「恋人に詩うシンガー」2
***
気付けば年が明け、秋田に来てからもうすぐ、四ヵ月という月日が過ぎようとしていた。ある休みの日の事、梨香さんが小さな花束を持って帰って来た。
「たでーま!」
不思議に思いじっと花束を見つめていると、少し掲げて見せてくれた。
「これか?これは
「うん、とても」
小さくて、紫に近い青色の可愛いお花。見ていると思わず笑みが零れてしまう。
「勿忘草のドライフラワーが中々ないからさー、この日の為にオーダーして作ってもらったよ」
梨香さんはそう言いながら、部屋にある出窓を開けた。
「この日の為って?」
「ここから見て、オーストラリアってどっちにある?」
私の問いを無視し大声で質問し返してくる。
それ以上は何も聞かずに、分からないと首を横に振った。
「んー、まぁいっか!空は1つだ。見えっだろ?」
梨香さんはこの日、綺麗な花の刺繍が入った黒のワンピース姿だった。
もしかしたら今日は、ダンさんと何かあった日なのかもしれない。
梨香さんは鼻歌交じりにCDを流し出した。
小さな部屋中に、綺麗なピアノの音色が響きだす。
「これ、梨香さんの歌?」
「いや、前に話したアリシアキーズの歌
梨香さんは出窓の棚にそっと花束を置く。
そして壁に寄りかかるにして座り、ゆっくり目を閉じた。
瞑ったその目の奥にはきっと、ダンさんとの思い出が溢れているのだと思う。
「この歌、ダンがよく歌ってくれたんだ」
「良い曲だね」
梨香さんは歌に合わせ、綺麗な声で口ずさみ出した。
英語の歌詞をすらすらと歌うその様子に驚いた。
「梨香さん、英語出来るじゃない」
「歌だったらな」
梨香さんはいたずらにべっと舌を出しておどける。
「日本語だと、何て言ってるの?」
すぐにこの曲が気に入ってしまい、どんな内容の歌詞なのかがとても気になってしまった。よっぽど興味深々な顔をしていたのか、梨香さんは私の顔を見てふっと笑う。
「全部ほしい人もいるけど、自分は何もほしくない。ダイヤの指輪が欲しい人もいるし、永遠の若さが欲しい人もいる。だけど全ては空っぽ。あなたがいなければ、あなたと一緒じゃなければ全て意味がない。そんな歌詞」
この曲のメロディーに合った、素敵な歌詞だと思った。
「この曲も好きだけど、梨香さんのも好きだよ?この間、ライブハウスで歌ってた――。」
「あぁ」
初めて梨香さんにあの時について触れた。
梨香さんの表情を見る限り、話されるのが嫌ではなさそうだった。
なんだか今日の梨香さんの表情はとても柔らかくて優しい。
ダンさんが居たときは、いつもこんな表情をしていたのかもしれない。
「あの曲はCD出してないの?」
「一応あるけど。オムニバスみたいな感じで、色んなアーティスト混ざってるやつ」
あんなに素敵な曲なんだから、シングルで出てても良いと思った。歌手の世界ってやっぱり、色々と大変なのかもしれない。なんだかやるせない気持ちになり、そっとため息を吐いた。
「あの曲は流さないの?」
「アホ。あんな辛気臭い曲かけられっか!もっと落ち込むわ!」
思わず声を出して笑ってしまう。
すると梨香さんは、目を丸くして詰め寄ってきた。
「あ、恵利が笑った」
途端に恥かしくなって、思わず手で口を覆う。
「人前で笑うの―― 苦手で」
「その歳でなーに言ってんだよ!」
大きな口を開けて、笑いながら叩いてくる。
梨香さんは大切な人を失ってもよく笑っていた。だけどそれはきっと、悲しみを隠すため。梨香さんと毎日一緒に居てそのことに気付いた。
そして、よく笑う人程、痛みを持っているという事を知る。
彩もよく笑う子だった。
この日は梨香さんから、ダンさんとの想い出話を沢山聞けた。
「昔から歌手になりたいわけじゃなかった。詩を書いて歌う事は、ただの趣味みたいなもんだったからさ。けど、ダンが事務所に私を薦めてくれて歌手になれたんだ」
「将来一緒に歌って曲出して、そんで、自分達の子供に聴かせようとか気が早い事言ってたな――。」
「私らが出逢って一年目に、ダンが小さい店を貸しきってくれてさ―― あの時に食べたご飯の味もダンの顔も、今でもずっと忘れられねーんだ」
ただ黙って梨香さんの話に耳を傾けた。
ダンさんの話をする時の梨香さんの声はとても穏やかで、それでいて優しくて――
まるで梨香さんが歌っている時の様で、聞いていてとても心地良かった。
梨香さんが歌を歌うのは、愛する人の為だったのかもしれない。
愛する人を亡くした今では、歌う事を亡くしたも同然なのかもしれない。
私は歌手ではないけれど、愛する人を亡くした梨香さんの気持ちが、痛い程に伝わってくる。
どのくらい話していたのか、気付けば辺りが暗くなってきていた。
「ダンが私と住む為に、オーストラリアに家を買った事は知ってた。聞いてたから」
電気を付けずにいたから、辺りは暗く、外の街頭の灯りと月の灯りだけが微かに私達を照らしていた。
「知ってたけど―― ダンが居なくなってから行く事を避けてたんだ。もうとっくに無くなっちゃったと思ってたから」
微かな光にしか照らされていないけど、梨香さんが泣きそうな顔をしているのが分かる。
「ダンは私を待ってるのかな、恵利」
この世には霊が居るとか居ないとか、その真実がどちらかはわからない。
わからないけど、霊でもいいから会える事が出来たなら、少しでも亡くした大事な人を感じられるのなら―― 霊でもなんでも構わない。
それにもしも逆の立場だったら、もしも彩じゃなくて、私が突然死んでしまったのだとしたら――。
「私だったら、心配で待つかもしれないな」
ボソッと呟いた言葉に、梨香さんが顔を上げる。
小さく笑みを作って、微かな光の中に居る梨香さんを見つめた。
「愛する人を置いて先に逝ってしまったら、その人のことが心配だもん」
随分と長い間、真剣な話をしていた気がする。
一体今が何時なのか分からないけど、少しウトウトしてきていた。
「そっか――。 なあ、恵利」
顔を俯かせ、今にも眠りそうな声で何?と返事をした。
「ありがとな」
その言葉に思わず顔を上げる。
「私さ、勇作にちょっと英語習ったし、オーストラリアに行こうと思うんだ」
梨香さんはまるで、言うのを準備していたかの様にサラッと言い放つ。
やっぱり手紙の返事を書く為だけに、英語を勉強していたんじゃなかったんだ。薄々思っていた考えが、この時明確な物に変わる。
梨香さんは別れを惜しむ様子なく、笑顔で話続けた。
「まあ、いずれオーストラリアには行かないとって思ってたしな」
そうした方が良いという思い。梨香さんが居なくなる寂しさ。
それらが混ざり合って、何も言葉が出なかった。
「こんな状態でいつまでも此処に居られないだろ?前に進む時が、来たって事だ」
私はまた、ゆっくり顔を俯かせる。
前に進むとき――。
何故かその言葉がぎゅっと胸を締め付けた。
「寂しくなるな」
私の気持ちを察してか、梨香さんは頭を叩くようにして軽く撫でてくる。
複雑な気持でいっぱいだった。梨香さんに行って欲しい気持と、行って欲しくない気持で心の中で葛藤してる。 寂しくなるなんてものじゃないから。
「恵利?」
心配させちゃったかな?子供の様に拗ねてるみたいで恥ずかしい。そう思って、慌てて顔を上げ、大丈夫と言わんばかりに微笑んで見せた。
「恵利さ、いつも書いてる手紙―― いつか送付元の住所も書いてみろよ」
思いもよらないその提案に、思わず目を丸くした。
「何か起こるかも知れねーだろ?私みたいにさ」
ぎゅっと口を噤んで、考えを頭の中だけに閉じ込める。
送付元なんて書いたって――
「まぁいっか、そろそろ寝よう。おまえもウトウトしてきてただろ」
「――うん」
梨香さんは立ち上がり、体を伸ばしながらベッドに向かう。
私はそのまましばらくその場から動けないでいた。
送付元を書いても、返事が来る訳が無い。
だって居ないもの。
私と彩以外、家族も親戚も――
誰も居ない。
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