第十一話 希望
第十一話 希望
涼花が取り出したのは、自分の名前の預金通帳だった。ページをめくっていくと規則正しく毎月入金されているのがわかった。一万だったり二万だったりたまに五千円という月もある。けれどそれは毎月かかさず、入金されていて何ヶ月か前までずっと何年も続いていた。
何ヶ月か前でその規則正しい数字の羅列は、止まっている。一度も引き落としの欄に記載がなく、ただ入金の数字だけが続いていた。
「これは?」
桐生君が涼花の顔を覗き込む。遠くの空を見つめるような瞳をして涼花が懐かしむようにささやいた。
「お兄ちゃんがね、出て行ってからね、送られてきたの。毎月入金されるたび、ああ、お兄ちゃんは元気なんだなって嬉しかった。私の事忘れないでいるんだなって、嬉しくて幸せな気持ちになれたの」
涼花が急に目を伏せた。
「ある夜にね、胸の奥が締め付けられるように苦しかった。息ができないくらいに。それからね、この通帳は記帳しても記帳してもなんにも記載されなくなっちゃったの。お兄ちゃんがいなくなったんだって、そう思った」
涼花の表情は悲しみを噛みしめているような、諦めきれないような複雑な顔になっていた。
オレの中で、電撃が走った。
そう、オレは毎月涼花の口座に金を入れていた。妹を残して家を出てしまった後ろめたさと自分の安否の報告、そして少しでも彼女が自由になるための資金になればと思って。
家を出てから、オレはなんだってやった。汚い仕事から、ちょっとヤバイ仕事まで。とにかく生きていく為に、そして妹を自由にしてやるために。
工場で住み込みで仕事をすることになった時、地道に働いてみるのもいいかなと思ったものだ。
それまでやっていたヤバイ仕事仲間から離れるため、たまり場の居酒屋に行った時、そこにノリがいた。そうだ、オレはあいつと友だちだったんだ。ノリとの思い出が走馬灯のように蘇る。同じような工場に住み込んで仕事をするやつ。世間から冷たい目で見られて片身の狭い思いをするやつ。オレたちは同じような気持で生きていた似た者同士だ。オレはあいつとすぐに友だちになれた。少ない給料で安上がりな酒を自分らの部屋で飲んだっけ。あいつは他の奴とは違っていた。初めて心を許せる奴に出会った。
ノリの工場の社長は気難しそうだったが職人で、工場裏に住まわせてもらっているノリの部屋に行くと黙ってつまみなんかを持ってきて差し出した。言葉こそ交わさなかったが気持ちが伝わった。目が合うと暖かい何かが伝わってきたし信じられるおとなに出会ったのは、初めてで嬉しかった。
そうだ、桐生君の親父さんだった。
ノリは、ヤバイ仲間に「もうここにはあまり来れない」と言った。
あいつの工場の親父は施設から来たあいつを、そのまま何にも聞かずに働かせてくれたという。ノリは「がんばれば仕事だって誰にも負けないようになれるって言われたんだ」と嬉しそうにオレに語った。その時の表情が明るかったのを覚えている。オレは施設から来たわけじゃないけど働いている先で信頼があるかは怪しいものだったし、周りの人間は冷たい奴ばかりだったから。
なんとなしにね、思ったさ。おんなじように不幸な境遇、親に捨てられた可愛そうな青年。なのに、ノリは信用されている。信頼、オレにはとても遠くて大きいもの。
よく愚痴ったり世間の不条理をなげいたり仲良くしていた。でも、オレはノリの持っているものにいつしか嫉妬するようになっていたんだ。内心ね、どうしてオレだけって思っていた。
ある時ノリはオレの部屋に来る途中で、定期入れを拾った。まだ期限が、何ヶ月も先のものだったから、オレはノリに「払い戻しちまおうぜ」と言った。ちょっとは、遊ぶ金になりそうだったし、大した悪気も無かったし心も痛まなかった。
けど、ノリは名前を見て首を横に振った。桐生君の定期入れだった訳だ。
信頼されている工場の親父の息子の物。
その時、オレはたまらなく腹が立ったね。こいつは、その信頼に答えようとしてる訳だ。そして、工場経営者の息子なんて、どうせろくなやつじゃない。苦労知らずで親の金で遊びほうけてるだけのおぼっちゃんなんだろうってね。
オレの頭にひらめいた事があった。以前から聞いていた工場の取引の日の事。その日は取引相手の来る翌日まで、金を金庫にいれてある。「親父さんも無用心で、鍵もかけずに金庫に放ってあるのさ」っていうノリの言葉。オレはヤバイやつらにその情報を流した、桐生君の定期入れ付きでね。オレは何にもしてないし、それだけで三分の一をもらえる筈だった。
「お兄ちゃんがきっともうこの世界にはいないってわかっちゃったわ、わたし」
桐生君がそんなことないよと、言おうとした様に見えた。
大丈夫、って表情を作って自分に言い聞かせるように涼花は
「ううん、だって、さっきわたしの中でお父さんを怒鳴った時、お兄ちゃんは亡くなったお母さんの事を思っていた。亡くなったお母さんに会った記憶があったもの」
と悲しそうに、天井を見つめて笑う。
「わたしの事を心配して天国から降りてきてくれたんだと思うの、きっと」
桐生君がうなずく。優しいまなざしは涼花を包んでしまいそうだ。
(頭のいい妹さんですね。わたしもようやくあなたが、すべてを思い出してくださって嬉しいです)
うなるように天使のやろうがつぶやいた。
(やっと収まるところに収まったという事でしょうか、わたしも安心しました。それに定位置っていうのは居心地がいいものですね、本当に)
しきりに首を縦に振ってうなずいている。なるほど、定位置と言うのはそういうことか。
ようするに、オレはもともと妹の元に使わされたやつな訳ね。だけど、間違って桐生君の中に入っちまった。で、はみだしたこのふさふさ翼の天使様がしかたなく涼花のそばで、いろいろと画策したってことだ。
(この展開はわたしには読めていましたからね)
メガネを押し上げながら偉そうにおっしゃる。
『この展開っていうのは、オレが切れるってことか?』
両手と両羽を広げて肩をすくめて
(イエスです。あなたが怒らない訳がありませんから)
ふと疑問に思って不機嫌そうに聞いてみる。
『で?オレが怒って親父にくってかかるとどうなると思った訳?』
(もう~頭の回転悪い人ですね、妹さんとはぜんっぜん違うんですから、いやになってしまいますよ)
『うるせぇ!どうなるってのか言ってみろ!殴られたいのか』
メガネが落ちそうになりながらあわてて話始めた。
(あなたが妹さんの中に入って言葉を発した時に、彼らにはあなたの姿がはっきり感じられたのです。まあ、身内ですから当たり前のことですが。で、あなたがこの世にもういないということを確信した訳です。いてもあまり意味の無い人だったみたいですけどね)
『余計な事言うな』
(まあまあ、で、妹さんは悲しがり、お父様は懺悔の気持ちが芽生えるって訳です。そして、妹さんを自由にして差し上げようかと思う訳ですね。うん、みごとにうまいところに納まった)
なるほど涼花はこれで、一人でも生きていく事ができるようになったという訳なのか。嬉しさと安心と悲しみが入り混じって、オレの中にあった重いものが溶けてゆくような感覚を覚えた。ふと、気がかりだった事を言葉にして言ってみる。
『オレたちは、もう用なしってことか?帰らなくちゃならないのか?』
天使様はにこやかに微笑むと、幸せそうな顔を作る。
(そういうことになりますね。少しは頭を使えるようになったみたいで良かったです。まあ、ここまでが長かったとは言えますがね)
なんだか、妙に後ろ髪が惹かれる思いなのはどうしてなのか。
オレの生きる目標にしてきた、妹の自立。そう、親父から解き放つ事が一番の願いだった。そのために、やったオレの行動は正しかったのか?
なんだろうな、正しいなんて事考えて生きて来た訳じゃないのに、オレは正しかったのか考えている自分に驚いている。なにか、他に方法は無かったのだろうか。
ボンボンだと思っていた桐生君がしていた沢山の心配や苦労。嫉妬していたノリの生真面目な桐生君に対する熱い想い。オレがないがしろにしてきた、いろんな人の気持ちが、痛みが肌に感じられた。この数日間、オレの胸に響いた気持ちたちは消えずに今もこの胸にある。
「おにいちゃん!」
涼花が大きな声で、天井を見上げて言った。
オレはお前のすぐ後ろにいるよ、涼花を見ているよ。
「ありがとう!」
胸にオレの送った通帳が大事そうに抱かれている。
そうだ、オレの生きる糧になった物、毎月金を入れる事がお前とオレを繋いでいる唯一の証だった。妹が兄の知らせを知る、知ってもらいたい。その気持ちだけで生きてこられた。大切な大きな物だ、繋がりだ。
涙が止まらない。
大事な妹。オレのような生き方だけはさせたくなかった。人を愛せず、人を裏切って、誰も信じず。そんな風には生きて欲しくなかった。オレの分まで、たくさん笑ってたくさん楽しんで生きてくれ。それだけが願いだ。
涙の中でオレの身体が溶けていくのがわかった。
桐生君、妹をよろしくな。会えてよかった。桐生君の事知ることができてよかった。大切な事、教えてもらったような気がする。ありがとう。
きっと、涼花はこれからどんどんきれいになっていくんだろうな。たくさん愛されて人を愛して。
もう、オレは大好きな妹に会うこともできなくなるに違いない。でも、おまえに「ありがとう」なんて言われる日が来るなんてな。お兄ちゃんとしては、本当に嬉しいよ。お前がいてくれたから、オレは生きられたしこうして帰ってこれたんだと思うよ。サンキュウな、感謝してるぜ。じゃな、がんばって生きろよ!
胸の中の熱いものが消えてゆく。
目の前が白いもやに包まれて、身体が軽くなっていく。
いくつもの場面が流れてゆく。
ノリと笑いあった日々、少しだけまともに生きたといえる気がする。
だけど自分からその信頼を断ち切った。ノリが大切に思っていた桐生の親父との繋がりに妬みと嫉妬を繰り返しながら。
桐生君の定期入れ、そしてワル連中のピアス。
実行するのはオレじゃないし、ピアスはオレに報酬を約束した。
たいした事じゃないと思っていたんだ。ピアスは簡単に金庫から金を盗んでいった。
だけどノリは話をつけに来た。
胸がざわついてじっとしていられなかったオレ。
ノリはピアスに蹴り飛ばされ殴られ、それでもその金を返してほしいと頼んだ。
顔を血だらけにして、それでもピアスに縋りつくノリ。それを見て初めて、深く後悔した。
だから、夜中じゅう騒いで浮かれているピアスたちの店に行って自分の報酬をもらうふりして盗み出した。
そのままノリの寝ている工場横まで走るつもりだった。
気づいたピアスがワル連中を連れて、先回りされて囲まれた。
殴られるオレをノリが呆然と見ている姿が遠くに見えた。
腹に抱えて盗んだ金を握りしめながら、身体中に痛みを感じながら、ノリに謝っていた。
オレはノリが羨ましかったんだ、すまない。なぜ、こんな事をしたんだろう。
切ってはならない大切な絆を自ら断ち切ったオレ。
もう戻れない、取り返せない。自分の気持ちはノリには伝わらない。
流れてゆく場面が唐突に止まった。
たまり場に転がされて、ピアスの手に鈍く光る物を眺めている。
冷たく何もかも諦めたその瞳は、誰の声も届かないところにいてオレを見下ろしていたんだ。終わってゆくオレの人生が、寂しくもなく哀れでもなくピアスには映っていた。
目の前のまだ若い青年がどんな人生を送ってきたかわからないが、彼は何もかも捨てていたし期待も希望も何一つ抱いていない事は明白だった。
諦め、恨み、絶望、彼の瞳はそれらでいっぱいだった。
不思議と怖さは無かった。どのみちオレの人生なんてこんなもんだと思っていたし、捨てたくても捨てられないものばかりだったから。
ただ、目の前のピアスが少しだけ哀れに思えるだけだった。このまま終わってもオレはピアスとは少しだけ違う。
捨てたくても捨てられないものがある。
最後の最後に気付いた。そしてその為に終わってゆくのだったら仕方がない。
きれいさっぱり別れられるのはかえって嬉しいような気もした。
忘れたくない者の為に何にもできない自分にお別れだ。そうしたら、この苦しみとも別れられるのかもしれない、そう思った。
どんな結果になっても胸に握りしめた物は守ろう、たとえ正しい場所に返る事がなくっても。
ピアスの顔の横の振り上げられた手に握られた物が鈍く光る。真っ直ぐに見つめるオレに向かって振り下ろされた。
何か音声が途切れるような雑音がした。身体は突然に熱くなりそれから冷たくなっていった。
オレは汚い部屋の隅に立って自分の最後の姿を見ていた。それは可哀想な男の躯で悲しくもないのに涙が流れていた。
黒いスーツの男が現れるとオレを促す。それが誰かなんか関係なくて従うしかなかった。
そしてオレの命は、灯し火は消えたのだろう。
だけど白い霧に覆われた世界を歩きながら、涼花の顔が浮かんでは消え、何かがオレの裾を掴んで離そうとしない。
『前に進めないわね、ショウ』
声が聞こえた。
『同じ、わたしも同じ』
誰だったのか、思い出せない。だけどとても懐かしくて、気持ちがいい。
『だから、待っていた』
待っていた?オレを待っていたのか。
その言葉だけで心のどこかがふんわりと膨らんで、喜びを感じる。
オレは知っていた。母さんだ、母さんがオレと涼花を置いて家を出た事を後悔していることを。
本当は知っていたんだ。母さんがもう自分の生きている世界にはいない事。
自分の命の火が消えたと同時に、感じた。母さんが待っていてくれた、と。
自分が母さんのいる世界にいる、という事実。
母さんはずいぶん長い間、オレを待っていてくれたってことや心配していた事。
ふと周りに誰もいなくなっていて、一人きり真っ白い世界にたたずんでいる。
ぼんやりとセピア色の映像がかすかに見える。
映るシーンはぼやけてはっきりしない。
だけどその映像が、誰の物なのかはわかる。疲れ切った様子の母さんだ。自分の命を投げ出そうと思っているのか、崖の上に立っている。今にも身を投げ出してしまいそうだ。どこだろう、見覚えがあった。
「ショウ、涼花」
名前を呼ぶ力も弱弱しく、強風に立っていられないくらい。それでも、思いとどまったのか近くのベンチに腰を降ろして風に吹かれている。
「待って!待ちなさい、しんちゃん!」
近くで声がして、母さんが振り返る。
オレより少し幼い子どもがかけてくる。そのあとを追いかけてくる母親。
「お母さん、すごいよ!お父さんも来ればよかったのにね」
「お父さんはお仕事があるから、来られないのよ」
崖の上に見晴台があって、傍らには狭い一車線の道路が走っている。狭い駐車スペースに軽自動車を止めて出てきたのだろう。
その見晴台に親子が仲良く立ち、写真を撮っている。
空は青く澄み渡り、雲を強風が吹き流し、遠くの山々に押しやっている。
まるで自分を眺めるように母さんはその親子を、見つめている。
ふとこちらを振り向いて男の子が駆け寄って来ると声をかけた。
「きれいだね!おばさんどこから来たの?一人?」
母さんが笑顔で答える。
「そうね、きれいね。昔ね、子どもが小さい頃来たことがあったの。今日は一人で来ちゃったけど、一緒に来るべきだったわね。こんなにきれいなんだもの」
「そうだよ!一緒に連れてこなくちゃ!寂しがってるよ、きっと」
その少年を懐かしそうに眺めると、こくんとうなずいた。
「帰らなくちゃね」
母さんは呟いた。
そうだ、帰ってきてほしい帰って来てくれ、見えにくいその場面を食い入るように眺めながら強く願った。何かが起きる事、不安が広がっていたから。
その一瞬は、あっと思う間もない出来事だった。
少年の母親がこちらのベンチに近づいてくる。笑顔で頭を下げながらゆっくりほほ笑む。。
母さんの座っている場所に近づいたその時。
カーブを曲がってきたトラックの車体が突然現れると、曲がりきれなかったのか右前輪のタイヤが宙に浮いた。
キキキキという薄気味の悪い音が続いて、車体がぐんぐん大きく近づいてくる。母さんと少年のいたベンチめがけて突進する。恐怖に驚く母親のすぐ目の前で。ベンチをなぎ倒し、二人を跳ね飛ばした。
その勢いでトラックの車体は宙に浮いて、崖下に地響きとともに落下してゆく。
太い木々がなぎ倒されて、盛り上がった岩に引っかかり車は留まった。運転席からだらんとした腕が見えている。
崖下のなぎ倒された木々の間に、人の姿が見えた。
母さんの姿だ、そして頭からは血が流れ落ちて顔が赤く染まっている。
そしてその腕の中から、声が聞こえた。
「おばさん!おばさん!だいじょうぶ?」
少年は車に接触する瞬間に、母さんの腕の中に抱き寄せられて身体を盾にした格好で、無傷だった。
大きな声に薄く目を開けると無事を確かめるように、ゆっくりと瞼を閉じた。レスキュー隊が二人を助け上げると、冷たくなった母さんの身体をゆすって少年は大声を上げて泣いた。母親が震える手で抱きしめて安堵し、犠牲になった目の前の女性に苦しい表情を作って頭を下げる。
まだその先を見たかったオレは懸命に覗き込んだが、もう白い霧が上も下もわからない感覚で広がっている。
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