第十話 「助けて」
ミスティがこの世界に現れる為通る陽炎の扉。それを意図的に開くことが出来るのはオーナーのみである。
ミスティが開くことは出来ない。彼らがこちらの世界に来るには、オーナーと共生するか、偶然空間に開いた扉を通るしか方法はない。故に、一度こちらに現れたミスティが元の世界に戻れずこちらの世界を彷徨うという状況が発生することもざらにある。
そして、オーナーの身が危ないと分かっても、自律的にこちらへ現れることも出来ない。
突然危機に見舞われた人間が、状況への対処と同時に陽炎の扉を開くという意識を思考に上らせるには若干の慣れが必要であり、桜井輝燐はそんな余裕もなく電撃を受け意識自体が朦朧となった。
バチンという衝撃とともに体がビクンと跳ねる。膝から力が抜け、体が傾いだ。
頭の中は真っ白で、目には暗い笑みを浮かべた男の顔が写っている。
それと、ゆらりと揺れる、陽炎が。
しかし、陽炎の扉を開くのに、その行為を意識に上らせる必要は必ずしも無い。でなければ、そもそも最初の召喚自体が不可能だ。
ミスティの召喚は無意識でも成立する。
たとえば、危機に対する防衛本能。
思考は回らなかった。
しかし気絶には至らなかった。
故に、本能が働いた。
反射が、無意識が扉を開く。
「きいいっ!」
怒りの感情を露わにした青いぬいぐるみのようなミスティがすうっと大きく息を吸う。
「!? ミスティ――」
バンッ
机に手を着いて床に倒れこむのを防いだ。その音に男が反射的にこちらを向く。
「きっ!」
その隙を突く形で光球が男の身体を直撃した。
「ぐああっ!?」
衝撃に周囲の机を巻き込んでもんどり倒れる。
「はあーー、はあーー」
息が大きく乱れている。体が痺れて痙攣が止まらない。冷や汗が気持ち悪い。
床に倒れてる男は――どう見てもボクらの担任教師、牧野先生だった。
「どう……なって……」
「い……
呻き声。男――牧野が顔を上げる。鼻血を垂らし、その眼は血走っている。
「
「なっ」
その言葉で混乱があっさり吹き飛んだ。痺れる身体に鞭打って、二本の足で立ち上がる。
「なぁにが教師だぁっ! 人にスタンガンなんか向けてっ、フルボッコにしてやるっ!」
「くそっ、てめえはただの人質だろうが、手間掛けさせんじゃねぇっ」
口から泡を吐きながら呪詛を投げかける。こっちの言葉を聞いてない――上等、叩き潰してやる。
「だが――」
と、ちろりと視線がボクからわずかにズレた。視線の先を見遣る。そこにはさっき光球を放ったぬいぐるみ。
ヤバッ……いや、待て。
ボクのほうにもようやく冷静さが戻ってくる。こいつは、さっきなんて言った?
ミスティ?
「考え方によっては……クク、手土産が増えたってことじゃないか、なあ桜井」
牧野が緩慢な動作で身を起こす。平行して、ゆらりと、空間が揺らめいた。それも――大きい!
マズイ!
ボクのミスティの体を引っ掴んで背後に飛び退る。
「後悔するといい、そんなリトル程度で教師に楯突こうとしたことをな」
ズン、と。出現と同時にその重量で机が踏み砕かれた。
足の短い四足獣、象ほどの巨体に厚い剛毛、鋼の如き強固な下顎、頭から象牙のような角。顔をブルリと振っただけで机も椅子も蹴散らされる。
それで十分。今までボクの見たミスティがとても可愛いものだったという事を思い知った。
「ブルエーウゴ」
「ブル……」
その名を呼ばれたのだろう牧野のミスティはギチギチと下顎を開く。
「シュートスピアー」
「ブルファアア!!」
その咆哮と共にブルエーウゴの口から四本の円錐状の物体が発射された。鋼のような材質に見えるそれは、柄の無い
「……!」
一も二もなく、ボクらは教室を飛び出した。
このとき、ボクは気付かなかった。
周囲に立ち込める橙色の霧と、牧野の嗜虐的な笑みに。
新学期に入ってから時間と機会がなかった。たまたま今日はその時間があった。
武道場で剣道部が竹刀を振る片隅で汗を流していたのはその程度の理由だった。昨日サボった生徒会役員を、結局昼休みのうちに捕まえられなかった鬱憤を晴らすためでは決してない。
身体に染み付いた型を繰り返し、気付けば下校時刻。普段生徒会を終える時刻と遜色ない。
やっぱり一人だとやれることに限界がある。組手をしようにも、その唯一の相手には先約があった。
これがただの自己修練なら一人きりであることに不満を漏らすほうが間違っているだろうが、私にとって空手――部活とは趣味の範疇にあるもので、できるなら楽しいほうがいい。
……なんで剣道部があって空手部が出来ないのかしら。
己が心身ともに磨かれる達成感と爽快感、それを理解出来る人が少ないことが残念でならない。そういう意味では剣道も同じなのだが、
こればかりは仕方ない。私にとって、剣は最早『道』足り得ないのだから。
下駄箱へ向かう。ちょうどその前、広く階上まで吹き抜けるエントランス。ただ通り過ぎるだけなはずだった私が足を止めた
「…………」
目を閉じ、力を抜き、音を身体の中で反響、増幅。
軽量……金属……空洞……衝突……転倒……多数…………中心……………………声。
「――あそこ」
目を開け始動。騒音の発生源に当たりを付け、階段を三段飛ばしで駆け上る。
確か、あの場所は、
「桜井の教室」
空手部の後輩。他にも一年生で付き合いのある生徒が集中してる。藤田に乾。そして転校生、周防。
トラブルの種になりそうな面子ばかりが浮かんだ。
数十秒で問題の教室に辿り着く。勢いのままに扉を開いた。
そこには、
将棋倒しになった椅子と机、
それだけだった。
なんだ……これッ!?
教室から逃げ出し、すぐに第三者の姿を探す、あるいは学園から逃げ出す。
つい数日前のこおりちゃんと似てる。あの時は情けないとか言ったけど、打つ手が無い、本当の意味で逃げてるボクのほうが情けないに違いない。
そして、やはり数日前と同じように、失敗した。
誰もいない。
そして出られない。
学園からじゃない。霧から出られない。
いつの間にか周囲は霧に包まれていた。それも橙色の霧。明らかに普通じゃなく、咄嗟に口を押さえたけど、現状身体に異常は無い。視界を遮るほどの濃度でもない。だから、とにかく脱出を優先することにしたのだけど。
ある場所から一気に密集して向こう側も見えないほど濃くなっており、そこから向こう側へ進めない。触れるものなんて何もないのに、見えない壁にぶつかったみたい。なんとか外に出れる場所を探そうと校舎を走り回ってみても、完全な無駄足だった。それは完全に校舎の中を覆ってしまっている。
「なんなのさ、この霧……ッ」
間違いなく、あの牧野(もはや「先生」と呼ぶ気はまったくない)が関わってるんだろうけど、と考えたところで思い出した。
こおりちゃんも、遠見会長も、ミスティの事を『霧に棲む生き物』と呼んでなかっただろうか……?
「当然のように話してるからスルーしちゃってたけど……」
それに、確かあの日、あの黄昏時にも、金色の霧が……
カツ、カツ、
「!」
足音。人っ子一人見当たらない空間で。
壁一枚隔てた向こうから聞こえてくる。
教室と廊下。扉を開かれたらあっさり見つかる。
『……さっきまであちこち走り回ってたはずなんだが……隠れたか?』
拳を構える。開いた瞬間、打ち抜く。手加減は、無しだ。
……ボクの本気は、今傍で息を潜めているミスティの光球より強い。あれで相当体を痛めてたように見えたから、こおりちゃんみたいな頑丈さはない。優姫先輩みたいな技も無い。確実に、倒せる。
殺せる。
「……ッ」
息が乱れそうになる。抑えろ。気付かれたら、あのミスティ――ブルエーウゴだったか――が突き破ってくるに違いない。
アレに通じるか? わからない。少なくとも一撃で倒せるほど甘くないだろう。対してこちらは生身、一撃でお陀仏だ。
オーナーへの初撃決着。それ以外に勝ち目はない。
でも、殺せるの? ボクが? 人を?
殺さなければいい。気を失わせる程度の力で打ち込めばいい。それが出来るのが、ボクが学んだ空手だ。
けど、しくじったら? 意識が残ったら? ミスティに命じて、ボクを殺すんじゃ?
殺さなければ、殺されるんじゃ?
視界がグラグラ揺れる。目が回りそう。吐き気で倒れそうだ。
意識が朦朧としかけて、
――大丈夫?
その声でハッと我に返る。
「大丈夫」
答えてから、ようやく廊下に誰もいないことに気付いた。完全に独り相撲を取っていたことに呆れて溜め息を吐く。
……って、え?
「今の声……?」
きょろきょろと教室中を見回す。当然と言うべきか、ボク以外に人なんかいるはずもない。いるのは青いミスティが一匹――
「きい?」
いつも通りの鳴き声。
「……幻聴かぁ」
よっぽど追い詰められてたんだなぁ、ボク。
まあ、人を殺す殺さないの選択なんて生涯経験する類のものじゃないしね。と、同居する少年の顔が浮かぶ。彼なら、どちらの選択を選ぶんだろうか。
訊いてみたくもあり、訊くのが怖くもある。どっちみちここから無事帰れないことには――
「……携帯!」
ポケットよりおいでませ文明の利器!
ソッコーでアドレス検索、発信!
呼び出し音。1コール、2コール、3コール……
呼び出し音が続くたび不安になる。まさか……繋がらないんじゃ……
『はい、もしもし』
「もっと早く出てよ、こおりちゃんっ!」
あーーーもう、人の声ってこんな安心できるものだったんだあっ!
『……いきなりなんなんだ。晩飯のリクエストか? 今スーパーだから手早く頼む』
そんなこっちの気持ちも知らず呆れた声で訊いてくるこおりちゃん。
「そんなんじゃないよっ! 今襲われてるんだから、ボク!」
『はあ。自力で撃退すりゃいいだろ、空手マン』
「ボク女の子ですけどね!? ってそうじゃなくて、相手がオーナーで、今学園で、霧の中で出られないの!」
『もう少し詳しく話せ』
ノータイムで雰囲気が切り替わった。今まであったことを順繰りに話す。
『その霧は、ミスティと同様オーナーが召喚したものだな。向こうが『霧の世界』と推察される一番の理由だ。一定空間を包み、指定した人間だけを取り込むらしい』
「脱出方法は?」
『無い。侵入は可能だが脱出は不可だ。呼び出した当人ですら解除出来ない。解除法は時間経過、あるいはそのオーナーのミスティを倒すしかない、と思う』
「……オーナーを気絶させるとかじゃダメ?」
『ダメだろうな。要はオーナーをオーナーでなくすこと、つまりミスティの撃破だからな』
「……難易度高いなぁ」
『まあ、元の世界にはない利点もあるぞ? どれだけ物が壊れ、人が傷ついても、霧が晴れれば元通りなんだって』
「気休めにはなるかなぁ」
『あ、でも死ぬなよ? そればかりは治らないどころか、死体すら残らないそうだから』
「…………ねえこおりちゃん、さっきから気になってるんだけど、「そうだ」とか「らしい」とか、伝聞ばっかりじゃない?」
『そりゃ、俺霧喚べないし』
超不安。でもボクよりは知識あるはずだし。
『橙色の霧、だっけ。霧の色でミスティの系統やタイプが凡そ分かるって話だが……橙、ね。十系じゃあない、か。とすると種別かあ。そのミスティの見た目からだと剛種かなぁ。パワータイプで頑丈だ』
「……霧の色とか関係なくなかった?」
『気にするな』
人選ミスったかなぁ……。
『問題は『
「『
『ああ。ミスティの存在に刻まれた厳然たる掟だ。下位クラスのミスティは上位クラスのミスティに『勝てない』』
「……え?」
その断言があまりに強く、戸惑いを隠せない。
『力の差以上の問題なんだ。同じクラスのミスティでも上位と下位の差は存在するが、それらは戦術や相性、運次第で補い、覆すことが出来る。だが、クラスの差は覆らない。対峙した瞬間に、勝敗は決定してる』
「そんな、なんで断言」
『手から離れた林檎は落ちる』
それは、世界中の誰もが知ってる『ルール』。
『つまりそういうことだ。ミスティの能力ってのは物理現象というより概念現象だ。故に、こういった『ルール』による縛りが強い。それを突破する方法はあるが、今のお前じゃ難しい』
それは、あまりに無慈悲だ。
『ちなみにレリーフのクラスは
生れ落ちた時点で、強弱どころか勝ち負けが決まってしまっているなんて。
「…………」
しばしの沈黙。それを受けて、こおりちゃんが、
『で、そろそろ切っていいか? 電話してたらタイムセールで負ける』
「なっ」
ちょっと、この人どこまで非情なの!? 必死の状況で電話してきたっていうのに、あっさり見捨ててお買い物ですか!?
いや、いくらなんでもそんな非人間的な人じゃない。それは流石に分かる。じゃあ――
「……ごめんなさい」
『ん?』
「ごめんなさい! 昼休みはボクが悪かったです! いきなり殴ったり、あと言ったことも全部撤回するから!」
だから――
『……いや、別にお前が悪いとか思ってないし。つーか全く気にも留めてないんだが』
……あれぇ?
「……根に持ってるんじゃ、ないの?」
『どういう思考形態でそうなった』
電話の向こうでおっきな溜め息。これで通算何度目だろう。
「だって、電話切ろうと」
『お前がいつまで経っても肝心な事言わないからだ。一体俺にどうしてほしいんだ?』
「どうする、って」
そんなもの、この状況で一つしか――
『危ないから逃げろ。仇を取ってくれ。夕飯に遅れる』
次々並べられる。ようやく、ボクはその一言を言っていないことに気付く。
『あるいはただの情報共有。もしくは――』
こおりちゃんからそのフレーズが出る前に叫ぶ。その言葉まで彼に言わせるのは、
「助けて!」
流石に、甘えが過ぎる。
『了解、十五分保たせろ』
その一言とともに電話が切れた。へなへなと崩れ落ちる。
なんか、随分時間を無駄にした気がする。初めからあの一言だけで来てくれたんじゃないだろうか、彼は。
自分の眼で
そんな場所にたった一言、「助けて」だけで来てくれるこおりちゃんは、間違いなくお人好しだ。
とにかく十五分。このまま隠れて、後はこおりちゃんに任せればいい。
……うぐ。そういう風に考えるとあんまりいい気分しないけどさ。
軽く自己嫌悪したところで、あれ、と気付く。
こおりちゃん、レリーフはコモンだって言ってたよね?
どうやって勝つ気なんだ? いや、それ以上に昼休みに得た情報とも矛盾してる。
『最強のミスティ』、『白銀の――
ドォンッ、と轟音とともに頭上が揺れた。パラパラと埃が落ちる。
なんだ!? と天井を見上げる。と、
ガガガンッ
「――ッ!」
壁に――教室と廊下の間の板から飛び出す巨大な棘。壁を貫通した四本の鎗。
見つかった!? と思ったのも束の間、すぐ隣の教室にもガガンッと鎗の突き刺さる音。手当たり次第か……と安堵の息を吐き、汗を拭う。
カタカタ、と物音がした。
風か? と思い音源の方を見る。四本の鎗が、いずれも細かく揺れていた。
……なんだ?
不審に思う間にその揺れは速く、細かく、ブゥンと耳障りな音が鳴り響くくらいに。
ぞくり、と得体の知れない怖気が走った。
「SA発動、スピアーボム」
「ブルゥ」
その一鳴きで振動が臨界点を超え、全ての槍が廊下ごと吹き飛んだ。
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