「島を愛する人(後)」5
お店に戻ると、泣きながら晃君が抱きついてきた。
私達がしばらく居なくて心底不安だったのだろう。
「何処行ってたん?恵利姉達まで、居なくならんよなぁ?」
美紀ちゃんは晃君と目線を合わせるようにして、その場にしゃがみ込む。
そして、優しく頭を撫でた。
「大丈夫だよ。美紀達はここ以外、行く所なんか無いんだからさ」
晃君の手を引き楠木マスターの部屋に入る。
それと同時に、咲さんが安堵の表情を見せた。
「あんた達――。」
「ご心配をお掛けして、すみませんでした」
そう言うと咲さんは、微笑んで首を横に振った。
「高石先生はもう帰ったで。また明日も来るて」
美紀ちゃんは部屋の入り口で立ったまま、黙って楠木マスターを見つめていた。ぎゅっと手に力を込めていて、涙を堪えているようだった。
みんな何も言うことが出来ず、暫く楠木マスターを見つめていた。そっと近付き、おでこに乗せた布巾を取る。その時、楠木マスターがゆっくり目を開いた。
「恵利、ちゃん――。」
「楠爺!」
美紀ちゃんは慌てるように楠木マスターの傍に座った。そしてわんわん泣き出してしまう。そんな美紀ちゃんを見て、楠木マスターは力なく笑った。
心配そうに顔を覗き込んで泣く美紀ちゃんは、本当の娘そのものの様に見えた。
楠木マスターはゆっくり手を上げ、本棚を指差す。
「あのノート、取ってくれへんか?」
それは、楠木マスターが大事にしている名言集が詰まったノートの事だろう。
慌ててノートを取り出し、楠木マスターに差し出した。すると首を横に振り、振り絞るように声を出す。
「――好きなページを、自分で開いてみぃ」
「え?」
「ええから」
何故今そんな事を――。
そう思いつつも、眠れない日にいつもしてる様にページを適当に開いた。
「いつものように、そこを、読んでくれるか」
動揺しながら咲さんに視線を移す。すると“読んで”と言うように頷いてみせた。
視線をノートに戻し、戸惑いながらも声を出す。
「最も困難なこと」
楠木マスターは目を瞑ったまま、小さく微笑んだ。
「自然の寒暑は避けること
ができるが、人の心の激
しい変化は避けるのがむ
ずかしい。
人の心の激しい変化はな
んとか避けても、自分の
心の動揺を除くのは最も
困難である。
もし、自分の心の動揺を
除き去ることができたな
らば、全身全霊に和やか
さが満ちあふれ、至ると
ころに春風がそよぐ心持
ちとなるであろう」
「まさに、今の、おまえらやなぁ」
そう言って微笑む楠木マスターを、美紀ちゃんが力なく叩く。
「何だよ楠爺、こんな時に」
「はは、こんな時やからこそ、詩を読むんやで」
明らかに今までとは違っていた。楠木マスターが病気だと知ってから、時折全て夢だったのではないかと思う事があった。それは、楠木マスターが今まで通り普通に過ごしていたから。だけどもう、隠し切れない程に弱っているのが目に見える。
“最も困難なこと”という題名通り、私は今の心の動揺を無くす事なんか出来ない。
美紀ちゃんは酷く泣きじゃくり、楠木マスターの胸に顔を
「ねぇ楠爺、美紀どうしたらいい?楠爺、死なないでよ」
すると、ゆっくり美紀ちゃんの頭に手を置いた。
「美紀、人はいつか死ぬんや。突然死んでまう人もおる。あともう少しやでって教えてもろてる俺は、ラッキーやと、思わんか」
「何がラッキーだよ。だって楠爺、死ぬんだよ?」
「旅する事をやめても色々な人に逢えた。そして死ぬと分かってからも、最後に素晴らしい出逢いが、あったやんか」
そう言うと、
「美紀と恵利ちゃんに―― 出逢えたやんか」
胸が押し潰されてしまいそうだった。悲しくて涙が止まらなくて、泣きすぎて死んでしまうのではないかと思ったくらいに。
美紀ちゃんは楠木マスターの手を取り、嫌だと言ってずっと泣いている。
「楠爺が元気になるまで、美紀が島のブログを更新するから。だから、だから楠爺生きて―― ずっと生きてよ。美紀もっと強くなるから、それを傍で見ててよ、お願いだから」
包み隠さず心の声を叫ぶ美紀ちゃん。その声と楠木マスターの近い死が、酷く胸を締め付けてくる。辛くて悲しくて、息をするのも苦しかった。
***
それから数日間、私達は交代で楠木マスターの看病をした。
お店は臨時休業中。
美紀ちゃんはあの日言っていたように、毎日ブログの更新をしている。それはまるで、楠木マスターが元気になるようにと祈りながらやっているかのようだった。
私は時々、目を覚ます楠木マスターに詩を読んだ。だけどもう会話を交わすことは出来なかった。それでも良かった。生きていてくれれば、それだけで満足だった。
だけど楠木マスターは日に日に辛そうで、どんどん衰弱していくのが目に見える。
楽にしてあげたいという想いと、生き続けて欲しいという想い。その二つが葛藤する日々が続いた。
そんな毎日の中で、久しぶりにお店から騒がしい声が聞こえてきた。
何事かと下に降りてみると、美紀ちゃんと健志君が言い争いをしていた。
「だーかーらー、なんだってんだよ!」
「別にええやろ、俺の勝手やし」
「美紀ちゃん、どうかしたの?」
「あ、聞いてよ。こいつ最近さ、毎日美紀に付きまとってくんだよ。まじウッザニアじゃね?」
「せやから、ウッザニアって何やねん」
「うっせえ、この田舎もん!」
美紀ちゃんと健志君が揃うと、こうやって直ぐに喧嘩になる。
だけど、元気のない美紀ちゃんよりはずっとマシに思えた。
「マジDSだわ。毎日毎日美紀をビコるなっつの!分かった?」
「は?おまえの言葉、ほんま訳分からんぞ」
「あーもー、時間の無駄。美紀着替えてくる―― って、着替えまでついてくんなよ!?この変態!!」
「は!?おまえの着替えなんぞ見たかねーわ!」
顔を赤らめる健志君を他所に、美紀ちゃんはどたどた音を立て二階へ駆け上がって行く。
大声を出している美紀ちゃんを久しぶりに見た気がした。本当は笑っていて欲しい所だけど、なんだか少しだけ健志君に感謝した。それにしても、健志君はどうして美紀ちゃんの後をついて回っているのかは分からない。 首を傾げ考えていると、健志君がばつが悪そうに声を掛けてきた。そして、何かを言いたそうにしてモジモジし出す。少ししてから、私を見ずにぶっきら棒に言った。
「あいつ、まだ泣いとる?」
何のことだか分からず、首を傾げたまま黙り込んだ。
もしかしたらこの間、美紀ちゃんが酷く泣いていたのを気にしているのかな?そう考えると、なんだか可笑しくなってくる。何も答えずにいると、健志君は照れているのを悟られない為か、わざとふて腐れてた顔を作った。
「せやから、あの女、もう泣いとらんか?」
「元気ではないけど、あの日よりはマシだと思う」
「そぉか。なあ、何でおまえらこの島来たん?」
何処から話したら良いのか少しだけ考え込んだ。健志君は私をじっと見つめ、言葉を待っている。真剣な表情を前に、きちんと答えてあげようと思った。
「私はもとから色々な所を周ってて、美紀ちゃんは何処か自分を知らない場所に行きたいって言ってたから、一緒にここに来たの」
「自分知らんとこ行きたいって、何で?」
「美紀ちゃんね、東京で色々と苦労してきたんだよ」
「そうなん?」
美紀ちゃんの話しとなると、興味津々な表情を見せる。
なんだか微笑ましくなって、心の奥がむず痒くなった。
「あの手首の傷と、何か関係あるん?」
「健志君、美紀ちゃんが心配で仕方ないのね」
そう言うと、健志君は分かり易く目を泳がせた。
「なっ、なわけないやん!」
そこへ着替え終わった美紀ちゃんがやってきて、健志君はあたふたし出す。
美紀ちゃんは露骨に嫌な顔を作って、大きくため息を吐いた。
「んだよー、まだ居んの?なんなわけぇ?虐め妨害した仕返しでもしたいの?」
「せやから俺の勝手や言うてるやろ」
「そんなに付き
「ちゃ、ちゃうわ!おまえみたいなヤリマンと誰がやるか!」
二人の関係が可愛くて、見てると心が温かくなる。久しぶりに笑みが零れた。
美紀ちゃんは迷惑がってるようだけど、傍に居てくれる健志君に心から感謝した。
美紀ちゃんの孤独感を少なくとも埋めてくれているような気がしたから。
そしてこの日、いつもの様に楠木マスターの傍で詩を読んだ。
「運命は我々に幸福も不幸も
与えない。ただその素材と
種子を提供するだけだ。
それを、それよりも強い
我々の心が好きなように
変えたり、用いたりする
我々の心がそれを幸福に
も不幸にもする、唯一の
原因であり、支配者なの
である 」
今日の楠木マスターは調子が良いみたい。部屋に入った時も私を見てにっこり微笑んだ。そして、久しぶりに会話を交わすことも出来た。
楠木マスターは、ゆっくり目を開き呟く。
「モンテーニュの言葉、やんな」
前よりずっと痩せてしまって、話すことが精一杯に見える。
だけど普通に接しようとする楠木マスターに合わせ、私もいつも通りを演じた。
「楠木マスターにとっての幸せとは、何ですか?」
前も同じことを問い掛けた。だけどその時に聞いた言葉は、誰かの言葉だった。
今だからこそ、楠木マスターの言葉を聞きたい。
苦しそうに呼吸を整えながらも、楠木マスターはやっとの事で声を出す。
「見てて、わからんか?決まっとる、やないか――。」
そして目を閉じ、愛しい物を思い浮かべるかのように、優しい笑みを見せた。
「この島と、この店やんか」
窓から射す眩しい太陽の光。その光が、今にも旅立って行きそうな楠木マスターを照らしていた。眩しくて目を細めながら窓の外を見つめる。
お願い――
連れていかないで。
降り注ぐ日差しが
その願いが叶わない事は分かってる。だけど叶わないという事実と向き合えない。
誰だってそう――。こうしている間にも、誰かが何処かで亡くなってる。
失いたくない、もっと傍に居たい、一緒に過ごしたい。 誰かに対してそう想う人が、この世でいま何人居るのだろう?どのくらい多くの人が、それを願っているのだろう。
「恵利ちゃん、もうたくさん英語、覚えたな。これでもう日本以外でも、旅出来るなぁ」
「でも――。」
そのまま思わず黙り込んだ。
正直、今はそんな気分になれない。
楠木マスターの傍に美紀ちゃんの傍に、この島の人達とずっと一緒に居たい。
「恵利ちゃん、行動は必ずしも幸福をもたらさないかもしれないが、行動のない所には幸福は生まれない」
「それは、ベンジャミンディズレーリの言葉ですね」
「はは、さすが弟子や。幸せはな、自分で見つけるもんや」
“自分で”その言葉が胸に響く。私は何処かで、幸せとは何もしなくても、誰かが与えてくれる物だと思っていたかもしれない。くじ引きの様に、運の良い人にだけ与えられる物だと。
「楠木マスター、このノートの中で一番好きな言葉は、何ですか?」
「マザーテレサの言葉が、好きやなぁ。最後の方のページに、あったやろ」
「だけど最後の方は――。」
最後の方は確か、白紙だったはず。
分厚いこの一冊のノートが、いつか全部埋まるのを心待ちにしていた。
「白紙になる前の、いっちゃん最後に、書いてあるで」
その言葉を見ようとぱらぱらページを捲った。
すると楠木マスターが、思ってもみなかった事を言う。
「恵利ちゃん―― そのノート、やるわ」
思わず手を止めた。
「恵利ちゃんの幸せが見つかったら、一冊の本の“あとがき”の様に、白紙のページに書いたらええ」
ノートを握り締めたまま思わず俯く。楠木マスターにばれないよう、涙を流した。
涙がぽつぽつとまるで降り出した雨のように零れ落ち、ゆっくり紙に染み込んでいく。 何故だか理由は分からない。分からないけど、涙が止まらなかった。
それはきっと、何かを予感してしまったからなんだと思う。
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