第五話 私鉄に乗って
その次の日の事だ。桐生君はシロに餌をやると、大学には向かわなかった。
商店街とは逆方向に歩いてゆくと踏み切りがあり、わたると小さな駅があった。そこで切符を買って、二駅先で降りる。JRとは違って私鉄の電車は民家のすぐ脇を走り抜ける。家の中まで見えそうなほど近いところを通過してゆく。駅から駅までの間も近く、すぐに着いた。寂れたような小さな駅、木のベンチ、片側にしかない改札口。たった二駅乗っただけなのに、住宅の間にいくつもの工場の屋根が見え、とこか遠いところに来てしまったような街並が続く。住宅もあるにはあるのだが、トタン屋根だったり板塀の中から丸聞こえの声が聞こえる小さな家だったり、桐生君が住んでいる建物なんかよりずっとボロいアパートなんかが建っていた。向こうの方には大きな工場も見える。桐生君の住んでいる街並みとは、匂いが違っていた。生活する人が違うのか、労働者の匂い。
オレの脳の中で判断していた。これは労働者の匂いで、汗にまみれて働いている人たちの映像が一緒に浮かんだり消えたりしている。
桐生君はごちゃごちゃした、家々の路地を抜けると油臭い建物の中に入っていく。入り口にいろんな訳のわからない機械やら工具やら置いてあって、キ~ンという音が鳴り響いている。町工場だ。
薄暗い倉庫みたいな中に入っていくと、機械に向かって音をたてていたやつが振り向いた。
「あ、あんた」
茶髪のそいつは桐生君を見ると、何か言おうとしたまま手元の機械のスイッチを切った。
金属音が止まって当たりは、不思議な静寂に包まれた。良く考えたらそこら中から工場のうるさい音がしている訳だから、静寂なんてありえないんだけど。でもその時そう桐生君は感じた。
従業員なんだろう、汚れた作業着でじっと桐生君を見つめる。桐生君に何か言いかけたとき。
「慎一、何しに来た」
背後から声がした。桐生君は振り向くと、微笑む。
茶髪のさっきのやつが機械のスイッチを再び入れ、けたたましい機械音があたりに響いて耳が痛い。
桐生君は背後から来た親父と外へ歩いて行く。
なんで親父だと思ったかっていうと、桐生君に目元がそっくりだったからだ。桐生君みたいに背も高くないしいい顔してる訳でもないが、どこか雰囲気は同じ物を持っていたからね。桐生君は親父の後をついて工場脇の階段を上って行った。
なんだか、やだね~こんな油臭くてしみったれた職業なんてさ。こんな仕事なんてがんばったって金にはならないだろうし、つまんないし女にももてないよな。どうせ、生活だってそこそこだし、食っていくだけじゃねぇの?ああ、やだやだ。
せっせと働いて生きていくだけの生活、何が楽しくて生きてるの?
オレの胸に苦いものが湧きあがって来るのを感じて、頭を振った。
桐生君は工場の上の事務所に入って座った。親父はぬるいお茶を出して言った。
「大学は行ってるのか?」
「ああ、それより親父これ」
桐生君はポケットから茶封筒を取り出してテーブルに置いた。
「なんだ?」
親父は茶封筒に手を伸ばそうとはしない。
「金、作ったから使ってくれ」
親父は初めて茶封筒を掴むと桐生君のポケットにねじ込んだ。
「ばかやろう!余計な事をするな!」
「でも、どうするんだ!この工場だって、あいつだけになちゃったけど雇ってるだろ?潰れたら困るじゃないか」
「おまえにこの工場を継がせないのなら、たたんだっていい。あいつは知り合いの工場に頼んでみる」
桐生君の表情が硬くなる。
今時の学生、こんな工場なんて継ごうってやつはいないよな。なんだか訳のわかんねぇ小さな部品なんか、作ったって一体いくらになるって言うんだか。
「ぼくは、この工場をつぶしたくない。後だって継いだっていいって思ってる」
親父の表情が一瞬、変わった。でもそれもすぐに、もとの険しい表情に戻った。年輪の様に刻まれた目じりのしわが苦労を物語っている。だけど目じりのしわには優しい愛情を感じられる気がして、オレは思わず目をそむけた。
「もう、時代に必要に思われてないんだ。金を作ってくれて心配してくれて嬉しいが、もうこの工場は終わりだ」
「でも、ぼくこの工場と平行してなにかできないかと」
桐生君の言葉をさえぎるように親父はつぶやいた。
「取引先がつぶれた」
事務所の空気がピンと張り詰めた。その空気を破くように親父が独り言のように言う。
「あいつだって、死ななくても良かったのに」
桐生君はなんの表情もない。オレは桐生君の身体に入ってみようとした。気持ちが知りたい。だけどうまい具合に入る事は出来ない。出た時と同じようにすれば、入る事は簡単だと思われたのだが、入ろうとすると跳ね飛ばされてしまう。
根気のないオレは、さっさと諦めて二人を眺めた。
一体誰の事を話しているんだろう。二人とも、黙ったままだ。
その時、コンコンと事務所のドアから音がして、さっき工場にいた茶髪の青年が(青年ってのはもっと品のいいやつに使う言葉だな)
「おやっさん、俺、飯行って来ます」
と顔を出してすぐに引っ込めた。
「あいつだって、きっと本当は悲しんでいるに違いないんだ」
親父の言葉に桐生君はなおいっそう表情を硬くして、何かを見つめている。
階段を降りてゆく音がカンカンと響いて、胸のどこかを叩く。
桐生君は厳しい顔のままポケットの茶封筒を握り締めながら、私鉄に乗っていた。
目の前の流れてゆく家々は、ひどく貧しい人たちの住処に思えた。胸がきりきりと痛い。桐生君の胸の痛みなのか自分の痛みなのか、響いて痛い。
なんだってんだ。なんでこんなに痛いんだよ。いい加減めげそうになってきて、オレは桐生君の身体にくっついてるのをやめられないか、試してみた。うんと遠くに行ってみる。ある程度は可能だ。けれど桐生君が動くとオレも引っ張られて行ってしまう。鎖につながれた犬になった気分だ。ちっとも自由なんかなくて行きたいところにも行けない、犬みたいに吠えたい気分になって情けない。
桐生君は、どうしたかったんだろう。工場なんて今時、どこもここもつぶれちまう世の中じゃねぇか、今持ちこたえたってあと何年か先には同じような結末が待っているに違いないじゃん。遅かれ早かれつぶれちまうんだ、仕方ないだろう。
バイト先に向かった桐生君は、叔父さんにそっと茶封筒を渡した。疑問符一杯って顔している店のおっさんに向かって
「もう必要なくなったんです。工場はたたむそうです」
そうつぶやいた。桐生君の目から涙が零れ落ちる。叔父さんはびっくりしてオロオロ、まったく小心者そのものだった。優しいんだかアホなんだか。
それでも叔父さんの気持ちは十分桐生君に伝わっているらしく、オレの身体は暖かくなって不安感が徐々に薄れるのを感じた。
桐生君は午後から仕事だ。安心して暖かくなると、ふん、また眠くなりそうだ。そう思った矢先。
(あなたの出番じゃないですか!何のんきに居眠りしてるんですか!)
というウザイ聞きたくない声が聞こえた。コンビニの隅っこに邪魔臭くあいつが立っている。
でかいふわふわの羽は、もぐりこんで眠れたらどんなに気持ち良いだろうと思わせた。
(なに考えてるんですか!昼寝のことなんか考えないで、桐生君のことを考えてくださいよ!まったく!肝心の時にあなたが居眠りなんかしていたら、あなたがついている意味がないじゃありませんか!)
『なんなんだよ、何を考えろっていうんだよ!午後は眠いんだからさ~』
オレは答えた。なんだか眠いと何もかもが面倒臭くなってしまう。
面倒臭い事を頑張ってなんとかする、ってがらじゃないし。
(桐生君がこんなに胸を痛めているっていうのに。あなたって人は!)
まあ、たしかにさっきからずっと胸のどこかが痛んでいるし、息が苦しい。でもだからって、どうすることもできないじゃねぇか!オレは天使の野郎を殴りたくなってきた。一発殴るとすっきりするかもしれない。
(ばかですか?あなた!殴ってみてください。もっと胸が痛むでしょうから!どうぞ!)
オレは天使のやろうが最後の言葉を言い終わらないうちに殴りに行っていた。
最初っから一度こいつを殴ってやりたいと思っていたんだ。
オレの手にいくらかの手ごたえ。けれどその手ごたえと共に、オレの頬に鈍い痛みが走った。そして胸が猛烈に痛み出した。
『ううう~、なんなんだ。これは』
オレはのた打ち回った。天使の野郎は、自分のほっぺたを手で覆っていて
(あなたの監督不行き届きと言うことでしょうか、わたしのところにも痛みが来てしまいました。まったくあなたと言う人は、わたしの思考回路の及ばない人なんですね。かなりの痛みを感じます。痛みという物は継続して感じるものなのですね、うう)
天使はふぅ~っとため息を漏らして天を仰ぐ。
なんとか痛みが徐々に引いてきてオレは、首を振った。
天使は親指と中指を合わせると、ピンと指を鳴らす。
ピンポ~ンと入り口の音が鳴って、職人風の男と若者が入ってきた。
「でなぁ、俺はオヤジの工場再建を志した訳よ。一旦潰れちまっても、いつでも再建してやろうってな」
「そうっすよね、希望さえ捨てなけりゃきっといつかは再建できるっすよ!」
「そうさ、つぶれたって建て直しゃいいだけだ!簡単な事さぁ、そのためにも腹ごしらえ腹ごしらえ!」
「そうですね、腹が減っては戦はできねぇってことっすよね。何食おうかな」
職人風の二人は大きな声で話しながら弁当を物色すると、お茶のペットボトルと一緒にレジに持ってきた。
元気のなかった桐生君は、受け取ると弁当を温めた。二人はホカホカになった弁当を持って、日ざしに照らされている店の外へ出て行く。太陽が明るく世界を照らし胸のどこかが温かくなるようだった。
桐生君が雑誌の整理を始める、とそこにこんな記事が載っている。
『新たな再建への道のり。今はまだ遠く長く思われてもその時の経験はいつか役に立つ!』
桐生君はその記事から目を離せなくなった。経済雑誌かなんかみたいなんだけど、どっかのお偉いさんがつぶれた会社を立て直した経験談の記事のようだった。
『あれ?どこだかわかんないが、ほっとしてあったかくなってきたぜ』
オレは独り言をつぶやいていた。すると背後から聞きたくもない声が聞こえてきた。
(こんなふうに、やるんですよ。おわかりでしょうか?)
今の出来事は偶然ってやつじゃないって事なんだ。
あ~なるほどね、オレにそんな器用な真似ができるかね。
(できるかね、じゃありませんよ。するんです!いいですか、あなたがついていて彼が世をはかなんだりしたら、あなたもわたしもおしまいですからね!そこのところを絶対に忘れないで下さいよ。とにかく悲しみってやつはどんな強い心だって折る事があるんですから!あなたみたいな人に、一から十まで教えなくてはならないなんて、まったくもう。本当に忙しいったらないですよ)
あ~?オレが睨みを利かせてがん飛ばしてやった時にはあいつの姿はもうどこにもなかった。ちっ、そんなに気の利くやつじゃないと思うんだよね、オレ。
どう考えてもさっきみたいな事できそうもないな。まあ、とにかく桐生君がめげないようにちょっと小細工すりゃ良いって訳だ。まあ、がんばってみましょ!
オレにしては、かなりやる気にはなっていたんだ。でもそれから起きる出来事にオレの無能さを思い知らされるなんて思わなかったが。
その晩、桐生君は携帯の音で目が覚めた。夜の空気の中に不安が漂っているのをオレは感じていた。
「親父が倒れた!」
電話の向こうから聞き覚えのある声が響いた。桐生君の感情は真っ白だった。
何も考えていない、何も考える事ができない。
すぐに電話をきると、あわてて着替え靴を履いた。シロがしっぽを振りながら彼のすぐ後ろにいる事に気づいていないようだった。
外に出て桐生君がドアを閉めようとしたその瞬間、部屋の中からシロが飛び出してきた。
「あっ!」
桐生君に向かって犬は全身で嬉しさを表現して、ぴょんと飛び上がるとまっすぐに階段を降りて行く。
「シロ!待て!待って!」
桐生君の声はシロに届かない。小さな白い影は闇の中に掻き消えたようで、もうどこにもいない。呼ぶ声は寝静まった家々の隙間に吸収されて、誰のもとにも届かなかった。
桐生君は自分の足を握りこぶしで叩いた。
「なんでこんな時に!」
そう、なんて馬鹿犬なんだ。こんな大変な時に!だけど犬より今は親父の方が一刻を争うってのはわかってるよな。オレの心配をよそに、桐生君はドアに鍵をかけてシロの姿を探しつつ国道に出ると、タクシーを止めた。
小さな病院の廊下は、薄明かりに照らされていて静かだ。そして廊下には昼間工場で会った茶髪のにいちゃんが座っていた。桐生君の顔を見ると、深くお辞儀をする。桐生君より年下のようだ。日に焼けた頬に緊張の色が見られた。
桐生君はチラッと見たが何も言わず、部屋に入っていった。
病室はベッドの周りに沢山の機械が置いてあり、その機械から出ているチューブやらなんやらは横になっている親父の身体につながれている。
医者は、桐生君を見ると落ち着いた声で言った。
「心筋梗塞で、一旦心臓が止まりましたが、今吹き返したところです。今晩が山でしょう」
バタバタと看護士が動き回っている。桐生君は頭を下げることしかできなかった。オレの胸は誰かに捕まれたように窮屈だった。
親父の顔色は悪く、疲れたように眠っている。その深いしわを見つめ、いつのまに刻まれたのか今まで気づかなかったな、と桐生君は思っていた。
こんな時何をすればいいのか?オレは為すすべもなく桐生君にくっついているしかなかった。
オレは突然の出来事に頭を抱えていた。
ああ、無能だ。オレなんかがいてもなんの役にもたたないじゃねぇか。いる意味あんのかよ。完全にお手上げ状態だ。ちっ、こんな時にあの天使やろうは現われやしないし。
心のどこかであいつが現れるんじゃないかと期待していたんだ。けど、どこからもあいつの声は聞こえてこなかった。
ただ目の前の光景を見守る事しかできないまま、ゆっくりと時間が過ぎて行った。
夜が更けて、桐生君は親父の手を握り締めながら涙を流していた。
「親父、僕まだ親孝行してない。生きていてくれなくちゃ親孝行できないじゃないか。がんばってくれよ、お願いだよ返事してくれ!」
その時だった。握っていた手がぴくっと動いた。
「えっ」と桐生君が白くなった親父の横顔をじっと見つめる。
薄く開いた目はここがどこなのか見極めようと病室の天井をさまよった。そしてどこなのか、自分に何が起こったのかわかったように、息子の顔に視線を移す。
「すまねぇ心配かけちまったな。俺は今あの世の入り口まで行ったんだがな、お前に言っておかなきゃならねぇと思って帰ってきたのよ」
「何言ってるの、親父。大丈夫だって。しっかりしてよ」
「いや、お前のことは正直心配してねぇんだ。お前は人に可愛がられるしいつも助けてくれる人に恵まれてきたからな。きっとこれからも、大丈夫だろう」
桐生君は複雑な表情を向ける。
「だがな、あいつの事だ。あいつは俺が引き取ってやらなきゃ、どん底まで落ちちまうと思ってな。あいつの事許してやってくれ。小さい頃から、父親にも母親にも邪険に扱われてやさぐれちまったが、性根はいいやつなんだ。俺は今回の事も、こうなる運命だったと思ってる」
「親父、何言ってるの」
「工場の処分はお前に任せる。あいつの事は知り合いの工場に頼んである。あいつを許してやってくれ」
桐生君は理解できないという表情で、親父の顔をみつめた。親父はそれきり、何も言わなかった。
しばらくすると、親父はどこか遠くを見つめるようにゆっくり瞼を閉じた。
部屋の中にピィーと音が鳴って廊下をバタバタと走る音。
看護師と医者の叫びに似た声。桐生君はそんな光景をぼんやりと眺めていた。
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