「島を愛する人(後)」3
この日の仕事は、ちっとも身が入らなかった。
そんな私を見かねてか、咲さんが楠木マスターの看病をしてくれと頼んでくる。
音を立てないよう扉を開けると、楠木マスターは変わらずぐっすりと眠っていた。
ふとパソコンに目を移すと、沢山の人からコメントが届けられていた。
こんなにも沢山の人がこのブログを楽しみにしているんだなと思った。
この先もしも楠木マスターに何かあったら、このブログはどうなるんだろう?
このブログを楽しみにしている人達は一体どうなるんだろう?色々考え込んでいたその時、晃君がやってきた。悲し気な表情で腕にしがみついてくる。
「今日のブログにもめっちゃコメントきとるやろ」
「寝てなかったの?」
「うん、眠れへん」
可哀相に、まだ小さいのにきっと誰にも言えない悩みを抱えてる。
そう思うと居た堪れない気持ちになった。
「このな?優子って人の書き込みは、前にこの店の常連やった人や。ほいで、この人はこの島の人や」
私を不安にさせない為か、空元気の様にして笑顔を見せていた。
私が楠木マスターの病気を知らないと思っているから、そんな風にして振舞っているんだなと感じる。
「晃君、私ね、楠木マスターの病気のこと、聞いたんだ」
すると、驚いた顔で私を見つめた。
「――美紀姉もか?」
「ううん、まだ言ってない」
「そうか」
しがみついた晃君が、腕にギュッと力を加えてきた。
それを見つめながら、そっと頭を撫でる。
「だからね、無理しなくていいんだよ?悲しくなったら、私の前では泣いていいんだからね」
そう告げると、一瞬にして目から大粒の涙が零れ出した。
「恵利姉―― なんでなん?なんで楠爺は病気なん?」
思わずぎゅっと抱き締めた。 一緒になって涙を流しながら思う。
本当に、どうして楠木マスターは病気なんだろう。
もっともっと、私達と一緒に生きて欲しいのに――。
その後、泣きながら眠ってしまった晃君の頭をずっと撫でていた。
その横で楠木マスターはぐっすり眠っていて、このままもう目を覚まさないんじゃないかと不安な夜を過ごした。
自分の部屋からレターセットを持ってきて、彩に手紙を書くことにした。
・・・・・
彩へ
ごめんね、最近ちっとも手紙を書いてなかったね。
彩を忘れていたわけじゃないんだ。
美紀ちゃんと一緒に居るとね、彩と居る様な気になってしまうの。
私、この島とこのカフェがとても好き。
そんな風に思わせてくれたのは、やっぱり楠木マスターのお陰だと思う。
楠木マスターがくれるたくさんの素敵な言葉と愛。それは私達の心を満たしてくれた。お陰で美紀ちゃんも楽しそうに毎日笑ってる。この楽しくて穏やかな時が、ずっと続くといいなって思ってた。
だけど今日、楠木マスターがあと少ししか生きられないと知ったの。
いまだに信じられないよ。全部嘘だったらいいのに。
今から私が書くことに、傷付かないで欲しい。
私ね、彩を忘れる事はこの先ないと思っていたのに、最近では前よりは思い出さなくなった気がする。
怒っちゃったかな。
自分でも不思議なの。あんなに毎日見ていた彩の夢も、最近は見なくなった。
この島に来てから心が落ち着いてきたのか、彩の記憶が少しずつ薄れていったのかもしれない。
私はいつか、彩を忘れてしまうのかな?
何もしてあげられなかった私が、楽しく生きてていいのかな?
もしかして楠木マスターの病気は、そんな私へ神様が与えた罰なのかもしれない。
神様のせいにするなんておかしいよね。
彩は少なくとも私よりは、この世で意味のある人だった。
何も出来なくて無力な私より、ずっとずっと。
彩の苦しみを、楠木マスターの病気を、全て私が背負えたら良いのに。
そう思わずにはいられないの。
最近とても恐いんだ――。
命の終わりを考える事と、いつか彩を忘れてしまうかもしれない、自分の事が。
・・・・・
朝8時。目を覚すと楠木マスターの姿がなかった。
起き上がった時、掛けたはずのないタオルケットがはだけて落ちる。
それをまだ眠る晃君に掛けた。
楠木マスターを探しに部屋を出て、お店やキッチンなどを見て周る。誰の姿も見当たらず、ふと美紀ちゃんの部屋に目を移すと扉が開かれていた。覗いてみると、珍しい事にこんなに朝早くから姿がない。
二人で何処かへ行ったのかもしれない。
楠木マスター病み上がりなのに大丈夫かな?心配で二度寝することも出来ない。
やる事もないので、少し早めの開店準備を始める事にした。
10時になる頃には咲さんがやってきて、いつもと変らない笑顔を見せる。
「おはよう。昨日晃があまりにも恵利ちゃんにべったりやったから、置いて帰ってしもうたわ」
「あの、実は早朝から楠木マスターと美紀ちゃんが居ないんです」
「え?おとー、もう出かけたん?あ――。」
咲さんは突然何か閃いた様に二階へ駆け上がって行った。
ついていくと、楠木マスターの部屋を見て大きくため息を吐く。
「やっぱりなぁ。おとーな、きっと今日も島の写真撮りに行っとるんよ。カメラがないわ」
「え、昨日倒れたのにどうしてそこまでして――。」
「一日も撮らなかった日がないねん。大雨だろうが台風だろうが、必ず撮りに行くんや」
確かに今思い返すと、楠木マスターが出掛けない日は一日もなかった。
昨日倒れたばかりの体で行くなんて、楠木マスターがいかにブログを大切にしているか、そして、この島を愛しているのかが分かる。
「おとーはああいう性格やねん。知っとるやろ?止めた所で言う事聞かへんやろな」
「どうして、美紀ちゃんもついて行ったのでしょうか?」
「うーん、なんでやろうね?」
美紀ちゃんは病気の事を知らないはず。だから心配でついて行ったとは思えないし、ただの興味本位だとしても、わざわざ朝から出掛けたがる性格ではない。彩と一緒で朝に弱いから。咲さんと一緒に考えたけど答えは出ず、二人の帰りをただ待つことしか出来なかった。
お店が開店時間を迎え、一時間経った。二人はまだ帰っていない。
「あのコーヒー飲まにゃ、一日が始まった気せぇへん」
馴染みのお客さん達が、楠木マスターのコーヒーを首を長くして待っている。
楠木マスターにしか淹れる事の出来ないコーヒー、あの出来立ての良い香りを早く感じたい。そんな事を考え小さなため息が漏れた。
するとお店の外から、楠木マスターと美紀ちゃんの声が聞こえてくる。
思わず顔を上げ扉を見つめた。
「だーかーらー、美紀は女なんだからさぁ、こんな重たい機材をさー」
「うっさいのぉ、黙って持てや」
言い争いながらお店に入ってきた二人。それはいつもと全く変わらない光景だった。二人の帰宅にお客さん達が安堵の表情を浮かべる。美紀ちゃんがカウンターまで駆け寄ってきて、手を合わせながら言った。
「咲姉、恵利姉ゴメン!店の仕込み手伝えなくって」
「おお、二人だけに任せてすまんかったなぁ」
昨日倒れた事が夢だったみたい。楠木マスターは。いつもと全く変わらない様子に見える。常連さん達にも笑顔で挨拶しだした。
「
「だーかーら、こき使うなってのぉ」
「せやから、さっき教えたやろ」
そう言いながら二人は、カウンターの中に入る。楠木マスターではなく、美紀ちゃんがコーヒーを淹れる準備をし始める。そして得意げな顔で口を開いた。
「楠爺さ、やーっとコーヒーの淹れ方教える気になったって。おっせーんだよ」
「恵利ちゃんはいつか海外に行くんやし、咲は頭が良いやないか?せやけどこのアホ美紀にゃ、取り得一個もないやん。可哀相になってなぁ」
笑いながらそう言う楠木マスターに美紀ちゃんが怒り出し、いつもの騒がしい喧嘩が始まる。常連さん達はまるでお馴染みのショーでも見ている様に笑っていた。
その楽しそうな光景とは裏腹に、酷く悲しい気持ちに陥ってしまった。
咲さんも悲しげな笑みを浮かべ、美紀ちゃんを手伝い出す。
きっと咲さんは、私と同じ気持ち。
我慢が出来なかった。休憩をしてくると言って、思わずお店の外に飛び出した。
その瞬間、耐えてた涙が溢れ出す。楠木マスターが作ってくれた椅子に静かに座り、声を殺して泣いた。
ふと顔を上げれば、いつもと変わらない大好きな景色がそこにある。
建物の隙間から見えるのは、青い空にキラキラ煌く海。毎日目にする風景が、どんどん涙で歪んでいった。一瞬にして悲しいものに変わってしまう。
『店の前に恵利ちゃん専用の椅子作ったるわ』
その言葉を思い出し、そっと椅子に手を添えた。作ってくれるって聞いた時は、凄く嬉しかった。だけど、今は楠木マスターの優しさが、かえって悲しみを大きくしていく。こうやって私が悲しむのを知っていたから、病気の事を言ってくれなかったのかもしれない。
どんなに泣いても涙は治まらなかった。泣きながら心の中で問い掛ける。
楠木マスター、どうして今になって美紀ちゃんにコーヒーの淹れ方を教えたりしたの?と。だけど、頭の片隅で本当は分かってた。
美紀ちゃんを島の撮影に連れて行ったのも、コーヒーの淹れ方を教えたのも――。
そして、私達に病気の事を言わなかった事も。
全て分かっていたけど、その事実を受け入れる事が出来ない。受け入れてしまったら、楠木マスターと普通に接する事が出来なくなってしまうから。
彩――。
彩の死は、突然だった。 突然この世から居なくなってしまって、私は一人ぼっちになってしまった。その現実を受け止める事が出来なかった。だけど、大切な人の死を
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