東京フルーツ
ミーシャ
第1話
故郷を旅立って、はや20年。東京の生活にも慣れ、そこに住む人間の「悲愛」にも理解が生まれてきたところだった。
私が会社の帰り、夜の闇の中で目にしたのは、「東京フルーツ」と書かれた汚い段ボール箱が一つと、その上に載っている、葡萄のようでいて、それでいてパイナップルのようでもある、白っぽい大きな「フルーツ」らしきものであった。
オレンジ色のライトに吸寄せられるように近寄ると、桃のような甘い香りが漂ってきた。私は勇気を出して一歩ふみ出し、段ボール箱の向こう側に座る男に、声をかけた。
「ねぇ、すみません、これください」
その男は目深にひしゃげたブルーの帽子をかぶり、赤っぽい、これまた着古した上着を着ていた。代金を求めるその手を見ると、インクに染まったように黒光りしていた。
かえって好奇心が掻きたてられた私は、その男に2000円を払い、100円で500円分のおつりをもらうと、そのフルーツを片手に駅へと戻った。
その怪しげな出店は、私が会社の飲み会で酔っぱらい、千鳥足で高架下に嘔吐した際に知った店だった。そのとき私に声をかけたのは、30にもいかない位の若い女性だった。彼女は優しげに笑うと、私に口を拭くものを貸してくれたばかりか、どこからかバケツに水を汲んでくると、私のやってしまった後をあっさり片付けてくれた。
私は彼女の特徴を頭にたたきこんだつもりで、その実、彼女が夜遅くにこんなところで露天商をやっていた以外は、何も思い出せなかった。そのあと、何度か会社帰りに途中下車し、この店を遠目に観察した。今日で三度目。
昨日も座っていた男はいるが、彼女はいなかった。もしかしたら、あの日だけの代理だったのか。しかしこうも期待が裏切られると、みょうな気も起こす。そうだ、ここで何か買い物をしてみようと。
私の買い物が正しいなどとは言はない。しかし、「東京フルーツ」なんて銘打ってあるくらいだから、美味しいかもしれない。新しく作った品種のフルーツなんて、最近はどこにでもある。
私は少々得意げになって、自宅のまな板に、そのフルーツをのっけると、いざ、どう切ったらいいものかを考えた。
縦か横か、それよりも問題は、食べられる部分と、そうでないところがあるはずである。でなければ、食べごろがいつかを知らないと困るだろう。
私は1500円という値段が、少し気になり始めた。桃一個よりも高いが、葡萄と比較すると、普通だろうか。私は野球のグローブ大の「東京フルーツ」を見ながら、その表面のつるつるとしたところに、自分の顔が上下逆に映り込んでいるのを見た。食べてはいけない。そんな気がした私は、その日を断念した。
翌日、話のネタに東京フルーツのことを同僚に話すと、もしかしたら知っているかもしれないといい、私にそれを薄く切り、炒めてたべることを勧めた。
私は、「フルーツを加熱して食べるなんて」と疑問を覚えたが、同僚の話を信じることにして、帰宅した。今日は、寄り道をしなかった。
帰ってまず目にしたのは、白かった「東京フルーツ」が、紫に変色していたことだった。私は、おどろきながらも、包丁でそれを切ろうとした。しかし、なんということだろうか。
まるでそれは、ゴムのような臭気を発し、触感もまたゴムボールのようで、まったく切れそうになかった。
驚きをそのままに、私はこのまま炒めてしまおうと決めた。特大のフライパンにごま油を大さじ三杯、そこにフルーツをのっけて中火にかけた。
10分たった。私は、ごま油の匂いに気をよくして、見守っていた。気のせいか、ずんずんと縮んでいるような気がしたが、それは確信に変わった。
グローブ大のフルーツは、みるみるうちに、リンゴほどの大きさになり、「ピー」という小さくも警戒音のような音を発し始めた。私はあわてて火を止め、フライパンからフルーツを取り出した。油のせいで光る表面は虹色に輝き、いかにもおいしそうであったが、私は敬遠した。「東京フルーツ」の奇天烈な存在感に、私は気圧されはじめていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます