「島を愛する人(後)」6
翌日――
楠木マスターの容態が急変した。
全員が楠木マスターの部屋に集まって涙を流した。
そんな中、息を切らしながら高石先生がやってきた。
楠木マスターはそれを虚ろな目で確認し、苦しそうに呟く。
「高石、おまえか。もう、ええんやで」
「おとー、何言うとんの。そんな事言わんといて」
咲さんは楠木マスターの手を取り、肩を揺らして涙を流した。
楠木マスターは突然苦しそうに咳き込み出す。咳と一緒に血を吐き、それを咲さんが一生懸命タオルで拭っていた。
思わず顔を背け、楠木マスターから貰ったノートを両手で握り締めた。
この現実から目を背けたかった。
美紀ちゃんは晃君を抱き締め、その様子を見せないようにしている。
そして涙ながらに、上ずった声で言った。
「楠爺が居なくなったら、この店はどうするんだよ。早く元気に、なってよ」
すると楠木マスターは、苦しそうに途切れ途切れで声を出す。
「何を、言うとんのや。何の為に、おまえにコーヒーの作り方、教えた―― 思っとんねん」
「楠爺じゃないと駄目だよ、美紀じゃ無理だって」
「困った、やっちゃな――。」
そう言った後、わんわん泣きじゃくる晃君にゆっくり視線を移した。
「晃、おかーをな、ちゃんと守るんやぞ。おまえは、男やねんから」
晃君は何度も頷く。可愛い笑窪が悲しみの涙で濡れていた。
そして、ずっと死なないでと言って泣いている。
悲しそうな皆を前に慰める言葉が何も出ない。
こんなに胸が痛くて辛いのは、彩の死以来だった。
「恵利ちゃん、次は、海外やな。そのノートに、自分の言葉を、付け加えていくんやぞ。それから咲―― おまえが娘でな、心底感謝しとる。それだけは忘れんといてくれ」
「何言うとるの。うちのがずっと感謝しとる」
楠木マスターは力なく微笑み、目を閉じて口を開かなくなった。全員が一気に不安になり高石先生を見つめる。すると楠木マスターに近付き、脈を確かめた。
「眠っただけやな」
あれだけ願った楠木マスターの延命。だけど何処かで、覚悟していた。
楽しかった日々が、より一層恋しくなる。ここに居る皆で沢山笑いあって過ごしてきた。それが全て嘘だったみたいに、今は底知れない悲しみに暮れている。
沈黙のまま、一体どのくらいの時間が経ったのかは分からない。外の日が落ちてきて、辺りが薄暗くなっていた。
だけど誰も電気を付けようとしない。ここに居る皆が顔を俯かせたままで、暗い事にさえ気付いていないのかもしれない。
楽しかった日々は、一体何処へ消えていってしまったのだろう。
楽しい日々の中心に居たのは、いつだって楠木マスターだった。
私達はあなたが居ないと、笑顔を取り戻せない。
祈るように両手を組んで、いつまでも涙を流した。
そんな中、小さく呟く楠木マスターの声が耳に入る。
「恵利、ちゃん――。」
俯いていた皆が、一斉に顔を上げた。
楠木マスターは目を開かずに、今にも消えそうな声で言う。
「ノートの、最後のページ―― 読んでくれへんか。昨日言うてた、マザーテレサの言葉や。恵利ちゃんの声は、心地ええからな」
戸惑っている私に、咲さんが涙ながらに口を開いた。
「おとーの為に、読んだって」
零れる涙をさっと拭いノートを開いた。
きっとこのページだ―― そう思い、声が震えながらも読み出した。
「貧困と飢えのうちに生きて
死ぬ世界中の仲間の為に
主よ、仕えることのできる
人にならせて下さい。
私達の手を通して、今日
この人々に日々のパンを
与えて下さい。
私達の理解を通して愛を
平和と喜びを与えて下さ
い―― 」
楠木マスターは聞こえないほどの小さな声で、一緒にこの言葉を読んでいる。
「主よ、あなたの平和を人々
にもたらす道具として
私をお使え下さい。
憎しみのあるところには
愛を
不当な扱いのあるところ
には許しを
分裂のあるところには
一致を
疑惑あるところには
信仰を
誤っているところには
真理を
絶望のあるところには
希望を
暗闇には光を
悲しみのあるところには
喜びをもっていくことが
できますように
慰められることを求める
よりは慰めることを
理解されるよりは
理解することを―― 」
その時、一緒に読んでいた楠木マスターの口の動きが止まった。
高石先生は慌てて楠木マスターの脈を計り目にライトを当てる。
そして――
静かに首を横に振った。
その瞬間、晃君が泣きながら楠木マスターに抱きついた。
「嫌や、楠爺!楠爺!」
そう言って何度揺すっても、楠木マスターが目を開く事はなかった。
まるでまた、眠ってしまったかのようだった。
その様子を見つめたまま、何も出来ずに涙を流した。ノートを握り締めた手の震えが止まらない。沢山の涙が、マザーテレサの言葉を濡らしていった。
そんな中、美紀ちゃんが突然大声を上げる。
「恵利姉!」
下唇を噛み、一生懸命涙を堪えていた。そして震えながら言う。
「最後まで、読んでやって」
何が起きたのか、私の頭は理解しているのか分からない。
目からはどんどん涙が零れていく。だけど心は、この現状を否定していた。
楠木マスターとの日々を思い返し、涙を拭って再びノートに目を移す。
「愛されることよりは
愛することを求める心を
お与え下さい。
私達は自分を忘れ去るこ
とによって自分を見出し
許すことによって許され
死ぬことによって
永遠の命を――
いただくのですから。」
読み終えた後、ノートを抱き締めて泣き崩れた。
楠木マスターがこの世から居なくなった。
それを、やっと確信した瞬間だった――。
人の死は、何故こんなにも悲しくて痛くて、辛いのだろう。そんな悲しみで包まれる中、楠木マスターはとても穏やかで優しい表情をしていた。
『俺は楠木っちゅーもんや』
出逢った頃の楠木マスターを思い出す。
あの瞬間から、奇跡は始まっていたのかもしれない。
『東京娘お二人さん、いらっしゃい』
だとしたら私は、この奇跡に心から感謝しよう。
『わっはっは!仕方ないやん、これが俺や』
楠木マスター、私は――
あなたの優しさ、笑顔、言葉、愛、出逢えた奇跡。
その全てを、一生忘れない。
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