「島を愛する人(後)」4
***
それからもう、一ヶ月の時が経とうとしていた。
私達は変わらず普通に過ごした。勿論、楠木マスターも。 美紀ちゃんはあの日から撮影に行くのが楽しくなったようで、毎日楠木マスターについて行っていた。
そして――。
「ど、どうぞ」
カウンター席に座った私と咲さんに、美紀ちゃんからコーヒーを差し出された。
一口飲んでみて思わず目を丸くした。
「ねぇねぇ、どうなの?ねぇってばー!!」
感想を急かす美紀ちゃんの背中を、楠木マスターが思い切り叩く。
「うっさいのぉ、大人しく待てんのか」
「普通にいってーしぃ、楠爺のよぼ爺」
二人が日常茶飯事となる喧嘩を始める中、呟くようにして感想を告げた。
「美味しい」
「え、え!?恵利姉なんて!?」
美紀ちゃんは閉店した店内で一人、夜遅くまで特訓していた。
その甲斐あってか、これは楠木マスターが淹れるコーヒーと同じ味だった。
咲さんは笑顔を見せ、美紀ちゃんの頭を乱すようにして撫でる。
「美紀ー、あんたやるやないかぁ!」
「美紀、よお頑張ったなぁ」
楠木マスターにそう言われ、美紀ちゃんの目にはうっすら涙が浮かんでいた。
美紀ちゃんの努力が、やっと報われた瞬間だった。
「美紀、生まれて初めて。こんなに頑張ったの」
喜ぶ美紀ちゃんの傍らで、嬉しそうにその様子を見つめる楠木マスターが居る。
それを見て本当の親子の様に思えた。
「ヤッベー、早く客に出したい!」
「美紀、お客様やろぉ?」
「その内この店、美紀に乗っ取られてまうかもなぁ。気付いたら看板もカッフェ美紀婆に変わっとるんちゃうん?」
皆で笑い合った。このお店は開店前も営業中も笑顔で包まれている。楠木マスターが作り出した、このお店とこの空間。そして、一緒に刻む時。その全てが愛しかった。この時が、一生続けばいいのに――。
旅に出た頃は目を瞑って、このまま目が覚めなければいいと願った。その願いが変わったのだと気付いた時、私はこの旅で大きく前進できたのだと実感する。
楠木マスターはこの機会にと言って、突然一人ずつにキーホルダーを配り出した。
「これを記念してやるわぁ。これな、市場におる知り合いに作ってもろたんやで」
それを手にした私達は思わず吹いて笑う。そのキーホルダーには、コーヒーカップのモチーフと、プレートーが付けられている。プレートに書かれた文字は一人一人違うもの。美紀ちゃんのが“カッフェ美紀のやかまし所“で、咲さんのは“カッフェ咲の相談所”私のは“カッフェ恵利の癒し空間”だった。
あの時市場で何処かに行ってしまったのは、これを作ってもらいに行ってたんだ。私達を喜ばせようとこんな事をするなんて、なんだか楠木マスターらしいなと思った。そのキーホルダーを見つめながら思う、宝物がまた一つ増えた。
「あ、そういや美紀、言うとった野菜
楠木マスターにそう言われ、美紀ちゃんは忘れていたのを表すようにあっと口を開く。
「コーヒーに夢中で忘れてた」
「あほぉ、今から
「ええー、ついでのが多いしー!人使い荒いんだよ、ったく」
買い物が多そうなので私もついて行く事にした。
ぶつぶつ文句を言う美紀ちゃんをつれて、一緒にお店を出た。
楠木マスターは、カウンターの中から笑顔を見せる。
「いってらっしゃい」
いつものその言葉と笑顔。カフェを背に微笑む楠木マスターがとても絵になっていて、一生何かに残しておきたいと思った。
楠木マスターが島に対する愛も、もしかしたらこんな想いなのかな。愛しくて、カメラに収めていくのかもしれない。だったら私は、迷わず楠木マスターの笑顔を残すだろう。このお店と、この島で微笑む楠木マスターを。
だけど――
この時に見せてくれた笑顔が最後になるなんて、思ってもみなかった。
買い物から戻ると、お店の前でランドセルを背負ったまま晃君が
「どうした晃?」
美紀ちゃんに無理やり掴まれ顔を上げる。その顔は涙で目が真っ赤になっていた。それを見た美紀ちゃんが、驚きの声を上げる。
「虐められたの?アイツか、健志!?」
「ちゃう――。」
そう言って私に目を移すと、突然大声を上げて泣きじゃくった。
慌てて駆け寄ると、ぎゅっとしがみ付いてくる。
その様子を見た美紀ちゃんが、眉を顰めた。
何て説明したら良いのか分からない。
晃君を宥めながら、ただ涙が落ちてしまわないよう堪える事で精一杯だった。
「楠爺が――。今、高石先生来とる」
晃君の言葉で、美紀ちゃんは目が覚めたような表情を見せる。
「恵利姉、一体何なの!?」
怒鳴られたのと同時に、目から涙が零れ落ちてしまった。
それはある意味、何かを答えてしまったかの様だった。
美紀ちゃんは苛立つようにして、強引に晃君の肩を掴む。
「こっち向け晃!美紀に何を隠してるの?正直に言って!」
「楠爺は病気やねん!」
それを聞いた美紀ちゃんの表情が、瞬時に
こんな形で知ることになるのなら、美紀ちゃんに伝えてあげた方が良かったのかな。そう思ったけど、最初から答えなんてなかった。
どんな形で知らされても、悲しいという想いは変らない。
美紀ちゃんは何かを考えるように、険しい表情で何処かを見ていた。いつもお喋りな美紀ちゃんが、何も言葉を発さない。暫くすると、勢い良くお店の中に入っていった。
幸せそうに暮らす美紀ちゃんを壊したくなかった。こんな日が来ない事をただ祈るばかりだった。だけど現実はそう甘くない。どんなに祈ろうと、いつか命が終わる時が来る。それが分かっていても、
晃君の手をそっと取り、私達もお店の中へ入る。
楠木マスターの部屋に行くと、泣いている咲さんと高石先生が居た。そして布団に横たわる楠木マスター。美紀ちゃんはその様子を呆然としながら眺めてる。
高石先生は私達に気付き、難しい顔のまま言った。
「また倒れたんや。今は落ち着いて眠っとる」
「高石、病気って何?楠爺はただの貧血だって言ってたじゃん」
高石先生は何も言わず、咲さんに目を移す。
美紀ちゃんは涙を流しながら咲さんに詰め寄った。
「咲姉何なんだよ、一体どうなってんだよ!」
「美紀――。」
そのやり取りを見た高石先生が、痺れを切らした様に口を開く。
「楠爺な、癌やねん。もう半年と余命宣告して、だいぶ経つんや」
「余命?」
「おまえらがこの島に来た時には、もう既に末期やった。此処まで生きてこられたんも奇跡や。美紀と恵利ちゃんの、お陰やろうな」
美紀ちゃんはふらっと壁にもたれ掛かった。
かける言葉が見つからず、ただ一緒に涙を流す事しか出来ない。
暫く経ってから、美紀ちゃんが怒る様な声を出した。
「だからなの?だから突然、カメラの使い方とかコーヒーの作り方、教えてくれたの?ねぇ、そうなの?」
そう言って交互に私達を見る。美紀ちゃんの目は、怒りと悲しみで溢れている。
「美紀だけ知らなかったの?何それ―― 馬鹿みたいじゃん」
呆れるようにそう言って、部屋を出て行った。美紀ちゃんの気持ちが痛いほど伝わってくる。一人にはしたくない。そう思い後を追った。
しばらく走っていると、何かを見つめて立ち尽くす美紀ちゃんを見つけた。その視線の先には、いつか見た光景がある。健志君を含め、複数の少年達が固まっていた。きっとまた、誰かが虐められているという状況だった。
美紀ちゃんは無表情のまま、集団の中を掻き分けていく。
「てめぇら本当バカじゃねぇの?こんな事して楽しいのかよ」
「なんやヤリマンおん――。」
見上げた健志君は、瞬時に疑問を持ったような表情に変わる。美紀ちゃんの目が、涙で真っ赤になっていたからだろう。集団がしーんと静まり返ると、美紀ちゃんが怒鳴り声を上げた。
「ムカつくんだよ!おまえらがどれだけ偉いんだよ!同じ人間だろ!?」
気まずそうに黙る少年達の中で、健志君は眉間にしわを寄せ、じっと美紀ちゃんを見つめていた。
「なんで泣いとるん?」
美紀ちゃんは隠さずに涙を流している。いつも強気で度胸がある姿しか見たことがないはず。だからこそ健志君は、驚きを隠せないのだと思った。
「人の命の大切さも分からねぇおまえらに言ったって、仕方ねぇーんだよ!」
そう言葉を吐き捨て、再び何処かへ向かって走り出す。
あっけに取られる集団の中、健志君だけが私の存在に気付いた。
「なあ、何があったん?」
「――楠木マスターが、倒れたの」
「楠爺が?」
健志君と話しながらも気が気じゃなかった。早く美紀ちゃんを追わないと。
「ごめん、美紀ちゃんが心配だから」
何か言いたげな健志君を残し、再び後を追って走り出した。
運動神経の悪い私は見失ってしまい、思い当たる様々な場所を捜し回った。
日もすっかり暮れてきて、焦る気持ちが増していく。
その時、ふと思い出した。初めて楠木マスターに怒られたあの日、美紀ちゃんは神社の階段に座っていた。それを思い出し、急いでそこに向かう事にした。
案の定、美紀ちゃんはその神社の階段で蹲って泣いている。あの日と同じ様に、そっと美紀ちゃんの隣に座った。
私の存在に気付き、小さな声で呟く。
「美紀―― 人の事言えない」
宥めるようにして背中を擦った。すると、泣きながら上ずった声で話す。
「美紀だって分かってなかった。命の大切さなんて、分からなかった」
私だってそう。彩を失って、自分の命なんていらないと思っていた。
「だって私は、自分を殺そうとしてた。何回も」
美紀ちゃんの気持ちが胸に突き刺さるようにして伝わる。
痛みと一緒に、涙が零れてきた。
「美紀ね、この島に来て初めて生きてるって感じたの。誰かに必要とされてる気がした。それは欲望たっぷりなオヤジとか、その場限りの彼氏とかが美紀を必要だって言うのとは、全く違う物。感じた事のない、幸福感だった」
楠木マスターを想い涙が流れるのか、この島に来てそんな風に思ってくれた美紀ちゃんに嬉しくて泣けてくるのか――。鼻の奥がツンとする。涙が溢れて声にならない。美紀ちゃんも子供のように泣きじゃくっていた。
「なのにどうしてなの?どうして、楠爺が死なないといけないの?楠爺が居なくなったら美紀、どうしたらいいの?」
美紀ちゃんを抱き締めて応えることしか出来なかった。しばらく二人で涙を流し、気付けばもうすっかり日が暮れてしまっている。
みんなが心配するだろうと、私達は涙を拭ってお店に戻る事にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます