第十話 乱入

第十話 乱入


 廊下で怒鳴り声が響いた。聞き覚えのあるような胸くそが悪くなる思いが駆け抜ける。

 涼花が身体中をこわばらせて、キッチンの窓の向こう側にある廊下から響いてくる音に全神経を傾ける。

「すずか~でてこ~い!」

 年配の男の声だ。話に出てきた彼女の親父に違いない。忌々しいほどの怒鳴り声。

 せっかくそんな環境から逃げ出してきたって言うのに、なんでやつは追いかけて来るんだ。

(何回聞いても、慣れる事ができないですね。あの声には)

 天使様は身震いしながら、羽を小さくして首を振った。

(ここから、わたしたちは為すすべがありませんから!)

 思わぬ言葉が真っ白い羽の生えた天使から聞こえて、むっとした。

 まったく天使様ってのは、ただ黙って目の前で起こる不幸を見守ってるだけだっていうのだろうか?背中の純白の羽を小さくして座っている情けない野郎は、素知らぬ表情でお茶でも飲んでそうに平然と首をかしげて薄目を開けてみている。

 天使はため息を漏らして膝を抱えた。

『なんだって?おまえは何にもできないのかよ!天使のくせに!』

 為すすべがないって?こんな理不尽な人生になんの手立てもないのか?何にもしてやることができないっていうのか?

見ているだけしかできないなんて、オレは悔しさで唇をかんで空をみあげた。

声を聞いただけでわかる。どんなに涼花がこの男の理不尽な態度に苦しめられてきたか。

息をひそめて生きてきたか。

 何もしてやれないって事は、今のオレには痛すぎる仕打ちだ。


 廊下にいる涼花の親父は、隣の部屋のドアをどんどん叩き始めた。

「ごめんなさい!」

 涼花はあわてて立ち上がると、桐生君にぺこりと頭を下げて部屋を出ようとした。

 すべてを察したのか、桐生君が彼女の肩を掴んで立ち上がってドアに向かう。

「お父さん、こちらへどうぞ!」

 ドアを開けると廊下で喚き散らしている父親に向かって、きっぱりと言葉を選んだ。

 涼花の驚いた顔。桐生君の顔を見つめながらいやいやをするように首を振って唇をかむ。

 唇から血の気が引いて真っ白い顔をして、桐生君を見つめて涙を浮かべている。

(どうしよう、彼にまで迷惑をかけてしまう)

 オレのどこかから涼花の心の声が聞こえてくる。

「なんだ?お前は何者だ?」

 どすのきいた声が廊下を歩いてこちらへ向かってくる。大方昼間から酒でも飲んでそこら中に迷惑をかけながらやってきたに違いない。涼花は耳をふさいで、座り込んでいる。

「ごめんなさい!」

 もう一度小さな声を漏らす。

(お願い、彼に迷惑をかけたくない。どうすればいいの?)

声に出した言葉と心でつぶやく気持ちが伝わってくる。

涼花の声が聞こえたのか

「おう!なんだそっちにいるのか?」

 どすどすと荒い足音が桐生君の部屋の前で止まった。涼花は顔を上げる事ができないでいる。

 桐生君は、まっすぐにその男を見つめて部屋の中へ誘った。

「僕は涼花さんの友だちの桐生といいます。良かったらこちらで話されませんか?」

 ふんと鼻をならして男は桐生君をけげんそうな顔で頭の先から見下ろした。

「涼花にこんな男がいたなんてな。知らなかったよ。どうりで一人で出て行きたがるわけだな。人の娘を誘惑しておいてお前は何の話があるってんだ」

 侮辱された言葉に反応したのは、涼花だった。顔を上げると父親を睨みつけながら息を吸い込んで言う。

「彼は関係ないわ!わたしが家を出たかったのは、とうさんと一緒に居たくなかったからよ!」

(お願いだから彼まで傷つけないで!)

 目に涙をためて、立ち上がる。怒りで震える手を胸にあてた。

「とうさんは、いつになったらわかってくれるの?母さんが出て行ったのだって、父さんがお酒ばかり飲んで働かなかったからだってわかっているの?わたしは、もう父さんと一緒には暮らしたくない!わたしにはもうかまわないで!お願いだからもう自由にして!」

 一瞬躊躇して父親の表情に変化が現れたようにも見えたが、それもすぐに消えて今までの乱暴な目つきに戻る。

「お前は、実の父親を一人にしていいと思ってるのか?母さんが出て行ったのは俺のせいじゃねぇし死んだのだって俺の知ったこっちゃねぇ!俺は真面目に働いても世間様が俺の敵になっちまうんだからしょうがねぇじゃねぇか!たまには酒ぐれぇのまねぇとやってられねぇのよ!それのどこが悪いっていうんだい!」

 桐生君が言葉を挟もうとしたその時、涼花が大きな声を上げた。

「父さん!父さんが、そんなんだから兄さんまで出て行っちゃったんじゃないの!兄さんの事心配した事ないでしょう!わたしは兄さんの事探したくて会いたくて、どうしようもなくて家を出たのよ!そんな気持ち、父さんにわかる訳ないじゃないの!」

 涙、熱い想いの詰まった涙は、そこから空気の色を変えてゆく。涼花の悲しみ苦しみ、もがき逃げ出したい気持ち。愛情、恋心、上を向く支え。


 オレの何かがその言葉に反応した。頭のてっぺんに血が逆流して、身体中が熱くなる。まるでオレは生きているような気がした。身体中が自由になってゆく。そして、身体中に怒りが駆け巡って沸騰する。熱くなったオレの指先がぴくんと動いた。

 腹の底から駆け上がって来る怒りと苦しみが喉のところで固まって、声になった。

『ばかやろう!』

 オレの声はそこいら中の空気を振動させて、部屋中に響いた。桐生君も親父もこちらを大きな目を開けびっくりして見つめていた。

 だけどオレはもう止まらない。怒りで震えて、オレは親父の胸倉を掴んで吠えた。

 なぜ親父の胸倉を掴めているのか、その時はなんの違和感もなかった。

 だけどオレの想いは音声となって部屋中を支配している。誰の耳にも届く言葉、声になって発せられている。


『いつまで、負け犬のままでいるんだよ!涼花がどんなにお前に尽くしてきたのかわかってんのかよ!お前のせいで、どんなにオレが悔しい思いをしたと思ってる!涼花だけは幸せにしてやりたくてオレがどんな想いで生きてきたかわかるか?母さんが、ずっと後悔していたのはお前のところにオレたちを置いて出て行ったことだったって、知っているのか?死んでからもその思いにさいなまれていつまでもいつまでも楽になれないでいるのを知っているか?死にたくても死にたくてもお前が涼花を離さないからオレは汚いままで生きてきたんだ!オレの命なんてどうでもいい、涼花さえ幸せになれればってずっと思って生きてきたんだ!これ以上涼花を苦しめるのはオレが許さねぇ!いい加減に、一人の人間に戻って生きて見やがれ!いいか、良く聞け!人はな、生まれる時も死ぬ時も一人ぼっちなんだ。だけどな、死ぬ時に違うことがあるとしたら、自分を愛してくれた人に囲まれて死ぬ事ができるかってことなんだ。それがどんなに幸せな事か、そして誰にも愛されないままたった一人で死ぬ事の、寂しくて辛くて、死ぬよりも悲しいって事。オレはこんな思いを涼花にだけはさせたくない!いや、オレがさせない!』


 オレはすべてを思い出していた。そして自分の意思とは関係なく、涼花の身体に入り込んでいた。涼花の身体をかりてオレは親父に怒鳴っている。

 身体中の感覚が蘇っている。生きている感触が手に唇に伝わってくる。


「おまえは、ショウ、なのか?」

 親父は腰を抜かして、へなへなと座り込んでいた。まっすぐにオレを見つめて、手を震わせている。親父の目に映っているのは、オレ、ショウだ。

 親父の野郎を殴ろうと思って胸ぐらをつかんだが、自分の手を見て自分の身体が涼花だという事に気がついてやめた。握りこぶしは、きゃしゃな涼花の手に違いなかったから。

 思い切り掴んだ親父のシャツを力一杯突き放してオレは、大きく息を吐き出した。

『頼むから、もう自由にしてやってくれ!もういいだろう、こいつは十分辛い想いを味わって耐えてきたんだ!一人だけで親父の仕打ちに苦しんで来たんだ!精一杯頑張ってきたんだ!』

 そう言った。

「シ、ショウ」

 親父の震える声が、かすれる。信じられないものを見ている表情は、引きつって歪んだ。


 自分が涼花の身体に入って吠えた事に気づいて親父が震える表情になった時、オレはすでに涼花の背後に揺れていた。涼花の身体から抜け出たのだ。

ハッとして後ろを振り向くと、桐生君の背中に天使野郎がしたり顔で嬉しそうに浮いている。

 天使様は親指なんかを立てて、翼を羽ばたかせて頷いている。柔らかくて暖かい空気が漂ってくる。

「今のは」

涼花が自分の頬を手のひらで覆いながらゆっくり呟くように言った。

「おにいちゃん、だと思う」

 涼花がゆっくりと腰を下ろしながら、力が抜けたように答えた。

 涼花、オレの妹。愛して愛して、だけどオレは自分の事でいっぱいで一人で親父の元から逃げ出したんだ。心残りで度々、家の周りをうろついていた。姿を見つけては心が痛んだ。それでも親父が変わらないのがわかると、涼花がどうにかして家を出られないかと考えた。オレの幸せは涼花が幸せになることだけだった。その為だったら、どんなことだってできる。自分はどんなになっても良いとさえ思って生きてきた。涼花を親父の元から自由にしてやりたい。それだけがオレの生きる意味だと思って、這いずるように生きてきた。


「涼花の姿がショウに重なって、ショウの声が聞こえるなんて。俺の頭はおかしくなっちまったのか?」

 親父が目を見開いたまま呟く。

「確かに俺の胸ぐらをつかんだのは、ショウだった。間違いねぇ、あの俺を下げずむような目は、ショウだった。ずいぶん昔に会ったきり、どこに行ったかもわからない俺の息子のショウだ。ショウだった」

 幽霊を見たようにおびえて、そして不思議に安堵したような口元がほほ笑んでいるのかと思われるように上がり、もう一度震えた。

「やっぱり、やっぱりお兄ちゃんは死んじゃったんだわ」

 涼花がうつむき呟き、その膝の上に涙が落ちた。オレの胸が締め付けられて苦しい。

 親父が引きつった顔を涼花に向けた。

 ゆっくりと事実を噛みしめるように彼女は言葉を選ぶ。

「そんな噂うそだって、信じたくなくて確かめたくて。私はお兄ちゃんに会いたくて会いたくて、どうしても会いたくて家を出たのに。今の感覚は、あったかい今の身体はお兄ちゃんだった。お兄ちゃんに抱きしめられているみたいだった。そして軽くなって出て行った。お兄ちゃんはもうこの世界にいない」

 涼花は両手で顔を覆って泣いた。声にならない声がオレの胸のどこかを傷つけてゆく。目に見えない血が流れてズタズタになってゆく。オレは涼花を見守りながら、いつだってそんな痛みに耐えながら生きていたんだ。そして、死んじまった今でさえ痛みは続いている。妹のこんな悲しむ姿を見つめているだけで。


 その姿を眺めていた親父は、ぼうっとしたまま立ち上がった。桐生君がじっと見守る中、親父は少しだけ頭を下げるとドアを開けた。

「なんかあった時だけでいい、俺の事も思い出してくれ。安心しろ、もうここへは来ないからな。親としての願いなんて言えた義理じゃないが、ショウの分もお前が生きてやってくれ!」

 そう呟くとパタンとドアを閉めて姿を消した。


 抱えていた何かが少しだけ、変わった気もする。

親父の中にも、自分ではどうにもできない悲しみや愛情があったんだろうか。いろんな事から逃げ出したくて、酒におぼれて周りの愛を失った。それがわかっているのに、そこから抜け出すことができないでいた弱虫な親父。母さんが出て行ったとき、オレが外で置き去りにされた夜。親父は泣いていた。肩を震わせて泣いていた。母さんに捨てられたとは気づいていない幼いオレは、親父が泣くのを不思議に思って眠った。あの晩の事を今の今まで思い出したことはなかったのに、今目の前で起こっている事のようにありありと浮かんでいる。悲しみに胸の奥がちりちりする。

 親父に対して、本当に恨みだけしか抱いて生きてこなかったオレ。だけど、今オレは親父を哀れんでいる。可愛そうな親父の人生を、見つめている。親父の生き方は、そっくりそのままオレの生き方と同じだったんじゃないか?すべてを周りのせいにする。自分がうまくいかない事は自分のせいじゃない。運が悪いんだって。そして、運がいいやつを妬み謗り憎んだ。

 本当は掛け替えのない物がそばにあったのに、その存在を忘れて。なにより大切な物を守って生きてこなかった。そしてオレは、オレの人生は簡単に終わってしまうんだ。

 こんなにも短くて簡単で、生きた証の一つもない。なんてつまらない、なんて意味のない時間を生きてきたのだろう。オレはきつく握りこぶしに力を込めた。


「お兄さんがいたんだね」

 桐生君が涼花の肩を抱いて呟いた。濡れた瞳を桐生君に向けると、涼花はうなずいた。

「いつでも、わたしの事を見守ってくれていたの」

 そう言うとカバンから何かを取り出した。

 長い距離を走ってきたように、身体がくたくただった。気持ちも長い悪夢を見て目覚めたようにうつろだった。溶けてしまいそうに疲れている。

 オレの妹は、きりっとした瞳を彼に向けて話した。



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