第4話
回想を終えた私は、いま隣に座り、「いい香り」をさせている彼女のことを考えた。まるで桃のような、パイナップルのような香りだ。私は彼女に尋ねた。
「じゃあ、〈東京フルーツ〉って、なんなの?」
彼女は私の問いに、少し不満げに俯いた。
「なんなの・・・ですか」
そうしたっきり、彼女は黙ってしまった。電車は駅をひとつ、ふたつと通過し、どこまで来たのか、車内の人もまばらになってきた。私は彼女が自分と同じ駅で降りるのか不安になり、彼女のほうをそっと伺う。彼女は眠るように眼を閉じて、考え事をしているようだった。いや、本当に眠っているのか?
「金子さん?」
とうとう客は、私たちだけのようだった。こんなにも長く電車に乗る必要などないはずなのに。いつになったら、自宅に着くのだろう。
私は、若い夜の暗がりに映った自分と彼女の姿を見て、ため息をついた。まるで記念写真のように二人で並んで座っているなんて、変な光景だ。
私は自分の鞄を探して、網棚を見上げたが、どこにもない。いったいどこへ置いてきたのか。いや、誰かが持ち去ったのに、気付かなかったのだろうか。
私は自分の不注意さに苛立った。彼女とうっかりこんなところで会うから、こういうことになる。私は彼女をゆり起す勢いで、今度はやや強めに言った。
「金子さん、もうすぐ降りるんですから、起きてくださいよ」
私がそういうと、彼女は目を閉じたまま、やや幸せそうに微笑んだ。「どうしたんですか」と私が訊く前に、彼女は言った。
「私いま、夢をみてました。私が、島田さんに親切をして、それで・・・」
「夢の話なんて、いいんです。起きてください金子さん」
色を深めていく夜の中に、一人で取り残されるような不安だった。何か恐ろしいものがそこまで迫っているような予感もした。どうして彼女はこうもお気楽なのだろう。私は彼女をよく知らない。下の名前だって知らないくらいだ。
「金子さん、そういえば金子さんの下の名前ってなんでしたっけ?」
私は独り言のように言ったのだと思う。でも、彼女はそれに答えた。
「あゆみです」
彼女がそう答えた、そのときだ。電車はありえないほどの急ブレーキをかけ、私たちは座席から放り出されると、まるでゴムボールのように、車内の三次元空間を斜めに横切り、ふっ飛んだ。
その時の私は、「これが恐れていたことなのだ!」と、何度も内心で叫んでいる他は、意外と冷静に飛ばされていた。
不思議なことに、私の身体はひどく柔らかい素材でできているように、座席だろうが天井だろうが、ぶつかっても縮んで、その反動で勢いよく反対側へ飛んでいくものだから、怪我は心配なかった。少々痛いくらいは、何ともない。
そうこうしているうちに、電車の前の方から、大きくて白い、丸いものが大量に、車内を縦横無尽に弾みながら押し寄せてきた。
それは遠目には靄のように見えたが、「ドタドタ」という不気味な低音を響かせながら押し寄せてくるものといえば、あの「東京フルーツ」の大群以外の何ものでもない。
こんどこそおしまいかと思ったが、最後尾の方まで飛んで行ってしまった金子さんが、私に向かってこう叫んでいるのを聞いた。
「もう少しの辛抱です!! あともうちょっと!!」
私はいったいどうすれば「大丈夫なのだろう」と思ったが、東京フルーツの大群は、彼女にも止められない。
目前に迫った東京フルーツは、一個だけで、ゆうに人間の大人ほどの大きさになっていた。私は驚きながらも、なるようにしかならず、飛び跳ねている。それにしても、電車はまだ、止まらないのか。
ふと外を見ると、そこには大勢の人がいた。私はどきりとして見たが、彼らは私たちを指さし、ひどく青ざめた表情でうろたえた様子、中には目を背けて震えている者までいた。それは、終電間近のホームの光景に他ならず、私はいわずもがな、「助けてくれ」という視線を送ったのだが、誰か気付いただろうか。
しかし、電車は止まらない。急行並みのスピードを維持したまま、ホームを通り過ぎていく。私からは、ホームに立つ大勢の客たちの表情が手に取るようにわかるのに、彼らには、私の恐怖が分からないようだった。すでに東京フルーツと一緒になって車内を弾んでいる私を見て、彼らは恐怖しているのだろうか。
巨大風船のような感触の東京フルーツの群れは、私を飲み込んでふくれあがる。不思議と不快ではないその温度に、私は呼吸を忘れそうだった。
もはや視界は遮られ、私は箱に詰められた人形のように、宙で固定されていた。電車のスピードはやや落ちてきていて、私は扉があくと同時にホームに転がり落ちることを想定し、目を動かす。
「もうすぐです!腕を広げて!構えて!」
またもや金子さんの声だった。なぜ腕を広げるのかは分からないが、そうすることにした。
そうして電車は止まり、私たちは一気に転がり落ちた。そこは、真っ白なホームだった。極限までふくらんだ東京フルーツは、パンパン!と勢いよく割れ、白いホームに、同じく白い粉末として飛散した。
その光景は、一つの祭典のようでもあり、私はその白いホームのある、また白い空間に疑問を抱いた。
いつのまにか、どこかの異空間に紛れ込んだのか。それとも室内ホールか何かだろうと思われた。
突如サイレンのような音がして、後ろで扉がしまる。ああ、という間に電車は走り去る。その方向には真っ黒な穴がぽっかり開いていて、先が見えなかった。私は思わず彼女の名前を呼ぶ。
「金子さん!金子さん!」
彼女の姿が見えなかった。まさか、電車に残っていたのだろうか。自分だけが降りてしまったのだろうか。私は置いて行かれた。それだけは嫌だった。第一、ここがどこか訊かなくてはならない。彼女は知っているようだった。
「金子さーん!」
子どもの頃を思い出した。必死で母親の名前を呼んだり、友達の名前を呼んだりしていた。もし、呼んだ相手が、自分のところへ戻ってきてくれなかったらどうしよう。二度と会えなかったらどうしよう。
それだけのことを考えて、かん高い声で、わめくように名前を呼んだものだ。
「あゆみさーん!どこですか!」
「はーい!」
小さな声が聞こえた。それはどうやら、足元に落ちている小さな、黒くて丸いものから聞こえていた。私は、それをおそるおそる掴んで、観察した。
大きさは小さめのスーパーボールだったが、質感と持ったかんじが、ナマモノだった。まさかと思ったが、私は尋ねた。
「東京フルーツ?」
「ピンポーン!」
そういって東京フルーツが、ぱくりとはじけた。
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