「崖っぷち」3
・・・・・
彩へ
あなたが死んでしまって、生きる理由がなくなってしまった。
何もする気になれないし、何をしていいかもわからない。
気が付いたら、荷物をまとめてバスに乗っていました。
お姉ちゃんは今、東京を離れ秋田に来ています。
夜行バスで梨香さんって言う人に出逢って、そのお友達のお店で住み込みで働かせてもらってるの。 住まいは2DKのアパートで、梨香さんと同じ部屋だけど凄く落ち着くよ。
ライブハウスでは、歌手という夢を持った色々な人がライブをしたり、練習をしにきたりする。お姉ちゃんとはまるで正反対。みんな前向きに夢を持って努力していて、生きる事が凄く楽しそうに見える。
彩は生きている時、幸せでしたか?
お姉ちゃんは、ただなんとなく今を生きる事しか出来ない。夢なんて昔からないし、これといって特技もない。
心から大切な人は、唯一の家族の彩だけだった。
両親が死んでしまった時の事を覚えてる?
彩はまだ小さかったから、覚えてないよね。
泣きじゃくる彩の隣で、お姉ちゃんは今日から彩の親にならなくちゃと思った。
なのにお姉ちゃんは全然頼りなくて、彩をきちんと守ってあげられなかった。
幸せにしてあげられなかったよね。
だから彩は、死んでしまったの?
今だからこそ、考えてしまう事があるの。
両親が死んでしまった事故で、どうして私達が生き残ったのか。
あの時、お姉ちゃんと彩も死ぬべきだったんじゃないかって。
神様はどうして、私達を生き残らせたのだろうかって。
生きる事は辛いだけのこの世界に、何故私達を置き去りにしたんだろう。
ねぇ彩、いつになったらお姉ちゃんは、そっちに行けるのかな。
・・・・・
「何書いてんの?」
「ひゃ!――驚いた」
梨香さんは不思議そうに手紙を覗き込んできた。
慌てて二つ折りにして隠すと、お風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭きながらニヤッと笑う。
「彼氏に手紙?」
「彼氏なんか、居ないよ」
梨香さんはなーんだと言いながら、ガッカリした様子でキッチンへ向かっていった。
「じゃあ親に?」
そう言いながら、小さな冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。
「親―― は、居ないの」
「へぇ、じゃあ私と一緒だな」
目をパチクリ開いてから、何てことない様子でさらっとそう言った。
「まだかっわいー赤ちゃんの時に私、捨てられたらしいぞ」
まるでネタの様な口ぶりで話している。
だけどそれを聞いて、なんだかツジツマが合ったような気がした。
だから私みたいな人を放っておけなかったのかもしれない。
一緒に住む前に“捨て犬でも拾ったと思う事にする”って言っていたし。
「梨香さん、私みたいな人を―― 住まわせてくれて有難う」
「私みたいって何だよ。そういう言い回しやめろよ、嫌いだそれ」
ちょっと不愉快そうにそう言って、水をごくごく飲みだす。
「だって私―― つまらない人間だし」
梨香さんは方眉を上げ、表情だけで何だそれといった顔を作った。
「前に付き合ってた人に、そう言われたの」
「ぶはっ!」
梨香さんは突然、飲んでる水を吹き出した。
「ちょっと、笑い事じゃ――。」
「つまんねーって理由でふられたのか?」
まさかそんなに笑われるとは――。
梨香さんはお腹を抱えて笑っている。
「私は今爆笑してるし結構楽しいけどな。あーおもろ」
そう言って寝室に入ってしまった。
梨香さんには、何か温かいものを感じる。
一緒に居る事で少しだけ心が救われていた 。
梨香さんとはライブハウスの仕事も帰る場所も一緒。
生活のほとんどを梨香さんと過ごし、気付けばこっちに来てから一ヶ月が過ぎた。
此処は住んでいた東京とは違い、時が穏やかに進んでいる気がする。
仕事後には、梨香さんやその友達を交え朝まで飲み、そして夕方五時からライブハウスをオープンさせるという日々を送っていた。
私は人見知りなので、そういう飲み会などになるとこっそり帰ろうとしていた。
だけど、お酒が大好きな梨香さんに毎回捕まり付き合わされる。
お陰ですっかりと夜型になってしまった。
特に変わったことのない同じ日常なのに、毎日が濃い様な気がする。
色々な人と朝まで居たり、他人でしかも出逢ったばかりの人と一緒に住むなんて、経験した事がなかったからだと思う。
そんな日常に少しずつ慣れてきたある日の事だった。
「はあ!?来てない?」
この日は、様々なバンドが集まるイベントの日だった。
だけど、出演する一組が来ていないという初めての事態。
梨香さんは怒鳴りながら、勇作君に詰め寄っている。
「おまえ、ちゃんと日にち確認したのかよ!」
勇作君は梨香さんの親友で、このライブハウスをオープンさせた人。
秋田出身らしいけど、東京で梨香さんと同じく歌手活動を長くしていたようで、喋りはいつも標準語だった。
「連絡したって!昨日話したばっかだし。まいったな」
結構人気のバンドの様で、ファンの子達が沢山集まっていた。
「やっべー、もう始まってるし」
ライブハウスのスタッフは私を含め五人と少人数。
スタッフ全員、初めての事態で慌てていた。
そんな時、梨香さんは何か閃いたように私に目を移す。
「おい恵利、おまえ歌えねーのか?」
まさかの突然のふりに、思わずきょとんとしてしまった。
私が?何を言ってるんだろう、カラオケだって嫌いなのに。
「最悪、私がピアノを弾いて恵利が歌えば――。」
冗談だと思っていたのに、梨香さんの表情は真剣そのものだった。
「ちょっ、ちょっと待って、私歌えないよ。そう言う梨香さんが弾きながら歌えば良いんじゃない?」
すると、スタッフ全員が一瞬にして黙ってしまう。
空気が張りつめたように感じた。
無神経な発言をしてしまったのだと、また自己嫌悪に陥っていく。
少し間があってから、梨香さんが俯きがちに口を開いた。
「私は、さ、もう歌手じゃねぇし」
いつも明るくてサバサバしてる梨香さんが、少し悲しげな表情を見せる。
その表情を見て、自分が軽はずみに発言した事を後悔した。
俯く私を見た勇作君が、ポンポンッと宥めるように肩を叩いてくる。
それはまるで、気にするなとでも言っている様だった。
全員が再び気まずそうに黙る中、勇作君が意を決してかさらっと明るい声を出した。
「梨香、ちょうど二ヶ月後の今日だろ?」
すると梨香さんは、強い眼差しで勇作君を見つめ返す。
初めて逢った時から思わず見とれてしまう、大きくて強そうな瞳。
その瞳が、何かに怯える様に微かに揺れている。
梨香さんはこの日、白いTシャツに黒いスパンコールがビッシリついたベストを着ていた。 何かにすがる様にして、そのベストの裾を力強く握っている。
「良い機会だろ?歌えって」
その提案に、梨香さんは凄い剣幕で怒鳴り出した。
「簡単に言うなよ!だったらおまえがやれよ!」
そして側に置いてあったグラスに手を掛ける。
止める暇なく、勇作くんはお酒を頭からかぶってしまった。
「――っ、梨香」
梨香さんは一瞬だけ悲しげな表情を見せ走り去った。
私は訳が分からないまま、布巾を手に取り駆け寄った。
すると勇作君は、ふっと小さく鼻だけで笑う。
「まーだ駄目だったか」
その言葉に周りも苦笑いを見せている。
「恵利ちゃん、梨香から何か聞いてる?」
黙って首を横に振った。 梨香さんと一緒に暮らしてはいるけど、あまり自分の話をしてこない。何のことだかサッパリわからず、少しだけ疎外感を抱いた。
そんな私達とは対照的に、ステージとお客さんは大盛り上がりしている。
ガンガン響く音楽が、私の胸をズキズキと響かせる。
梨香さんの悲しそうな表情が、頭から離れなかった。
何も対処法が浮かばないまま、とうとう最後のバンドの演奏が終わってしまった。
「はぁ、正直に来てないって謝るしかないな」
勇作くんがステージに向かおうとしたその時、突然梨香さんがステージ袖から現れた。そしてキーボードの椅子に座り小さく呟く。
「ちっ、キードーボか。アコースティック用意しろよ」
梨香さんはマイク筒抜けで独り言を言っていた。
その様子を、お客さん達がザワザワと動揺しながら見つめている。
梨香さんはさっきとは打って変わって、いつものサバサバとした様子。
お客さん達に向かって、さらっと何てこと無いような素振りで声を掛けた。
「あっ、ごめん。バンド一組無断欠席しやがったから、私が歌うわ」
するとお客さん達が、更にざわつき出す。
「なしてー?」
「AIRがまだ出てながー!」
戸惑いを隠せないファンの子達に対し、梨香さんは顔色一つ変えず、見向きもせずにマイクを調整していた。
「だーから、無断欠席だよ。悪いのあいつらだろ?文句あんなら、あいつらのブログでも炎上させろよ」
そんな風にしてファンに爆弾を投げ込むと、その様子をぽかーんと見ていた勇作君がふらっとしながら頭を抱える。ライブハウス内がブーイングで包まれる中、梨香さんはポーカーフェイスでキーボードを操作し喋りだした。
「えっと、これでも前は事務所に所属してたから、まぁー聞いてって!そんな売れてないけど」
ふっと小さく微笑み、静かにキーボードに手を添えた。
梨香さんの目が、今まで見たことのない真剣な眼差しに変わる。
会場が文句でどよめく中、私はわくわくする感情を抱いていた。
照明のせいなのか、ステージに居る梨香さんはなんだか大きなオーラに包まれている様に見える。ふと辺りを見回すと、勇作君をはじめ、スタッフ皆が歓喜余ったような表情をしていた。そんなにステージに立ったのが久しぶりだったのかな。
何故、梨香さんはステージに立つ事、歌う事を辞めてしまったのだろう。
そんな疑問が頭を過ぎった時、男っぽい梨香さんからは想像もつかない、繊細なピアノの音色が響き渡った。
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