へなちょこへこたれワンダーランド

sakurazaki

第一章 オレの章

第一話 オレはだれ?

プロローグ


(まったく、いい加減起きて下さいよ!こんな事になるなんて。)

 遠くの方で男にしては高い声が聞こえている。

 知らない声だ。

(これからどうすればいいのか考えなくちゃならないじゃないですか!)

 声は困ったように息を吐きながら、自分に言い聞かせているのだろうか?

 困惑した声と一緒に顔を柔らかい物が撫でてゆく。

 懐かしい匂いと感覚がよみがえる。

(わたしはいったい、どうすればいいのですか!)

 戸惑いが言葉に溢れて、おかしくて笑いそうだ。

 瞼を開けようと思ったが、遠い所から身体を引きずられるように持って行かれる。

 そうして深い暗闇に意識は遠のいて、いつしか声も聞こえなくなる。


 目を開けて考える。

 記憶喪失って本当にあるんだ、そんな気持ちでぼんやりとしみったれた天井を見ながら考えている。

 天井は古ぼけていてどうがんばったって今にも雨漏りしそうだし、ベッドの横の窓からは明るい日差しが差し込んでいて、もう午後だと教えている。

 まどろんだ感じで少しだけあせっているような、だるいような気分のまま窓の外の音を聞いた。子どもの遊んでる声がかなり近くちびっ子の声が聞こえてくる。追いかけてるんだろうな、お母さんらしき声も聞こえる。

 まったくね、子どもってうざいだけであんなに残酷な生き物はいないよな。

 オレはベッドの上で天井の模様なんか眺めながら、聞こえてくる音に注意を払いながら思っていた。

 子どもときたら虫は平気で殺すし、犬でも猫でもお構いなしに邪魔だと思ったら、泣き叫んで邪魔者あつかいさ。いい様に振り回されておとなはくたくたでしょう。夜泣きしかりけんかしかり、なんだって気に入らなければ泣きゃいいと思ってるんだからね。ま、そんな子どもがおとなになるまでには学ばなくちゃならない事が山ほどあるってことも、今はまだ知らずに無邪気に遊んでいるって事なんだろうか。そう考えると可哀想にもなってくるから、オレも子どもとたいした違いはないだろう。

 それはそうと、オレはベッドに横になっている訳だがここがどこなのかとんと見当がつかないし部屋にも見覚えがない、ここはどこだろう?

 本当にまったく見たこともない部屋だと言っていい。

 不思議なことに自分の頭の中の記憶をたどろうにも、一つとして何の場面さえも思い浮かばないし記憶の糸口もつかめない。って事はやっぱり俗にいう記憶喪失ってやつなのか?

記憶喪失?本当にそんな事があるのか?

何かのきっかけで、まあ頭を打つとか殴られるとかそんなこんなで今現在のオレがいる、なんて展開なのだろうか?


 目玉だけを動かして、ぐるりと見渡してみる。

 今いるこの部屋は、日当たりこそいいけどかなりの築年数の建物、そして狭い。

 ああそうか起き上がればいいのか、さっきから目玉だけを動かしている自分を想像しておかしくなった。起き上がれない事はない気がするんだけど、身体の感覚もあまりないようだった。

 脳みそが動くのに反応して身体の隅々に次第に血が流れてゆくのがわかった。身体中の感覚が甦っていくようだ。今、初めて目が覚めた気がする。

 まるで、無機物から血の通った人間になった気分だ。

 おそるおそる両手を動かしてみる。動く、良かった、ま、寝たきり老人って訳じゃなさそうだよ。第一、気分は若者だしな、年寄りじゃないと思う。

 まずゆっくり首を起こして、周りを見渡してみた。ふぅん、奥のほうにキッチンらしき空間がある。

 ガラス戸越しにすぐにキッチンだって思うって事は、やっぱりここは自分の家なのかな。あまり嬉しくないくらいに汚いアパートだ。うん?アパート?なるほどアパートなんだな、この部屋は。少しずつでも記憶の糸は手繰り寄せて行けるのだろうか、胸に不安だけが大きくなってゆく。

 薄汚れた壁にはポスターかなにか貼ってあったらしく、そこだけくっきりと切り取られたように四角く鮮やかな青緑色の壁。長く張ってあって色焼けしたのを物語ってる。

 押入れは壁が薄汚れてるのに反して、真っ白なふすまに桜の模様がやけに新しい。部屋には荷物が散らかってるふうでもなく、洋服ダンスが一つ置いてあるだけだ。キッチンの炊事場に窓があって、曇りガラスのむこうに人影が通り過ぎて行くのが映る。

 キッチン側に外廊下があるんだ、そしてやっぱりここは共同アパートなんだと現実味を帯びて結論に達した。


 ああ、いやだね、貧乏人なんて、どう考えても金持ちではないな。どうしてここが豪華な屋敷で周りには金ぴかな調度品が並んでる、って展開にならないんだろうね。で、オレってだれよ?身体の感覚も戻って気楽な感じで起き上がろうとした、当たり前に。

 簡単に身体を起こしたつもりだったが、オレのすべての神経に稲妻が走った。

「いてててて!」

 身体を半身起こしたまま、オレはうなった。

 待てよ待て!オレは何の記憶もないし、ここがどこかもわからなくて最悪な状態だっていうのに、身体に欠陥まで持ってるのかよ。冗談じゃない、そんなの聞いてないよ。誰がかって、誰だかわかんないオレだよ。目をつぶって身体中の神経をそばだてた。

 どこだ?今電気が走った原因の場所はどこだ?手ではない、足でもない、頭ではない、背中、背中だ。背中のどこだ?右の肩甲骨、そこからの痛みだ。オレはもう一度力を入れて、少し身体を起こしてみた。注意深く、背中に神経を集中させてみるが幸運なことに痛みはなかった。

 ふぅっと息を吐きながら、右手を肩のところから大きく前から後ろへ回してみる。

 大丈夫だ、何の痛みもない。肩をすぼめたりしてみたけど、オーケーなんともない。

 まったくびっくりしちゃったぜ。電気が走るって、漫画みたいに身体中がビリビリした。雷に打たれた時みたいで、あせるのなんのって。

 あれ?何言ってんの?雷って、普通人間が打たれたら、死ぬわな、ばかか、オレ。

 それから注意しながら、立ち上がってオレはベッド脇の窓のところに歩いていった。歩いたって言ったって三歩でついちゃう位の狭い部屋な訳だけどさ。

 窓の外には人が一人立てるくらいの幅のベランダがついていて、二階のオレの部屋から目の前の公園が見下ろせた。たいした大きさの公園ではないが、キャッチボール位できる広さとその手前にいくつかの遊具があって子どもが遊んでいる。なるほど、さっきからの子どもの声はここで遊んでいる声で、このアパートは公園前にあり日当たりの良い、まあ悪くない物件だって事がわかった。

 公園には小さな滑り台があって、その横には砂場が檻のようなフェンスに囲まれている。

 なんでフェンスに囲まれちゃってるんだ?どっから入れっていうのかな?

 まず知ってる限りの公園の砂場にはフェンスなんて無かったと思うし、よくよくフェンスを観察してみると、ドアみたいになってる部分がある。

ああなるほど、猫とかがトイレに使わないようにってことかな。中には親子連れが二組遊んでいて、なんだか動物園のなかの熊みたいじゃんか。まったく神経質になりすぎな今日びの公園ってやつだね。

 ばい菌ばい菌って言ったって人間界にはばい菌はうじゃうじゃいる訳で、そんなに言うなら無菌室で遊べよ!とか心の中で叫んじゃう、このオレはだれ?

 見るもの聞くもの記憶にないなんて、いったいどこから来たんだって話だしなんだか、自分が誰だかわからないってのもどうしていいのか、なにしていいのか検討もつかないわ。

 そんなオレの鼻をくすぐるいい匂いが漂ってきた。

う~ん、いい香り。なんだっけ?この匂い。頭の中に浮かんだイメージは、小さくて細かいオレンジの花だ。目が公園のその匂いの元を探している。

滑り台の横の空間にいくつかベンチが置いてあって、そのベンチの横の大きくてこんもりとした木の緑の中。オレンジで小さくてかわいい花がたくさん、ちらちらと存在感たっぷりにゆれている。

金木犀だよな偉いねオレ、花の名前知ってるね。とにかく大好きな花の匂いだってことは確実で、ま、何の記憶もない、訳じゃなさそうで良かった。

 金木犀を捉えた視線がそこで止まった。砂場の前のベンチ、金木犀の花の香りに包まれた空間。

 そのベンチに女の子が座っている。女の子って言ったってガキじゃなくて高校生かなもう少し上かな、そのくらいの少女だ。肩につくくらいのやわらかいウェーブのかかった髪が、時折風に揺れて彼女は手でかき上げる。

 ああ、本を読んでるんだ。オレ、この子知ってる。胸のところがきゅっと音をたてて、縮んだような感じがして苦しい。なんだっけ?誰だっけ?

 思い出せないけどすごく懐かしくってものすごく近くにいそうな気分は、じっとしていられないほどで、鼓動が早くなるのがわかった。

自分が誰だかもわからないのに、公園にいるこの子の事なんて思い出すわけがない。そうは思ったけどその子のまわりには大事な記憶が潜んでいるみたいで、意外にもあっけなく思い出しそうにさえ思えた。

 オレはこの子を明らかに知っている、しかもいつも見ていた。

 それに加えて、この胸の痛みは何だ?そうそう「むねきゅん」とかいったんじゃないのか?「むねきゅん」がなんなのか、いまいち思い出さないがこれがそうだなんて言っちゃう所が良くわからないといえなくもないが。とにかく、少女から目が離せなくなっていた。

 風が時折、彼女の髪をなでる。彼女は髪をかき上げて手で抑えながらページをめくる。

 その仕草と甘美な香りが入り混じって、天国にもいるみたいな気分だった。

 そう思った時、頭の片隅でツッコミみたいな言葉が響いた。

 天国?天国はそんな甘美な世界ちゃうで!

ってなんで関西弁?この言葉にえらく反応している自分にびっくりして、おどけてみたけれど、目は彼女からそらす事もできず釘付けって感じだった。

 どれ位その女の子を見つめてたのかわからないが、突然オレの立っているベランダのすぐ横でパンパンとすさまじい音が響いた。

「あらぁ、いいお天気ね~。今日は学校お休み?」

 髪の毛が薄紫がかった茶色の、眉毛のないおばさん?が隣のベランダの布団を激しく親の仇みたいに叩いていた。そんなに強く布団叩くとかえって良くないですよ、なんて思いながら

「は、はい」

 しどろもどろな感じで返事をした。始めて聞いた声は結構いい声だった。そうかどうやら、学生なのかな。

「この間、事故にあったのよね。もういいの?」

 おばさんは意外にもにっこり微笑むと、最初の印象よりはおねえさんに見えてきた。すっぴんだからババアにみえるだけなのかな。

「はぁ」

 事故って、どんな事故なんだろう?身体はさっきの背中の痛みを除けばなんの問題もなさそうだし、しっかり立っているので自信を持って答えた。

「もう、大丈夫です」

 とりあえず、大丈夫だ、それは間違いない。

「ものすごい音したって聞いたわよ、この辺の人みんな出て来たって!ほんと、びっくりしたわぁ~、わたしは仕事に行く途中だったんだけどね」

 いつなんだろう?事故にあったのは。

「さあさ、お布団しまってお仕事に行かなくちゃ!お隣さん同士たまにはお茶でもしましょうよ。って言ったってこのぐらいの時間と夜中しか暇ないんだけどね。おにいちゃんの暇な時間があったらぜひね!」

 ってにこにこしながら、お姉さんとは言いにくいおばさんが布団をしまって手を振った。

 話の内容から察するに、事故ったのは夕方のことだな、そしてお隣さんは水商売か。

 年齢は考えないようにしたほうが、精神衛生的によさそうですね。

「あっ!」

 ふと目を公園に戻すと女の子が消えていた。もう帰ったんだろうか、はぁ、残念だ。覚えていると確信できる唯一の人物だったのに。名残惜しくその女の子が座っていたベンチを眺めていると、胸のどこだかわからない場所を時折風に乗せて金木犀の花の香りがぎゅっと握って通り過ぎていく。

 さて、どうするかな。

 女の子のいなくなったベンチを眺めながらため息をついているオレの足元から、パタパタと音がして、白い影が動いた。

「うわっ!」

 真っ白い塊が飛びついてきて、クゥ~ンと鼻を鳴らしてオレの足にじゃれつく。

「やめろよ!」

 払いのけたが、そこにはどこから来たのかマルチーズがハァハァいいながらしっぽを全開よろしく振っている。

そう、マルチーズ。犬だ。白いふわふわの毛は、漂白剤で洗ったように輝いていて、真っ黒い目玉は愛くるしく何かを求めているようにきらきらと星のように光っている。

 この犬は、なんだっけ?飼ってる犬?いや、待てよ、こんなボロアパートのくせにペットが飼えるはずない。ならば、無断で飼ってるとしか思えない。じゃ、大家には内緒で飼っていたのか?第一オレが目を覚ましてからうんともすんとも言わずに静かにしていた訳で、しつけよろしく頭のいいやつだとしか言い様がないよね。さらにフゥフゥ言いながら足元にジャンプしているこの白い塊が、腹が減ってることだけはわかってきた。時折犬から、腹の音がグーグー聞こえてくる。腹が減るのは悲しいもんだよね。

 腹が減る悲しさを経験したことがあるのかオレはこの小さな塊の為に立ち上がり、初めて入る気分でキッチンにまっすぐに歩いて行き冷蔵庫の上に置いてあった箱入りのドッグフードを取ると玄関口の脇にある皿に入れた。マルチーズはその間じっとお座りをしたまま、こちらの顔をまっすぐに期待に満ちた様子で待っていた。

「おまえ、頭いいなぁ」

 マルチーズの頭をなでた。そんな事はどうでもいいから早く飯をくれと鼻息が荒くなる。

「よし!」

 そう声をかけると、マルチーズはガッと皿に顔をつっこんでガツガツドッグフードを口の中に入れた。

 ふぅん、マルチーズが現れてからここまでのオレの行動はまったくもって板についており毎日の行動と言ってもいいくらいで、目をつぶっていても動けそうなくらいだ。とすると目の前でさっさと皿をからっぽにして舌なめずりをしているこいつは、自分の犬という事になるな。いいのか?大家にばれないのか?だいたいこんなボロアパートに住んでいるのにマルチーズって高くない?もらったのかな?こいつが口をきけたら聞きたいところだ、まったく。

 さらにこいつは腹がいっぱいになったら散歩がしたいらしく、足元に首輪を持ってきた。しかたない、さしてやる事もないので初めて人間界に出てみる事にする、ってオレは妖怪か。

 記憶の糸がどこかで交差するかもしれないと思いながら、身体が動くままに犬の首輪とリードをつけて汚物処理用の袋を持った。

 まあ、モラルはあるやつだったようで、安心した。

 とにかく犬を散歩させて出した物をとらないようなやつは、まったく人間失格だと思うよ。

 でっかくて熊がしたのかっていう物が道路の真ん中に落ちてた日にゃ人間どこまで落ちぶれちゃうのって、げんなりするよね。更にそこを車が通ったもんなら、延々とその痕跡が残るわけで、「この道通るのやめよ」って思うのは、自分もそんなやつと一緒にされたくないからね。

 だいたいさわやかな朝、う~んと伸びをしながら新聞なんか取りに行って門を出たところで、足に嫌な感覚っとかって、その日一日丸潰れでしょ。とにかく、犬を飼うなら責任を持て!って言いたいね。あれ、オレってこんなに熱いやつなんだ?

 なんか、どこかがずれてるような気もするけど、まああとで考える事にしよう。


 とりあえず、靴を履いた。狭いアパートの玄関には、スニーカーとキャンパス地の靴それと若者がはくような先のとがったエナメルの靴が一足しかなかった。

 それまで気がつかなかったがストライプのシャツと半そでのティーシャツを下に着て、まあ満更でもない。

 玄関の入り口の下駄箱には鏡が置いてあって、自分の顔を初めて見る。細い切れ長の目は涼しそうで、鼻すじは通っている。口元は薄い唇をきりっとむすんで、驚いた事に金に近い茶髪だった。パーマまでかけてある。

 それから小さなドアをくぐって外に出ようとして、そこで気がついた。身長が高いのだ、ドアが小さいんじゃないんだ。

 なんだ?このイケメンぶりは?なにかがおかしい。そんな訳はない。なにかがちぐはぐな、どこかがずれているような、そんな気がした。なんだろう、この違和感は。

 もっといろいろとそこで考えていたかったけど、マルチーズがうるさいので外へ続くドアをオレは初めて開けた。外からのやわらかい風が身体を通り抜けて行った。目がさめた時みたいに。

 さっきの公園からなのか金木犀の花の香りが心の深い部分を揺らすような気がして、立ち止まって振り向いた。



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