ごっこ遊び

永原 タクヤ

序幕 雪とアゲハ蝶

 舞原アゲハは人生の岐路で無難な人生を選択した女だった。

 復讐に手を汚さなかった理由は偽善的な理由では無い。ただ何もしないまま時は過ぎていて、何も出来ないまま今に至る。本当にそれだけの理由で、日々は過ぎていく。金や地位や時間や名誉、「足りないもの」ばかりの現状に涙も出ない。全て後付けの言い訳だ。これまでの人生、瞬間瞬間を振り返る度に、後悔と自責ばかりが蘇る。

 兄である舞原翼が死んだ時、復讐という選択肢は確かに存在していた。少なくとも復讐の正義は彼女だけにあったのである。しかし、舞原アゲハはその正義に唾を吐いた。

 それでも舞原アゲハが抱く後悔は、死んだ兄のために戦えなかったことではない。泣くでも許すのでも怒るのでもなく、何もしていないという現在進行形の事実。それが後悔の理由。

 復讐と憎しみの渦に飛び込んでいれば確かに何かが変わった可能性は高い。もしも全力で挑んで敗北していたなら、少なくともこれほどの自己嫌悪は無かったに違いない。

 無難を望んだが故に無行動を選び、結果として後悔を引きずって、作り笑いすらもぎこちなくなって。あわせる顔がなくなる。今年も舞原アゲハは兄の墓を参ることができなかった。既に焼かれて墓の下に眠る兄は、未来永劫に覆せない死の摂理に沈んでいる。少なくとも、兄を想う妹として、それなりに純粋な家族愛があったはずなのに。

 たまたま兄の命日に開催された飲み会にもあえて参加したのは、「飲みたい気分だったから」としか言葉でしか誤魔化せないほどに、逃げの一手だった。

 陳腐を並べれば鎮魂とか手向けの酒とかそういう言葉で言い訳ることができるだろう。だが、そういう綺麗な言葉で言い訳をしては、自身にあるドス黒い感情が台無しになってしまう。アゲハもそれを恐れ、自分に優しい言い訳を考える思考を止めていた。

 自然と、ジャパニーズ・ウィスキーのロックが進む。

「もしかしたらね、私は幸せになりたくないんですよ」

「いやいや舞原、それはMを極めた人の発言だぞ」

「ていうかソレ言っちゃう時点で女としてどうなんですか、舞原さん」

 相方となる異性がいないことは、社会に出た時に弊害として機能を果たす。他人の色恋話は酒の肴としては手軽であり、他人程度の同僚上司が望むも結局は他人事として聞くことのできる適度な話題であるからだ。早い話、共通の話題として格別の無難さを誇るのが、そうした与太話なのである。

 その日の飲み会も、そういう方向に流れて行った。適度に整えた外見をしていると、こういう時に標的にされて面倒となる。無粋で下世話、大人の世界、めんどくさいせかい。

「いいんですよ、私はそれで。そうやってこれまでも振られ振られて生きてきましたから」

 どうして彼氏いないんですかと聞かれても、いないもんは仕方ないとしか答えられない。それでも珍しくアゲハは与太話の矛先が自身に向いた時、内に秘めたドス黒の一部を珍しく言葉にしていた。幸せになりたくない。いつだって中途半端な立ち位置に終始するアゲハにとって、これほど的確な自虐の言語表現はなかった。

 だが、抽象的な言葉では誰も納得してくれないのが飲み会の流れである。飲み会では常に、相手が望む言葉を吐く事だけが求められるのだ。

「いやあ、しかし若い女の子が、そこまで達観しちゃうのはどうなんだ?」

「そうですね。おんなごころが終わってる、とは友達によく言われます」

 そんな友達はいない。だが、基本的に大人は友達トークに興味を持たないように出来ている。便利な仮想友達にはいつだって心から感謝だ。

「ホントに無いんですかー?…ちなみに好きな芸能人とか?」

 同期の癖に、いつも自分にだけ敬語を使う山田麻耶弥の言葉は、どこか嘲笑や優越感による悪意が感じられるものだった。それが何なのか、男がいるいないの差なのか、生まれの差なのか学歴差なのかはアゲハもわからない。ただ感覚として耳にへばりつく嫌味な口調が苦手。

 それでもこういう時はいつだって麻耶弥の言葉が結果的に助け舟となるのだから、本気で憎めない。つくづく苦手な、困った相手だろう。

 麻耶弥のネタ振りに甘えることにしたアゲハは、こういう時の為に予めリストアップしておいた芸能人の名前を挙げていた。そのままテレビトークに受け流せば、自分について深く掘り下げられる時間は終わるだろう。事実、そこからの話はとある芸能人似という山田麻耶弥の相方にうまくシフトし、脚色された愚痴が場を盛り上げてくれた。

 自分の話をするのが、昔からアゲハは苦手だった。自分がどういう人間かを言葉にしてしまうと、その後の自分が"そうあらねばならない"錯覚に陥る感じが嫌だからだ。

 別に相方がほしくないわけじゃない。若い女のカラダをチラつかせれば、ばかな男なんて簡単できるという自惚れもまだある。だが、ほしいのはセックスフレンドではないのだ。好きでもない人間に抱かれたいと思うほど、餓死寸前ではないと強がる余裕もまだある。

 うそだ。本当は隣に暖かい人がいてほしい。やさしく抱きしめて、必要以上に慣れ合わない、そんな人がほしいとずっと望んでアゲハは生きてきた。少女漫画か。

「…彼氏が欲しいとかじゃなくて、私は私の好きな人に好きになってもらいたいだけ、なんだけどな」

 ただ誰か、特定の人の好きになってもらいたい。小さくもらした恥ずかしい呟きは、誰かが頼んだ焼酎のロックが鳴る音に溶けて消えた。



 飲み会を終えて家路に向かう月明りは、美しさの欠片も感じられない無粋な光を放っていた。闇夜を照らす役割を街灯に奪われ、それでも居場所に固執するような醜さすらも感じられる。

 高校を卒業し、そこまで良くはないが決して悪くはない大学に入り卒業して、就職をした。

 そうして踏み込んだ社会人の世界。そこで待っていたのは、「若いころは」という言葉を振りかざせば何をしても許されると極端に勘違いしている中年たち。彼らが構成する、社会という不条理な秩序。そしてそんな社会に刃向っても噛み合わないだけだと諦めた若手社員が仕切る、お題目ばかりが素晴らしい長期研修。それは学生の甘ったれた心を折る研修を越えて、シンプルな理不尽に慣れるための研修だった。新入社員の効率的大量生産。三か月に渡ったバカみたいで時代錯誤な、どこまでも正気の沙汰ではありえない研修の日々。

 それをアゲハは持ち前の絶対零度な態度で淡々とこなした。そこで学んだことは、形だけの不自然な敬語と愛想笑いを挟むタイミングぐらいのものであろうか。

 いつだったか、「この世界で幸せになる唯一の方法はね、きっとバカになることなんだよ」と、同期の誰かが言っていた。そういう言い訳じみて、ただ自分を正当化するだけの恥ずかしい思想を臆面もなく言葉にできる厚顔無恥さに、むしろアゲハは憧れる。

 だが、そんな社会の一員になったことに対する後悔は不思議となかった。勿論、研修では常に呆れかえる思いが先行し、「ああ、この会社の顧客はバカにならないとやってられないほどのバカばかりなんだな」としか感じなかったのも事実である。いつだってお客様はカミサマで、この場合のカミサマとは消費者や国民や社会という言葉でも置き換えがきいて。この国は全部見かけ見かけ、茶番茶番。そんな頭の悪いことを真顔で言っていた古い友達の顔を思い出す。ああ、あれはいつの頃の彼だったろうか。こんな面倒くさい性格の舞原アゲハを好きだと言ってくれた、数少ない人。どう考えても、「無い」ひとだったから振ったけど。

 それでも実際のところはアゲハ自身、世間とやらが全てが茶番で構成されているという感覚を抱いていた。少なくとも社会というものはマヌケなごっこ遊びで成立していて。理解した気になれる肩書きやヒーローごっこ、正義の被害者ぶり。 世界は無難を演じて回っている。

 だが、同様にアゲハは理解していた。本気で遊びができない人間には決して素敵な物語が舞い降りないということを。

 舞原アゲハは理解している。自身が何よりもそんな遊びを望んでいる事を。―――なぜ自分には素敵な物語がやってこないのかも身をもって理解していた。理解させられてきた。

 達観を気取りながら過ごす日常は、まるでじわじわと羽を毟り殺されるような日々であろう。だが、それでいいともアゲハは思っていた。好きな音楽を聴いて、好きな本を読んで、自分ではない物語に触れる。それは悪くない、きっと贅沢な人生なんだ。

 諦めではなく、むしろ哲学や宗教に近い価値観。舞原アゲハに言わせると、素敵な物語には必ず作為がある。もし心当たりがないのに不可思議な出来事が続いたら、きっと誰かの都合が大きく暗躍している。人生に於いて、素敵な物語にも負けない平和が、退屈な日常に籠る。

「お前、何ぼーっとしてんだだよっ、じ状況わかってんのきゃっ!!!」

 一次会で逃げた夜道の帰路に果たしたのは、意味不明で唐突な遭遇だった。以前から自分に付き纏っていたストーカーに包丁を突き付けられるという圧縮された時間の中でも、舞原アゲハは冷静に状況を分析する。ああ、不自然なことに巻き込まれてしまったな、と。

 自身に向けられた包丁。短い時間に自分の冷めた部分が駆け巡った感覚はいわゆる走馬灯にも似ていた。だが本質はそうではなかっただろう。現実逃避ではなく、むしろ現実を甘く見積もった人間特有の思考の緩み。事実、舞原アゲハは煌めく包丁を向けられても、それこそ研修時代と大差ない冷めたテンションを維持していた。あーあ、女性の夜歩きは危険ですねっと。

「こっち向けょ!」

 どうも街灯というのは蛾や羽虫を照らす為にあるらしい。確かに、アゲハの目の前にいる小虫は街灯に照らされていた。目の前で震える男は、まさに子虫が如き存在。

 もしくは安い映画にありがちな、銃を口にねじ込まれたチンピラのように、小さく哀れにも見える。もはや誰が誰を凶器で脅迫しているのかわからなくなってくるほどに、小者。

「…どうでもいいけどさっきから噛みすぎだよ台詞。なんかもう、わたし、きみの言葉が日本語かどうかも自信持てないな」 

 あまりに現実感が無かったのだろう。アゲハは気がつけば静かに挑発を重ねてしまっていた。目の前で刃物を振りかざす小男の真っ青な顔に真っ赤な血が上り、見事な紫の色に染まる。

 闇夜の狭い路地、人の気配は他になく、街灯だけが生き生きとした光を放つ。突然陥った有り得ない状況下、舞原アゲハは選択肢を冷たく数え上げていた。例えば通りすがりの誰かに期待をして、無様に作った女声の悲鳴を上げるのも手ではあるだろう。だが、舞原アゲハはその手段を選ぶほど自身の無力と無能を素直に演じきれるような強い女ではなかった。

 そもそも取るべき対処行動の方角は、男と目が合った瞬間に定めていた。くだらない、相手をするのも馬鹿馬鹿しい相手は、真っ向から捻じ伏せなければプライドが簡単に崩れてしまうから。どれだけ安くても、安いプライドだからこそ踏みとどまらないと保てないから。だから挑発を重ねてたたみ掛けた。―――戦うために。

「ホラホラ、そんな遠くから刃物光らせても私には届かないよ。もっと近づかないと」

 躊躇いはなかった。自身は冷静に状況を観察し、相手からはなけなしの冷静さを奪う。

 手段を選んで拓かれる生きる道へ。どれだけ退屈な日常を過ごすのが今の自分だとしても、ここで散るつもりはどこまでもゼロだから。悪女のように男を手のひらで転がそう。そうして女として蝶のようにひらひらと生きるのだ。それが普段からできればこんな寂しい人生は過ごしていない、だからこそ。転がせる男なんて崖下まで突き落とせ。さよならを言おう。

 舞原アゲハはこういう修羅場慣れしていたわけではない。恋愛経験も非常に浅く、もはやゼロに近いほど底が知れる程度の女だ。ストーカーというハードルの高い愛を知るほど恋に生きる女でもない。それでもどれほど安くても、譲れないプライドが彼女に冷静さを与えていた。

 舞原アゲハはこれ見よがしに大きなため息を吐くと、男に向かってゆっくり歩を進める。

 ストーカー男にナイフを突き付けられた不自然な状況で、如何にしてこの不自然な危機を脱するか。今、思考すべきこともアゲハは的確に理解していた。

 男が暴挙に至った理由、「なぜこんなことを」は、終わった後で考えればいい。―――むしろ興味が湧かないのが本音だった。心底煩わしくてめんどくさかった。

 一歩、そしてまた一歩、その狙いは短期決着。逃げるという選択肢は皆無。一方通行の路地、照らす街灯、月明かりの下で頼れるのは自分だけという状況下。

それでも、かよわいおんなが弱いと思うなら、それは大間違いなのである。

 スポットライトが動かないなら踏み入れるまで。街灯が描く円の中心に辿り着いたとき、目の前の男がかすれた悲鳴を上げた。

 ぽたり。

 ―――思い出せば、このストーカー男に最初に会ったのは大学のゼミだった。

 ぽたり。

 ―――明るさと優しさで人気の男であったが、その瞳の奥にある狂気じみた自意識の高さに気づいていた者も多かったと思う。

 ぽたり。

 ―――この前の同窓会で再会した時に、意味のよくわからない自惚れを聞かされた。

 どろり。

―――精一杯に冷たくリアクションしていたはずなのになぜか気に入られ、やたらとメールやら何やら絡まれるようになった。それを冷たく接していたらこの様か。

 ぼたり。…じわりと、ちいさな血の池が足元にぬるり。

 舞原アゲハの膝が崩れそうに震えた。しかし決して地面に膝はつかないと顔を上げる。目撃者が居たなら、阿鼻叫喚の始まりとなる絶叫が響いたことだろう。悲鳴が当然の激痛の最中、だが舞原アゲハは決して弱音の類を上げなかった。

 臆病な心、弱い面をこんなつまらない相手に曝け出してたまるか。怖いと怯える姿を見せてたまるか。この状況で吐くべき言葉は、あくまで当てつけのように吐かなければ効果が無い。口角を上げて歯を見せろッ。

「…痛ッ、たいなァ…ッ」

 掌に滴り落ちる流血が何でもないような表情で、舞原アゲハは目の前のストーカー男に無理をした作り笑いをして見せた。目指すは突き刺すように氷の微笑、笑って見せることが何より相手のプレッシャーになる状況をつくるのだ。

「ぉお前、な何を考えてんだだ…ッ!!」

 舞原アゲハは、自ら手を伸ばして、その包丁を。

 人が慣れない行動をとる時は、その行為が達成されたときに弛緩する、そのようにできている。そしてこの日本という国において、人の骨肉を切り刺し慣れている人間は多くない。舞原アゲハは、冷静に、いや、冷酷にそこを突いた。

 事象の確定。事実は愚かな暴挙に過ぎないが、言うには易し行動を舞原アゲハは極めて易く果たす。刺すことを目的にしたバカが相手ならば、致命傷にならない箇所を刺させてやればいい。刃を受け止めた左の掌。処女の鮮血は溢れ地面を冷たい紅で染めていく。

 そんな血の冷たさすら、アゲハの瞳が放つ黒に敵わない。狼狽を隠せない目の前の男を見据える黒の瞳圧。舞曲の魔王が如く、殺す者の黒い冷たさを放つ。

「どうしたの?こういうことがしたかったんでしょ?…なら笑いなよ、間抜け面」

 恐怖こそが人を上書きする。既に目の前の男の表情から血の色は消えていた。その様子を見たアゲハは、今度はふと、小学生だった頃に暴力による恐怖政治をしていた担任教師の顔を思い出す。今日は色々と思いだす日だ。

 あぁ、そういうことか。なんでこんなにわたしを好きと言ってくれるこの男が好きになれないのか理解した。ストーカー男の顔が、ただ大嫌いな暴力教師によく似ていたんだ。他人の空似ってすごい。いい迷惑ね。

 勿論、ただの偶然。とはいえ、アゲハは懐かしくも愚かしい教師の哲学を思い出していた。なるほど、あの先生は正しい。いや、正しかったが、より正しい。―――確かに恐怖は、弱い子に対してバツグンの効果を発揮する。

 過去を断つように瞬間、刺された左手を抜いて男の顔面の空を切った。冷たいさよならをするように、手のひらを相手に向けてひらひらと舞わせる。

 霧雨のように鮮血が散って夜の街を赤で彩った。

「ほら、わたしの躰の感触はどう?。瞳を閉じないで、綺麗な赤よ。刺せば膜は破れるわ。抜けば血が吹き出るわ。それが見たくてそんなもの持ち出してここに立っていたんでしょう?」

 痛みに耐えて、絶対零度の言葉を相手に突き刺す。

 相手の男は自分の両手で顔面を押さえていた。その正面を静かにひらひらと舞うアゲハの血染められた掌。血飛沫を散らしての目潰し。つまり、こうする為に左手を包丁に向けたという事実。見事に血染めの目潰しは炸裂していた。

 相手の男の無様な悲鳴があげてうずくまる。金属音がして、血染めの包丁が足元に落ちた。

 予め、一切の暴挙に対する躊躇いを捨てなければ、こうまで理詰めの無茶はできないだろう。アゲハの目的は自分の血で相手の眼を赤く染めることであった。

 その効果はバツグン。突然に視界が奪われることは、人の恐怖を増加させる。見るからの小心者、心からの恐怖に躓いて頭を打ち、文字通りにのた打ち回っていた。

「何とか言いなよ、たかだか目がベタついただけだろ」

 アゲハは落とされた包丁をつま先でおさえながら、ハンカチで紅の左手に適当な応急処置を施した。痛みの熱が、冷めきったアゲハの感情を心地よく温めてくれる。

 ストーカー男は、自分の血を流さないまま、他人の血に汚れて痛みを味わっていた。無様という他ない状況である。

 人の無様は時に、同情という好意的な解釈を持ってその人生を想像させるものだ。

 アゲハは直感する。目の前の男も、学生時代は普通の学生だったのだろう。きっと巡りあわせの悪さが、ここまでの愚か者に彼を堕としたのだ。もしかしたら自分も冷たい態度で、たくさんたくさん、この男を傷つけてしまったのかもしれない。

 だがどんな理由があれど、それに基づいた行動をした時、人は言い訳の余地を失う。残る事実は、彼に覚悟が足りなかったということのみ。

「―――悪党は、よりタチの悪い悪党に淘汰されるものなのよ。正直、アナタに興味無いわたしには、こんなことの理由を聞いてあげる理由も無いわ。それでも、もしこんな事をした原因が私にあるのなら、ごめんなさいね。もちろん責任は取らないし、それ以上何もないけどさ」

 プライドが高い人間ほど、立ちふさがる言い訳は増える。それ自体は悪いことではない。むしろ言い訳があって、それを突き破る自負の強さが無ければプライドは成立しない。

 だからこそ、プライドを理由に悪事に手を染めるならば、覚悟が求められるのだ。最悪の事態すらも、笑って受け入れる、それが覚悟であり、悪の美学なのである。

 プライドを守り言い訳に逃げるために、悪事を選んではいけないとアゲハは考える。

 舞原アゲハはそこまで修羅場慣れしていたわけではない。だが、彼女にとっては経験してきた日常こそが、世間で言うところの非日常であった。危機的状況すら日和見主義のように余裕をつくる。それは悪い友達を持ってしまった学生時代、トラブル続きの毎日を経験して、身に付けた強さ。

 片倉雪斗と、静嶺セツナ。そして【トラブルメーカー】北原狂哉。

 それは【トラブルメーカー】を友達に持ってしまったが故の、日常という非日常。青春時代と呼ぶには余りにも赤黒い、それでも皆が輝いていた物語。傍観者を気取りながら、仲間面ができる立場に誇らしさすら覚えていたあの日。

 しかし舞原アゲハは考える。素敵な物語には必ず作為があり、もしも、心当たりがないにも関わらず不可思議な出来事が続いたら、それは誰かの都合が大きく暗躍していると。

 素敵とは、即ち素で敵と書く。脅威を感じず、敵対するに値しないならば、どんなトラブルもきっと日常の営みに成り下がる。

 つまり、この不自然な出来事すらも、アゲハにとっては下らない日々に過ぎなかった。

 正義も悪もない、状況を見て手っ取り早いやり方で済ませるやり方が、彼女にとっての日和見主義。物事の原因を突き止めたり犯人を捜したりするのは性に合わない自覚がアゲハにはあった。そしてそれこそが、日和見主義者のような自意識過少。

 どれほどの不自然な状況に陥ろうとも、自主性の無い人間に素敵な物語は発展しない。物語はあった。流れ作業で事態に対処する癖が、アゲハを物語の中心から遠ざけていた。

「じゃあそういうわけで、おやすみなさい(良い夜を)、ぼうや」

 言葉は音速で届く。もし言葉と同時に放たれた蹴りならば、それはきっと音速の一撃と言えるだろう。グッドナイトベイビーボゥイ。アゲハの長い脚が、ただ月明かりに妖しく照らされただけなのかと錯覚するほどの刹那、回し蹴り。それだけで男は泡を食む。

 そうしてストーカーとの対峙は幕を閉じた。

 こうして今宵、舞原アゲハを襲う異常な出来事の連続は始まったのである。



 一度なら偶然、二度もまた偶然の可能性が残る。だが勘違いしてはいけない。三度続いてもそれは必然ではないのだ。―――それは、ただひたすらに一途な悪意に基づく努力の結果。

 馬鹿げた物語が次々とアゲハの前に立ちふさがった。立ち寄ったコンビニではチャチな強盗が入る。道すがらも、やたらと絡んでくる小悪党たち。ひったくりにチンピラとナンパ、ヤンキーを従えた馬鹿大将。エトセトラエトセトラ。

 アゲハ自身、よくぞまあ住み慣れた我が町に、これだけの犯罪者予備軍がいたものであると感心せずにはいられないほど、駅から本来ならば10分程度のアパートが遠い家路であった。

 あまりにも全てが億劫で、払いのけた小悪党どもを警察に通報する市民の義務は無視を決めた。しかし不自然のパレードが重なるほどに、アゲハもパトカーの送迎と寄り道の方がマシだったと思えてならない。あぁ、早く家でベッドにダイブしたい。シャワーを浴びるのもいいな。とっておきの、みかんゼリーにだって手を伸ばそう。がんばれあたし、まけるなあたし。

 ため息が枯渇しない事にまた、ため息をつきたくなる悪循環の中で、それは蹴り倒した暴漢のグループ数が二桁に突入した辺りだったか、とにかく心底うんざりしていたころだった。アゲハの目の前にお道化(どけ)た【彼】は現れた。

「ピエロはサーカスで虎にでも食われてろ」

 ようやくアパートが見えてくる手前、上り坂のてっぺんに立つ胡散臭いピエロを見たとき、アゲハの我慢は限界に到達した。思わず吐いた悪態は、自己嫌悪を覚えるほどに陳腐に空を切る。ピエロがあたしに目を向けている。ふざけんな。あたしを、見下すんじゃない。

 シンプルにうんざりだった。そのつもりだった。人の上に立つように、人を見下すその道化師は、パーティグッズのような三角錐の帽子を被り、右に傾いてつけた仮面と前髪でそれぞれの瞳を隠す。その風貌は人に恐怖を与えるためか、ただの趣味か。ただ黒マントから浮かぶ右手に操られる木偶人形がカタカタと揺れていた。

「流石だネ、プリンセス。元気そうじゃないカ」

 明らかに加工された音声が機械的に響く。しかしそれはこの日、最大の恐怖を与える小道具だった。アゲハは背筋が伸びるのを自覚した時にようやく、ギリギリの線で虚勢を張れている自分に気がつく。余裕がないのは疲れたからではないということに。

「…そういえば今日は会ってないパターンかしらね、真正の変態さんってのは」

 まずい、おいつめられた。しんりてきに、おいつめられた。

 悪意以外の心理が全て隠されている、つまり純粋な悪意しか見えない相手。生温かい汗が、アゲハの背筋を伝う。変態さんとは、得体の知れない存在に与えられる最上の称号である。変態さんに比べれば、たかが変態など、もはや真人間と大差ない。

 人は得体の知れない存在を恐怖する本能を持つ。ストーカーもコンビニ強盗も、ひったくりにチンピラ、ナンパにヤンキーを従えた馬鹿大将も。どれも究極的には願いや望みがあるニンゲンである。アゲハも、陳腐な小悪党なら幾らでも退ける自信があった。少し考えれば相手が望まない鬼手を見据えることは可能だからだ。実際、今宵のアゲハ自身も相手の理外を突くことで相手の硬直を誘い、全て屈服させてきた。ただ、血まみれの左手をかざすだけでも効果的で。―――だが、論理では縛れない相手ともなれば話は別である。

 論理では縛れない埒外の存在という恐怖。恐らく相手は深く考えないで行動しているタイプだ。それはつまり、打算がない存在。計算では縛れない対象。究極的には、正当防衛で殺すしかない相手とすら言えるだろう。だから人はピエロに恐怖する。その正体に心当たりを知らぬ限り、いつまでもどこまでも限りなく果てしなく。

 今宵、何度のため息を吐いただろうか。特大のため息が、アゲハの唇から洩れた。

「…わたしを笑いに来たにしても笑えないスタイルだね。狂哉くん、だろ?」

 アゲハが挙げた名前は、古い知人の名であった。

「ワタシは処刑道化ロペスピエーロ。敬意を込めテ、愛しのロペスピエーロと呼ぶがいイ」

 確信半分、残りは勘で友の名をアゲハは挙げたが、残念ながら会話は噛み合わなかった。よくよく観察すれば会話に齟齬が生じるのも当然である。機械音声はピエロではなく、その手にぶら下がった人形から流れていた。絶妙に気持ち悪く加工された音声が。ノイズ混じりのアナログレコードのように歪に響く。会話などハナからするつもりがこのビエロには無いのだ。

「全て見ていタ。見事だったヨ。特にコンビニ強盗に対してよく振ったビールを噴射したところなんかは美しかったネ。今日のハイライトとしても一流だっタ。大した役者だよ、君ハ」

 心通った会話など、するつもりが無いことは機械音声からも明らかで。それなのに語りかけてくる聞く耳持たぬ口調が何とも苛立たしくて。

 今宵、アゲハのポーカーフェイスが初めて剥げようとしていた。

「いい加減にして、狂哉くん。また随分とわたしのために【トラブル】を用意してくれたみたいだけど、わたし疲れてるの。手も痛いし、早く帰りたいのよ。そこをどいて」

 いい加減うんざりだった。今宵の一連には裏があると感じていたが、実際に興味はなかった。しかし、ここまでピンポイントで狙われたとなれば、明らかに知人の仕業である。困ったことに、アゲハにはその心当たりが確固たる確信として胸にあった。

 その答えがまさに今、目の前に吊るされている。その人間を吊るしてやりたいほどに明確に。

「さあどうすル、ここが今宵のステージファイナル。ボスはこのロペスピエーロさまだヨ」

「…五月蝿い、わたしはどけって言った。これ以上は五秒だって待ちたくないよ」

 噛み合わない会話が続く。故にアゲハも聞く耳を捨て、言うことだけを言うことにした。

 もしもピエロの正体が【狂哉くん】であるならば、このくだらないごっこ遊びに付き合う義理もアゲハにはある。だが、付き合ってやるつもりは無かった。

 【狂哉くん】は、アゲハのことをすきと言ってくれた数少ない男で、アゲハが振ってやったただ一人の相手である。しかしそれはつまり、気を使えども大切にしてあげる相手ではないということ。

 アゲハは静かに、名刺入れを取りだした。

「最後通牒。わたしが通り過ぎる間、土下座してろ。さもなくば、もう知らない」

「さァ、遊ぼうヨー」

 アゲハが名刺入れから出したのは怪しい煌めきを放つカードだった。通常のクレジットカードに比べてかなり厚みがあり、中心に陰陽道、対極図のモチーフが描かれている。

 それは兄の遺品だった。何年も昔、不自然な遺体を晒して死んだ兄・ツバサの形見。

 アゲハはカードを胸に当て、故人に祈りを捧げる。兄よ、どうかこれから営む罪深き振る舞いを許し給え。許し給へ、どこに出しても恥ずかしい立派なテロリストだったお兄ちゃんよ。

「このカード、ちょっと強い刺激を与えると、爆発するんだ。ていうかゴメンね、もう投げる。そんで私も逃げるわ」

 舞原アゲハの兄・舞原ツバサが犯罪者であったことを知る者は少ない。罪を犯し、その因果で死んだであろうことを知る者はさらに少ない。古い友人も兄の事は、「しばらく顔を見ていない」ぐらいの感覚でいるだろう。妹という近しい立場にあるアゲハ自身すら、遺品を整理する中でようやく疑惑が確信に至った事実。異端なアゲハの兄という異端。

 わたしのお兄ちゃんはてろりすと。だから死んでも自業自得。残された妹は何もしなくていいの。こうして死者に対する気まずさばかり募る理由が山と積まれる。

 そのカードこそがテロリストだった、そして兄をテロリストだと断定するに至った、致命的な兄の遺品。切り札は、その使用に躊躇をしてはいけない。

 この時アゲハは、初めて兄の作り上げた破壊道具を破壊目的で使用した。大切なお守り、形見の品を投げ捨ててでも、関わってはいけない相手というものは存在していて。

 【トラブルメーカー】という人種とは、何があっても深くかかわってはいけないこと。舞原アゲハという冷めた女は、深く理解していた。特に、目の前に立つピエロのように、積極的にトラブルに巻き込みに来る類の人種とは、絶対に関わってはいけないのが社会の基本。

 散火華は謳う、咲き誇る。

 カードが独特の風切音で空を裂き、夜の町内会を、小規模な爆発音が駆け抜けた。命を奪うには至らない。だが、テロとはつまり暴力主義であり、必ずしも殺戮を果たすものではないと言うこと。

 あとは全力疾走だった。爆発に巻き込まれたピエロがどうなったかは確認しなかった。ただひたすらに猛ダッシュで家まで駆けた。坂を上り、振り返らずに曲がり角を曲がり、階段を駆け上がる。息が上がる。汗が滴る。走っていてもはっきりわかるほど、全身が震えていた。冷血を自負するアゲハでも、ピエロの類に対しては本能的に恐怖を覚えてしまう。目が潤んでいる。兄が死んでも泣けなかった瞳のくせにひどい女。どこまでも自分がかわいいのね。

こういう時は自分を誤魔化すのが最善である。何もしないことだ。そうだ、こんな夜は存在しなかったんだ。とっておきの純米吟醸を空けて、今日は何も無かった夜にしようじゃないか。

 起きてしまった現実から目をそらすよう決意しながら、鍵を開け扉を開き玄関に足を踏み入れた時、人影がチラついた。心底、今宵は酷い作為が働いているらしい。

 うら若き乙女の家に不法侵入者。夜はまだまだ終わらない。

 人のベッドの上に、金色の長髪を後頭部でパイナップルのように束ね上げた男が坐していた。旧知と呼ぶには腐れ縁すぎる相手なだけに救いが無い。

 デリカシーなんか期待するまでもない男の名を片倉雪斗。―――むかし、アゲハの想いをはねのけた男。

「よぅアゲハ、待ってたぜ」

 いつだって人間関係はうまくいかないものだ。夜はまだまだ終わらない。


「雪斗。そう、きみも噛んでいたのね。…懲りない人」

 良い破裂音が響いた。精いっぱいに嫌味なイントネーションを込めて、アゲハは来訪者の頬っ面を平手したのである。

 見ればベランダのガラスが粉砕されていた。ガムテープで破砕音を消そうとした痕跡もない。真っ向勝負でぶち破られている窓と、ガラス片。なんという堂々とした不法侵入者であろうか。流石にご近所さんとか誰か気づけよ、通報しろよ。

 頬についた手形を労わる様に撫でながら、男は豪快にニヤついた。

「済んだ演出部分を一発でスルーしてくれる話の早さ、たまらねぇな。やっぱイイよ、アゲハ」

「うるさい。細かいことまで追求するのがめんどくさいだけよ」

「そこがイイって言ってるんだ。たまんねぇ」

 アゲハは自分に幻滅を覚えていた。

 ああ、こんな風でもイイと言われて喜んでしまう自分が嫌だ。ああ、やっぱり私はまだ想いを引きずっている。なんでこんな男が好きなんだろうか。決まっている、彼のイイ所を沢山知っているからだ。

 しかしそんな動揺も気取られてしまったら流石に面白くない。アゲハはあくまで不自然に冷静を気取る態度を取った。

「今夜の茶番、全部あなたたちの仕業なんだろうけどさ、随分と酷いことをしてくれたものね」

「いやいや、オレはただ教唆しただけだぜ。お前に襲いかかった全ての馬鹿共を」

 まったく悪びれていない。アゲハが抱く悪党の美学という思想は、本来この男がオリジナルであった。どれだけ教唆されようと、やらかした時点でケツは下手人が拭けよ。そういう思考回路を持つ男。タチの悪いが、そのルールを自分にも当てはめるスジの通った人間でもある。

 しかしどう教唆すれば、人につきまとうだけのストーカーを致命的な狂気に走らせたり、コンビニ強盗を祭り上げ、深夜に巣食う荒くれ共を発情させることができるのか。

 だが、アゲハは知っていた。【トラブルメーカー】ならば、それぐらい簡単にやってのける。今宵、アゲハが多用した人の心理の裏を取るやり方のオリジナルとなった仲間なのだ。それぐらい簡単にやってのける。それを知る者なら、きっとできる。

「酷い以外のナニモノでもないわよ。誰も幸せになってないじゃない」

「そうか。おれは、たのしかったぜ。やっぱお前は凄え。その冷血、日和見の極みだわ。だから力貸せ」

 言外に明確。テストされていたということ。

 自らの手を汚さず、上から目線で自分を測られる屈辱。許してはいけない悪意。そこまでわかっていても、目の前にいる男を憎めない自分を心から憎む。いくらなんでも馬鹿すぎるだろう、自分。

「本当にひど過ぎるわね。人を口説くつもりなら、もう少し段取り考えな雪斗」

「何、確認したいことはもう確認できてるんだ。だったら話は急ぐ」

 アゲハは傷つきながら軽口を叩いているというのに、当の相手はズルいテンポである。この片倉雪斗という男、あくまで主導権を引き渡さないつもりらしい。

 アゲハから、張りつめていた気が一気に、バカバカしく、霧散していく。

「ごめん、ちょっと待って。詳しく話を聞く前に、やっぱもう一発カマさせて」

 実際のところ、カードを取り出してから投げるまでの動作に待つという動作は一切必要ない速度だった。そのことを雪斗が指摘しようとした時には、パイナップル頭の男の手前で小爆発が起きていた。テーブルが二つに割れる。破片が男の頬をかすめ、血が垂れる。

「…おいおいおい、ブッ飛びすぎかお前。」

 一度ヤってしまえば後はなし崩し。形見の品を下らないことに使用することに対して、もはや躊躇いは生まれなかった。

「寝ぼけたこと言わないでよ。わたしは、あなたの知っている舞原アゲハなのよ?」

 況や兄はテロリストをや。

 舞原アゲハには自負があった。どれだけ目の前の男がばかで鈍くて愛おしい存在だとしても、世界で一番わたしの事を評価してくれるのは雪斗しかいない。わたしには兄がテロリストだという誰にも告げていない秘密があるけれど、それを抜きにして、世界で一番わたしの事を理解してくれているのはこの男なんだ。

 自負こそが、アゲハに冷めた態度を許す。認めてくれている人がいる、それだけの自信があれば、どんな不条理も見下して対処するだけの冷静さは生まれるのだろう。

 決して他の顔色を覗わない美学。すべてを日和見受け流す真骨頂たる自意識の礎。どれだけプライドを砕かれようとも、舞原アゲハは見下げ果てたプライドの瓦礫が上で立っていよう。

「―――そしてお前の兄貴は舞原翼、か。…今の爆弾、それもツバサさんの作品か?」

 秘密事に浸る余韻の中で油断していたところを、返す刀で投下された爆弾は、どこまでも辛い音を奏でてくれていた。大切な思い出が壊れていく音のように、めきめきと。

 なんだこいつは。まさか、知っているのか。そんなの!



 随分と昔に、世間を騒がせたテロがあった。ありがちに横紙破りと神風行為を愛する当時の知事が導入した合法カジノが、オープン初日に爆破されたのである。手口は「巧妙かつ大胆」という常套句に相応しい単純さとふてぶてしさが混在したものだった。

 それは舞原翼が犯したテロ行為ではない、ワイドショーが嬉々として語るような安い事件。

 乱暴に言うと、使用するトランプに爆薬を詰めたものを混入させるだけであった。だが、ただそれだけの手口が当時の日本を大いに騒がせた。

 カジノのカードは常に未開封のものを使用する。未開封の箱に異物が混入するカジノ。そんな場所、ギャンブル施設としては最低のレッテルを貼られてしかるべきだろう。

 だがこの事件は、不特定多数を狙ったテロが効果的であることを実証した新たな例となった。それはカジノを狙った顧客層が、ニュースを鵜呑みにし、さらに拡大解釈を得意とする世代であったことも大きかったのだろう。結果としてテロ後しばらくの間、合法カジノは「中毒者」以外は誰も寄り付かない状態となった。テロの目的はカジノ政策の否定にあり、結果としてカジノ運営の妨害に成功したのである。

 この事件には別の側面もあった。犯人がインターネットのコミュニティサイトに、中学生の自慢のような文体で犯行について記していたのだ。これが正義であると。

 ワイドショーを鵜呑みにする主婦並みに、ネットは情報操作が容易いのかもしれない。いつしかネット上では、「爆破支持層こそが愛国者」といった愚かしい論法に染まっていった。もしくは「時代錯誤の老害知事よりはテロリストの方がマシである」、との意思のすり替えか。

 それでもネットの世界はテレビでの世界と同様に現実離れしていて。また、テレビはテレビで、ニュースのコメンテーター達が最終的に「カジノ爆破事件のようなテロを防ぐためにもインターネットの言論は弾圧すべきである」などと真顔でヌカす愚の骨頂一色となっていった。

 話がどんどんとズレていったのである。

 全ては全方位に皮肉な話であろう。人々はカジノの合否では無く、テロの善悪について論議していたのだ。何とも、愚かしい。だが、得てしてありがちなのも事実か。

 こうして不特定多数を狙った悪質なテロでさえも、人々の思考は簡単に【事件】を他人事のカテゴリーに追いやっていく。そうして今では何もなかったかのように、合法カジノは夜の静けさを無粋なネオンで照らしていた。まさに皮肉な話であろう。

 「愚かな人間は、優秀な人の三倍は目立つ」、この事件について、舞原翼が日記に記した一文である。この一文、ツバサがテロリストであるという事を知った上で生まれる解釈。

 ―――『おれならもっとうまく、世論を誘導するテロをした』。

 後に全ての真相を知ったアゲハ自身、当時を振り返えると、日本中がバカだった気がする。しかし人はまだまだ愚かになれる生き物であることをアゲハは知っていた。

 人に、限界などない。

 それは舞原翼が犯したテロ行為ではない。だが、カードに爆発物を仕込むという手口から察するに、きっと兄がどこかで関わっていたかもしれないテロのお話。

 兄の翼がテロリスト紛いの真似を繰り返していたことを知ったのは、その死後だった。遺品を整理していた時に、つい兄の日記を読んでしまったことが岐路であろう。

 ツバサ自身が直接手を下したとされるテロ行為は、さらに過激でどうしようもないものばかりであった。たとえば豪雨で緩んだ地盤の山に爆発物を仕込み、土砂崩れを起こす。そうする事で、ニュースにならない程度の被害だった集落は壊滅的な状態まで追い込まれるが、結果として義援金を募る活動が日本中で巻き起こり、国からも多額の給付金が支給されたという。もし何もなければ、現実的な天災として、特に何もなく被害者たちは泣き寝入りを余儀なくされていたところだろう集落。それがテロにより、人々は失うものをさらに失い、得るものを得ていた。それは間違いなく偽善の暴挙。しかし、もしそれで救われる人がいるという結果が確定しているのであれば、やるだけの価値はあるだろうと後になってなら言えるかもしれない。

 「真に迫るテロとは、テロであることを気付かせないものだ」、兄が犯した一度目のテロの前日に書かれてあった一説である。

 翼に自身の主義や主張などは無かった。国家や民族、人種や宗教に言い訳を求めず、自身の悪を理解して犯行を繰り返す。新聞などで読んだ幾つかの事件について兄が暗躍していたという事実には、遺品という揃い過ぎた証拠からも嘘臭いほどの信憑性があった。

 常にどこかで、連鎖した結果に目的を求めるやり方。そのための手段はどこまでも外道。それでも救われる人がいるなら、きっと大殺戮すらも辞さない論外が兄だった。闇に葬り去られた悪事を明らかにするために、その真相が全て表に出るような事故を起こすような悪党が兄だった。日記の内容がすべて正しいならば、ある殺人事件の事実を世間に知らしめるためならと、人をも殺しているらしい。

 兄の死の真相は知らない。書類上は足を踏み外しての事故死と処理された殺害現場。だが、そこに残された、惨劇のメッセージ。その死体にはっきりと刻まれた、【誰か】がいなければありえない外傷。

「実はお前の兄貴、ツバサさんが生きているんだ」

 それは暴言だった。死者を愚弄するとは正にこのことで、死者の死者たるアイデンティティを奪う発言を許しては、決してならない。

 アゲハは来訪者の為に淹れた茶を、湯呑みごと壁に叩きつけた。湯呑みは鈍い音を立てて壁に衝突したが、砕けるまではいかなかった。ただ壁の傍らに積まれた洗濯物が台無しに濡れる。

「ツバサ兄さんは何年も前に死んだわ。死んだ人は生き返らないのよ」

「死んでいる人間でも、生きている人を殺すことはできる」

 死んだはずの大切な人が生きているかもしれないということ。それは余りにも安い言葉で、それでも縋り付きたくなる自分にまた反吐が出る。

「何それ、意味わかんないんだけど」

「…ツバサさんと狂哉が共犯だった、と言えば理解るか?」

 また嫌な汗が背中を湿らせる。そういえば、今夜は飲み会帰りに色々とあった。着替えたい。シャワーを浴びたい。もういいや、下着も脱ぎ散らかしてベッドにダイブしたい。―――だからお願い、お願いだから、わたしの信じているものを壊すことから話を始めないで。

「…あのツバサさんが遺したヤバいものを、狂哉の奴が完成させちまったんだ。それで奴はヤバイことをしようとしている。だから止めるのを手伝え」

 片倉雪斗は、現実逃避を許可しない声色で結論を先に語った。そうやって逃げ道をふさぎ、話を聞くしかない状況を作るために。

「ずるいね。わたしが引っ掛かるフレーズばっかりじゃない」

 雪斗が語ったのは、本当に安い筋書きで陳腐な物語に過ぎない。だが、涙が出るほどアゲハにお似合いの下らなさ。それがしっくりきすぎていて、無視することもできなくて。

「そのカードを持ってるってことは、お前もツバサさんの活動を知ったわけだ」

 活動とは見事な日本語で来たものである。つまりはそういうことで、この男は兄の暴挙を知っていて、ここにいるということ。悲しいほどに安い現実。

「ツバサさんは、沢山のおもちゃを作っていただろ?昔のお前は、日曜大工ごっこだと勘違いしてたみたいだが、今のお前も知っての通り、相当やばい個人で代物を作り出す頭脳があの人にはあったんだ。そしてヤっちまう行動力も、な」

 真実は私だけが知っている、ではなく。本当は、私だけが知らなかったという事実。

 よく人は、残酷な物語を喩えてホラーと云う。だが、恐怖の本質とはいつだって単純な悲劇。悲劇は一線を越えると喜劇になる。そして喜劇の本質こそは、やはり恐怖にあるのだ。

 新たな事実がひとつあれば、人の心は簡単に打ちのめされる。

 アゲハは、笑顔を浮かべていた。残酷すぎて、悲しすぎて、笑えてくる。どこまでも、乾いた心が歪にひび割れていく感覚。あぁそれでも、これさえも幸せというのだろうか。想像で確信していた真実。別目線の人間の口が語る真実。真実を知れて嬉しいと思ってしまうこの想いは、もしかしなくても罪なのだろうか。

「兄さんのこと、雪斗はいつから知っていたの?」

「ていうか、あの人が目覚めたきっかけが狂哉のばかだからな。おれ、たまたま居合わせちまったんだよね、始まりの瞬間ってやつに」

 割れたガラス窓から、夜風が入り込む。アゲハの長い髪を、下世話に撫でる。

「それは、いたたまれないね」

「あぁ、いたたまれなかったな」

 人が人生を過つ瞬間を見てしまった。それは、どれほどの経験だろうか。

「じゃあ、兄さんの死について…」

「いや、すまんがそれは知らない。おれも、狂哉のヤツからツバサさんが事故死したって聞いていなければ、今でもどこかであの人はテロテロしてるんだろうって思ってたろうさ」

「そう、なのね」

 兄の死については詳しく知らないであろうその口ぶりに、よかった、とは口に出せなかった。知らない方が良い事実もある。思い出しても狂っている、あの兄の遺体。書類上は足を踏み外しての事故死と処理された殺害現場。そこに残された、惨劇のメッセージ。電車に吹き飛ばされてバラバラにされた兄と、肘から先が無傷で発見された右腕。握りしめられた携帯電話。電車に撥ねられたとされる人間が握りしめていた無傷の携帯電話。残されていたメールアドレス。舞原アゲハの名前で登録されていた、知らないアドレス。つまりそれが手掛かり。

 怪しいと疑うだけの理由は積まれていて、それでもアゲハが動けなかったということ。復讐の為に、兄の死を追うだけの勇気がなかった。アゲハにはアゲハの生活があって、その時間と金銭を費やして、霞のような真実を追うだけの勇気が無かったとも言える。

「最近知ったところさ。あの人がまさか、電車に轢かれて、なんてな」

「そうね。わたしも兄さんがまさかってだけで、何かを知る度にどうしようもしなかったよ」

「俺たちってそんなんばっかりだよな。後になって知って、すげぇ後悔するみたいな」

「…いつも見事なまでに踊らされてきたものね」 

 二人は同じ人間のことを考えてため息を吐く。

 ―――【トラブルメーカー】北原狂哉。

 いつだって、物語の中心にいたのは北原狂哉だった。いつだって北原狂哉は【トラブルメーカー】として物語を振りまいて、周囲の人間を巻き込んで混沌の舞台を作り上げてきた。

 何かしらの解決はいつだってアゲハや雪斗たちではない誰かが与えてくれた。ただそれに乗っかってハッピーエンドを迎えてきた過去。だが幸せな結末の本質は、手出しできない恐怖であり、やはり喜劇であり、つまり悲劇である。人生はそこが残酷、なのだろう。

 無力感とは幸せをベースと比較して苛む感情であろうか。巻き込まれた人間がどれだけその場に相応しい人間として振舞おうとしても所詮はごっこ遊び、中心の世界には届かない。

「本当に、色々なことがあったよな。おれらの人生は、思い出しても後悔ばっかだけど」

 アゲハは黙して頷いた。これでも悲しいほどに腐れ縁、慰めの言葉など尽きているだけの、残酷な友達付き合いを続けてきた。

 あれは舞原アゲハが幼稚園児の頃。少女は少年達と出会い、少年が遠足先の山で掘った穴から白骨死体が出土する。そこからまさか更に酷いことを目撃することになるとは!

 あれは舞原アゲハが小学生の頃。少女と再会した少年達は、体罰を繰り返す教師を罠にかけて社会的に追放した。そこからまさか更に酷いことを目撃することになるとは!

 あれは舞原アゲハが中学生の頃。とあるレスラーの事故死が殺人だと看過した少年達が、なぜか学校を占拠する暴挙に出る。そこからまさか更に酷いことを目撃することになるとは!

 あれは舞原アゲハが高校生の頃。罰ゲームで友人がやらされていた番長ごっこ。それがきっかけ、街中を巻き込む惨劇が。それがまさかさらに酷いことの始まりに過ぎなかったとは!

 あれは舞原アゲハが大学生の頃。再会した友達は教育実習の為に戻ってきた母校で、子供たちの悪企みに手を貸していた。それがまさかさらに酷いことの始まりに過ぎなかったとは!

 これは舞原アゲハが社会人をしていた今日この頃。襲いかかる茶番を乗り越えた先で懐かしい人と再会を果たす!ああもう、どうせコレもまた酷いことの始まりなんだろう!←new!

「幼稚園児の頃から、色々あったよな。小学校の時に俺は先頭を切れず、仲間を矢面に立たせちまった。中学の時には、あれだけしても結局肝心なモノは守れなかったっけ。…高校の時には、色んなもんを裏切っちまった。大学になっても見殺しばかり。………もう、辛すぎるんだよな、そういうの。やり直せないとかそういうの、流石にイヤなんだわ」

 人生に後悔は多い。―――わたしを選ばなかったのは、きみの後悔に入らないんだね。

「だからって、詳しい事情も話さずに、普通ここまでおんなのこを追い詰めたりする?」

 言いながらアゲハは、可愛らしく上品な幾何学模様のハンカチで縛った手をかざした。止まった血が、赤黒く凝固している。

「つうかアゲハがそういう奴だから、やっぱり仲間に欲しいんだな。そうやって自分の感情を隠していざという時に動けるお前だから、自分を演じられるお前だからいいんだよ。これから狂哉がヤろうとしてるごっこ遊びに対抗するには、お前ってやつがマジに必要なんだよ」

 そんな言い方ずるい。自分のダメな所をそうやって褒めてくれる、その言い方。ずるい。

「あと可愛らしいだけの量産型で廉価版みたいな女だったら、いざって時には気を使わねーといけねぇ。そこんとこ、お前なら気を使う以前に普通に頼れる事を知ってるからな」

「本当に、ずるい奴だね、キミは。普通に、とかの言葉を混ぜて徹底的に私のプライドに揺さぶりかけるなんて。私のこと振った男のくせにさ」

「…手は尽くす。俺に出来る真似事は全知全能ぶることじゃないからよ」

 計算されて言われた言葉たち。そうまでして言われた言葉を嬉しいと思ってしまう愚かな自分。本当に、おんなごころが終わっているのかもしれない。

 突きつけられた取捨選択。大切なモノを捨てる選択肢でもいつだって二者択一。大切なのは選ぶことではない。その答えをやり抜くこと。選んだ答えを如何にしてやり抜くか考え、完遂することである。答えの結果があって、選択には価値が生まれるのだ。

 今日、アゲハは何回溜息を吐いただろうか。それでも、吐いたことで顔が上がる溜息は、今日初めてかもしれなかった。

「…わかったよ、今日の事は私に状況がヤバイ所まで来てるって理解させるための荒療治だったって理解しとく。本当はそれじゃ駄目なんだろうけど、そうする」

 今宵の出来事があって、どれだけの人の人生が歪むのだろうか。心に傷を負ったストーカーや、コンビニ強盗、安いナンパ男。どんな理由があれやらかした以上は自己責任だと全てを片づけてしまうのは、いささか乱暴が過ぎるだろう。だが、それでも所詮は他人の人生だ。友達の人生には勝らない。劣る。だからアゲハも冷徹で冷酷に、偽善ぶった論理の言い訳を探す真似を止めた。

 今はただ、もう少し状況を把握する努力をしよう。

「だからぜんぶ、はなして」

 舞原アゲハは理解していた。自分に素敵な物語がやってくることが決して無い事を理解していた。だからこそ、身の丈に合った人生の中で生きていくのだ。膝をつくだけの物語なら、心も折ろう。地べたを舐めるべきならそうしよう。それでも、それが何事もないかのような冷血さで立ち上がろう。祈りを願いに変えて。未来を確かな憧憬に。わたしのすべてをあなたに。

 明日が決して笑ってくれなくても、まずは無様な自分を笑うことで余裕を気取ろう。

「ちからになれることがあるなら、わたしも協力するから。だからぜんぶ、はなして」

 みるみる目の前の男が悪い顔に歪んでいく。―――ああもぅ、大好きな顔を見るのは、たまらなく辛いな。そんな悪い顔がたまらなく好きな自分はもう本当に駄目だな。

 雪斗は人差し指を立てて、言葉を綴った。

「…簡単なことさ、今回のトラブルはこうだ。俺らの良く知る男が偉大なテロリストの遺した技術からとんでもないもんを作り上げちまった。その発明は命を狙われるに値するだけのヤバさで、結果として本人もヤケクソになって何かヤバイことを企むに至る」

「兄さんの遺した技術、ねぇ」

「オレ達がすべきことは、全てがまだ取り返しのつくうちに、止めることだ」

「何を止める、なのかしらね。命を狙われた狂哉くんが何かをやらかす事を?それとも、狂哉くんの命を狙う人を?…それとも、まだ何かあるのかしら」

 当然まだ何かある、のだろう。そしてその何かとやらに、アゲハも見当が付いていた。【静嶺セツナ】、頭をよぎったその名前はいつだって狂哉という存在と相克する。

「…わかっているだろうが今回、【セツナ】はいない。問題は俺らが頼れる名探偵キャラを抜きにして、それも事件が発生する前に全てを丸く収めなきゃいけないってことなんだな」

 静嶺セツナ。二人にとっても古い友人にして、最も頼りになる存在だった仲間。幼少の頃から現在に至るまで。数多ある洒落にならないトラブルを乗り越えて、今もこうしてアゲハが日常に至れている理由が、セツナという【存在】に依る。

「…そっか、そうだよね。セツナ抜きに、狂哉くんのトラブルに挑むなんて、これまで無かったものね」

 静嶺セツナこそは、生涯に渡る敗北感をアゲハに植え付けた、それでも譲れない大切な友達であった。

 たったひとつの冴えたやり方を見出す能力に長け、それ故に命を落とした才媛。その存在を、名探偵と言えば聞こえはいいだろう。だが、静嶺セツナの本質はそうではなかった。それは、それも純度100%の悪意。生粋の悪意を持って善意と成し、あらゆる悪意を相殺する存在。

 愚かな人々は名探偵の立ち回りを持って事件を解決と呼ぶが、事実を知る者の思いは違う。共に必死になって悪意を形にする手段を捜す者たち。ならば、名探偵や真犯人という存在に差異は無い。どちらもが人の悪意を想像し、時にひたすら殺す手段を探す賢しいだけの人間たち。故に、救い手たる冴えた存在こそが何よりも純度100%の悪意を孕むのであろう。

 現実に茶番のような善意溢れる名探偵が存在しない理由はそこにある。悪意は悪意をもってのみ相殺されるのだ。ならばそこに、解決などという綺麗な言葉は存在しない。美しい解決を生まぬ名探偵などに、この世界が用を持つだろうか。

 静嶺セツナは誰よりも真理を理解していた。それは自身の生まれ持った才覚を、ろくでなさとやるせなさで苛め抜く自虐とも言える。故にこそ彼女は手段を選び、時には真実から目を背け、ただひたすらに現状を丸く収めることに尽力する存在。それは人の手に余る、奇跡の業ともいえるだろう。いつだって静嶺セツナは真相を無視し、解決以外の手段で全てを収める不条理であった。そうして汚れ役を厭わぬ姿勢故に仲間たちの信頼を得る女性の末路は、悲しいものになると相場は決まっていて。

 最終的に己自身の存在すらも、見出したたったひとつの冴えたやり方の駒として相殺した、愚かしいまでのサクリファイス。現実はいつだって、誰かの犠牲故に心の世界を決着させる。

「それで、これから狂哉くんは、兄さんの遺した技術とやらを完成させて、このセツナ無しの世界で、一体どんなトラブルを巻き起こそうとしているわけ?」

 北原狂哉。アゲハや雪斗たちの若い人生の中で経験した数多の事件を呼んできた迷惑極まる諸悪の根源。つまり、【トラブルメーカー】。

「これからどんな事件が起きるかを推理するなんて、そんなの名探偵にもできやしねーよな」

「本当なら、事件があって初めて物語が始まるんだものね。あぁそういうこと。わたしたちがしないといけないのは、そういうことなわけだ」

「ああ、そういうことなんだ」

 本当の意味で、物語は始まっていなかった。アゲハに今宵訪れたトラブルなどは所詮、作為的な茶番に過ぎない。だからこそこの物語は、物語を始めない為の戦いの物語となる。

 ―――たとえ、既に全てが手遅れのところから始まっているとしても。

「…何かが起きてしまったとき、冴えたやり方で納めてくれるひとがいないだけに、大変ね」

「ああ、でも本当はそれが当たり前なんだよ」

 陳腐を綴れば、さながら舞台は名探偵不在のミステリー。致命的なゼロ時間へ向かうまでに、カウントダウンに抗う為の無駄な抵抗。無力な人たちが有能を気取って振る舞う茶番劇。

 ごっこ遊び。

「ここに、現金に換算すると億に届くか届かないぐらいの現物がある」

「なにそれ」

「マジだからさ。大人のごっこ遊びは現実的じゃなきゃいけないだろう?今後の慰謝料や治療代含めても、若い女が腰を上げて人生を軽く棒に振る金額としたら上等なハズだ」

 この国は法治国家であり、故に違法には法外な金がかかる。きっと資本主義こそが、何より犯罪の抑止効果を持つ現実。すでに壊れてしまっている世界で踊れ。

「…わかった、出所は聞かない。私もバカな話に乗っかって、存分に腰を振ってあげる」

「嬉しいな、そうしてくれると助かるよ」

 その金の出所は聞かなかったのに深い理由は無かった。ただアゲハとて、現物が目の前で垂らされているというのに、チャチな感情ひとつで可愛い子ぶるほどの可憐な乙女では無いということ。無法の枷は資本の力で粉砕される。諦めていた復讐の刃は、札束によって磨かれる。

 もう躰から無様に垂らしていた汗は引いていて、冷たい血がいつも通りに全身を駆け巡っていた。静かに舞原アゲハは、久しぶりに会った想い人の顔を見据える。

「やるからには、やり抜くよ」

「ああ。最後の確認をする。…いいんだな?」

「打算の理由なんか、結局はお金で十分なのかもね。人生を棒に振るだけの理由は沢山もらったし。今日をまた、つまらない舞原アゲハの命日にでもしてみるよ」

「いいねえ、恥ずかしいほどに詩的で、だからこそ格好悪いおれらにぴったりで。お前も今日からは、大爆笑の舞原アゲハってわけだな」

 周りを巻き込んで笑って、大爆笑。それは仲間内だけが暖まることのできる、寒い言葉。

「そうね、精一杯に笑えたら最高よね」

 泣くのは1人でも出来る。だか、笑う事は1人では意味がない。爆笑ならば、尚更だ。だから、作り笑いでも仲間がいる限り、強がって笑おう。

「…でも、大爆笑の舞原アゲハは流石に酷い二つ名だな。次にそう読んだら殺すぞ、パイナップル頭野郎」

 カードが片倉雪斗の腹部に当たり、その衝撃で小爆発がおきた。

「…てめ、今こそ身をもってそのカードに殺傷力が無いのは理解ったが、これは死ぬるぞ」

 そうですね。でもこの兄の遺品、まだ在庫は沢山あるのです。

「後は誰に声をかけるつもり?」

「十河兄妹と静嶺妹で行こうと思ってる。早い話、【被害者の会】の初期メンバーだな」

 北原狂哉をと付き合ってきた古い仲間では自分たちを【被害者の会】と自虐していた。考案者は静嶺セツナで、何というか強烈な皮肉の響きがそのネーミングには込められている。

「三人も声かけるのね。それはまた、お金が沢山いるわね」

「あー、まぁそこは理由があって心配ない。まぁぶっちゃけ狂哉の金なんだがな」

 多分その金も、兄ツバサの遺した技術とやらに関係している。それがこれから起きるだろうトラブルの中心に座するのだろう事もアゲハは想像していた。金は天下の回りもの。大人になって経験するトラブルなんて、そんなものだ。まったく、金が中心に回るトラブルだなんて、つくづく色気が無い。

「これからどうするの?」

「狂哉に比べて俺たちは背負っているものが少ないと思うんだ。アイツは命を狙われて、そんで覚悟決めて無茶苦茶をしようとしているわけだからな」

「その辺の事情はまだ詳しく聞いていないね」

「あー、また順を追って追々話すよ」

 省略したということは、長い話になるのだろう。そういうのを後回しにする結論への急ぎ方はアゲハのよく知る雪斗そのものであった。いつだってこの男は、肝心なところで人を置いてけぼりにしてくれる。

「なんつぅかさ、何も背負っていない状態で正義面だけかざしても、イザあいつと対峙したら、どこか言い負かされて終わっちまう気がするんだ。たとえ全てってヤツを見抜けていてもな」

「…じゃあどうするっていうの?」

「まずは罪を精いっぱいに背負ってみようぜ。そうすりゃ後戻りもできなくなるだろう?」

「それはまた短絡的ね。ワイドショーの現実逃避な犯人像もびっくり」

「まぁその辺は、やり方次第さ。頭を使えばたぶん自殺並みの手軽さで人は死んだことにできる。例えば、船上で海中につき落とせば完全犯罪成立ってな」

「ふざけんな。そんな下らない筋書きで何ができるっていうのよ、冗談じゃない」

「必要なのは、ふざけた下らない筋書きなんだよ。なんせ狂哉が裏にいるんだからな」

 無法の枷は既に外されている。ならばこそアゲハの軽口もまた、既に決めた覚悟の表れであった。

「まぁ精一杯やらかしていこうぜ。たとえそれが罪だとしても、俺はやっぱり友達を守りたい」

 守れなかった人がいるからこその言葉。罪と罰、業と因果。廻り巡って人の営み。

「…安心しな、キミは既に罪な男だよ」

 人の業はどこまでも、果てしない。




 ―――一夜が明けて。

【あなたが小学生の時に犯した罪について、仲間たちと語り合いませんか】

 被害者の会の面々に届けられた、携帯メールの冒頭の一文である。その言葉の効果は絶大で、大人になった子供たちの心に影を落としている多くの事件を即座に思い出させることだろう。

「アイツは肝心な事はいつも黙る癖に、隠していた肝心がバレるとすげー喜ぶふざけた奴だ」

 あの夜、去り際に雪斗が残した言葉に、アゲハは沈黙で同意を示した。

 高校の頃、アゲハの周囲で不自然なトラブルが続いた事がある。いつの間にか売られた喧嘩を買わされている状況に陥っていて、毎日が不条理な日々であった小一カ月間。

 それでも性格上、アゲハは全てを明らかにしようとは動かない。ただ平常運転で、適当に不条理を往なす日々であった。

 しかし夏のある夕暮れ、ふと気がつく。裏に北原狂哉がいるだろうという事だけは理解していたのだが、不明だった「なぜ」の部分の真実について理解してしまった瞬間。

 全ての不可解はいつだって、パズルのように綺麗な黄金長方形のスケールを描く。明らかになった絵柄は、狂哉のアゲハに対する、真っ直ぐに歪んだ愛情であった。

 古今東西、自分の告白を相手に推理させようとするバカは北原狂哉ぐらいのものであろう。さらに顛末、謎を解いてもらえて満足そうにフラれたのだから、さもありなん。

 だが、北原狂哉とは、そういう男なのだから仕方がない。

 全てを賭けてくだらない事をする狂哉をアゲハも嫌いじゃあなかった。だが、やはり横に立つオプションとしてはどうかと思うのも仕方がなかったのは間違いない。

「変わってなかったな、雪斗。明後日の方向ばかり見て、明日に興味がない顔をして。私、視界に入ってたのかな」

 【被害者の会】の招集が久方ぶりにかかった時、アゲハはまるで仕事のような感覚で携帯を弾き、参加の返信をしていた。それが余りに事務的な仕草で、舞原アゲハ自身も、好きだった男に釣られて参加するとは思えないほどだった。気づけば笑みがこぼれている。

 だが、そこからこぼれた独り言は自身をフッた男の名ではなく、自身がフッた男の名だった。

「狂哉くん、まだ元気してるかな」

 舞原アゲハは、自身の行動を振り返り、慣れた様子でため息を吐く。

 好きだった男がいるからと参加する癖に、見苦しく思い出すのは自身が歯牙にもかけなかった男の名前。おんなごころが終わっている。それはとても面白い冗談だった。


 

 その人を知りたいと想う好きの気持ちが恋。その人を知って尚も想う好きの気持ちが愛。

 兄の命日に、ろくな鎮魂もできなかった一日の終わりに、ストーカー男に襲われて。そこから次々と愚かな茶番に巻き込まれる中で、十把一絡げにしていた失態。ノイズのように耳障りな違和感は、決して無視を決めてはならない存在について。

 考えれば気づけた勘違い。違和感。矛盾。

 自らの携帯電話を置いたアゲハは、乾いた喉を癒そうとして冷蔵庫を開けた時、奥に信じられないものを見ることとなる。全てが全て、ひとつの悪意で動くわけではないということ。

 どこかで見た木偶人形が、隙間だらけの冷蔵庫の奥にいた。その傍らには、血生臭い肉塊。

 ―――冷蔵庫特有の照明に照らされて、木偶人形と血が滴る【右腕】。

 肘から先を失った腕に握りしめられた、点滅する携帯電話。そして木偶人形に刻まれた血文字、『愛しのロペスピエーロから愛を込めて』。

 処刑道化は高らかに、嘲る者の座を譲らない。暗く冷たい冷蔵庫の中で、主を失った右腕に握られていた携帯電話の画面表示は、アゲハにも見覚えがあるものであった。 


【あなたが小学生の時に犯した罪について、仲間たちと語り合いませんか】

 

 あのピエロは本当に舞原アゲハのよく知る北原狂哉、だったのか。

 あれは誰だ。この被害者は、誰だ。


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