第2話
翌朝私は台所に立ったが、「例のフルーツ」は冷蔵庫でラップにくるまれ休んでいた。できるだけ「そいつ」に悩まされないよう、私はじきに処分するつもりだと自分に言いきかせ、会社に旅立った。
電車から見えるいつもの風景は、今日は特別とばかりに、私に語りかけてくるような気がした。もしかしたらあのフルーツは、火を加えると幻覚作用を引き起こすような成分を発するのかもしれない。私は心の中で「なんて同僚だ!」と毒づいたが、面と向かって本人に言うことは無かった。
パソコンに向かうとき、休憩でトイレに立つとき、どこからともなく、あの東京フルーツの存在が頭をもたげてくる。なんて奴だ。
自分の時間や人生の中で、あれがそんなに重要なものであるはずは無いのに、どうしてもあの奇妙な食べ物のことが頭から離れない。どんな味がするかなどは、もう興味の対象ではないというのに。
大好物を最後にとっておくという習癖、そんなことでは無い。新規なものへの期待感とは違う。
あのフルーツは、すでに私の思考に取りついて、あるべき「正しい調理法」を自力で導き出すよう、脅迫しているようにしか思えない。これは孤独な戦いだ。そして、間違いなく楽しくはない戦いだ。私は、あれに向き合うことで、避けがたい何かを避けようとしているのだろうか。
おかげで私は今日だれの噂話を聞くこともなく、社内で流れるどんなに喧しい音楽に気をとられることがなかった。私の感覚はとても充実していて、あの奇妙なフルーツのように、誰の理解にもあずからないで存在していられるように、健全だったと思う。
あのフルーツは、私の不安をそこいらじゅうから掻き集めて、いま、冷蔵庫の中でしっとりと冷えていることだろう。まるで自分の醜い部分を暗所に隠しているかのような安堵もある。
私はふっと、暗く冷えて、乾燥している庫内の様子を思った。きらきらとしたラップにくるまれて、あのフルーツはけっこう苦しんでいるに違いない。息苦しくて仕方がないとばかりに「目を見開いて」、私を迎えるだろうか。
一日が終わり、私は駅のホームで夕焼けを見ながら、明日を心配することもなく、ただ、自分の今日の徒労をいたわることが出来た。
そうしていると、一日を過ごすということが、数年前にはひどく容易いことだったのを思い出した。
私は自分の世界に慣れていく自分のことを思った。まるで溶けて消えてしまうような自分のことを、私はあのフルーツの奇妙さと同じくらい、忘れることができなかった。
「あの、島田さん?」
私は知った声に、我に返った。会社のずっと後輩の金子さんだった。私は彼女の大きな瞳に驚いて、どもりながらも答えた。
「奇遇だね」
ここは帰りの電車の中だった。彼女は、一つだけ空いた私の隣の席へ腰かけてきた。
「島田さん、もしかしてお気づきじゃないんですか?」
彼女のまっすぐな視線が苦しかった。私はこれでもすでにおじさんだ。どぎまぎして、心臓の音が大きくなる。
「な、なにがかな?」
私は少しだけ笑ったと思う。でも前を向いたままだ。彼女は息がかかるほど近くから、私に話しかける。
「島田さん、前にお話ししてた、あれのことなんですけど」
「あれ?…(?)」
頭の中は真っ白だ。彼女はすかさず、こう付け加えた。
「〈東京フルーツ〉って、食べ物じゃないんですよ」
私は自分の耳を疑った。まさか、いま、彼女の口から「東京フルーツ」という言葉が出やしなかったか。私は急速に、あの夜のことを思い出していた。
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