第六話 ここはどこだ
第六話 ここはどこだ
結局親父はその晩に息を引き取った。オレはなんにもできないまま、見ているだけだった。桐生君の悲しみが、ドクンドクンと脈打つように身体に感じる。
(人の生死にはわたし達は介入できませんよ、残念ながらね)
不意に背後から声がする。
忌々しいが今オレと話せるのはこいつだけだから、嬉しい気持ち半分で振り向いた。
ふわふわの背中から生えた羽はそのままだったけど、こいつは黒のスーツに身を包んでいた。
(きっとあなたがオロオロしてるんじゃないかと思っていたのですが、やっぱり当たりですね。思った通りの情けない顔になってるじゃありませんか)
ああ、こいつに助けを求めるなんてオレは間違っていた。
『なんにもできない事くらい、わかるさ。だけど、なんとかしてやりたいって思うのは自由だろうが!』
(あなたの言葉とは思えませんね。まあ、少しは過去よりましになっているってことですかね。はいはい、いい事です)
天使のやろうは黒いスーツの腕を組んで満足そうにうなずいた。
『なにがましなんだ。このやろう』
いまにも殴りそうなオレの表情を見て肩をすくませた。まずい消えられたら。
『まあ、オレに何ができるか教えろ、いや、教えてくれ!なにができるんだ?桐生君の為に』
本当に、嬉しそうな顔をしやがって天使は言った。
(これから、桐生君は葬儀やらなんやら忙しくなります。その間は悲しみも紛れると言うものです。ですがその先一人になった時、桐生君は最大のピンチになります。その時があなたの出番なのですよ。未来を見つめるように、大切なのは何かをわからせてあげるのがあなたの使命なのです。なんていったって、いるはずの人がいないんですから。それ位はあなたがやってあげなくてはね。本当に世話がやけますが、そこのところはお願いするしかありませんので、致し方ありません。頑張ってください)
ため息まじりに首を振りながら
(とにかくあなたがこんなところにいるもんだから、わたしは忙しいんですからね!つじつまを合わせる為に画策する私の身にもなってほしいところですが、これ以上は申しますまい。自分が誰なのかも思い出せないあなたに言ったところでどうにもならないでしょうから。ああ、できれば自分の事、思い出す努力くらいはしてみて下さいね)
ふと、天使の横に誰かが立っているのが目に映った。それはぼうっとしていて輪郭もおぼろな人影だった。オレは目を凝らした。よく目を開けて見つめていると、少しずつ輪郭がはっきりしてくる。うつろな瞳で自分の周りをぼんやり眺めて、何が起こったかわからないでいるようだった。
そうだ、その人影、それは今亡くなった桐生君の親父に違いない。
不意にその人影も何かに気づいたようで、目線をこちらに向けた。
魂?抜け出た魂なのか?
(では、参りましょうか)
ぼんやりした人影がゆっくりうなずくと、天使の野郎は亡くなった親父の手を取って歩き出した。
いや、歩いているんじゃない。壁の向こうへ向きを変えると遠ざかってゆく。壁ではないどこか奥行きのある遠い世界が広がっているようだ。二つの人影は小さくなってゆく。
ああそうか、親父はあの世とやらに連れて行かれたという訳なのだろうか。
その時オレの頭の片隅に蘇ってきた光景が浮かんだ、突然降ってわいたように。
それは白い霧に包まれた長い道のり。確かに、オレも同じような場面を経験している。
そうだ、オレはあの親父みたいに雲の中、白い霧の中を歩いた記憶がある。
そして、それから先辛い苦しい何かに身をゆだねた気がする。なんだったんだ?
オレは死んだのか?この世で生きて、死んであの世に行ったのか?
頭がガンガンしてきた。フラッシュバックのようにいろいろな場面が浮かぶ。
そう、オレは生きていた。そして死んだ。
魂が導かれ生きていた時に身に着けてしまった、まとってしまったどうしようもない物を一枚一枚はがされたんだ。いや、身に着けていた物をゆっくりゆっくり噛みしめながら脱いでいった、痛みとともに。オレの頭の中で、遠いような近いような記憶の糸がすうっと一筋に現れるようにつながってきた。
オレは死んだ。そうだ、生きていてそして、命の火は消え去った。
誰かがオレを導いた。さっきの親父と同じように白い霧とも雲とも思える世界に。
何の疑問も持たずにオレは促されるままに、歩き出した。
いつのまにかサポートしていた影は消えてオレは一人きりになっていた。身体が恐ろしく重く歩くのが容易ではない。
すぐ目の前に、最近の光景が流れていた。それは仲間が一人の男を騙している場面だった。オレはそれを知っていたが、黙っていた。黙ってみていることが一番の得策だったからだ。反論したらターゲットはオレになる。騙されるのはオレになる。オレは、一緒になって口裏を合わせた。
その場面に立って、オレは何をなすべきなのか知った。
オレはそのときに身体にまとった何かを脱ぎ捨てなければならなかった。そうしなければ、先に進めない事がわかっていたからだ。その何かを脱ぎ捨てるのは、恐怖と不安の中に自分を置くことにつながる。けれど、その不安を持ちつつも脱ぎ捨てることで、オレの身体は少しだけ軽くなる。
その瞬間、身体につけていた何かが一枚はがれたようだった。薄いシャツでも脱いだ感じ。けれど脱ぎ捨てる時の痛み。それはまるで皮膚についた物を剥ぎ取るような痛みだった。痛みに身をよじる。
次に目の前に現れたのは、ヤクザみたいな男にへつらうオレ。弱い者につばを吐きながら偉そうに町を歩く。その後ろから同じようについていくオレの姿は醜かった。弱い者を汚い者のように扱うオレ。
そのオレをここでもやはり、脱がなければならない。
痛みはあった。苦痛にあえいだ。しかし先に進まなくては、という思いでオレはまとった物を脱ぎ捨てた。最初と同じ、いやそれ以上かもしれない痛み。メリメリと剥がされる痛み。声をあげる。
そうやって何度も何度も痛みを繰り返し、少しずつオレは身体を軽くしていった。
徐々に幼くなっていくオレがそこにいた。そして徐々に軽くなっていく身体。少しずつ変わってゆく本来になってゆく自分。
中学生の時親友と思っていたやつが不良と言われていた連中に、オレの悪口を言っていた。そいつらに目をつけられると、やばい空気の学校だった。
苦し紛れにオレの名前を出したのは理解できていたが、許せなかった。
陰で聞いていて心が痛んだ。友だちなんて、友情なんてないんだと思った。
オレはそいつらの仲間に入って、親友だった奴をいじめた。
それからだ、オレは友だちは利用するものだと思い始める。
まざまざと、当時の気持ちになり胸がむかむかする。恨みと妬みが絡んで動けなくなる。
だけど、オレはその思いも脱ぎ捨てなければならない。その時に感じた裏切られたという想いが身体中を駆け巡る。信じていた物が壊れていく悲しみ。
二度と思い出したくない感覚、胸の痛み。それゆえ友だちを持たなかった理由の根源。
しかし、同じ苦痛を感じながらオレはその痛みを脱ぎ捨てる。ピタッと身体に張り付いている皮膚を破り捨てる感じ。剥がし落とす汚いシールド。そうやって痛みにあえいで少しずつ、身体は軽くなる。脱ぐ時に感じる激痛は脱いでしまえば、襲っては来なかった。
そして、オレは父親に殴られる日々に戻った。殴られるたび、頭が身体が心が痛んだ。嫌で嫌で仕方なかった日々をオレは、脱ぎ捨てた。
すぐに母親が、オレをデパートに置き去りにする場面に出くわす。母親が家から出てゆく日だ。最後に母さんの顔を見た日、話した日。二人で出かけた幸せな気分になっていた日だ。
幼い子どもだった。まだ何もまとっていない幼い心を持った自分。
澄んだ瞳、微塵にも人を疑う事を知らなかったまっすぐな想い。
涙が止まらなかった。痛みがいつまでも続いた。母を憎いと思った。いつか探し出して、殺してやろうと幼いオレは思っていた。簡単に脱ぎ捨てる事はできない。
今思うと当たり前なんだろうな。
幼い時に心はさかのぼり、愛してほしくて仕方ない母親。その母を憎む事で、自分の存在を保っていたのかもしれない。幼いなりに必死の生き方だったのだろう。
でも、そこに留まっている限り痛みは限りなく続き、先に進めない。恐るおそるオレは幼い心のまま脱ぐ事を選択する。
その時の感覚は不思議だった。激しい苦痛と吐き気の後に来るすうっと浮かんでしまうくらいの軽さ。身体はふわふわと宙を浮いているように軽い。
それがオレの人生だったんだ。苦しくて辛くてその度、オレは自分を呪う。
生きてきた、生き方、やり方、考え方、感じ方。オレのまとっていた物は一つ一つが重く汚く、脱ぎ捨てるには莫大な労力とすさまじい痛みがともなったんだ。呪っていた物を剥ぎ取った。
そこまで、思い出してオレは天を仰いだ。
ああ、それからどうしたんだっけ。後は、後は思い出せない。その先もその後も。
『ショウ』頭の片隅に柔らかい声を聞いた。そうだ、この声を聞いたんだ。
目の前に巨大な門が立ちふさがっていた。
そう、その門の前にオレは膝を突いて天を仰いでいた。そう、今と同じ格好でオレは動けずにいた。
その声が懐かしくて、周りを見回したが声の主はわからない。
代わりに輪郭のはっきりしない何人もの人の影が通り過ぎてゆく。
柔らかな表情。すっきりした面持ちで、まっすぐ門の中を見つめて行過ぎる。
何人も何人も、オレの目の前を過ぎて門の中に消えて行った。
そうだ、目的地は門の中にある。オレはそれを知っていたし、行かなくてはならないと思っていたが身体が動かなかった。長い間、オレはそのままでいた。
オレはなんて、へなちょこでへたれでどうしようもないやつなんだ。通り過ぎる幼い人影を見送りながらそう思った。小さな子どもの影だった。
今のオレは元来持って生まれたままのオレに違いない。
だけど向かうべき門に向かって、立ち上がることができない。そばを通り過ぎるあんなに小さな子どもだって、目をそらさずに前を向いているのに。
本来はオレ自身が、根性なしなのかもしれないな。ぼぅっとそんな事を考えた。
どれくらいの間そこに膝をついていたんだろうか、その時オレのどこかがチクリと痛んだ。ささくれだった心に刺さったとげみたいに、小さいけれど確実に鋭い痛みが走った。
『ショウ』
もう一度その声が聞こえた。
オレの手の中に温かい何かが現れた。
『それを投げて地上に、ワンダーランドに行ってらっしゃい。心をつなぎ止めている者の元へ』
オレは手のひらを広げてみた。そこにはオレンジ色の真珠みたいにキラキラ光る石があった。美しかった、これほどまでに美しいものをオレは見た事がない。
(命の石?)
オレは名前を知っていた。なぜ知っているのかわからなかったが、頭の中に浮かんだ言葉。
どんな石なのか、それが何を意味するのかわからなかったがその石の名前に違いない。
不意に周りがざわついて何人もの人に囲まれているのに気がついた。
みんな口々に何かをつぶやきながら、オレの手のひらを見ている。
「まあ、美しい!」
「命の石だって?なんて煌いているんだ」
「でも、私たちだって使うことなんてできないんだもの、この男には絶対無理よね」
「そうさ、ずいぶん長い事膝を突いてなんの策も考える訳じゃないし」
「できるわけないわ!」
「へなちょこで、へこたれですものね」
「根性なしのへたれじゃんか」
みんな口々にオレのことを罵った。以前のオレなら、相当腹が立っただろうがその門の前では不思議とそんな風には感じなかった。
オレンジの光はふるふると身震いをすると、立っている足元の真っ白な霧なのか雲なのかその中に向かって一本の光の筋をつくりまっすぐに続いていた。
「お前、命の石、本当に投げるのか?怖くないのか?」
「失敗したら、戻って来れないんじゃなかった?」
そんな声が聞こえてきて、一瞬オレは躊躇した。
けれど、オレは長い間この門の前にいたが、先に進むことは不可能だと感じている。
それならば、この石を投げるしか方法はないに違いない。このまま、目の前の雲の中に投げるしか。
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