第三話 桐生くん
桐生君の普段通りの一日が始まって、朝六時に目を覚ましベッドから起きた。歯を磨いて顔を洗ってシャワーをあびて、それから着替えると犬を見つけた。
オレとは違う優しいまなざしを向けると、にっこりした。
「シロ!ぼくはきのうまで何をしてたんだろう?なんだか長い間眠っていたような気もするし、思い出そうとするとぼうっとするんだ。お前の飼い主を早く探してあげなくちゃいけないのにね。そうだ、とりあえず飼い主に会えるかもしれないから散歩に行こう!」
そう言うと、無邪気に喜んでしっぽを振っている犬を連れて外に出た。
シロ、だってさ。あてずっぽうにつけた名前が、正解だった訳だ。思いつく回路が一緒だったからかね。どこからどこまで、つながってるんだろう。
もちろんオレは桐生君を背後から眺めるだけで、彼が何を考えてどうしようとしているのかはわからない。もしかしたら、わかるのかもしれないしそんな方法もあるのかもしれないが、今のオレには知る手立てはなかった。
桐生君は公園で犬の散歩をしている人たちにシロの事を聞いて回ったが、何の手がかりも得られたかった。商店街のほうに歩いていくと、八百屋のおじさんが声をかけてきた。
「どうしたい?犬の飼い主探してるってお隣さんから聞いたけど、見つかったかい?」
「おはようございます。まだなんですよ。心当たりがある人を見つけたら連絡ください」
「ところでお前さん二三日前の事故の時はびっくりしたけど、もう大丈夫なのかい?いや、みんな心配してたよ」
「それが実は、覚えてないんです」
「そうか、まあ身体のほうは大丈夫そうだな。打ち所が悪きゃ大ごとになってもおかしくない事故だったが、良かった良かった」
「たしか歩道橋から落ちたような気がするんです。何で落ちたんだったか?思い出そうとしても思い出せないし、その後ぼくはどうしたんだったかも覚えてないんです。まる二日か三日くらい記憶もないし」
「そりゃ、頭でも打ってんじゃねぇかい?すごい音がして出て行ったらお前さん、車に飛ばされて宙を飛んでたぜ。この辺のやつみんな出て行ったんだ。見たやつも多いと思うよ」
「そうですか、でもどこも痛くないし怪我もしてないんですよね」
「みんなが見てる前で『お騒がせしました』とか言って立ち上がってさっさと歩いて行っちまうもんだから、みんな開いた口がふさがらなかったぜ。医者行ったのかい?」
「いえ、まだ。そうですか、本当に覚えてないんです」
桐生君は思い出そうとしてるのか、商店街の向こう側に見える国道の歩道橋を見つめた。
商店街は駅から一本伸びていて、それに沿うように商店街の西側に国道が走っているのがわかる。かなりの交通量でたくさんのトラックや商業車が、商店街から国道に向かう路地から見えている。
「念のために病院くらい行っといた方がいいんじゃないか?」
「そうですね、行ってみます。ご心配ありがとうございます。それじゃ」
桐生君はお辞儀をすると、歩き出した。
ふ~ん、オレがこいつの身体で目覚めたのは事故にあった後ということか?
こいつも記憶がなくてオレも記憶がない。その事故はどうして起きたんだろう。
考えればすぐ思い出せそうな気もしたが、ズキンと背中が痛んだのでやめた。
ま、そのうち思い出すだろう。とにかく、桐生君の身体とは分離した訳だから。
オレは、桐生君の身体から出られた事が嬉しくて手を伸ばした。軽い、身体がめちゃめちゃ軽い。桐生君のそばから離れられないみたいだが入っていた時みたいに重力はないし、たまにふらふらいろんなところも見ることもできる。
まあ人間ってずいぶんと重い身体をしょってるんだな、そう思うとおかしくなる。動かすだけで腹が減る。そこいくとオレはなんにも抵抗なく動く事ができるんだから、いいね。
あ、でもあれ、うまかったな。カツカレー大盛。なんか食う時だけ一緒の身体に入らせてもらうって事できないかな。
まあせっかく分かれることができたのに、また一緒になるのはちょっと面倒くさいし怖くてできないけど。ちゃんと戻る方法を会得したという訳ではないからな。
桐生君は『サンキューマート』の前を通ると、中にいるおっさんにコンコンとガラスを叩いてお辞儀をした。
そうだ、彼はここでアルバイトをしてるって弁当屋のおばちゃんが言ってなかったか?中から桐生君を見つけると表情がぱっと明るくなった気のよさそうなおっさんが、慌てて出てきた。
「どうしたんだい?バイト休むなんて」
やばくない?おっさん怒ってるって言ってなかったっけ?オレは焦った。
憎まれ口をきく天使やろうが言ってなかったか?悲しい目に合わないように心がけてくださいね、と。これはフォローしなくちゃいけない場面?でもどうやって?回れ右して逃げちゃった方がいいのだろうか?
オレがもたもた考えている間に、おっさんが桐生君の目の前に立ちふさがった。
まぎれもなく、怒っているに違いない。
しかし逃げると言ったって、今更桐生君の身体の中に入るのも出られなくなったら困るし。
「すみません、おじさん。なんだか記憶ないんです。どうしたんだか自分でもわからなくて」
桐生君は首をかしげて情けない顔で、おっさんを見つめた。
「事故にあったって聞いたぞ、車にはねられたって。本当に怪我はないのか?病院には行ったのか?お前に何かあったら姉さんに申し訳が立たないよ」
「いや、まだ」
「今日は休んでもいいから病院に行って来いよ」
そう言うと、店の中に入ってレジを開けて札を持って出てきた。
「ほれ!これで病院行って検査してこいよ。きっと頭を打ってるんだろう。何かあったらどうするんだ。いいか、必ず行くんだぞ!あ、ババアが出てきた。早く金をしまえ!じゃな」
桐生君は胸に押し付けられた二枚の一万円札をポケットに入れて、ぺこりと頭を下げてゆっくり歩き出した。
「おい!」
いったん店に入ってからもう一度出てくるとおっさんは、ドアのところからこちらに向かって菓子パンを放った。ビニールの袋が朝日に当たってきらりと光る。
桐生君はそのパンを受け取ると手を振って、足早に歩き出した。
慌てた様子でおっさんはレジの前に立って、何食わぬ顔をしている。店の奥からおばさんが出てきて、じろりとおっさんを眺める。
「バイトの子、今日は来るんでしょうね~」とふくれっつらを見せると、おっさんは
「いや~、風邪が流行ってるらしいよ!風邪うつされてもいやじゃないか。もう一日寝てろといってやったんだ」
いや~、こいつ人に好かれてるのかね。もらったパンの袋を開けて、さわやかな顔で歩いている。こんな天使みたいなやつなら、人には好かれるよね。
オレは桐生君の肩に手を置いた。彼を取り巻く環境がオレの中にするすると入ってくる。
『ああ、そういう事』納得した。
あのおっさんは桐生君の亡くなったおふくろの弟で、小さい頃からかわいがってくれた叔父さんだった。子どもがいないおっさんにとって実の子みたいに思われてるってことも、当然のようにわかっちまった。
一心同体って間柄だからなのかオレの体質的なものか、持っている記憶が所どころわかるみたいだ。感情も同じように胸の中に湧いてくる。叔父さんの事が大好きな甥っ子のあったかい気持ち。血のつながった者同士をつないでいる、目に見えない太い糸みたいな物を確かに感じ取る事ができる。それは生ぬるいような不思議な感覚で、自分では経験した事が無かったようにも感じられる。けれどとても心地いいものだ。
桐生君はパンを頬張りながら、商店街をぬけて駅前を通り家に帰った。
その間、シロは二回も排泄した。で、桐生君は感心なことにきちんと始末してペットボトルの水で後を流す。こいつはうん、いいやつだ。なんだか、オレは満足していた。
桐生君は家に帰ると、シロにえさをやって自分は病院に行った。
病院ではすぐ検査をしてくれるというので、そのまま一緒にへんな機械のある部屋に入る。
桐生君は機械のベッドに横になって、そのままベルトで運ばれるように機械の中を通された。
ガチャンガチャン、ウィーンといった機械音が頭の周りでうるさい。
なになに?CTとかいう検査、みたいね。
オヤジにもらった金が飛んで行っちまうのかね?この検査で。ひゃ~、たっけぇなぁ。
そんなにひどく頭を打ったんだっけ?それってオレも一緒だった時ってことかね?
考えてもちっとも思い出さないから、考えるのはやめた。
ま、こいつ金持ちじゃなさそうだな。いやむしろ、家は貧しそうだ。
オレはブ~ンとうなっている機械の中の桐生君の頭に触れた。
桐生君の家の事情が降って湧いたように、まるでオレの記憶のように現れる。
桐生君の家は、下町の工場で父親は桐生君が小さい頃から油まみれになって働いていた。それほど裕福ではないが、何人か人も雇ってそこそこの生活はしていたようだ。
かなり苦しかった工場は、ぎりぎりのところで保っていた。
そんなある日、工場の金が盗まれたのだ。
二百万ちょっとの金だった。それは、ようやく集めた銀行融資の返金の金だ。
バブルの頃は銀行も、簡単に金を貸してくれたが最近では取立てが厳しくて毎回四苦八苦していたみたい。父親は駆け回って金を集めようとしたが、無理だよねやっぱり。このままでは工場はつぶれてしまう。
桐生君は大学どころではなく、なんとか金をつくろうとした訳だな。
桐生くんが訪ねたのは、亡くなったおふくろさんの弟の『サンキューマート』の店長。
小さい頃からかわいがってくれていたが、おふくろさんが亡くなってからは会っていなかった。会ってみると昔のままでなんの違和感もなかったのね。あのおっさんはかみさんに頭が上がらないようだったが、快く金を用意してくれた。もちろんかみさんに内緒でね。
桐生君は金を返す約束でコンビニでバイトをするようになった、と言う訳だ。
まあ、しけた話だよね。いろいろと悲しい出来事が多かったみたいだな。
小さい頃は家の手伝いとかもしていたようだし、高校生の時なんか新聞配達して金を家に入れたりしていた。そう、ちょうど桐生君が高校生の時はもう中小企業は、地獄に落ちいっていたからね。
それでも、よくもってたな。そんなチンケな工場じゃ金になんないよね。
そりゃ父親は、職人気質ってやつ?で、堅物な訳ね。人付き合いも悪そうだし。
そうそう、おふくろさんが亡くなったのは、高校生の時だったのか。家の中は暗くなっちまうよな。ああ、オレだったらいやんなっちゃうな。だけど不幸って思ってない、この人の良さが売りだねこの子は。救いってやつね。
まだまだ、嫌なことは続くんだろうか?ちょっとため息まじりに言ってみた。
『しあわせになりた~い』って笑いながら。心のどこかが痛んだ気がした。
(だから、私たちがついているんじゃありませんか!)
検査室の隅の暗がりにまっしろい影があって、そこから声が聞こえてきた。
あいつだった。そうそう、羽のある天使。真っ白いスーツ着た天使さん。
『オレたちがついてたって、訪れちゃう不幸の数は減らないんだろ?じゃついてる意味ないんじゃん』
そう言いながら、心の中で思っていた。不幸なやつについていて、悲しい顔みるより幸せなやつについていて嬉しそうな顔見てるほうがいいよな。
(誰が幸せな人につく必要あるのですか!)
今その部分は、言葉にしていない。
『あれ?オレの考えてる事わかっちゃうの?』
(私はあなたの事を見張るようにいわれてますから。そのくらいの特権はあります)
『な~んでお前にオレは見張られなくちゃならねぇのよ!』
(へなちょこでへこたれ、だからです!)
『は~~~?なんだそれ!』
(とにかく、彼に何か起きたら大変です。しっかりフォローして下さいね)
『そう、それなんだがよ。フォローってどんなことするの?っていうかどんな事ができるのよ?オレたちって』
(オレたちではなくて、オレでしょう?)
いちいち感に触るやつだ、あ、読まれてるのかオレの心。
『はいはい、オレは何ができるんですか?』
そんなくだらないやり取りをしている間に、桐生君の検査は終わった。
検査結果は待っていれば、今日の診察で教えてもらえるという。彼は何度も病院に来るのこともないと思ったらしく、待っていることにした。大きな病院だけど、診察待ちの患者が狭い廊下に溢れていた。
まったく、こんなにたくさんの人が病気でいろんなものを抱えているのかと思うとうんざりしてくる。
『こいつらみ~んな、天使とかついてる訳?』
オレは素直に聞いてみた、素朴な疑問だ。
だとしたらこの廊下には、入りきれないほどの天使がいなくちゃいけないことになるしね。
(天使、という言葉にはうなずけませんが、今この場にいるのは私たち二人だけです。そもそもなにか勘違いしているようなので言っておきますが、不幸だから私たちがそばにいるという訳ではないのです)
『それじゃここに明日にも死んじまうような重病人がいたとしたら、誰かがついてるのか?』
(いいえ、人は重病だから不幸とは限りません。助けてあげる肉親や家族、そしてあたたかく死を迎えられる環境ならば私たちは必要ないのです)
『じゃ、どうしてオレらは桐生君についてるんだよ?』
(まったく、いい加減にしてください!あなたとわたしを一緒に考えないで下さいよ。オレら、ではなくてオレ、でしょう?)
『はいはい、オレはなぜ桐生君についてなくちゃいけないんですか?』
(彼は、投げた命の石が選んだ人間だからです。石は彼らのような人の元に降りてきます。たくさんの未来がある人間です。けれど、彼らには運命の試練が思ったより、いえ耐えられるぎりぎりまで襲ってくるのです。それは、えてして人間の生きる気持ちをくじいてしまう可能性があるからです。そしてフォローするために、私たちはこのワンダーランドに降りるのです)
『その試練とやらを、回避させるっていうのか?』
いいえ、回避はできません。その運命からは、導き出されるものや人のつながりや様々なものが得られるからです。だから乗り越える為に協力するのです)
『ふ~ん。結局不幸なやつってことには変わりないって事か』
(いいえ、幸か不幸かは本人しだいなのです)
なんだか、わかったようなわからないような、オレたちはいてもいなくてもいい存在なんじゃないの?面倒くさいね。
(そうです。あなたのような者がいるからやっかいなのです。これはあなたにとっても試練になっているのですよ!まあ、私にとってもね)
『どういう意味だよ!』
(これからが、一番きつい時期だからです。それを乗り越えれば、気持ちの持ち方も変わってなんとかいけるでしょう。その間を担当するという事です。いわゆる、期限があるという事です)
『期限って、どのくらい?』
桐生君の名前が、診察室から呼ばれた。
少し不安そうな顔をして入っていく。引っ張られるように、オレの身体も診察室にはいる。
白衣を着た先生は若い男だった。パソコンの画面を見ながら
「なんの問題もありませんね。心配ないでしょう」
そう言って、彼を見るとにっこりした。桐生君はほっとしたように微笑んでぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「お大事に!」
決まり文句なんだろう、パソコンの画面に目を戻すとカチャカチャとキーボードを叩きながらそう言った。
何でもないのだから、大事にすることもないだろうが。
とりあえず良かった。病人のフォローってそんなシンキくさい事できそうもないからな。
オレは、ふぅっとため息をもらした。
(良かったですね。では)
天使のやろうは消える気だ。
『待てよ!さっきの答えは!』
オレはあわてて声を出した。
(この一ヶ月位です。彼も彼女も)
どういう意味だ?彼女って誰だ?
(今は、説明しても無駄なのでしませんが、おいおいわかって来るでしょう。記憶も戻ると思いますし。とにかく、桐生君の身体に慣れなければ何もできないのでね。では、わたしはとりあえず失礼します)
オレが次の質問を考え付く前に、消えた。どうしてこいつは突然現れてはくそ生意気な事を言葉を残すと、さっさと消えちゃうのかね?
彼女って言葉が気にかかったが、どうしようもないので考えるのをやめた。
オレの脳みそは、考えるのをやめるという事ができるみたいでなかなか使い心地は良かった。考えても仕方のない事ってあるだろうしそれに時間を費やしても仕方ないって思う。それが何かを経験していてそう思うようになったのかは、わからないが。
いや待て。耐えられるぎりぎりの試練が訪れるって言ってなかった?あと、期限は一ヶ月とも言ってたな。そうだ何がなんだかわからない頃、あいつオレたちが霧になっちゃうとかなんとか言ってたような言わなかったような。考えるのを辞めたはずのオレの脳みそがフル回転し始めた。
そして、急に不安が雨雲みたいに胸いっぱいに広がっていった。
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