第三章 最後の章

第九話 訪問者

第九話   訪問者


 今日も桐生君はなんだか、ほわんとした表情で悲しみをしばし忘れているようだった。

 オレは思ったね。やっぱ、この世は愛こそすべて、なんだなってな。

愛、ねぇ。オレの記憶の中に何人か人の顔が思い浮かぶかと思って考えてみた。よくよく考えてみた。

 う~ん、桐生君の事故で頭打ったからかな、一人の顔も浮かんではこない。

 それともオレは、愛を知らない人間だったのだろうか?けど、かすかに思い出しそうな気配もある。大切な誰かがいたって。その為ならなんでもやれる、みたいな。だけど、その肝心の顔はぼやけていて輪郭もはっきりはしなかった。

 桐生君の顔を見ていると、羨ましい気持ちが湧きあがる。

 今桐生君は、きっと頑張りが利くんじゃないのかな。何かの為だったら。

 

 桐生君がまだぼんやりしている夕方頃。ドアがノックされた。桐生君は、ドキッとして心臓の鼓動が激しくなる。彼女がもう一度訪れたのかと思うよな、昨日の今日じゃ。

 けど、ドアの向こうから低い声が聞こえた。明らかに彼女じゃない男の声だ。首をかしげながら、ドアに向かう。

「どなたですか?」

 桐生君の声に答えて

「俺、工場で働かせてもらってるノリです。どうしても話しておきたくて」

 桐生君はドアを開ける。冷たい風が勢い良く部屋の中に入り込み、今までのほわんとした空気を押し流して行った。

 ドアの外に立っていたのは、茶髪の小柄な青年。工場で働いていた奴だ。

 ああ、そうかこいつオレがあぶないと、とっさに飛び込んだ時歩道橋のところに倒れていたな。こいつが手すりを越えて身体を投げ出したのを、桐生君が捕まえて変わりに落ちてゆくのを見たんだ。そして、そこにオレが飛び込んじまったという訳だからして、こいつが無茶な事をしなければオレはこんな厄介な事に巻き込まれなくって良かったんじゃないのか!くそっ!

 けげんそうな表情がよぎったのはオレだけだったか、桐生君は複雑な顔をしてノリと言うやつを部屋に入れた。

「すんません、オレ亡くなった親父さんに顔向けできなくて。慎一さんにも申し訳なくて、これだけは伝えなくちゃと思って」

 ノリは今にも泣き出しそうだ。桐生君は黙って、お茶を入れてノリの前に出した。

「すみませんでした!」

 ノリは額を畳にこすり付けた。桐生君は黙ったままだ。少しだけ悲しそうな表情でうつむいている。

「俺、慎一さんの定期いれ拾って知り合いに渡しちゃったんだ。きっと工場の息子のだって言ったら知り合いだから返しておくって言われて。それから、払い込む為の金が来る日や段取りやそんな大切な事全部しゃべっちまったんだ。それで、俺のせいであの日の盗難は起きた。本当にすみません、慎一さんに疑いがかかっちまったのも、結局工場をつぶしちまったのも、俺なんだ」

 ノリは畳につっぷして泣いていた。背中が悲しみに震えているみたいだった。なぜだかオレの胸の中に痛みが走る。この震えている背中の悲しみまで伝わってくるようだ。

 桐生君は、その震える背中に向かって落ち着いた声で言った。悲しみの表情は無くなり、口元には柔らかい笑みも浮かんでいる。

「全部親父はわかっていたよ、たぶん。君が施設のつながりを絶ちたくてもなかなか絶てない事も知っていたし、本当は協力なんてしたくないって事も」

 ノリは施設から工場に就職した。親から捨てられた施設から彼が来る事は、親父さんに相談されていたらしい。施設の知り合いから頼まれた、でも心根はいいやつだ。そう言っていた事を桐生君は思い出していた。

 ノリの事を気にしていた、親父さんの最後の言葉。


 まあそういう育ちのやつは、なかなかまっとうには生きられないだろうなとオレも思う。第一施設ってやつはそこにいたってだけで、世間の目は冷たいもんだ。その中で生きていくためには強くならなくちゃ生きられないし、強いだけでもだめだ。懸命にまじめにやっても、そこそこの評価しかしてもらえないし。なにか問題でも起きようものなら、お前のせいだってみんなが思うもんだし。冗談じゃない、そんな偏見を持たれて真面目に働けるかって思うのが人情じゃないのか?

 オレは痛くこいつの気持ちがわかった。わかりすぎるくらいに、理解できちまった。でもまあ、こいつの場合信頼してくれる親父さんに出会えた事が最高の意味があるってもんだね。信頼は金で買えないから。オレっていいこと言うじゃないの。

 ノリが顔を上げて苦痛に歪んだ表情で低い声を出す。

「盗難騒ぎがあった日、俺は知り合いのやったことだって思ってそいつらがいるたまり場に行ったんだ。そうしたら、知り合いの一人が金を持ち逃げしたって大騒ぎになってて。一緒にそいつをさがしまわったんだ。仲間とようやくそいつを見つけて俺は金を返してもらおうと思ったんだけど、そこに仕切ってるヤクザが現れて持ち逃げしたやつは、ボコボコになってて」

 桐生君はうなずいた。ノリは桐生君の顔を見ることもなく話を続けた。

「そいつは、たぶん相当ひどい目にあったと思う。金もやっぱり返してもらえなかった。全部俺のせいだって、俺死んじまいたいと思ってあの時歩道橋から飛び降りようとした。それなのに俺の事救ってくれたのは、慎一さんで。もしかしたら慎一さんに疑いがかかってたかもしれないのに」

 桐生君は微笑んだ。

こんなちんけなやつにもあったかいまなざしを向ける桐生君を、オレは同じようにあったかく見ていた。こんな風に人を見るって、どうしてできるんだろう。以前のオレだったら、できなかったような気がする。親父を裏切ったようなやつ、生きているのに何の意味もないに等しいやつ。

「誰だって、飛び降りようとしている人を見過ごせやしないよ。代わりに僕が落ちちゃったのは計算外だったけどね。その後のことはほとんど覚えてないし。君が気にすることはないよ」

 ノリは顔を上げると、桐生君の顔を見て涙を拭いた。

「でも親父さんに謝る前に、亡くなっちまって。いくら悔やんでも悔やみきれなくて」

 桐生君は自分のお茶を飲み干すと、少しだけため息を漏らした。

「もっとも、僕が金をつくって持っていったけど取引先が倒産したんだ。金があってもなくってもうちの工場はもともとこうなる運命だったんだよ」

 桐生君は親父さんを失った悲しみを、少しだけ乗り越えたのかもしれないなとオレはその時そう思った。ノリの表情はかすかに軽くなったように見える。

 そして何度も何度も「ありがとうございます」と頭を下げながら帰っていった。

 帰っていく後姿は、幾分来たときより背筋が伸びていたようにもみえた。

 なるほどね、だから桐生君の定期いれは事務所に落ちていた訳で、親父さんも事の次第は大体わかっていたってことなのか。

 小さな町工場の経営者にしては、腹が座った人だったのかもしれないな。いや、小さな工場だからなのかもしれない。懸命に生きる姿を見てきた桐生君はそれなりに、親父さんを理解しているりっぱな一人息子なのだろう。ノリってやつは、そんな二人に関わってどこか生きていく姿勢みたいなものが変わったかもしれないし、もう悪い奴らには利用されたりしないだろう。

 それこそが、この盗難騒ぎのあった意味なのかもしれない。二百万は大金だけどな。

 その時、オレはそんな風に思える自分に何とはなし好感が持てた。不思議だけど、自分の事を好きに思えることって今までなかったような気がする。いや、オレは自分自身を好きだとか嫌いだとかの対象に思った事はなかったんじゃないのか?自分はどんなに汚くても逃れられない存在で、嫌いでも好きでもそのままに生きていく事しかできなくて。誰からもそんな存在には、なることもない。

 ただ、生きるためにだけ生きていた。そんなオレの人生。

 その記憶だけは確信できるものだった、悲しいけど。


 桐生君は親父さんの遺影に手を合わせた。

「親父、ノリくんは親父の気持ちに触れてきっとちゃんと生きていけるよ。そして、僕がいつか親父の工場を立て直してみせるからね」

 オレの胸の奥で茶が沸きそうなくらいのあっつい想いが、吹き出していた。その熱い想いは、まるで生きてるみたいに感じられて力が湧いてきたのも事実だった。生きてた時にもこんな気持ちになれれば良かったのにななんて、昔のことも思い出せないのにオレは思う。

 その晩、北風が強く吹いていたけれど、桐生君には聞こえなかった。少し前まで北風は外じゃなくて桐生君の心の中に吹いていたから。その風の冷たさを、今彼は感じていなかった。

 親父さんのいなくなった悲しみではなく、生きていた時の暖かい記憶が彼の心の中を占めていたからなのかもしれない。落ち着いた悲しみと懐かしさが、ゆったりとした彼を創っている。

 とにかく、何かが変わった。彼の悲しみの形そのものが変わったんだと思った。


 北風の通り過ぎてゆく音と一緒にオレの耳元でいくつのも言葉が流れてゆく。

「俺はどうなってもいいから、お願いします」

「それがないと、大変な事になるんだ」

「生まれて初めてなんだ、人の為にがんばろうって思ったのは」

「どんなことでもします、お願いです」

頭を下げているのは、そうだ、ノリだ。オレの胸がかすかに震えて痛む。

「大した事じゃねぇよ、もっと気軽に考えな」

「うまいもんでも食って、忘れちまいなよ」

「もう終わった事だって、諦めなよ」

 ノリじゃない声が腹に響く。オレの横に立っているのはピアスをした男だ。

 オレのどこかが縮み上がるように怖がっている。へらへら笑うオレがいる。

 笑っているのに悲しみと虚しさが北風みたいに通り過ぎていく。


それからピアスが追いかけて来る狭い路地裏。

行き場のない焦り。ピアスは何人かを後ろに従えて、オレを追い詰める。

「冗談じゃないぜ、おまえに裏切られるとは思ってもいなかったぜ」

「話を持ってきたのはお前じゃないか、こうなることはわかりきった事だろうが!」

「いい思いしたかったんじゃないのか?」

「今さら、義理なんかたてたって誰も喜びやしないだろ?」

 震えるオレの手には何か大切な物が握られてる。大事な何か、取り戻す為の何か。

 オレの間違いを正してくれるかもしれない何か。

「信じるって金じゃ変えないものだったんだ、忘れていた」

 オレは手に力を込めて自分の愚かさを後悔しながらつぶやいた。

 ピアスが笑う。

「ふ~ん、おまえからそんな言葉が聞けるなんてな。びっくりだぜ」

 オレはすさんだ瞳に恐怖を覚える。ピアスがオレに向かって握り拳を振り上げる。

 何もかも捨てた瞳は、違う生き物のようで冷たくどんな言葉も通じないように思えた。


 胸が熱くなり吐き気がした。思い出したくない気持ちが溢れそうで、頭の中で繰り返す映像にピリオドを打ちたくて声を上げて上を向いた。

(やめてくれ!)

 なんだろうこの感覚、気持ち、悪寒。

 二度と味わいたくないと思っていた、止めてほしい気持ちでおかしくなりそうだ。

 オレが何をしたのか、何が起きたのか、思い出す事はない。いや、もしかしたら思い出したくないから記憶から消し去っているのだろうか。

 けれど、頭の中にこびりついている映像。さっきまでどこにも無かった、感じなかった苦しい感情が大きくなってゆく。

 もう一度叫んだ。

(やめてくれ、止めてくれ!)

 遠くの方で声がしたような気がした。

『ショウ』

 その声を聞いてオレの感情の渦はスッと真っ直ぐになった。そうだ、オレは後悔している。そしてその後悔はオレを先に進むことをためらわせたんだ。

 それがどんな事なのか、何なのか思い出さなければならないのだ。まだ、頭の中の映像をピースをつなげるように形にはできない。

 しかしもう少しで何かがわかるような気がする。

 そして、この感情を真っ直ぐにしてくれた声の事も。

 焦るのはやめにしよう。ゆっくりと思い出してゆこう。

 そう思うだけで、何かが軽くなってゆく。

 大きく息を吸ってゆっくり吐き出し、窓の外の明けてゆく空を見つめて頷いた。

 

 何日かして、日差しが温かい日曜日だった。隣がガタガタと物音で騒がしかったが、いつかのような物騒な物音でもないようなので桐生君は気にはしなかった。バイトもその日は夜勤なので音楽を聴きながら、窓の外の公園で遊ぶ子供達を眺めたりしていた。

オレは子どもは嫌いなんだが、桐生君は自分の子どものころなんかを思い出してるみたいで、ポカポカの陽だまりみたいな場面が映って見えた。

 桐生君の小さい頃の事、おもちゃが欲しいとせがむ息子に子どもには重くて大きい車のおもちゃを親父が作ってくれた。小さくてかっこよいデパートに売っているやつとは似ても似つかないけれど、桐生君はその油臭いモーターで動く車のおもちゃが大好きだった事。

 思い出している彼の顔は見ているこっちまで、暖かい気持ちになってしまう。


 いいじゃないの!そんな親父欲しかったねぇ。オレなんてそんな親父には縁遠くって、最悪だった。

あれ?オレそんな事思い出したのかな?最悪な親父だった?いや待てよ、最悪だったのは最悪だったようだが、どんな風に最悪だったのか?思い出せない。

 オレは、愛情に包まれて過ごした事がなかったような気がした。親父にも可愛がられた記憶が残ってないし、お袋には捨てられた。そこだけは覚えているんだけど、細部に至ってはどうもぼんやりしちまって、思い出せないままだ。

 オレの小さい頃はどんなだったかな。オレはどうして生まれてきちまったのかな。

 そしてどうして死んじまったのかな。

 生きてきた意味ってなんだったんだろう。そんな疑問が頭をもたげるとまた、堂々巡りになりそうなのでやめた。


 まだまだ公園からは、にぎやかな声が響いていた。わがままを言って困らせて泣いている子どもの声と、なんとかして言いくるめようとする親。それでも納得がいかなくて、泣き喚く。

 ああ、おとなになるって収まらない気持ちを何とかして殺してへらへらと笑っている事なんだろうか。それでも胸の奥では子どものように、納得がいかなくて泣き喚いている自分がいるんじゃないのかな。おとなになるって、自分の気持ちを殺さなくちゃならないのかな。だとしたら、どんどん強い気持ちを持たなくしてゆくことが、近道だったりするのか。それが、いい事なのか悪い事なのか、オレにはわからない。

 切ない親子のやり取りは、いつしかおさまって子どもの笑い声が響いている。

 納得がいかなくても、子どもはおとなに従うしかないんだよね。そして自分の欲求は押し殺してしまうんだろうか。それは、いつの日か噴き出して止まらなくならないのかな。

 沢山の疑問符が駆け巡る。答えは出ないし、出せるはずもない。

 途中で人生を終わりにしたオレには、その答えを出す術はもう残っていないのだろうか。


 隣の騒がしい音は、とっくに静かになっていて何も聞こえては来なかった。桐生君はまだ、幼い頃の思い出に浸っていた。

 大好きだった親父の想い出は小さな何でもないものばかりだったが、一つ一つ大切で暖かかった。

 そんな暖かい思い出から現実に引き戻すかのように、トントンとドアを叩く音がした。

「こんにちは、いらっしゃいますか?涼花です」

 彼女の声だった。すずか、そうか、そんな名前だったっけ。

 桐生君は飛び上がってドアに向かう。頬が上気して赤くなって、ごみ箱につまづいた。

 これぞ、ルンルン気分ってやつだね。恋しい彼女が来てくれるなんて、胸のドキドキ高鳴りはかなりのものだったね。オレの鼓動も激しくなったりした。切なくて甘い、優美な感覚。

 信じられない気持ちで開けたドアの向こうには、いつもよりボーイッシュな彼女が立っていた。本当に桐生君が会いたかった彼女だ。

 ジーパンジージャン、髪も一つに束ねてあった。小柄な顔がいっそう小さく見えてすっきりした表情で嬉しそうに桐生君を見上げている。いつもと違う印象で少し驚いたけれどそれでも桐生君には、眩しそうな黒目がちの瞳が愛くるしくてしかたないように映っている。黒い瞳が真っ直ぐにこちらを向いて

「あの、私お隣に引っ越してきたのでご挨拶にと。それと、シロの面倒をみてもらったお礼に良かったらご馳走させてください」

 涼花は食材の入った袋を持ち上げてにっこり微笑んだ。

「え、引越しって?」

 桐生君は驚いて廊下に身体をのり出して、隣を覗き込んだ。

 そうだよ、隣にはあの若作りおねえおばさんが住んでいたじゃんか。確か泥棒騒ぎの時、お礼するって言ってなかったっけ?その後お礼された覚えはないが。

「わたし、家を出たんですけど丁度桐生さんのお隣が空いていたので、なんとなく他に行く気がしなくなっちゃって。ごめんなさい、迷惑でしたか?」

「い、いや!ぜんぜん!う、嬉しいくらいで」

 思わぬ幸運に桐生君は、あっぷあっぷの自分の感情におぼれそうだ。

落ち着け落ち着け!これからは、毎日お隣さんだぞ。ラッキーじゃないの。桐生君がどぎまぎしている間に、「じゃ、おじゃまします」と部屋の中に入りエプロン姿になった彼女。

桐生君が後ろでうろうろする狭いキッチンで、ねぎや春菊豆腐なんかを切り始めた。横には牛肉の包みが置いてある。

材料をみるからに、すき焼きだ。

手際よく作り始めた。すき焼きなべとガスコンロまで持ってきたのは、お隣さんだからこそできる技だわ。そして下ごしらえをすると部屋の真ん中で、二人だけのすき焼きパーティーの始まり始まり。

 いいねぇ、大好きな人と小さなテーブルを囲んで、一つ鍋をつついて。

 きっとオレには経験した事のない幸せなひと時に違いない。と言ったってオレが経験してる訳でもないが、桐生君の気持ちには簡単に入り込む事ができた。

胸の真ん中がカイロでも入れてるみたいにぽっかぽかなんだ。たまに息苦しくなる事もあったけど。そっと彼女を盗み見るとその度、熱くなる。

 それからなんでも彼女の話によると、お隣の若作りのおばさんはあの泥棒に入ったやつと昔つきあっていたらしくかなりつぎ込んだがどうしようもなくて別れた、という訳だそうだ。で、金もなくなった男が勝手知ったる家に泥棒に入った。とこういう経緯らしい。で、刑務所から出てきてまた顔を合わせたりしたくないし危ないと思ったので、居場所を変えた。とまあ、こういう理由で隣が空き部屋となったという、大家さんの話。

 どんな経緯だろうと、隣に彼女が引っ越して来るというのは物凄くラッキーに違いない。


「ところでこのアパート、ペット飼ってもいいって?」

 桐生君が、彼女が一緒に連れてきたシロをみながら聞いた。シロは慣れた場所である桐生君のベッドにのってちゃっかりお昼寝中だ。

 そう、たしかこのアパートはペットお断りだったと思う。

「それが、わたしが入る前まではだめだったらしいけれど、いいって言われたんです。いまどきはペットくらいしかたないねって」

 ちょっとその話は、オレにはひっかかったのだが。まあ、良かったじゃないの。

 それから、彼女はどうして家を出たのか話し出した。

 飲んだくれの父親、小さい頃出て行った母親。いつか家を出ようと決めて仕事をしながらお金をためていた事。そんな話を、笑いながらたいした事でもないよと言う風に話した。

 たいした事なのに、屈託ない笑顔をみせる。

 涼花、このきゃしゃな女の子の中には思ったよりも強い何かがあるのかなと、オレは不思議に思った。なんで、この娘は誰も恨んだり憎んだりしないのかな。いや、憎んだりした事もあったかもしれない。けど、それを乗り越えて今ここにいるのかもしれないな。

 そして自分と重ね合わせてみる。

 オレは不幸を周りのせいにした。恨んで憎んで、すべて自分のせいなんかじゃないと。環境が悪いと、取り巻くすべてのせいにして逃げた。オレのどこだかわからないとこが、チクチクと痛む。同じような環境なのに、オレは人の顔色ばかりうかがって卑屈に笑っていた。

 この一見弱そうに見えるこの娘とオレは、何が違ったんだろう。オレはもっと違った生き方があったのだろうか。オレの生き方がすべてだとはけっして思わないけれど、どうすればもっと違った生き方を選択できたんだろうか?柄にもなくそんな事を考えているオレにオレ自身が驚いていた。


(あなたとは、まったく人間の質がちがいますよ、比較にもなりませんね)

 どこからともなく、あのいまいましい声が聞こえてきた。

 少しだけれど自分でそんな風に思っていた事を言葉にされたからか、頭に血が上った。

『なんだと、もう一度言ってみろ』

 オレはあたりを見回した。窓枠に寄りかかって偉そうに腕なんか組んで、あいつがいた。

 白いスーツは真新しく、羽は空気を含んで膨らんでいる。

(冗談じゃありませんよ、わたしは同じことは二度と言いたくはありませんね。まったく頭悪い人とは話もできないんですから、疲れてしまいますよ)

『誰が頭悪いって?こら!』

 オレの怒鳴り声に多少びくついたみたいで、天使様は寄りかかるのと腕組みをやめた。

(あなたには、感謝こそされても怒られるような事はしていませんからね!)

 こちらも、かなり感情的な金切り声をあげたのにはびっくりした。

(とにかく、わたしもいろいろ一生懸命なのですからね!これというのも、みんなみんなあなたのせいなんですからね!)

 かなり疲れているのか、目の下にくまができている。ヒステリーだ。

(桐生君と彼女がここでこうして幸せにお鍋なんかを食べていられるのは、わたしが頑張ったからなんですからね!)

 いつもより、攻撃的な天使だ。背中の翼が怒りで逆立って膨らんでいる。

『なんだよ!お前が何したっていうんだよ!』

 なぜ出現と同時に怒りまくっているのかわからないと思うと、自分の怒りが引いてゆく。

(あのですね!このアパートはペット禁止のアパートなのですよ、それはご存知ですよね)

 天使様は鼻息荒く、高い声を上げた。

『そんな事は、とっくに知ってるよ!だから何なんだ?』

(大家さんがなんで、ペット禁止を解除したのでしょうね?わたしがそうさせるべく奔走したのですよ!いいですか?大家さんのお孫さんがペットを飼いたくても飼えない賃貸に住んでいて、それを何度も何度もおじいちゃんにどうにかしてって言わせて!あげく、犬を拾ってこさせて大家さんがお孫さんの為に頼みに行って、いまどきは犬くらい飼えるなんて当たり前だって言わせて説得させてそっちも手を回せるだけ回して、大変だったんですからね!わかりますか?この苦労)

 天使の野郎は、一気にまくし立てた。唾を飛ばして真っ赤になってしゃべる、白いスーツのふかふか翼を持つ天使様。心なしか、翼までが血の気を含んで薄く色づいて見える。

 ふん、かなり大変だったようだ。面白いじゃないの、オレの肝も据わった。

『だから、何なんだよ!』

 天使様は、ふぅっと息を吐き出すと一気に背中の白い立派な翼まで息切れして力が抜けてしょぼくれて見えた。

(人の気持ちは、なんていろいろ複雑なんでしょうね。さすがのわたしでさえこんなに労力を払わないといけないんですよ。それに比べて、二人がここでこんなに幸せに浸ってるのに一緒になって何にもしないで浸っていられるあなたは、なんてラッキーでなんて能天気なんでしょうか!)

『能天気って、誰がだよ!』

(いいですか?この二人が二人にならなくちゃいけないのは、次に来る試練の為なんですよ!二人でその試練にあたってこその出来事ってものなのです。ようやく、元の軌道に二人を乗せられたって言うのに。あなたときたら、余裕しゃくしゃくって表情なんですから腹も立つってものですよ)

 いちいち言う事がむかつくが、どうもオレが桐生君の中に入っちまったことによって軌道がずれちまったって事らしい。で、この天使様が修正して下さった、と言うことみたいだ、ふん、ご苦労なこった。オレは、目の前でかなりデレデレと鼻の下をのばした桐生君を見てうなずいた。

 二人は、ずっと昔からの恋人同士みたいに仲よさそうに、あつあつの鍋をつついていた。

「美味しい?」

「美味しい!お料理、じょずだね」

「ちょっと奮発して作りました。喜んでもらって嬉しい!」

「僕こそ、こんなおいしい料理食べられるなんてすごく嬉しいよ!」


 ラッキーだとか能天気だとか、そんな事を言われてもオレは今、二人の様子を見ているだけで幸せを噛みしめていた。こんな思いを味わう事ができたのは、思い切ってこの世界に戻ってきたからなんだ。本当に来て良かったと思えた。

 そして、この天使野郎には悪いが、桐生君の中に入っちまって良かったとさえ思える。オレが感じることのできないような感覚。考え及ばない、人に対する温かさ。桐生君に入らなくてもオレみたいなすさんだ気持ちしか持たないやつじゃ、人の悲しみのふり幅がかたよってるんじゃないかと思うし、はたしてどれだけの人の力になれてたかわかったものじゃない。

 こいつには悪いが、桐生君の担当させてもらって本当に、いや事実、ラッキーにつきるのかも。まともに天使様には言えないが、心の中でオレはそう思っていた。

 ふと、天使の野郎と目が合った。

 やばい、こいつオレの心の声が聞こえるんじゃなかったっけ? とっさにオレは

『お前は、事実偉いよ』

 そう言葉にしていた。

(いまさら、なにを)

 口をとがらせて、天使がそう言いかけた時だった

 天と地がひっくり返るような出来事が起ころうとは、この場にいた誰一人(二人は居ると言えるのかは疑問だが)想像もできなかった。














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