「恋人に詩うシンガー」1
トイレから出てきた梨香さんの手には、便箋が握られていた。顔を俯かせたまま黙っている。 その様子に心配な気持ちになったけど、何が書いてあったのかも気になっている。 何て声を掛けようか考えていると、梨香さんがボソッと呟いた。
「――めねぇ」
言葉が聞き取れず、思わず勇作君と目を合わせる。
すると、怒った表情で梨香さんが顔を上げる。
「読めねぇ!」
「は?」
勇作君は間が抜けた様な表情でぽかんとした。
梨香さんはふて腐れた顔のまま、便箋をすっと差し出す。
「これ英文。全然読めねぇし」
勇作君は肩の力が抜けたようにため息を吐いて、便箋を奪い取った。
「ダンと付き合ってる時に英語教えて貰ってただろ?何だよそれ」
そう文句を言いながらも手紙に目を通した。
勇作君は前に、オーストラリアに留学していたと言っていた。
恐らく英文も難なく読めるのだろう。
それにしても、何て書いてあって一体誰が書いたのか、その答えが導かれるのを心待ちにした。 私が気になるんだから、梨香さんはそれはもう気が気じゃないのだろう。手紙を読む勇作君の周りを、グルグルと落ち着き無く歩きまわっている。
「ちょっと待て」
勇作君は梨香さんの動きを手で止め、しばらく手紙を睨んだまま黙ってしまった。
それを待つ私と梨香さんは、手紙を読むその様子をただ見つめることしか出来ない。 部屋の中は静まり返り、カレーを煮込むグツグツという音だけが部屋中を響かせていた。
数分経つと、勇作君はやっと顔を上げる。
「梨香――。」
何処か強く感じる、大きくて綺麗な梨香さんの瞳。
その瞳が、真っ直ぐに勇作君に向けられた。
「これを書いたのは、ダンの母親だ」
もしかしたらダンさんから届いたのかもしれない―― なんて思っていた自分が居た。なんだ、お母さんが返事を書いてくれたんだと複雑な思いを抱く。
「ダンが買った家を手放すことが出来なかったらしい。家はまだ、あるんだ。だから梨香の手紙が届いた」
「――そう、だったのか」
梨香さんはホッとしたのか残念だったのか、全身の力が抜けた様に近くにある椅子に腰掛ける。
「ダンの母親は日本語が読めんのか?私、日本語で書いたんだけど」
「いや、今ホームステイしてる日本人が居るらしくて、その子に訳して貰ったって書いてある」
「そっか」
悲しそうに微笑む梨香さんを見て、もしかしたら梨香さんも、心の何処かでダンさんの返事を待っていたのかもしれないと思った。そんなことあり得ない話なんだけど、梨香さんの気持ちが少し分かる。そんな思いもありつい言ってしまった。
「ねぇ勇作君―― それ、梨香さんに読んであげて」
梨香さんに宛てて書かれた物なら、梨香さんが内容を知った方が良い。
すると勇作君は、ゆっくり梨香さんに目を移す。
「どうする?」
「――うん。読んでくれ」
私は梨香さんから直接ダンさんの話を聞いていない。
だから、気を利かせて席を外そうと思った。
「あ、あの、私ちょっと買い物に行ってくる」
上着を取りに行こうとすると、梨香さんが引きとめてきた。
「恵利、良いんだ。全部知ってるんだろ?」
その言葉で身動きが取れなくなった。どうしよう、私みたいな部外者が聞いていいのかな?そう躊躇って立ち尽くす私に、勇作君が優しく微笑んでくれる。
それはまるで、梨香さんの言う通りにしなよとでも言っている様だった。
そして勇作君は、再び手紙に目を向け読み上げだす。
・・・・・
親愛なる梨香
元気にしてるかしら?あの子のお葬式以来よね。
だけどあの時、あなたとはあまり話が出来なかったわ。
あの時は、私もあなたもとても悲しくて辛かったから、泣く事しか出来なかった。
そしてあなたは、すぐに日本に帰ってしまった。
手紙、読ませてもらったわ。今、ホームステイで日本人の子が来ているから、あなたの手紙を訳してもらったの。
勝手に読んでごめんなさいね。
あなたの気持ちがよく分かって、苦しくて胸がつぶれるような思いだわ。
もっと早くあなたと話したいと、ずっと思っていたの。
ダンが生きている頃から、私はあなたの事をよく知っていたわ。
あの子はあなたの事を心底愛していた。
知っているかしら?あなたが出した手紙の宛先、あの家は、ダンがいつかあなたと住む為に買った家なのよ。あの子が亡くなった当初は家を手放すつもりでいたの。
だけど不思議ね、あの子はまだあそこに居る様な気がするの。
あなたを待っているんじゃないかと思って、私はあの家を手放せなくなってしまったわ。
今あの家は私の名義になっているけど、あなたの家も同然なのよ。
一度、訪ねに来てもらえないかしら?
無理にとは言わないわ。
あなたの心が落ち着いて、時間が出来たら
いつでも良いのよ、あなたとダンの家に、一度いらしてちょうだい。
きっとあの子が、あなたを待っているわ。
愛を込めて ミシェル
・・・・・
梨香さんは目に涙を溜めながら黙って聞いていた。
「大丈夫か?」
勇作君が梨香さんの顔を覗き込もうとすると、顔を隠す様にしてすっと立ち上がった。
「あ、私さ、ちょっと散歩」
梨香さんはそう言って、慌しく玄関へ駆け出す。
「恵利、晩飯頼んだからな」
それだけを言い残し、部屋を飛び出していった。
勇作君は便箋を丁寧にしまい、テーブルの上にそっと置く。
不安いっぱいの顔をしてしまっていたのか、勇作君と目が合うと、それを宥めるように豪快にぐしゃぐしゃっと頭を撫でてきた。
「よし!早くカレー作らねーと焦げちまうな」
そう言いながらシャツの袖を捲くりだした。
「三人分に変更!もうすぐオープンの時間だから、急いで作んなきゃ遅刻するぞ」
「うん」
私達は終始無言でカレーライスを作り始める。ルーを鍋に入れると、カレーの良い香りが漂ってきた。 美味しそうな香りだと思うものの、なんだか食欲が沸かない。
梨香さんが帰って来るのかを心配し黙っていると、勇作君がこちらを見ずに口を開いた。
「好きな人を亡くすってさ、どんな気持ちなんだろうな」
「え?」
「張本人じゃなくても、色々と辛いのにさ」
勇作君は梨香さんをずっと心配して来たんだろうなと思った。
優しいから、いつも他人の事ばかり気にかけている。
そんな勇作君を、勝手に心配してしまう自分も居た。
「勇作君だって親友を亡くしちゃったんだよ。悲しいのはみんな、一緒だよ」
勇作君は洗い物をしながら苦笑いを見せる。
思わず手を止めて、ルーが溶けきった鍋を無意味に見つめた。
「ねぇ勇作君―― 残された人達に、幸せは訪れると思う?」
最近この事についてよく考える。
今の私には、一生訪れることのないように思える未来。
真剣に聞いたのに、勇作君は鼻で笑いながら体当たりしてきた。
「難しい話し放りこんで来たねぇー、恵利ちゃんはどう思ってんの?」
今の私には訪れないとしか思えない。
だけどもしかしたら、残された人達に幸せは訪れるのかという疑問を抱えて――。
「だから私は、家を飛び出したのかもしれない。答えが知りたくて」
勇作君は優しく微笑んでくれた。
「見つかるといいな」
カレーが丁度出来上がる頃、梨香さんが笑顔で帰って来た。
「ただいま!」
無理に笑顔を作る梨香さんに、何も聞かずに微笑み返した。
「おかえりなさい」
「勇作、英語教えろよ!」
小さなダイニングキッチンにある、モダンな四角い黒色のテーブル。
そこに三人で座りカレーを食べている時、急に梨香さんがそう言い出した。
間を開けてから、やっと勇作君が口を開く。
「なんだよ突然」
梨香さんが何故そんな事を言い出したのか、本当は分かっているように見えた。
表情を変えずに冷静を装った素振りが、あえて知らないふりをしているんじゃないかと思う。だけどそう感じたのは私だけだったみたいで、梨香さんはむすっとした表情で答えた。
「だってさ、返事書けねーだろ」
「また訳してもらえば良いんじゃねーの?」
そう言いながら黙々とカレーを食べている。梨香さんは真剣だという事を証明したいのか、こっち向けとでも言っているかの様に、テーブルを叩きながら訴え出した。
「アホ!折角返事くれたんだ、失礼だろ。それに、ちゃんと自分の字で、英語で、返事を書きたいんだよ」
勇作君がやっと顔を上げ、梨香さんの目を見る。
「――わかったよ」
「サンキュ」
ホッとしたようにカレーを食べ出す梨香さんを見つめ、勇作君は悲しげに微笑んだ。 勇作君はきっとこの時既に、梨香さんの心境の変化を感じ取っていたのかもしれない。
気付いていたんだと思う。
梨香さんが、いつかは此処を出て行くという事に。
・・・・・
彩へ
梨香さんの大切な人の話はしたよね。
実はね、梨香さんが書いた手紙に返事が来たの。
梨香さんの大切な人のお母さんからだった。
なんだかね、久しぶりに少し感動したんだ。
私も、彩の家を引き払わなければ良かったかな。
だけど私達には誰も居ないでしょ?あの家は彩との思い出がありすぎて、お姉ちゃんには耐えられなかった。
梨香さんの大切な人のお母さんは、その家にダンさんがまだ居る気がするって言ってた。梨香さんを待っている気がするって。
彩は今、何処に居るの?
家を引き払ってごめんね。
もしも行き場を無くしていたら、私の家で待っててね
・・・・・
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