴやプライドを高めあった挙句の大試合。その盛り上がりは、少年・片倉にとって、大人ってこんなばかな大人でいていいんだ、というケタ違いの衝撃であった。

 なんだコノヤローしか言えないような世界に興味があってこの業界に踏み込んだわけではない。ただ、自身が強く面白い人間であったならば、それだけで面白くなる世界を見つけただけである。日常のレールに退屈していたからとも言えるだろうか。

 そうして因果は重なり、気がついた時には目の前に道があり、当然のように駆けだして今に至る。夢の架け橋はわりと現実的な選択肢として、渡されているものなのだろう。

 幸い、道場や師匠、先輩にも恵まれた雪斗は、大学卒業後も順風にプロとしての道を歩んでいた。

 そんな片倉雪斗が、大試合をこなした昨日の今日に、こうして深夜の高速道路を走らせて大学時代を過ごした湖の街にやってきたのは、かつての腐れ縁に呼び出されたからである。

 プロレスリング一辺倒の生活を過ごしていた男にとって、リング以外に呼び出されるのが久しぶりなら、メールで静かに呼び出されるのも新鮮なほどに珍しい出来事であった。いつの頃からか呼び出されるのはリング上ばかりで、仲間とも疎遠になり小さなリングの上で小さいエゴを表現する日々を繰り返していた。

 もしもこれで相手が女性だと、男なら大喜び勇んで向かったことだろう。しかし、相手は残念ながら男であり、正直なところ嫌々来た、というのが本音である。しかし、断るという選択肢が思いつかなかったのも無意識の事実だ。

 呼び出した相手の名は、北原狂哉と云った。

 腐れ縁とは恐ろしいものであり、人生に余計な影響を与えてくれるのが腐れ縁なのである。そもそも北原狂哉と知り合ってしまったせいで、雪斗は日常に退屈し非日常に憧れるようになってしまった。その事実は現実であり、事実を歪めたところで現実は変わらない。

 出会いは強運にして不運。退屈によって歪められた未来は、いつだって後ろめたいように。結局のところ、究極的には全てが全て、不自然きわまるほどに愉快な友に恵まれてしまったことが、諸悪の根源なのだろう。

 

 寒い季節と言うには、少し早い、秋空のある日。

 冬が春の準備ならば、秋とは何との因果だろう。

 夏の清算か、木漏れ日の温度が変わり巡る季節。

 木枯らしが、ただただ夜を、冷たく秋色に包む。


 湖岸道路から立入禁止の鎖を跨いで階段を下りれば広がる湖の景色。漆黒の暗闇。ざざぁと、潮の匂いがない水が足もとまで打ちつける。金髪の長髪が、冷たい風に踊り狂う。そうして焼き付けられた記憶がこの景色を彩色されて。

「呼び出すのは、まあいい。だが、なんでココだ?」

 この場所に来ることはもう無いと思っていた。後ろを道路が走り、目の前を水だけが広がる景色。春夏秋冬どの季節も色を変えることなく、ただ無機質な湖だけが光を吸い込んで、溶かす。神秘的絶景というのは言い過ぎだろう。そうした場所で、どこか盛り上がりに欠ける、たった二人だけのやり取りが始まりだった。

 淡々としていて、社交辞令をどこまでも省いている様子がなんとも、らしい再会。

「そりゃあ雪斗には来てもらわないといけないからさ。ここならお前のプライドとかをザラつかせるだろ?」

 ニヤリという擬音は彼の為にあるかと錯覚を覚えるほどに見事に歪んだ笑みを、雪斗の前に立つ痩せた男が見せた。その、影よりも後ろに立っているかのような存在感。いったいどれほど眩しい光を直視してくれば、これほどの闇を写す事ができるというのだろうか。

 雪斗はその手に持つ携帯を今にも潰しそうに握りしめながら、相手にかざしていた。そしてどこまでも不愉快そうに、やり場のない感情を言葉に絞り出す。

「あんなメール送られたら、来るしかねぇだろ。人の傷を穿りやがって、アホが。なんだよ、"雪斗がフラれた場所で待っている"ってのはよ」

「なんだい、"きみの雪が散った場所"とでも謳えばよかったかい?」

 まるで悪意の申し子、一番残酷な言葉を冗談で言い放つ、無機質な外道。

 北原狂哉、それがこの全身から悪気が漲っている男の名であった。小学生の頃からの同級生で、社会人になった今でも友達付き合いがある、言わば粘度が尋常ではない腐れ縁。

 それは冗談ではなく、事実として命の危機を何度も掻い潜った仲であった。

「殺すぞ狂哉。つぅか死ね、オレに殺されて死ね。オレの放つ七色のコンビネーションアーツで今から殺すから畳の上で死ねると思うな。屈折した血飛沫あげて虹を背景に死ね」

 関西の人間は死ねという冗談に七色のバリエーションを持つと言われる。だが実際には地域を問わず誰でもそれぐらいの冗談を振りかざすことがあるだろう。禁じられた言葉を人が吐くときは、存外バカバカしさを覚えた時がほとんどなのだ。

 ちなみに余談だが、七色のコンビネーションアーツとは、片倉雪斗こと覆面レスラー【修羅】が得意としている魅せ技である。食らった相手が正しい受け身の取れない一般人ならたぶん死ねる。

 筋肉質に恵まれた金髪の男、片倉雪斗は全身からこれでもかと不快感を放出していた。そうした当てつけの不快感が空振りに終わると理解しながら、それでも発散せずにはいられなかったのだ。

 北原狂哉を知る者は、彼を【トラブルメーカー】と皮肉っていた。

 雪斗とその仲間たちは、子供時代をトラブルメーカーに振り回されて過ごしたと言っていい。それは単に「迷惑な存在」という意味だけではなく、「厄介事の造物主」という素敵な言葉遊び。

 良い時も悪い時もあった。だがそれでも、トラブルメーカーを知る者たちは自分たちの集まりを自虐して【被害者の会】と呼んでいる。ただのニンゲンをどこか神格化している自分たちを自虐するかのように、陳腐な言葉で彼らは友に敬意を示すのだった。

 そのメンバーは時の移ろいと環境の変化で入れ替わりし、最終的に初期メンバーだけが残って今に至る。片倉雪斗もそんな残った一人であった。

「悪ぃな。でも無理にでも雪斗を呼ばないと、オレが今日これから死んでたんだよ」

 風を切るような冷たい声で、本題は発せられた。

その言葉は悪びれなく、臆面もなく。緊張感の欠片もない言い方が逆に、かえって現実味を増すことがある。北原狂哉の歪んだ(意識して歪められた)口から、不穏な言葉がふわっと白い息に乗って吐かれてた。

 今の発言はどういうことなのだろうか。片倉雪斗は、過去の封印もせずに背負っていた重みを意識し、つい大地を力強く踏み締めていた。眼の前にいる【トラブルメーカー】、名を北原狂哉。その男も"あの日"に起きた事件、大切な仲間の死以来は無茶も減り、いつしか丸くなり大人になった。―――そう思っていた。それが未だこの男は何も学んでいないのか。

 それでも、こんな目をした北原狂哉を片倉雪斗は知らなかったのも事実である。仮にも目の前の狂の字が【トラブルメーカー】ならば、これまでの「いつ」を思い出しても、いつだってその眼に悪気を、これでもかと宿らせているはずなのだ。

 諦めない意志があって初めてトラブルは見据えることができるのである。

 かつてに雪斗は一度だけ、死を受け入れた人間というものを見たことがあった。目の前に立つ狂哉と呼ばれた男は、まさに今"そういう風に"言葉を綴る。

「オレはさ、近日中にぶっ殺される。ほぼ確定でね」

「そいつぁ参ったな。…お前の場合は特に、嘘くせぇ言葉ほど現実味が増すんだよ」

 不謹慎な言葉を嘘で言う奴と言わない人間の違いは簡単だ。狼少年みたいに死にそうな奴が、不謹慎な言葉を嘘で言う人間。肝心な時に信じてもらえないサダメを背負う、バカを見るタイプが不謹慎な言葉を嘘で言う人間なのである。

 だが、嘘こそは真実に依存する、真実あってこそ嘘は浮き彫りになるように真実を含まぬ嘘は実在しない。真実に油断した時こそ人は死ぬ。

 言葉は言う人間と聞く人間によって、それぞれ大きく意味を変える。理解とはつまり齟齬の無いやり取りであり、ならば信頼とは誤解無しの直感で処理される繋がりことであろうか。

 少なくとも片倉雪斗にとって、嘘以上の真実はなかった。嘘を見抜けば事実のみが浮き彫りになる。嘘こそが雄弁に事実を語れ。それは他でもない、大切な仲間からの教えだった。

 ならばこそ何をもって嘘とするか。嘘の定義こそが真実を隠されがちな露出する。言葉の裏側が現実離れしているほどに、露骨な真実は形成されることを片倉雪斗は知っていた。

 北原狂哉、その狂の字に相応しく、いつだって自身を偽り演じる滅私の男だった。片倉雪斗が知る限り、誰よりも迷惑に生き、誰にでも迷惑をかけ、誰よりも迷惑を被る男。【トラブルメーカー】の本質は、委ねる流れすらも己が内に掌握することにある。

「俺が厄介なウソツキさんなのは自覚してるさ。そういう風にキャラ作ってんだしオレは」

「知ってる。だから今こうして困ってる」

 雪斗は金色の長髪を掻き揚げながらため息をついた。

「厄介事に巻き込まれたんなら普通に言え。普通に片棒ぐらいなら担いでやるから」

「いやー、それじゃあ雪斗も本気出せないかもしれないじゃんよ。今にマジ大切なのは緊急事態っぽさなんよね。だってほら、今もこうして殺されそうな状態のわけだし」

 しれっと口にされたのは現在進行形を示す。その言葉尻から察するに、どうやら緊急事態のど真ん中は既に始まっているらしいと、雪斗は理解した。

 時に物語は、無神経なほどに、唐突に動く。

 滋賀県琵琶湖の畔を明りが刺した。こうして、助長な出会いのやり取りがむしろ親切だったと後になって振り返れば感じられるほどに、全ての脈絡は無視をされる。

 暗がりの湖岸は闇そのものを描いていた。故に光在れば、それだけで何ものよりも輝く存在となるのだろう。季節は色を移す。だが光は光、闇は闇。夜は、決して存在をウツロワナイ。

「…マジかよ」

 照すのは四隻の船だった。それもただの船ではなく、赤黒い炎で彩られている。互いを照らすように、船首に殺意の炎を雄弁に灯していた。

「まぁ、こういうことだ。最近のオレってば人生にノー安息。常時リボルビング・ザ・デス」

「死神が次々撃ち込まれるってか。それはもう周りの迷惑を考えて即☆死んだ方が世間さまの為だろ、いやまじで。流れ弾とか周囲にすげー迷惑。巻き込まれる人の身になってください、ふざけんな。まじかんべんしてください、くそったれが」

「いやー、しかし今回はカミカゼスタイルか。こりゃまいったね。これまで通りのヌルい殺り方で良かったのになあ」

 それは篝火か不知火か。戦場の死を隠喩し揶揄する炎、炎の熱が、雄弁に語る悪意。人にめがけてまっすぐが、即ち殺す角度。

 だが、二人ともが軽口を叩く余裕は、それぞれが修羅場慣れしていることを示していた。勿論その間も、エンジンの轟音を押し出し、殺意を乗せた燃え盛る船が悪意の色と熱と音を強めている。

 炎が船を焦がす。船の制御は携帯電話や時限装置一つでできるほど軽いものではない。ゆっくりと鳴り響いたエンジン音が死神の合図だというならば、遠隔自動操縦ということはありえないだろう。人間という小さな標的を精密に狙うつもりならば尚更だ。

 敵がいる。目の前のどこか、近くに。船の内部に。神風の名のもとに。

 北原狂哉は真顔で笑みを浮かべていた。足元の鉄パイプを拾い上げると、それを雪斗に差し出す。敵だけをを殺すことが、生き残る最善ルートならば、やることはひとつなのだ。

「許可するよ、解き放て雪斗。後の言い訳は、正当防衛という大義とオレに任せろ」

「正当防衛って誰かを殺さねーと成立しねーじゃねーか。ていうかアホか、正当防衛じゃあオレが破滅的な罪を犯している事が事実になっちまうだろ。もみ消す方向で何とかしろっつの」

 燃え盛るカミカゼシップに鉄パイプでどう対処しろと、とは聞かなかった。与えられた答えでは手柄にならない。プライドは手柄によって支えられることを片倉雪斗は理解していた。

 悪意はいつだって待ってくれない。いつだって唐突に迫り、唐突に奪う。

 悪意こそは作為。故に悪意はいつだって自分本位で空気を読もうとすらしない。悪意は不自然に大風呂敷を広げたがることを片倉雪斗は知っている。いいや、知っているというよりも、慣れていると言った方が正確だろうか。

 エンジン音が、一段と巨大に轟いた。

「そぅら始まったー」

「うわー、て言うかアレに対する正当防衛ってやっぱどうやんのー」

 その浮世離れした絶景に狂哉と雪斗は棒読みで応えた。全速力で襲い来ているはずの炎船が走馬灯のようにコマ送りされて感じる。だが、走馬灯は現実から目を逸らして初めて成立するものだ。ならば現状を軽く言葉にしたこの男達の棒読みは、単に余裕の表れだと言えるだろう。

 走馬灯は後悔に似ている。だから思わず死が近いのだと錯覚しそうになるのだろう。

 だが、真の後悔の痛みとは、いつだって現実と向き合った時に心を刻むものだ。ならばこの後悔は走馬灯ではない、シンプルに痛みそのものなのだろう。

 片倉雪斗はトラブルに直面した時、どうしても過去の失敗を思い出す真面目さがあった。

 あれは片倉雪斗が幼稚園児の頃!少年はトラブルメーカーと出会い、遠足先の山で掘った穴から白骨死体が出土!それがまさか更に酷いことの始まりに過ぎなかったとは!

 あれは片倉雪斗が小学生の頃!トラブメルーカーと再会した少年は、体罰を繰り返す教師を罠にかけて社会的に追放した!それがまさか更に酷いことの始まりに過ぎなかったとは!

 あれは片倉雪斗が中学生の頃!とあるレスラーの事故死が殺人だと看過した友達が、なぜだが学校を占拠する暴挙に出た!それがまさかさらに酷いことの始まりに過ぎなかったとは!

 あれは片倉雪斗が高校生の頃!罰ゲームで友達にやらされた"番長ごっこ"がきっかけで、街中をシメる存在になった!それがまさかさらに酷いことの始まりに過ぎなかったとは!

 あれは片倉雪斗が大学生の頃!教育実習の為に戻ってきた地元で、再会した友達と子供たちの悪企みに手を貸してしまう!それこそがまさに酷いことになってしまった「あの日」!

 これは片倉雪斗が社会人格闘家をしていた頃!久しぶりに再会した友達が命を狙われていた!ああもう、どうせコレもまた酷いことの始まりなんだろう!←new!!

「…ああ、今日のお前がガキみたいにフードを着ていて良かったよマジで」

 ため息はリラックス効果があるという。全身から無駄な力を抜いた雪斗は、鉄パイプの先端に狂哉のフードを巻き込み、そのまま宙空へ投げ捨てていた。体躯の優れた人間ならば、片手でも人間を三メートルは投げ飛ばすことは可能である。足場の補助や梃子の原理を駆使すれば尚の事いい。きっと今は自由に空も飛べるはず。事実、北原狂哉は宙を舞った

 轟音が響く。それは乗り上げた船が脇の木に衝突した音だった。先ほどまで北原狂哉が立っていた場所を赤く染めた炎は木に燃え移り、夜をさらに紅く照らす。

 投げ飛ばされた先の地面で受ける衝撃を背中で受け止めた北原は、咳き込みながらも朦朧とした意識を正常運転まで取り戻した。

「…誰の服がガキみたいか、ぬかせ筋肉バカ。オレのファッションはヒップでホップなネィティブのブラックみたいと言え」

「ははっ、脳味噌ばかり鍛えたバランス最悪の脳トレ野郎め。投げられたことにクレームつけねぇとはいい心がけだぜ。とりあえずこっからはもっと手荒にいくかんな」

 狂哉が咳込む横で、汚れの無い服のままに船の突進を回避した雪斗は牙を剥いて笑った。

 湖面を見ると、残る三隻の"炎船"も迫る景色。既に着岸した一隻の炎が放つ熱を傍らで受けながら、雪斗は鉄パイプを無双の猛将のように振り回す。その笑みからは獣の牙がチラついていると錯覚するほどに、言葉以上の狂喜、ほとばしっていた。

 炎船が舞い降らす灰を浴びた雪斗から、ヤバいスイッチが入った音を狂哉は確かに聞いた。

「足りねぇなァ。つぅかヌルいわ熱が」

「熱いねぇ、やっぱ修羅ってる感じがお前の本質だな、雪斗!!」

 灰が思い出させる冬の日。あの時の、人殺しのテンションを思い出せ。既に奏でられた皆殺しのメロディ。悪意と弱さに屈服した、敗北の記憶。

「ったく、なんでこの場所だよ。パーフェクト思い出しちまったじゃねぇか」

 「あの日」があるから今の自分がいる。守るどころではなかった、たいせつなひとを。雪斗は完全に思い出してしまっていた。

 この夜はたまたま照らされた夜に過ぎない。

 闇が如き夜は、何年も前に始まっていた。それは片倉雪斗が北原狂哉と友達であり続ける限り続く必然。いつだって酷いことだらけだった日々。だが後悔は全て、自身の無力による。それさえ理解していれば、己の鍛えるべき所は知れる、だから今も折れずにこうして立ち続けていられるのだろう。

 静嶺雪那セツナ、それが「雪斗」の愛した女の名であった。名に同じ雪の字があったことがきっかけで、二人が出会ったわけではない。偶然でもない。ただ、カタクラユキトという男に自身の名に「雪斗」という当て字をさせた理由が彼女にあった。

 その名を抱いて生きる意志が自身を縛る。時に不幸に陥ると理解しつつも名乗るのが覚悟。大切なのは選択することではない。選択をいかにうまくやっていくか、やり抜くか、なのだ。

 彼女は寒い雪の日に死んだ。失われていく体温、吐息の白がさえも薄くなっていった、あの死の冷たさ。やさしさのぬくもり。

「…セツナなら今の状況、あの冷めた眼で、馬鹿だって、言ってくれるんだろうな」

 瀬戸際の度に思い出す後悔と罪の意識。本当に守りたい存在はもういない。

 物語でよくあるタイプの、心に残る綺麗な言葉を沢山吐いた女が静嶺雪那だった。未来の導となるような言葉を沢山残して死んだ女が静嶺雪那だった。誰よりも醜く被った泥に汚れて死んだ女が、静嶺雪那だった。―――トラブルではなく、ただひたすらに漆黒色の不幸によって死んだ女が静嶺雪那だった。

 溢れだす過去を無視するように、二席目の船が立炎を乗せて着岸した。それは初めから嬲り殺しを狙うための壁であり、結果として着岸した二隻の炎が左右をふさぐ。後方のコンクリート壁は高く、出口としては難易度が高い。

 しかし、それでも片倉雪斗はどこまでも冷静…、と言うよりも平静だった。

「てめぇが何しでかしたかは説明いらん(…どうせろくでもないことはわかる)。だから今は、敵の狙いだけ教えろ。この派手好きの馬鹿野郎さんは、お前をどう殺そうとしている?」

「事故死、かな。とにかく世間を適度に騒がせつつ殺したいのは間違いないと思う」

「この状況を事故死に、ねぇ」

 漏れ出したガソリンが湖に流れ、炎が水上に孅景を描く。見事なまでの赤と黒が、熱く対峙する男の背中を逆光で照らした。

「それにしてもこれは…、人間が死ぬにはちょっとうつくしすぎんだろ」

 絵になりすぎると言いつつ、雪斗は自身の長髪を頭頂部後方でゴム止めする。

「パイナップルヘアーのお出ましか、マジ本気だな。信じてるぜ、ミスター・ダイナマイト」

「忘れるなよ、てめぇは後で死ね。まぁ、今は好きなだけほざいてるがいーさ」

 湖面に浮かぶ一隻が、より強いエンジン音を放出した。熱が危険領域まで周囲の環境から生命の源を奪っていく。

 雪斗に動揺はなかった。「見えない敵」に向ける呪詛的な言葉は、口にさえされない。

 この場で二人が死ぬことに、恐怖や恨みの念が芽生えなかった。心にあったのは、この死に方が気に食わないというドス黒い精神のみか。

 炎船に真っ直ぐ瞳を刺したまま、雪斗は静かに呟いた。

「わすれるなよ、お前はオレが殺すんだ。セツナの仇を討つのはオレなんだからな」

 思わずこぼれたのは、今の時代ではなかなか聞くことの出来ない、そんな安い言葉。思わず狂哉が吹き出してしまったほどに、本当に陳腐で古臭い安い言葉だった。

 だが安い言葉を振りかざす愚か者はいつだって二種、想像力のない人間か、安い不幸を知っている人間だけである。安い不幸こそは、人の死。

 人はたやすく死ぬ。

 雪斗の吐いた殺意の言葉は、たとえ冗談であったとしても、深い自虐がなければ吐けない言葉であった。ならばその自虐とは過去への後悔か。

 死への概念は既に価格破壊されている。命の危機に対する危機感のデフレスパイラル。事実、北原狂哉が命を狙われたのはコレが初めてではなかった。そして片倉雪斗が巻き込まれたことも、当然初めてではない。

 「授業中にテロリストが来てー」は学生が退屈な授業の中で抱く妄想であるが、小学生の頃からの付き合いである雪斗にとってそれは冗談では済まなかった、そんな人生を過ごしてきた。

 風が吹けば桶屋が儲かるとは経済の概念を示した言葉であるが、北原狂哉こそは始まりを告げる風そのものだろうか。誰よりも迷惑に生き、誰にでも迷惑をかけ、誰よりも迷惑を被る。そんな彼の【トラブルメーカー】たる本質は、いつだって連鎖して他者を巻き込むことにあった。

 命の価値は誰よりも安く、周囲の人を巻き込むことで無理やりに価値を釣り上げて生きながらえるが如く。そうやって北原狂哉は自身に降りかかる殺意の粉に傘をしていたのだと、今となってなら言える。

 巻き込まれた者は、【トラブルメーカー】をシメるどころではない事態に陥る必然。だが、それすらも結果論にすぎない事は、仲間ならば誰もが知る事実。

 いつからか、大惨事の真っただ中に原因を尋ねる野暮を雪斗はしなくなった。そんな悠長が、何よりも自分を殺す風を吹きまわすと悟ったからである。それでも、それほどの死を乗り越えてきた友が今になって死を受け入れている。それだけがかすかな疑念として、雪斗の脳裏をよぎっていた。

「ッ」

 雪斗は気合いの声を発しない程度に渾身の力で、その手の鉄パイプを後方のコンクリート壁に突き刺した。びくともしないという形容詞は、何も突き刺さるパイプの深さだけを表現した言葉ではない。

 むしろコンクリート壁に突き刺さった鉄パイプの浅さにこそ敬意が示されて然るべきだろう。つまり行われたのは、壁面から露出した鉄パイプにかなり長さを残しつつも強度や安定性にもケチがつかない、そんな完璧そのものの刺し方。圧倒的渾身はもちろん、突き刺す軌道にブレがあっては出来ない神業と言えた。

「マジかよ…、お前。その怪力はいくらなんでも引くわ」

「そうか。プロレスラーに不可能な力技はねぇって言葉、辞書に追加しときな」

 プロレスラーに不可能な力技はねぇ、まさにそこからは、強引な力技の乱発だった。

「ちょっと狂哉、お前邪魔だからさっきよりも高く投げるな」

「…なんて?」

 これからやる暴挙に説明は挟まれなかった。

 無言で雪斗は狂哉の足を払い、仰向けになるように転がす。さらに両足を脇に抱えると、一気に遠心力の回転を加えた。そのまま突き刺さった鉄パイプと壁面を補助に、大人を垂直にそびえる三メートルのコンクリート壁を越えるよう投げ飛ばす(ジャイアントスイング)。かなりの破茶滅茶であるが、それが実際に行われてしまったのだから相当な無茶苦茶であろう。

 ハンマー投げの要領で人間が空を飛んだ。ちょっとした金がとれる芸かもしれない。そもそもとしてプロレスにおける投げ技とは『持ち上げて→叩きつける』上下運動のものがほとんどである。いくらジャイアントスイングが横方向へ投げ捨てる真似が可能な技だとしても、本来は三半規管への攻撃を目的とした技だ。飛距離を稼ぐために助走まで付けて投げるなど、もはや相当な暴挙である。特に投げられる狂哉にとっては、たまったものではない。

 幸い技は綺麗に決まり、奇跡の高跳びは安全の面でも成功した。回転により頭部は地面と壁面と鉄パイプを掠め、投棄により壁面を水平に沿って宙を舞い、絶妙にガードレールを超えて弧を描き、重力により湖岸からは上に位置する道路の歩道に落下する美しい力学運動の曲線。

 この場合の安全とは、肉で着地をする入射角で決まる。雪斗のジャイアントスイングは決して優しい投げではなかった。だからドシャッという音や「ぐぎゃっ」という断末魔は聞こえたものの、ゴキャっていう骨の音はしなかったのだから大成功と言っていいだろう。

 しかしそれ以上にそこから続いた、「足枷」を捨てた雪斗自身の動きは異常であった。もしも現代のプロレスを知らない人が見たならば、雪斗をサーカスか何かの凄い人だと勘違いしたことだろう。

 まず雪斗は、一メートル以上の高さに突きたてられた鉄パイプに助走なしで飛び乗ると少し制止し(スプリングボード)、そのまま元居た湖岸側の地面に降りた(ドラゴンリングイン)。

「コレじゃあ無理だな」

 それからリテイクと言わんばかりの気合を放つと、壁に向かって疾走してそのまま壁面を駆け上がり蹴った勢いで捻りを加えながら宙を舞い(コークスクリュー)、…何事もなかったかのように、元居た湖岸へ美しく着地した。

「コレでも駄目か」

「オーイオイ、何やってんだよー」

 既に安全圏に立った狂哉が湖岸道路のガードレールから身を乗り出して茶々を入れた。

「うるせーよ。プロレスで個人が一人で飛ぶ高さには限度があるんだっつーの」

 言いながら雪斗は日常のように汗を拭う余裕をコキつつ、上に投げ捨てた友の無事を真っすぐ見上げた。全身をほぐす様に伸びをする。

「だってあんまり無理すると、膝を壊すからな」

「…いや雪斗、お前、そろそろしぬぞ?」

 近づくエンジン音は既に爆音である。着岸まで残された時間はそう多くない。眼前に迫るという言葉では表現できない臨場感は、陳腐な舞台と不釣り合いに圧倒的だった。まるで人が簡単に死ぬ現実を教えてくれているかのように。

「…仕方ねぇ、コレはまだ人に見せれるもんじゃねーんで出したくなかったんだがな」

 言うと雪斗は助走をつけて壁面を駆け上がった。鍛え上げた人間なら、たとえ不安定な足場での助走しかできなかったとしても、三歩までなら余裕で垂直の壁面を駆けることができる。そこから斜めに飛んで突き立てられた鉄パイプの上に着地し、しなった鉄パイプの反動を使って捻りを加えながらより高みを目指して雪斗は宙へ舞った。勿論それだけではまだガードレールを越えるほどの高さまでは稼げない。壁の高い所に衝突するのが関の山。だが、そうして向かう壁と全身の接触面も計算づくなのだろう。壁と足が歯車のように噛み合い、垂直の壁面でぐるっと音のしそうな最後の回転を果たす。…そして、"しっかり"という音がしそうな見事さでコンクリート壁のガードレール上に着地していた。

 そしてそのまま地面に降りる(ドラゴンリングイン)。直後、割れんばかりの拍手喝采のように、船と壁面の衝突音が響いた。

「…すげっ。サーカスかよ」

「アホか、あくまでプロレスだ」

 目の前にいる男が寸前に見せた曲芸は感嘆に値する超絶技巧だった。

 これがプロレスのリング上ならば、コーナートップまで駆け上がった後、そこからロープの上へ飛び乗る。さらにその反動を使ってリング外に立てられた梯子に飛び乗り、そのまま更に蹴りとんで別のハシゴの頂上で着地していたところである。実際、プロレスでハシゴはそこらに転がっているものなのだ。

 確かに先ほどの動きを、「バク天をしながら前方へ飛ぶ」ように物理法則を無視していると言う者もいるかもしれない。だが、そこは"プロレスラーに不可能な力技はねぇ"って言葉を辞書に追加し忘れた人間の言葉であろうから無視をしよう。実際、これぐらいの動きは"ハイフライヤー"と言われるスタイルのプロレスラーなら可能なのである。ちなみに「バク天をしながら前方へ飛ぶ動き」をプロレスでは【シューティングスター】と言う。

 北原狂哉はつい拍手をしていた。鳴りやまない大歓声のように炎船の業火も高まる。

「物理法則を無視しすぎだろ…」

「なァに。去年の大一番に金網戦でフィニッシュに絡めようとしたんだが、結局はお蔵入りになったムーブさ。やっぱり元気な状態でも三回に一回は失敗するからな。スタミナのキツい試合終盤で使えない以上、俺的にはあんまし良い動きじゃねーんよ」

「ハハハ、三回に二回は成功するのか。マジそりゃ偉大なるレスラーことファッキンオーサムさんでもびっくりだろうよ」

 オーサムとは、偉大なムーブを魅せるレスラーに観客が贈るブラボーにも似た賛辞の言葉である。オサムさん呼ばわりされて嬉しくないレスラーはいない。あまり洒落た言い回しではないと雪斗は感じたが、褒めてくれた気持ちを素直に受け止め、気づけば口元も歪んでいた。

 その時、残された業火炎船がやけくその様に壁面へ衝突する。しかし、もはやそれさえも二人にとっては背景の出来事なのだろう。怪盗のルパンや大泥棒の五右衛門などの類が、爆発に驚かないのと同じロジックで男たちは動いていた。

「しかし熱いな。流石に燃え盛る船とやらが何隻も着岸してると、環境の温暖化にも影響をブチかましてくれそうだ」

「それこそ柄じゃないってヤツだぜ狂哉。あと環境とか温暖化ネタは大抵寒い相場だ。おれも下手に突っ込みいれて、これ以上寒いテンションにはなりたくないな」

 既に先ほどまでの不自然な事態はなかったかのようなやり取りだった。これも彼らは慣れという言葉で済ませるのだろうが、やはり異常である。いや、彼らについて語るならば、「異端」という言葉の方が近いだろうか。

「この程度の熱、一度燃え盛るテーブルに叩きつけられて痙攣起こしてみ?それに比べればってなモンさ」

 全身に軽度の火傷を負うことは、事実として非常に危険な行為であり、そこには受け身ではどうにもならない地獄が待っている。それに耐え抜くのはそう、根性。

 気合いこそが片倉雪斗を先ほどのスイッチが入った状態、修羅たらしめるのだろう。

 現状、焙られる状態も実は大変危険な状態であり、事実、先ほどまでのも悠長にしていいような場合ではなかった。

 寝ぼけ眼を栄養ドリンクで無理やりこじ開けるドライバー、法定速度を仏契(ブッチぎ)った速度でトラックが走ることもある湖岸道路。信号の光も消えた深夜とは言え、人通りが少ない街の夜道にも限度がある。炎が煌々と猛るこの場にとどまるのは、治安維持的な意味でも危険極まる。命を狙われているならば尚更だ。

 時は金なり。月のころは更なり。

「さて雪斗クン、ここからどこへ逃げようか?」

「ワン・ワン・ゼロをコールしてポリスマンに会いに行く発想は、無いか」

「そりゃノーだ。俺は捕まりたくない」

 その回答に対し片倉雪斗は肩をすくめるだけで流したが、狂哉の言葉はつまり彼が既に法を犯した罪人であることを意味していた。その挙句に命を狙われているこの様なのだから、ほぼ同情の余地はないと言えるだろう。

 それでも、古くからの腐れ縁なのだから仕方がない、というのが、いつもの雪斗が使う言い分であった。それにこれからも続く人生に"安全に逃げた過去"という言い訳を作りたくはない。いつまでもどこまでも太っとく生きるならば、ここは安易に警察に走らない暴挙こそがアリだと思ってしまう思考回路。それこそがまさに狂哉の思う壺だと理解はしつつも、奈落。

「俺らはどこまでも馬鹿のまんまだよ、セツナ」

 吐き出された言葉は季節を先取る白い息に溶けて、風に消える。殺されても仕方がないほどに愚かだと心から思う。

 「授業中にテロリストが来てー」は学生が退屈な授業の中で抱く妄想であるが、小学生の頃からの付き合いである雪斗にとってそれは冗談では済まない、そんな人生を過ごしてきた。

 もしも本当に狂哉が言葉通りに近い将来、命を落とすのならば、きっとこれからこそがラストトラブルになる。その場に立ち会わない方が、雪斗にとっては悪い冗談であった。ならば、伸るか反るか。ここまでたらとことんまでやるしかないじゃないか。

 これは片倉雪斗が社会人格闘家をしていた頃!久しぶりに再会した友達が命を狙われていた!ああもう、どうせコレもまた酷いことの始まりなんだろう!←new!!

 そんなことは、よくあることさ。じやあ、そろそろ始めようか。

 湖岸道路脇のガードレールから、雪斗は燃え盛る船を見下ろした。

「なんだ、ありゃ」

 狂気の宴。今宵を狂い踊る悪意の境地。

 船の上には見えた四体のピエロの姿が陽炎と踊り狂っているのが見えた。正体を明かさないためのメイクなのだろうが、同時に敵を固定する為の顔見せも意味しているのだろう。

 その四体と目が合う。

 目の前にいるのは人間である。まだフィクションの悪党の方が美しいと思えるほどの見苦しい化粧姿、どこまでも果てしない人間の醜さそのもの。

「さて、さっさととっとと逃げるとしますか」

 船に背を向けたまま、狂哉は大きく伸びをして言い放った。戦場で踊る道化の狂気から目をそらしているのか、それとも気づいていないのか。その背中から窺い知ることはできない。

 しかし、雪斗も逃げるという提案には素直に同意だった。頭がおかしい存在に、論理的回答を求めてはいけない。下のピエロたちは相手にする意味がない存在なのだ。

 琵琶の湖が火走る美しい夜、曇天の中でも星は照らされる。

「しかし良かったよ、強い友達に恩を売っておいて」

「ああ最悪だ、悪い友達に弱みを握られてんだからな」

 言いながら、片倉雪斗は計算を走らせた。これは多分、一人じゃあ手に負えないことになる。自分と同じ被害者仲間を巻き込まないと、無理だ。

 だから後日、彼は舞原アゲハを訪ね、また【被害者の会】に招集をかける。

「まぁセツナを殺した俺たちが、『色んな事があったけど、今はそれぞれの人生を歩んでいます』、なんてのは虫がよすぎるわな」

 雪斗は溜息を吐き捨てると、空を見上げて呟いた。

「そうだな、ある意味で今回の一件、せめてものエピローグみたいなもんを期待したいぜ。それならきっと俺にも相応しい破滅を与えてくれるだろうから。きっと有難い話になる」

 狂哉が吐いたその言葉で、ようやく雪斗はひとつの確信に辿り着く。エピローグ、人生の致命的な節目。結末。これは、まさにそのエピローグの始まりだった。

「…最期を華々しく飾ろうと思ってるところ悪いが、オレは止めるぜ狂哉」

 ―――目の前の古い友人は、死を望んでいた。

 死後の世界で幸せになる鍵は生前にあり、地獄の沙汰は金で済む。来世や死後の世界を信じない男はこれだからタチが悪いと雪斗は思う。来世や死後の世界は実在していて、今こそがまさに誰かの死後の世界で、誰かの来世。今まさにここが望む世界だというのに何故それがわからないのだろうか。お前が望む世界は将来と破滅が溢れたこの現実なのに。

「お前はおれが殺すんだ。お前の望む破滅なんて、おれは絶対に与えてやらない」

 その陳腐な言葉が、後に振り返って思えば間違いなく、宣戦布告の通達であった。恨みを買った人間は確実に死ぬ。恨みを買っていない人間でも死ぬのだから当然であろう。

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