第5話

とても甘くて、酸味のある・・・そう、これはあれだった。


私は目を開けて、その香りの主を確認しようとした。しかし気が付くと、自分は高いところにある白い天井を見上げていた。


それはどう見ても病院の天井で、自分はベッドの上に寝ている。横たわる私をのぞきこんでいるのは、やつれた顔の母と姉で、母は、私の鼻先に白い皿を差し出していた。


その上には東京フルーツ、ならぬ、アメリカンチェリーが、種を丁寧に取り除かれた状態で並べられている。


「母さんに、姉さん?」

 

こう言った自分の声が、うまく聞こえなかった。すぐさま、自分の口に呼吸器らしきものが付いているのに気付く。姉がすぐさま口走る。


「やっぱり効果あったね」


果物のことだろう。私はアメリカンチェリーが好きだ。腕をあげようとすると、ひどく倦怠感があった。私のしようとしたことを姉がくんで、呼吸器を外してくれた。


「どうしよう加奈子。健治がおきた・・・」


母は安心したように、目頭を押さえた。姉の加奈子が、はあっとため息をついて私を見つめる。家庭もちの姉には悪いことをしてしまったと私は思った。


姉は目をふせ、となりで肩をふるわす母を抱きしめた。



二人はそれから私の手を握ったり、皿のフルーツを食べるかと勧めたりなど、ひとしきりのことを尽した後、ようやく椅子に腰を下ろした。


姉は、落ち着く素振りもなく、さっそく私の身に起きたことを説明してくれた。


「あんた馬鹿だから、年甲斐もなく酔っぱらって、駅のホームから落ちたのよ。それから手術で・・・二週間は眠ってた。でもね、運がよかったのよ」


私はまだ頭の中が混乱していたが、「東京フルーツ」やら、「金子さん」だとか、それらのイメージがあまりに突飛であった理由がそれだったのだと思う。それにしても、酔って落ちるなんてどうかしてる。私は頭のむずがゆさが、その手術跡なのだと感じる。まるで改造された人間だ。


「運が?」


咳払いをしてから私が尋ねると姉はつづけた。


「うん・・・。あんまり大きな声では言えないんだけれど、あんたが落ちた駅の、ひとつ前の駅で飛び込みがあって、電車がちょうど止まってたんだよ。

だからね、私たち最初、病院から連絡があったときに、その飛び込んだ人が、あんたじゃないかって思った。でも紛らわしいよね。状況が似てるから」


夢の中でのおそろしいイメージは、おそらく、これと関係があるのだろう。自分の馬鹿さ加減には吐き気がする。その飛び込んだ人に、こんな自分が助けられてしまったことも、申し訳なかった。


内面の事情があまりに違うのに、客観的には、起きたことが一緒だなんてひどい話だ。


しかし私だって、危なかった。死んでいたのかもしれない。だから、これは靭帯なのだ。目覚めたばかりの私は、たまたま生きている自分と、願いかなってか、絶望の果てに亡くなったその人の間に、まだ何かがあると思えた。


魂がゆくはずの場所に、へその緒を付けて繋がっているような感じ、とでもいえばいいだろうか。その人は、私よりちょっと先に、行ってしまっただけなのだと。


姉はしばらく、その飛び込みで亡くなった人のことを含め、ここ数週間のニュースを話して教えてくれた。ようやく自分の知っているところまで戻ったあたりで、姉は話をかえた。


「それでね、あんたさ」


姉は、からかう調子で目を輝かせ言った。


「あんた、えらく年下の子に、助けられたのよね。かっこ悪いよ。いや、目を覚ましたから言えるんだけど、落ちた時に、すぐベルを鳴らしてくれた子が、ずっとお見舞いに来てくれてるの。いまちょっと、席を外してるんだけど、あんたが知ってる子だよね?」


私は少し不安な気持ちになり、身体をひねって、病室の出入り口の方をうかがった。この期に及んで、まったく何も思い出せない。夢の内容なら、細かいところまで思い出せるのだが。


「うーん、かわいい子だけど。どうなの? もしかして一緒に帰ってたの? あんまり私がでしゃばっても、と思ってたんだけど、あんまり一生懸命だから。あっ、そう言ってたら」



首を傾げてぎりぎり見えるかくらいのところから、グレーのスーツの、若い女性が現れた。その人は私の方へまっすぐ歩いてきて、姉や母に遠慮しながらも私を見た。


「島田さん・・・」


私が何かを言う前に、ぽろぽろと彼女の眼から涙がながれて落ちた。私はその様子を見て、思いがけず心をうたれてしまった。


「えっと・・・」


私は彼女のことを知っていた。しかし、口に出そうとしたらなぜか出てこない。


「ええっと・・・」


姉も母も期待のこもった目で私を見ていた。私は悔し紛れに彼女に手を差しだし、彼女はためらいながらも私の手を取った。


弱った私の目には、彼女がひどく眩しく見えた。それと同時に、熱い何かが手のひらにあふれた。


、ありがとう」


 私は、久しぶりに泣いていた。

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