第二話 おまえは誰だ

  やっぱり想像通りボロアパートだった。廊下の下には駐車場が広がっていて、隣には似たようなボロいアパートが建っている。廊下に出てさっき玄関横に置いてあった鍵をかけようとして、目に飛び込んできたのは表札だった。

 今住んでいると思われる部屋の入り口にかかっている表札。

 そうだよ、いくらボロくても表札ぐらい出してあるだろうし第一、手紙だとか宅配とか来た時困るじゃないか。表札はまるでかまぼこの板かと思うほど薄っぺらい安っぽいものだったが、に意外にも達筆な字で書いてあった。

 『桐生』

 これが、苗字なのだろう。キリュウと読むんだよねおそらく、他に読みかた知らねぇもんなと思い表札を見ながら何か浮かぶかと考えていると、声が聞こえた。

「あ~ら、おさんぽ?まだわんちゃんの飼い主見つからないのね?早く見つかるといいわよねぇ。大家さんは滅多に来ないから大丈夫だろうけど、見つかったら事だし。こんなにかわいいんだものきっと飼い主さんも探してるにちがいないわよね」

 そう言って女の人は、しゃがむと足元にいる白い塊を優しくなでた。

 飼い主が見つからない?あ、やっぱオレの犬じゃないのね。そうだろうそうだろう、犬なんて面倒なもの飼うわけがない。

 その間にも白いふわふわの塊は声をかけた人物に、しっぽを振りながらぴょんぴょん飛び跳ねている。

「ごめんねぇ、これから仕事なの。なんにもおやつ持ってないのよ~。早くおかあさんに会いたいわよねぇ」

 犬に向かって話しているのは、きれいなちょっと年上のお姉さんで髪はモデルよろしく肩のところでくりんくりんとカールして弾んでいる。明るい茶色い髪とにっこり微笑んだその笑顔は、もう少し若かったらドストライクかもと思わせるくらい綺麗な顔立ちで、パッチリした目もととかわいらしい唇にちょこんととがった鼻がいい感じで並んでいる。

 うん、男が好みそうなかわいらしい顔立ちのお姉さんだ。

「さっき言い忘れちゃったけど、おにいちゃん髪型変えてかっこよくなったわねぇ。ほんとにこんどお茶しましょうね。わたし、おいしいケーキ買って来るからさぁ」

 にこにこしながら手を振ってふわりとワンピースの裾を揺らしながら、きれいなお姉さんは階段を軽やかに下りていった。


 今言った言葉をゆっくり復唱して考えていた。

 さっき?

 なかなか回転しない頭でわからなかったが、すっと謎が解けた。唐突に現実が理解できて驚いた。なんと!今彼女は桐生という表札の部屋の隣の部屋から出てきた訳で、さっきベランダで声をかけてきたおばさんは彼女と同一人物と言う事だ。声がそのまんま全く同じだったのだから。

 なんてことだろう、人間ってそんなに化けられるものなのかな。

 ええっと薄紫の色が自分の髪の毛だという事は、今の明るい茶色い肩で揺れていた髪はかつらとかヘアウィッグに違いない。どこを見ているんだかわからなかったしょぼい目はアイシャドーとアイラインとつけまつげで、パッチリ麗しい目もとに変身してしまうという訳だ。

 それにしても人間の女性だけじゃないのかな、こんなに化けられるのってさ。

 それでだまされて恋しちゃったやつは、素顔の顔を見ても熱いハートはさめないんだろうか? とすると結局、実は人間顔じゃなかったりするという事なのかな?

 いやいや見てくれは大事でしょ。きれいに生まれりゃそれなりの人生が付いてくるに決まっているよね。ていうかそうであってほしいって言うか、じゃなきゃ神様が綺麗な人間を作る意味がないでしょう?

でも、隣のおねえさんみたいに人工的にきれいになれりゃいいのかなぁ、どっちなんだか悩むところだよね。ってまず今そんな事悩んでる場合じゃないし、全く関係ないじゃないの。

 とりあえず今、自分は結構な容姿に恵まれてるという事は確かだからね。この容姿ならまあ文句はないね。もっと言ったら金持ちがよかったかな、貧乏は嫌だよね自分がやりたい事もできないし人一倍努力しなくちゃならない。人間やっぱり楽して生きて行きたいよね。

 その点が記憶を取り戻していくうちに、なんだ貧乏とは関係ないんじゃんってな事を期待しちゃうね。たとえばどこかの御曹司が金でなんでもできる人生に嫌気がさして、貧乏な生活を体験したくって家を飛び出してボロアパートに住んでみる。そこで貧しくてもすばらしい人生もある事を経験して戻っていく、なんてストーリーだと有難いんだが。

 映画でもないし、そんなうまい具合に行く訳もない。

 とりとめもない事を考えながら、喜んでシッポをブンブン振って喜んでいるマルチーズに引きずられるように階段を下りると目の前の駐車場をぐるっとまわって、さっき窓の下に見えていた公園の入り口に立った。金木犀の花の香に誘われるように、犬の飼い主よろしく滑り台の横のベンチに向かった。

 記憶の片隅に残っていた切ない彼女が座っていた場所へ。


 強い太陽の日差しは消えてそろそろ日が暮れるのか、子どもが遊んでいる時間ではないのだろう誰もいない。

 喧騒から解き放たれた公園がほっと一息ついているみたいだ。

「さてお前の飼い主が見つかるのが先か、オレの記憶が戻るのが先か?だな、競争ってことになりそうだ」

 とつぶやくと、遠くのほうからぱらぱらと十羽位の鳩が飛んできて地面の表面をついばんだ。

 高い空に秋晴れの水色がつづいているのは気持ちが良くて、大きく息を吸い込んでみると自然に言葉がこぼれた。

「ああ、こんな日は空を飛ぶと気持ちがいいのにな~」

 何でもない事のように自分の口からつぶやかれた言葉を耳にして、意味わからないなとおかしくって首をひねって笑う。

 空を飛ぶ、だって?

 現実を思い出すのはかなり遠い事だって事かな、こりゃあ先が長くなりそうだ。

 自分の台詞にあきれて吸い込んだ息がため息に変わった、その時。


(ばかばかしい!それは優等生の台詞です!第一に気持ちよく空なんか飛んだ事ないじゃないですか!うそばっかりですよね、いつもいつも!)

 きんきんと通る声がした。細くて高い、か弱そうだけどプライドだけは高そうなボーイソプラノ。あわてて周りを見回したが、誰もいない。周りにいるのは、マルチーズと鳩だけだ。オレを見上げて鳩が、クックゥ~と鳴いた。

風が花の匂いを乗せて吹き抜けてゆく。

 たしかに長い台詞を人を小ばかにしたように、人間の言葉でしゃべっていたのは。

「今の、おまえ?」

 鳩に聞いた。誰かに聞かれていたら顔から火がでそうだったが言葉にせずにはいられなかった。

(本当にばかばかしい!なんでわたしが落第生の見張りなんかしなくちゃならないのか訳がわかりません!落第生のやる事なんてこんなもんですよ!おかげでこんなに忙しくなるなんて誰が予想したんでしょう?仮にもわたしは優等生なんですから!)

 驚いたことにそれは鳩じゃなかった。犬のマルチーズがしゃべっていた。

 子憎たらしい台詞をまあいとも簡単に言ってくれる。

「おまえ、しゃべれるの?」

 本当に誰かに見られたら、頭がおかしくなったと思われるだろうが、でも確かに犬がしゃべってるとしか思えなかった。マルチーズはオレをまっすぐ見つめて不敵な目つきをして口元を動かしている。

(そんなに見つめなくても大丈夫ですよ、今だけですから!このかわいい犬の姿を借りているだけで、すぐに去りますから!だいたいあなたがちゃんとしていれば、こんな窮屈な思いなんてしなくてすんだものを!ずっとそばにいると気が変になりそうですよ、まったく!気遣いのできるわたしだから良かったものの、反対だったらと思うとぞっとします)

 マルチーズの中になんかのりうつってる訳なのか?

 屈託のない瞳は目つきが悪いやくざみたいな眼差しを向けている。なんだろう悪魔か?妖怪か?

(もう!いい加減にして下さいよ。これからどうするのか、はやく決めて欲しいものですよ!二日間も意識が戻らないなんて前代未聞です。わたしまで巻き添え食っちゃって、こんな小さな犬の中に入らないとまともに話もできないんですから!あ~いやだいやだ!こんな惨めな気分になるなんて、わたしの考えが甘かったと反省してもし足りないですね、自己嫌悪ってやつですよね、ふぅ~)

 決めるって何を?目の前のマルチーズがため息をつきながら何を言っているのか理解できないし、このとてつもなくガラの悪い台詞に徐々にイライラしてきた。とにかく記憶がまったくないんだからしょうがないじゃないか。

 そもそもなんでこんな小さな犬ごときに文句を言われなくちゃならないのか?

 オレはこの半ば切れかかっている犬に

「あのなぁ、オレは今何がなんだかわからねぇの!自分が誰かもわからないのに決めろって言われても、なんにも決めれっこないだろうがよ!」

 犬に向かって最高に怖い顔を作ってにらみつけてやった。

「なんなら、蹴とばしてやろうか?」

 多少たじろいだ様子でマルチーズは一歩下がってつぶやいた。

(やっぱり!やっぱり変わらないじゃないですか!あなたが人助けするなんて、ようやくあなたも目が覚めたのかと思ったのに!何にも昔と変わらないじゃないですか!もういやです、さようなら、わたしは帰りますから。もう頼まれたって来てあげませんよ!誰のためにこんな窮屈な思いまでしたんだか!あ~いやだ、もう知りません、もう本当に嫌です、帰りますよ!さようなら!もう来ませんからね、いいんですね!さらば、ですよ!)

 なんだか激しく反応してつばをたくさん飛ばしてしゃべり目つきが悪くなっていた犬は、急に真っ黒い目玉をきらきら輝かせてしっぽをふった。

 何かが去ったようだ、目の前にいるのは本当の犬に見える。

「あれ?おまえ、いぬ?」

 本当に誰かに聞かれていたら、死んじまいそうなほど恥ずかしい台詞を言ってる自分が情けなかった。たぶん乗り移っていた何かは出て行ったのだろう、犬はただの犬になっていた。穢れを知らない純粋な瞳がこちらを信じて疑う事なく見つめる。

 気になることを言っていたな、人助けしたとかなんとか。

 よくよく考えてみれば、得体のしれない犬ではあるが何かを知っているには違いなかったのだし、現状の手がかりになるのは今の犬に入り込んでいた何かだけなのかもしれない。そう思うと、短気を起こして逃がしてしまった感は否めなく、後悔の気持ちが沸き起こって来る。

 考えれば考えるほどわからなくなったが、でも今一つだけ明らかな事があった。

 オレは腹が減っている。

 公園の周りの家からカレーの匂いがしてきて、気づいてから何にも食べてなかった事を思い出し、それが空腹の神経を刺激したようで腹がなった。

 夕暮れに漂う匂い、家の台所から漂って来るのを感じるとなんだか切なくなる。 カレーは特別に好きなんだ、大好物、だけどそれだけじゃなくてその匂いに付随する家のちゃぶ台や家族のカレーを食べるシーンとかが頭の中一杯に広がる。それが記憶なのかイメージなのかはわからないが、鮮明に広がって胸のどこかをえぐる。カレーが大好きなのは腹の鳴り具合からわかるし、それだけは確実だ。


 とりあえず犬が言ったことはあとでゆっくり考えることにして、公園の向こう側に商店街が広がっていて弁当屋が見えたので、犬を連れてその店に向かう事にした。ポケットの中に小銭がちゃらちゃら音を立てていたから、弁当くらい買えるだろう。

 今はこの空腹を満たす事が最優先だ。

 商店街は思いのほかずっと長く続いていて、きっとその先が駅前なんだろう。

 弁当屋の前に立って、迷わず声を上げた。

「カツカレー、大盛で!」

 いいなれたこの感じ。きっといつもこのメニューを注文してるに違いないと確信する。

「やっ!髪型変えたの?かっこいいねぇ。そういえば桐生くん、コンビニのおじさん無断で休んだって怒ってたよ!っていうか心配してた」

 弁当屋のおばちゃんがニコニコしながら言った。

「はぁ」

 弁当が用意されるのを待つ間、考えてみる。

 そうかコンビニでバイトかなんかしてるという事か?この弁当やのおばちゃんが知っているって事はどこだ?どこのコンビニだ?

「ちょっと体調悪くて。おじさんとこ顔出したほうがいいですかね?今いるかなぁ~」

 弁当屋のおばちゃんの顔色を見ながら特別の笑顔を作ってみる。

「ああ、おじさんきっとコンビニの隣の焼き鳥屋か向かいの今井さんちでラーメン食べてるよ!」

「そうですね、あとで行って謝っておきます」

 おばちゃんは嬉しそうに、から揚げを一つおまけして大盛のカツカレーを渡してくれた。受け取りながらおばちゃんの目線の先を探りながら、商店街を探した。

 あった、ずっと先に「サンキューマート」というコンビニらしき店。そして手前に焼き鳥屋、むかいに「いまい」という看板のラーメン屋。

 そうか「サンキューマート」で働いているという事だ。どうしたもんか考えたが手に持った弁当の湯気が空腹の波を際限なく起こさせていたので、いったんアパートに戻ることにした。

 公園からずっとマルチーズはあくまでも犬で、それ以外のものには一切見えなかったし話す事もなかった。

 手がかりといえばこの、なんでも知っていそうな乗り移られた時のマルチーズしかいないのだから、万が一犬が犬じゃなくなった時がチャンスなんだと観察しながら歩く。至って元気に機嫌良く散歩に徹している犬で、時折電柱の匂いなんかを嗅ぎながらスタスタと歩いていた。

 とにかくまず腹が減っては戦はできぬという事で飯を食おう。空腹が足の力を奪ってフラフラにさせるほどだったのだから。


 しっかり腹ごしらえをすると、いろいろと頭に浮かんできた。そうそう、とりあえずこの部屋の隅から隅まで調べてみよう。この部屋自体に何の記憶もないのだし。

 窓際に文机が置いてあった。上に本が並んでいる。なんだか読みたくもない感じがいっぱいの本が並んでいる。なんとか論とかなんとかガイドとか、とてもじゃないけどオレがこれ使ってたのかと思うと気が重くなる。ノートも出てきた。やった。名前が書いてある。「桐生 慎一」なるほど、名前がわかった。大学一年みたいだな、去年の高校生の数学の教科書も置いてある。

 机の上には求人誌があってコンビニのバイトの広告に丸がしてあるから、これ以降にバイトを始めたんじゃないかと思われる。まだ初めて間もないのかな、なのに無断で休んだらコンビニのオヤジは確実に怒ってるに決まってるだろうな。おまけに引き出しの中には財布が入っていて、一万円札二枚と千円札五枚もはいってるじゃん、良かった。とりあえず、当分空腹でフラフラになる事はなさそうだ。

 さっさと記憶を取り戻して、通常の生活に戻らなくては。

 そして財布の中には免許証が入っていた。取得年月日は半年前で取ったばかりみたいだから、へたくそなのは決まってるよな。で、それを見ればオレが誰かも、生年月日も住所もわかった訳だ。めでたしめでたし、やっぱり大学一年生十九歳。っていっても、他人事のようにしか感じられない。はたして、一致するのかこの意識。


 散らかった部屋の中で考えていると、公園のほうから言い争う声が聞こえてきた。あたりはすっかり薄暗くなって、夜の風がやわらかく吹いている。

 なんだよ、もう夜だってのに近所迷惑なやつらだ。男の声と女の声、子どもが泣き出す声も聞こえている。立ち上がって窓のカーテンから覗いてみる。

「子どものために帰ってきて!」

 女がすがる、年は中年よりは若い三十半ばくらいだろうか。女の手を握っているのは、よちよち歩きの子どもで頬からぽろぽろ涙がこぼれている。幼子の涙、ずきんと胸が痛む。

「他に好きな女ができたんだよ!お前みたいなブス、一緒にいると吐き気がするぜ!子どもだって俺の子だかどうだか!」

 うそみたいなひどい台詞をはく男はきちんとしたスーツ姿だ。

「あなたの子どもなのよ、信じてちょうだい。あなたしかいないのよ!」

 男が振り払ったのと同時に一緒に泣いていた子どもの頭に手があたって、二人とも公園の土の上に転がった。

ひどい!ひどすぎる。なんだってんだ!女子どもに暴力を振るうやつは悪魔と同じだ。頭に血がのぼる。怒りが身体を震わせる。

 とっさに男に向かって人差し指を向けていた。親指をたててちょうど子どもがよくやるごっこ遊びのピストルの形をつくった。で、撃った。ヒューンと耳元で音がして、男の足元に何かが当たった。

「いて!」

 と公園に立っていた男が足を抑えてうずくまる。それと同時に、目の前を白い塊が横切り、ピストルの形をさせた人差し指に激痛が走る。

「うわっ!やめろ!」

 マルチーズが牙を食いこませ人差し指に噛みついている。千切れるような痛みに、腕をぶんぶん振り払ってようやく犬は転がった。指にはしっかり噛み跡が付いていてじんわりと赤い血が出ている。

「なにするんだよ!てめえ!」

 可愛いはずのマルチーズに向かってどなり声を上げた。

(馬鹿な事しないでくださいよ!あの男の人はようやくあの女から逃れられるっていうのに!彼らの運命を変えないでください!)

 犬は天真爛漫だった瞳をどんより曇らせ、したたかで陰険な目つきに変わっている。

「は?どうみたってあの女と子どもは、被害者だろうが!」

(だからあなたみたいな人は嫌なんです!あの女性はブスのくせして結婚詐欺師なんですよ。子どもは知り合いから借りただけ。かわいそうと思う男心につけこんでたぶらかされた男は数知れず。ようやく、ちゃんとした人に巡り合って縁を切れるって時に、なにしてるんですか!)

 外の公園は静かになっていて、男の姿はない。そこに立っている女が身体に付いた土をぱたぱたとはたいている。そして女は、苦々しい表情でいまいましそうに呟いた。

「ちぇ!もう少しで金出しそうだったのに、甘かったわね!行くよ!」

 泣いたままの子どもを抱えると、舌打ちをしながら女は立ち去った。

 後姿は若い母親だ。

 あたりは元通りの静かな公園にもどっていた。何事も無かったように木々が揺れている。


「ちょっと待て!おまえは何でそんな事知ってる?オレはなんであの男を撃てた?」

 頭の中にたくさんの疑問符が湧きあがった。

(まったく!だから一つの身体に入っちゃうのはどうかって言ったんですよ。窮屈じゃないですか?身体と意識と早く切り離してくださいよ。こんな事があったら私の責任になっちゃうじゃないですか!今日は早く寝てくださいね。ああ、もうこんな時間じゃないですか!さっさと寝て下さいよ!健康第一ですからね!精神的にも身体的にもストレスを感じるに決まってますからね!もう!)

 えらく憤慨して、そう言った後マルチーズはふっとオレを見てしっぽをふった。

 さっきの陰険な目とは違う悪意のない目をしていて、くるっときびすを返すとどこかからボールを持ってきて「投げて!」と言っている。

 出て行ったんだ。

 犬に取り付いて文句を言ってたやつは出て行ったに違いなかった。人差し指に噛みついて文句ばかりを長々と一方的にしゃべって、あげくこっちの言い分も質問も聞かずに去ったんだ。

「くそ~」

 犬に向かってそう言うと、ボールをキッチンの方に投げた。マルチーズは忠実に何度もボールを持ってきた。訳もわからないまま何かにのり移られて恨まれるのも可哀想だと思えてきたのは、屈託ない瞳を向けてシッポを振っているからか。こいつのせいでもないしな。

「お前の名前、決めとくかな。呼ぶのに困るからな」

 犬はかわいらしくクゥ~ンと鳴いた。

 このかわいい動物の中に入って文句ばかり言うやつは一体何なんだろうね。

「お前の名前は、ええと、シロだ!」

 簡単に名前を決めるとマルチーズは満足したのかしっぽを更にプルプル振って喜んでる様だった。


 その晩、オレは夢を見ていた。空高く羽を広げて飛ぶ夢、雲の中を突っ切り空から地上を見下ろす。雲の流れと町並みが足の下に広がっている。気持ちよかった。頬をなでる風は穏やかで時折冷たい空気が混じる。町には行き交う人々が、楽しそうに笑顔で話しながら肩を抱き合い、腕を組み子どもはスキップしている。その中に泣いている少女がいて、それを見ているオレがいた。

 きりりと胸が痛む。なぜ泣いているの?どうしてそんなに悲しい事ばかり起きるの?この世に神様はいないの?そんな声がしている。

 どこかで誰かがささやいている。不幸は不幸と思うところから始まるんだよ。他の誰かがつぶやく。そんな事はわかっているよ。だけど、次々にやってくる悲しい出来事につぶれてしまったら、元も子もないじゃないか。誰が救ってやれるのだろう?

 誰か助けて!もうこんな気持ちばかりじゃいやだ。お前に何ができるんだ。自分の事で手一杯だろう。そんな余裕はないじゃないか。また違うところから声が聞こえる。

 それじゃあ、俺は信じない。他の誰も信じない。なにもかもいらないよ。ほら彼女だって同じ気持ちなんだよ。この世とおさらばする気さ。そうさ、それが妥当ってもんさ。

 

 気がつくと汗びっしょりで眠っていた。トントンとドアをそっとノックする音がする。

「桐生君、お願い開けて!」

 押し殺した声。ええっと。この声は、昼間会ったお姉さん、もとい隣のおばさん。夢うつつのまま起き上がってドアに向かう。もう十二時はとっくに回っている。

 汗を拭きながらドアを開けた。隣のおばさんは、きれいなお姉さんになったまま隙間から部屋にすべりこんだ。

「ちょ、ちょっと。困ります」

 口元に人差し指を立てて、シッとこちらを見つめる。

「今帰ってきたところなんだけど、私の部屋に誰かいるのよ!どうしよう!」

 ぼぅ~っとしてきれいになってるお姉さんを眺めていた。まだ、夢の中にいるようで頭の中が揺れている。ものすごく眠くて何も考えていないはずだった。そんな自分の口から

「相田さんは部屋にいて!警察に連絡してください」

 言葉が飛び出した。そして音を殺して外に出る。そっと隣の部屋のドアに耳を当てると中からかすかに音がしていて、廊下のガラス窓にチラチラと明かりが見えている。懐中電灯か?ドアノブをゆっくり回す。鍵はかかっていない。

 入り口のドアを開け隙間から手を入れて部屋の電気スイッチをオンにした。台所の明かりが眩しいくらいに部屋全体を映し出す。そこに、男が一人驚いたように引き出しをのぞいたまま固まっていた。夢の途中にいた目の前で流れる映像。何がなんだかわからないままの出来事。

「てめぇ!」

 男がポケットから取り出した何かは、部屋の明かりに照らされて銀色に輝いた。

 それを見て、恐ろしさと悲しみが溢れるように状況を把握した。

 男は泥棒だ。そして男は銀色のナイフを手にこちらに向かって突進してくる。

 目が覚めたばかりのオレは、どうしていいのかわからない。こいつは本気で刺そうとしている。目でわかる、こいつが何もかも捨てる覚悟で向かってきていることが。こんなシーンを前にも経験していなかっただろうか。

 しかしその瞬間、身体がものすごい速さで動いた。自分の意識とは別の場所で。

 桐生君は、男のナイフを持っている手を敏しょうな動きで掴むと自分の膝に強く振り下ろす。男の手からナイフが鈍い光を放って転がると、その手を男の背中にひねり上げる。

 そこまでの行動は、ほんの一瞬だった。

 オレは何もしていなかったし目の前で起こった出来事が、ただの映像のように流れていた。

「お巡りさん!はやく!」

 隣のお姉さん、いや相田さんというべきだろう、が警察の人とドアの向こうに現れた。


 それから先、桐生君は警察に行き事情徴収を受けた。

 その間ずっと眠ったように桐生君のそばにいたしすべてを見ていたが、意識とは全く別の桐生君と言う男の子が受け答えをしていてまるでテレビの中の映像のようだった。

 オレの頭の中でぐるぐる再現されたのは、あのナイフを持って走ってきたあいつの目、だった。同じ映像が何度も現れては消え、オレの胸をむかむかさせた。


 ピアスをした男と金髪の男が話している。

「桐生が捕まるように、証拠にこれを落としておけばいいさ。俺らはそのままトンズラしちまおうぜ。あいつは俺たちのことなんにも知らないんだ。捕まりっこないさ」

 金髪が何か言いながらうなずく。ピアスが肩をトントンと叩いている。

 

 なんだ?この映像はなんだ。

 そうだ、ピアスの男の目、さっきのナイフを持っていた男の目と同じだ。

 自分の人生を見据えている。諦めている?遠くのどこか別の彼方を見ている目。

 誰なんだろう?胸のどこかがえぐられるように痛む。恐怖がオレを包みこむ。


「髪の色を変えたのかね。まあ泥棒を捕まえるなんて、キミはまじめなんだねやっぱり」

 警察の人が桐生君を見て言う。まじめ?オレはまじめなのか?

 オレの中にそんな言葉は、全く存在していなかった。これはどういうことだろう。

 それにしても、ここまでのオレの行動は訳がわからなかった。勝手に動いて勝手にしゃべる。とっさに泥棒相手にあんな事までできるのか。


 相田さんと一緒に家に帰ってきたのは、もうかなりの時間が経っていた。

「本当にありがとうね。助かったわ。今度ちゃんとお礼するからね、楽しみにして待っててね」

 相田さんはそう言って、隣に消えた。自分の部屋に入るなりベッドにどっかりと腰を下ろすと、疲れた表情で横になり眠りについた。

 まだ、眠っていたかったオレを起こしたのは耳障りな声だった。

(いや~、お見事ですね。そんな事ができるようになったなんてびっくりです!)

 マルチーズ、いやシロか?いや、犬に入っている何かか。

「なんだ、どうしたんだ?オレは」

(え~~意識してやった訳ではないんですか?なんだ感激して損した。いいですか?今みたいに本人と自分を分けて出す事ができないと、あなたがやりたい事なんてできやしませんからね。まったく、優等生の私でさえ犬がやっとだって言うのに)

 分ける?本人と自分を。こいつでさえ犬がやっとって言う事は、オレはこの人間に取り付いてるというか入り込んでいる何か、ということか?

「どうやって、分けるんだ?」

 まだ眠っている頭をなんとか起こしながら目つきの悪くなっているシロに悔しいが、聞いてみた。

(そんなこともわからないまま、入っちゃったんですか?だから落第生はいやなんですよ。いいですか?自分の意識を集中させて高いところから見ている感覚を持つんです。そうして操りたい時は中に入る。普段は乗っている感じですかね)

 何がなんだかよくわからないまま、言われるままに高いところにいるんだと自分に言い聞かせてみる。すると、ズキンと背中が痛んだ。

「いてててて」

 最初の時に感じた痛みだ。同時に身体がものすごく重くなってきた。なんだこの重力は。地面にめり込んじまいそうじゃないか。肩甲骨がいたい、背中が重い。ものすごく背中が重い、ひっくり返りそうだ。

(ばかですね!反対ですよ、反対。だいたい私達は地面を歩くようにできていないんですから。飛んでくださいよ、手がかかりますね本当に)

 反対だって言われても、どうすることもできなくてオレはひっくり返った。

(はぁ、少しその練習をすることをお勧めします。いいですか、意識を集中させて高い所から見下ろす感じですよ。飛んでいるというか浮いている感じです。時間がかかりそうですね!まあ、仕方ないでしょう。ではまた、上手になった頃やってきますから。あ~いそがしいいそがしい。私だって仕事がたくさんあるんですからね!そして半分はあなたのせいでもあるって事なんですからね!まったくもう)

 一方的に言いたい事を言うと、シロは黙ったままベッドに飛び乗って身体を丸くして眠ってしまった。

 こちらの言い分も聞きたい事も聞かないまま、シロに入った何かは出て行った訳でシロは犬に戻った。


 それから真夜中だって言うのにオレは何度も何度も、立ち上がってはひっくり返るという間抜けな練習を繰り返した。もうそろそろ集中という言葉が頭から消えかかってきた頃、ふっと身体が軽くなるのがわかった。


「あれ?」

 驚いたように独り言をつぶやいた姿が目の前に見えたが、オレはしゃべっていない。ゆっくりふわりと宙を泳いでいるみたいな感覚がやけにしっくり来ていた。

「なんで真夜中にこんなところに立ってるんだろう?いやだな、寝ぼけてるのかな?明日もコンビニのバイトがあるのに、早く寝なくちゃ!」

 そう言うとベッドにもぐりこむと途端にいびきをかいて眠ってしまった。

 しかしそれを見守っているオレは、眠ってなんかいない。

しゃべってベッドに横になる自分のすぐ後ろで、不思議な気持ちのまま眺めていた。ズキンと背中が痛む。どうやらあいつが言ったように、分離する事に成功したようだ。窓の外はうっすらと明るくなってきていた。夜が終わって、また始まりの朝がやってくるのだろう。遠くのほうで小鳥のさえずりが聞こえている。小鳥の声に耳を澄ませば、鳥の色や形や大きさが想像できる。


『ああ、オレはきっとこの身体に入り込んでいたんだ。この桐生くんの身体の中に』

 声に出してつぶやいてみたつもりだったが、もちろん桐生君は眠ったままだし口も動かしたりしない。オレの言葉は、まるでトンネルの中でしゃべっているみたいに響いて聞こえていた。

 目の前に眠っているのが鏡の中で見た桐生君と違っていたのは、髪の色だった。金色に近い茶髪だったオレ、いや桐生君は今は普通の明るい黒髪だ。確かにいろんな人に髪の色変えたかって聞かれていたしな。

 何がどうなったのか、躍起になって脳みそをフル回転して思い出しているオレの後ろから何度も聞いていた声が響いてきた。

(すごいじゃないですか、ようやくできたんですね。じゃあこれからは私も、犬の中に入らなくてもよいんですね。ああ、良かった。やれやれ、ですね)

 犬のほうを見たが、シロは桐生くんのベッドで寄り添って眠っている。

『ん?』

 部屋の隅にぼぅっと白くて大きな影が映った。

『うわっ!』

 そこには白いスーツを着た男が立っていた。若いんだか年なんだかわかりゃしないけど、髪は七三にわけていてまるでサラリーマンみたいだ。

 おまけに白いフレームのメガネをかけていて、口元にはふてぶてしい微笑みがうかんでいる。

 メガネの奥であの陰険な目がきらりと光っていて、間違いなくシロとして話していたやつだ。

(ようやく本来の形に戻り、普通に話ができますね、良かった。こんなに手を焼くとは思ってもいませんでしたよ、まったく時間の無駄です!いくら成績優秀の私だって忙しくてかないませんよ!)

 吐き捨てるように、そう言った。

 オレはかなり驚いていて、そんな馬鹿にした言い方をしたやつに文句も言えずにいた。

 なんだって自分の事なのに思い出せないのだろうか。こいつはオレが自分の事をすべて思い出したと思ってるらしいが、実はまだ自分が何者なのかどこから来たのかどうしてこんな状況になったのかなんて、全く思い出しちゃいないんだ。だけど正直言って、こいつの姿を見りゃおおよその見当はつく。

 だって目の前に立ってにやついている白いスーツ姿の背中には、ふわふわとした今にも飛んで行ってしまいそうに軽やかで大きな羽が、はえていたんだから。

 驚きを隠しながら、ためらいがちに勇気を持って言葉にしてみる事にした。

『オレたちは、天使なのか?』

 多少また馬鹿にされるのを覚悟していたが、やっぱり思ったとおりの反応が返ってきた。

(なに言ってるんですか!もう、いい加減にして下さいよ、天使なんて人間がかってに呼んでいるだけじゃないですか。だいたい、わたしたちはまだやるべき事一つできてないんですよ。大きく計画が変わってしまったんだ、あなたのせいで!一つでもはやくクリアーして合格しないと、雲みたいに消えちゃいますよ!わかってるんですか!)

 白いスーツは背中の羽を少しすぼめて見せた。

 首を回して自分の背中を見てみた。背中には、目の前で偉そうに鼻の孔を膨らませているやつみたいなりっぱな羽は生えていなかった。

 負けたような悲しさがこみあげて来て、遠い昔感じた事のあるモヤモヤした感情が胸を押しつぶそうとする。すごく惨めな気分で聞いた。

『オレの羽は、いつ生えるんだ?』

(もう!あなたはへなちょことか、へこたれとか呼ばれてたのを思い出すべきです。私たちは命の石を投げたんじゃないんですか?あなたにはまだ、無理だって言われてたのにみんなの言う事も聞かないで。そんなだから、へなちょことか言われるんですよ。投げる前に、説明書も読まなかったんでしょうね、きっと。本当に最悪です!)


 命の石。その言葉に聞き覚えがあった。

頭の中にきらきら光ったオレンジ色の真珠みたいな石の映像が現れた。そうだ、これが命の石だ。そう、そしてオレはそれを投げたんだ。

 空高く、いや空のかなたから、雲の中の見えない地上に向かって、目を瞑って祈りを込めた。

 それで?そうだ、その石を探した。どの人間にあたったのか。

 石は、人間に当たってその中できらきらと輝く。夜の闇の中でも雲に覆われようと自分が投げた石は、どこからでもどんな遠くからでも見つけることができる。オレは、空から目を凝らして石を探した。

 人間のくだらない世界の中でその石は輝いていた。間違いなくオレを誘うように、まっすぐにオレンジの光を放ち。


 そこから、ええと思い出せない。どうしたんだっけ?

(いいですか?どうやらあまりいろんな事がわかってないようだからお教えしておきますが。今のあなたの様に、一度人間に入り込んでしまったからには責任を取らなくてはなりません。なので、あなたは桐生君のことをいろんな意味でフォローしなくてはならないのです。とにかくあなたの責任なんですから、きちんとフォローしてくださいね。だいたい、私はあなたの見張りをするように頼まれていたというのに、結局あなたは私の邪魔ばかりしてるような形になってしまったんですからね!さすがの私だってやりくりが大変でかないませんよ!)

 この頃になって、目の前の天使に見えるやつの暴言に腹が立ってきた。

『うるせぇな!なに言ってんだかわからねぇよ!』

 さっきからオレのことを馬鹿にしくさって、この天使やろうが。

『フォローってなんだよ!何すりゃいいんだよ!てめぇ、人の事へなちょことか言ってんじゃねぇぞ!蹴とばしてやろうか!おい!』

 完璧にオレは切れた。なんだか、さっきからわからないことをぐだぐだ言いやがって、まだ自分の事すら何一つ思い出してないっていうのに。

(ああ、もう!これだから嫌だって言ったんですよ。とにかく、責任をもって桐生君をお願いしますよ。もうそれだけでいいですから、彼が悲しい思いをしないように、心がけてくださいね。注意してあげて下さいよ。私はかわりにあの子の面倒をみておきますからね。とにかく、それだけです!とりあえず、それだけしか要求しませんから!)

 焦ってまくしたてると、天使のやろうはすっと消えてしまった。

 後には、ぼんやりと相変わらず汚いボロイアパートの壁があるだけだ。

 廊下の窓から入ってきた明るい光が、太陽が昇り一日が始まる事をを告げていて、よく状況を把握できていないオレの目に映っていた。

 何から始めて良いのか、わからないまま立つこともできずに宙に浮いていた。

 桐生君が安心して幸せそうに寝息を立てていて、それが妙に不安に感じて正直怖かった。悲しい想いをさせないように、という言葉が引っかかっていた。





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