54

 が起きたとき。ウォレス・シェヴラテインは惰性で前進しており、人が歩くようなスピードまで落ちていたが。軽く唸りだしたエンジン音に気付くよりも、背中が「ぐぐっ」と。シートバックへ押し付けられるのが先だった。


「……ッ!?」


 慌てた僕は。右へと回しかけたハンドルを止め、さらに踏み込んだのだが。シェヴラの側もスピードを上げ、赤になりかかった信号も、二本目の一方通行路も、あっさり通過して。調子いいバラバラ音を奏でながら、スローダウンする様子を欠片も見せなかったので。何かをしたのだと、否応なく気付かざるを得なかった。つまり、要するに……


(ああ、踏み違えてるit's pedal error!)


 何という……ノヴァルの「意図せざる加速事件In re Unintended Acceleration case」訴訟スタッフ(の端くれ)として、あり得べからず失態だ。(頭の中の)ビルやロージーたちが、ゆらり。ゆらり……と、こちらに顔を向けて。「どういう事よ?」「信じられない!」というふうに、心の底から呆れて。訝しみ、咎めるような視線を突き刺さしてくる。肩身がぎゅっと狭くなっていくのを覚えて身震いした。おそらく――だが、あまりに長いこと惰性だけでユルユル流していたために。右足が載っているのはアクセルだというのに、いつの間にか脳みその方が。「ブレーキである」と、勘違いしてしまったのであろう。シェヴラの運転に慣れてきたので、右足の「選択」は頭に残らない。でも、無意識だって間違いをする……というのは言い訳にもならなかった。

 それでも、かなり早く判断できたほうだと思う。0.5秒ぐらいだろうか、迷わずアクセルから離脱した右足は、ブレーキを踏みかけたところで凍り付いた。


「おおお落ち着け、まだ車速はじゃない。前の車も加速しているし、簡単には追いつかないぞ? それより、このままアクセル・オフで行けば……あれっ!……なっな、何故だ?!」


 「二番目」の事象は、状況が判りにくく。したがって、やってくる衝撃はゆっくりだったが、はっきりと恐怖を覚えるものだった。どんどん上り坂になっているのに、あまり速度が落ちないのだ。、としか感じられない。上半身がどんどん寒くなってきて、焦りがさらに酷くなった。


「こうなったら、足でペダルを戻して……って、これ……戻ってるじゃん!」


 つま先をペダルのに突っ込んでみたが、ほとんど浮き上がらなかった。というか、突っ込めること自体……アクセルがフロアの何かにハマり込んではと示しているではないか。


「というか。は、は、反応してない?」


 つま先を引き抜いて、軽くアクセルを踏んでみたが。エンジン音は一定のまま、車の挙動にも変化が感じられなかった。ほんとうに全く。ええ、…………。


(だとしても、何故だ……これ、んだぞ……同じぐらい苦情の多いトーボでもないのに!)


 僕の身分では間違っても聞かせられないような考えが、頭の中をぐるぐる巡る。写真でしか見たことのない原告……生き残った側のブックホルドさんが。病院のベッドから包帯だらけの上半身を起こして、こちらを見ているような気がした。おかしくなったECMの中で、『幽霊』が仮想のアクセルを踏んでいるとして。およそ三分の一から二分の一ぐらい?……であるのは、せめてもの幸いで。この坂が終わっても、制限速度以下で巡行するぐらいだろう。しかし、


(この先で、左カーブがくる!!ああ、もうブレーキをしないと……!)


 しかし、何でだったか?……絶対に、気がして。宙に浮いた右足が、ぶるぶると震える。頭の中ではバイエル証人が演説していたが、早口で聞き取れなかった。いっそ、パーキング・ブレーキを……とも考えたが。原告の運転手……ブックホルドさんも、あのキャブラでパーキングを使っていて、助からなかったことを思い出してしまった。ぐぁあ。いったい、


(どうしたらいいんだ?……も、も、もう)


 始まってしまったカーブに合わせてハンドルを切ると。お尻のあたりから「このままだとスピンする」感じが沸き起こってきて、反射的にハンドルでした瞬間。


(うわぁああ、何だ?これぇ!!!)


 激しい振動とともに。後ろへ飛んでいく車窓の景色が、なにか異常な動きに変わり、フロントガラスの向こうをガードレールが横へと流れていく。


(もしかして、横滑りdriftしてるのか?)


 車線上から外れなかったのは奇跡といってよかった。瞬きをする間もなく、正面に消失点が戻ってきて。その後は、まっすぐ走るだけとなり。暫くはそのまま行けそうだったので、寧ろ。周りのドライバーからの視線が気になってきた。


「ああ目立ってる。そりゃ、大技かましちゃったし……」

『そうそう。残念ながら、最近の車では出来なくなってるんだ。』


 と、ビルが(頭の中で)応じた気がして、無意識に計器盤インパネをみたところ。「ESC」とマーキングされた警告灯が点灯していた。


(何だっけ、これ?)


 とてもでもないが、ナビゲーション・システムで取扱いのマニュアルを調べるなんてできないから。思わずしまった。


「何が起きてるにせよ、イベント・データ・レコーダEDRには残るよね……」

『衝突間際のペダル操作はね。2005年式ではすら録っていなかった。現在でも、EDRへの記録義務がない範囲というのはあるよ。……というか、エアバッグECUが衝突を検知しない限り、新しいデータで上書きされていくからさ。その意味でも残りにくい。』


 と、また。頭の中のビルが返事をした。


「EDRに残らなくても、自動診断の障害コードDTCsに残らない?」

『何回か起動すると、再現しない障害コードは自動的に消去されるらしい。正直、そんな仕様は腑に落ちないが……コンピュータって、そんなもんなんだろう?』


 そういえば、「ノヴァル側が事故車のEDRを改ざんした!」と攻撃された事件が、MDマルディ訴訟のなかにあった気がした。ノヴァルの技術者が、原告側の立ち合いなしにEDRを取り外し、データを読みだしたかららしい。そういう話が本当なら。たとえこの難局を脱しても、テクニカルセンターの手に渡れば。すべての記録がクリアされて、何にもことになりえるのでは?……と。


「何を考えているんだ、だいたいシェヴラテインの製造者はウォレスだろ。ノヴァルでするわけが」

『ウォレスへの出資が実現したのは、あの国が、先進国レベルの排ガス規制の導入・履行に応じた見返りだったという話でな。』


 頭の中のビルは、べらべらと喋り続けて止まる気配がない。なんだこれ、走馬燈soumatouなのか??……ビルの走馬燈とか嫌だよ!


 ――ようこそ、T州へ!――


 州境を超えたらしい看板を目にして、思い出した。確か、タイツォータさんだったか、このあたりに連邦軍の非公式施設があるのだと。といっても、戦闘機や戦車が配備されている基地とかではなく、インターネットを飛び交う通信パケットを極秘に収集しているデータセンターなのだと……いった、噂を裏付けるかのように。


 ――テロは決して許さない!!――


 という看板が流れていく……と同時に、辺りがすぅっと「薄暗く」なってビクッとした。雨雲の下に入ったわけではなく、たった数平方メートルのが日向に包囲されている。別の言い方をすれば、「点滅する影」がシェヴラに追いすがっていたのだ。のしかかるように重苦しい轟音が、ドドドドド……と降り注ぎ、さらに後方からは。不愛想な形の四輪駆動車が何台も、ヘッドライトを点灯させながら追いすがってきていた。


「ヘリコプターに……あれは、軍の車両では?」


 すーっと、肝が冷えた。

 まさか、は。

 この車を……

 自動車爆弾の……

 『自爆テロ』だと?


「……ち、ちがう!ちがう!」


 想像を超えた展開でパニックになっている僕に、ビル(の走馬燈)は容赦がなかった。


『当然、系列のサプライヤーから、排ガス処理技術の供与も受けられることになる。ウォレスとすれば、願ったりだと思うだろ? だが、あそこの社長を知っている者からすれば(フフン)嫌々だったんだろうなぁ……と思うのが正しい。実際、サプライヤー側は何時でも三元触媒やら何やらワンセット売り込める立場にいたんだ。いままでは規制がないも同然だったから、ウォレスは見向きもしなかったわけさ。』

「黙ってよ、ビル!」

『まあ、そうなると。後処理のほうにあるセンサー類の出力で、エンジンを制御することも必要になる。ウォレスとしては、車の中をコンピュータやらネットワークやらで一杯にするのは嫌だったんだろうが……重くなるし……まあ、そうも言ってられない。何しろ目の前に「ステイツ進出」という餌がぶら下がっていたからね。そして、ステイツの……排ガスだけじゃない様々な規制への適合には、サプライヤーのお仕着せでない横滑り防止やら電制スロットルやらを技術移転してもらうのが。何より手っ取り早いだろ?』

「あぁもう……」

『だから応じたんだ、ノヴァルからの出資にね。』


 ……うるさぁい!と、(頭の中で)ぶつけようとして。驚きで固まった。


 いま、何と?

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