第二章 わたしの章

第八話 次へ


第八話   次へ


 わたしは呆然としていた。目の前で起きたこの不測の事態にどう対処していいか正直、成績優秀品行方正である優等生のわたしでも答えはでなかった。


 わたしはずっとずっとワンダーランドに行く事を夢見て勉学に励み、ようやくその希望がかなったというのに、だ。あろうことか、わたしが担当していた桐生慎一は本当は事故に合うはずだったのに。なのに怪我の一つもせず、立ち上がってぺこりと周囲の駆けつけた人たちにお辞儀までして、ふらふらと帰ろうとした。歩道橋から男があわてて降りてきて、桐生君の顔を覗き込んだ。

 桐生君は目の前が見えていないような足取りで、背中を向ける。

 いったい、どうなっているんだ!


 そもそもわたしは長い間待っていた。白い霧に包まれた世界で、このワンダーランドに降りる日を。

 必要とされる日が必ず来るまで待てと皆に言われたが、それがいつなのかどれくらい先なのか何も知らなかったし知る手立てもなかったから。けれど、知り合った人たちはみんな門の中に消えていった。残されるのは必要とされる者だけだ。必要とされる、それは嬉しい事なのに孤独感がものすごくあり恐怖でもあった。それでも、長い間私は待ち続けていたのだ。

 わたしのように待つ者はたまに現れたが、いつの間にか嬉しそうに別れを告げると消えていった、ワンダーランドに。

 わたしの番がいつ来るのかわからないまま、時間が過ぎていく。雲間に目を凝らしても凝らしても真っ白いまま何も見える事もなかった。


どれくらいの時間そんなことを繰り返していただろうか。ある時周囲の空気がざわついて何かに駆り立てられるように、 そこここに噂がたち始めた。

(ひどい奴がいるんだってさ!)

(何にもできないし、何にもする気がないらしい)

(しかも、相当な殻を着込んでやって来たってさ)

(なのに、そいつに命の石が宿ったんだってよ)

(へぇ、来たばかりなのにかい?)

(そんなやつにできる事ってあるのか?)

(何もできずに泣いて帰ってくるのがおちじゃないの?)

(とにかく、見たこともないほどに駄目なやつみたいじゃん)

(本当に命の石なのかしら?)


 命の石。

 冗談じゃない、わたしはその為にいろいろな事をやってきたんだ。人はどんな時に悲しみ、希望を持つのか。絶望から立ち直るのは、どんなきっかけなのか。本も読んだ。たくさん様々な分野を、かたっぱしから読んだ。体験はしていなくても、たいていの事はわかると思っていた。痛みも苦しみもどんなものなのか、自分ならわかると思った。周囲の者だって君なら大丈夫、そう言って門に消えて行った。そして、待っていたのに。いつか自分に、自分の手の中に命の石が現れることを。

 なのにそんな駄目なやつに、ここに来てそう時間も経っていない本来の自分を取り戻すのさえ手間取っていたという奴の手に、命の石が宿った?


 どういうことなんだろう?わたしにはまだ早いという事なのだろうか?わたしはまだ待っていなければいけないのだろうか?わたしは空に向かって大声を上げて叫んだ。

(不公平だ!いったいわたしはいつまでこのままでいればいいというのですか!)

 涙ってやつが流れた。初めてだった生暖かい雫がほほを伝う。

 そう、わたしは知っているこの流れている物が涙だという事を。

 実際に頬を流れたのは初めてだったけど。

 すると、そうしたからなのかその時が来たからなのか、それはわからなかったけれど。わたしの手の中に温かい物が現れたのだ。懐かしい匂い、いつの頃かに触れた温かさ。そっと手のひらを開くとまばゆいばかりの光があたりを照らした。

これが、これが命の石。

 淡くピンク色に輝く石。その光は、あたりをばら色に変える。周りの者たちがうらやんで見つめている。驚きの表情で、きっと初めて見たであろうその輝きを。驚きと喜びで、周囲の者に胸を張って見せる事も忘れていた。

そう命の石については、沢山勉強もした。これから自分が何をしなくてはならないかも、どんな風に扱うのかも知っている。この為に、自分は長い時間を費やして待っていたのだから。

 しばらく手のひらで輝いていた光は、少しずつ一箇所に集まって強い光に変わっていく。そして、見ている間にまっすぐにワンダーランドに向かって、一筋の糸のように降りていく。雲の間を抜けて白い霞の中に続けと促すように、繋がっていく。

 導くように光は輝き、決して迷わないように道案内をしている。

 喜びに震えながら、わたしは沢山の人たちに別れを告げてその光の先を目指した。手を振る人々には二度と降りられない世界へ。

 光をたどりながら、胸をわくわくさせて。たどりながら自分使命を悟った。

 光の先に巡る世界、訪れる運命、なさねばならぬ自分の役割。

 すべてが待ち望んでいた、憧れたいた世界だ。胸が高鳴り頬が上気する。


 霧を抜けてゆくのは心地よかった。風も気持ちよかった。雲をぬけて空を泳ぐ。地上の街がみえてきた時の、気持ちの高ぶりは言い表せないほどだった。沢山の感情と光に包まれた世界。カラフルに彩られた奇跡のワンダーランド。この日の為に、寂しさにも耐えがんばってきたのだ。わたしには仕事をまっとうする自信があった。その為に勉強してきたのだから。頭の中にはあらゆる知識がつまっている。本当に簡単な事だと確信していたのだから。


 その光は、一人の男の子(と言っても大学生だが)にまっすぐに注いでいた。たくさんの人が行き交う中、その青年に向かって輝いていた。

 桐生 慎一、彼の胸の辺りに命の石はすっと入り込んでわたしを誘った。何もかもやり方をわかっていたわたしは、桐生君の持つ命の光の中にまっすぐに飛び込んだのだ。そう、これでいい。これから彼に起こる悲しい出来事や苦しみを、乗り越えるためにがんばらなくては。わたしにとって、それはそんなに難しい事には思われなかった。その時は。

 

 桐生君は、本当にわたしが担当するだけあっていい人で真面目で申し分ない人間だった。父親の職業は、小さな工場を営んでいて、従業員はたった一人。その一人は施設を出て頼まれて雇っていた青年だった。茶髪で人を上目遣いに見る。わたしの知識の中では、かなり低俗な部類の人間で信用ができない。

 それでも父親は何かにつけてその青年の面倒を見てやっていた。父親は不器用だが心根の優しい人間で、その青年もその気持ちを感じ始めていた。

 桐生君は大学入学とともに、家を出てアパートに住んでいた。


 そんな桐生君に起こった事件は、実家の盗難騒ぎだった

 桐生君は、家の事件に心を痛めた。そもそも、かなりきわどい経営の町工場にとって借金を返してゆくのは難しい事だ。けれど、昔からの人脈や技術でなんとか毎日を過ごしている程度の経営だ。それが、銀行に返済の当日、返すべき二百万がなくなったのだ。二百万はこんな零細企業にとっては、大金だ。 

 月末に事務所を手伝う亡くなった母親の友人が、立ちすくんでいる親父さんを見てあわてた。警察に連絡をというおばさんに、考えながら待つように言った親父さん。事務所に落ちていた息子の定期いれ。親父さんは桐生君が関わっているのかと思い、警察に届けるのをためらった。おばさんが桐生君に連絡を取ると、あわてて彼は事務所に現れた。

「こんな物が落ちていた」

 親父さんが手渡す定期いれ。

「これ、二三日前からなくなって探していたんだ」

 そもそも彼はここのところ二週間くらい実家には帰っていない。

 桐生君にはなぜ自分の定期入れがそこに落ちているのか、見当も付かなかった。実家に最近顔を出していない事が気がかりだったし、父親に顔を見せていない事も本当に悪いなと思っていたから。父が疑っているとは思わなかったし、それは確信できた。

「お前の知り合い、考えられるか?」

 父は息子を疑ってはいなかったし、息子の友人ではという心配からだった。桐生君はかぶりを振った。

「そんな友だちはいないよ、そんな事考える奴なんて」

 けれど、返済の期日はもう数日しかない。桐生君は何とかしなくてはと心を痛めた。

 そう、ここでわたしは彼を取り巻く人達の中から、ざっと考えてみる。

 えぇっと、ある程度自由になるお金を持っている人物。しかも、桐生君に貸してもいいと思うくらいに彼を愛している人。まあ人には愛されるタイプの桐生君は、彼の為に何かしてあげたいと思ってくれる人は沢山いた。けれど自由になる現金をすぐに用立ててくれる人となると、このわたしでも不景気の世の中なかなか探せない。よくよく考えて一人思いついた。

 桐生君の亡くなった母親の弟。子どものいない夫婦で、彼は桐生君が小さい頃は自分の子どものように可愛がってくれた。母親が亡くなってからは、奥さんの尻にしかれていたからあまり連絡は取っていなかったが。


 すぐにわたしは、桐生君の家の新聞折込にチラシを入れた。募集広告だ。桐生君は働いて借金してでも二百万を作ろうと思ったから。都合いい事に叔父さんは酒屋をコンビニにしていて、バイトの店員が辞めて困っていた。そのコンビニの募集広告だ。

 桐生君の目の付くところに、その広告を広げた。

「あれ?この店」

 桐生君はすぐにわたしの思惑通りに行動した。わたしの仕事ぶりは完璧だった。

 会いに行くとすぐに、叔父さんは自分から実家の事などを聞いてきたし桐生君が盗難騒ぎの話をすると、頼みもしないのにどこからか札の入った封筒を持ってくると手渡した。二百万きっかり、わたしは自分の仕事ぶりに悦に行っていた。このように、桐生君の災難は落ち込む事もなく難なく過ぎてゆくものだと思っていた。

 親父さんにかける負担も少なくて済む、そう思っていた。


 その日、夕方にはまだ早い時間だったが商店街で弁当を買って帰るときのこと。

 横断歩道に人影を見つけた。自分と同じくらいの年の青年だろうか。歩道橋の下は四斜線の交通量の多い道路が走っている。何かを迷っている気配。

 しばらくすると、その青年は歩道橋の手すりに足をかけるとすっと身体を持ち上げた。

 自殺?そのまま歩道橋の下にダイブしていまいそうに感じて、桐生君は階段を駆け上がった。

「待って!」

青年は今にも手すりに乗せた腰を浮かせようとしていたが、声に驚いてこちらを振り向いた。その顔は、桐生君の知っている顔だった。

 実家の工場で働いている、親父さんが目をかけている青年。茶髪で桐生君とはあまり話はしたことがないし、会ってもちょこんと頭を下げるくらいだが。

「来ないでくれ!俺はあんたに許してもらえねぇような事をしちまったんだ。親父さんになんて言っていいか!」

 桐生君の顔を見ると苦痛にゆがんだ表情で、青年は身体を支えていた手を離そうとした。空中に身体がふわりと浮いて落ちてゆこうとしていた。

「だめだ!待って!」

 桐生君は飛び込んだ、歩道橋の手すりの上の空間に。

青年の身体を空中でキャッチすると、歩道橋の中に自分の体重をかけて押し込む。すると変わりに手すりより上に自分の体が浮いて、目の前に色濃い空の青が飛び込んできた。

手すりを握っていた手は空をさまよい宙に浮いた足に力を込めたけれど、身体は歩道橋の柵を越えて落下していく。

わたしの中では予測の範囲以内のことなので、桐生君に引きずられながら身を任せた。

桐生君には気の毒だけれど、仕方がない事だと割り切っていた。


 桐生君はこの時、怪我を負うことになっていたのだと思う。けれど、運がいい事に(まあ、日ごろの行いがいいからだろう)手の骨とか、足の骨とかだけで命に別状はなかったはずだ。私の考えるところ、かなり辛い想いもするだろうしそれなりに痛みもあるだろう。しかしその事故によって桐生君は最愛の人とめぐり合うのだ。そこにこそ事故に巻き込まれる意味があるし、運命とはそういうものなのだ。そして最強な事に、私がいる。どんな不幸がこようとなんとか切り抜けさせる自信がある。

 だから、骨の一本や二本痛くも痒くもないのだ。自信にも似た確信。


 が、しかし、桐生君は身体のどこにもかすり傷一つ負わなかった。

 負わないどころか走ってきたトラックに跳ね飛ばされて、荷台に放り出されて身体中を強打しただけだった。予定では骨を折るはずが。

ものすごいブレーキ音と鈍いドンという音が響いて、商店街の人がわらわらと集まってきた。

 人々ががやがやしている真ん中で、桐生君はすっくと立ち上がり困ったように屁のような(私としたことがこんな言葉を使うとは)笑顔を見せると、ぺこりとお辞儀をしてさっさと小走りに去っていく。そばには慌てて歩道橋から走り降りてきて、自殺しかかった青年があっけにとられて立ちすくんでいる。


 わたしは何が起こったか、訳もわからずにその一部始終を見ていた。本当は見ている場合ではなかったのだが、本当に予測不可能な事態だったからだ。桐生君の去っていく姿を見ている、と言うことが何をおいても不可能なはず。

 なのに、わたしは群衆と一緒になって眺めているのだ。

 それでも頭の回転が速いわたしだからこそ、すぐに事態を飲み込んだ。

 そもそもわたしがこの場に立っていることが不自然な事であって、本来ならばわたしは桐生君と共に引っ張られて連れて行かれなければおかしいのだ。

くっついているのが、いや離れられないのが本来の状態なのだ。離れるためには、強い意志が必要だ。しかし、わたしは見物人たちと共に桐生君を見送っている。またわたしの身体には、少しの衝撃もなかった。ああ、多少ぶつかった感はあるのか。

さっするところ、桐生君がかばった青年の変わりに空中に飛び出した時、誰かが(わたしと同類の)桐生君の中に入ってしまったに違いなかった。押し出されるような感覚が、強く残っている。誰かがわたしを押し出して、桐生君の中に飛び込んだに違いなかった。しかし、誰が?何のために?命の石の宿った者に入るのはその運命が導く者のみのはずなのに。


 わたしは野次馬の中に桐生君のめぐり合うべき最愛の人を見つけた。いけない、このままでは桐生君は彼女とめぐり合う事ができないではないか!どうする?

 すぐにわたしは決断した。頭の回転のいいわたしだからこその行動に、我ながら感心していたのだが。

 彼女の手に握られたリードには白い犬が、純真無垢な真っ黒い瞳をご主人に向けている。

 わたしはその犬の中に入って、すぐに桐生君の後を追いかけた。

彼女は桐生君の顔を見たこともあったし、心配で一杯になっていたから全く気づかれることもなく行動できた。リードは彼女の手からするりと抜けた。


 ものすごい勢いでふらふらと走っている桐生君を目指して走った。犬というのはなかなか本気で走ると早いもので、すぐに桐生君に追いつくことができて多少安心した。

 とりあえず、これで彼女とのかかわりは絶たれてはいない。


 走りながらわたしは桐生君を見つめた。驚くことにふらふら走る桐生君の後ろにワンダーランドに降りた者が、事故の衝撃で白目をむいて気を失って情けない格好でくっついていたのだ。

 知っている。こいつは、あの霧の天井世界で噂されていた駄目な奴ではないか。

 へなちょことかへこたれとか言われていた、まさしく情けない奴に違いない。

 わたしより先に命の石が現れた。こいつが間違って桐生君の中に入ってしまったという事が推測できた。それじゃあ、こいつが担当しなければならない人間が今にも、不幸に押しつぶされてしまわんとしているかもしれないではないのか?

 そもそも命の石は一人の人間の中にしか入らない。

 桐生君は走るのをやめて、正気にもどったらしくマルチーズを見つけた。そう彼女の犬はマルチーズだったのだ。品のいい犬だ。わたしはマルチーズの中で心を込めて愛くるしい表情で桐生君を見つめた。

アパートの入り口に立つと、正気に戻った桐生君は言った。

「駄目だよ、お家におかえりよ。ここはペットを飼えないし」

 それでもわたしは尻尾を激しく振り続けた。心優しい桐生君が見放すはずがない。

「わかったよ、飼い主を探さなくちゃね」

 そう言うと近くの薬局でペットフードを買ってマルチーズのわたしを部屋に入れた。


 それから桐生君と一緒に丸くなって眠る犬を残して、わたしはあの駄目な奴が本当は担当しなければならなかった、不幸にさらされる人間を探しにいったのだ。それが彼女とは思ってもいなかったのだが。


















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