第106話 マンション

私が住んでいるマンションは、とても大きくて、とても大勢の人間が住んでいるはずなのだけれど、私は一度も、誰とも出会ったことがない。回覧はちゃんと回ってくるし、掲示板のポスターなどは随時更新されていて、住人たちで行う小さなイベント……例えば餅つきや七夕の短冊を飾るようなイベントなどのお知らせも行われているのだが、それでも、誰とも出会ったことがない。


朝、通勤の時間帯には、マンションの通路はひっそりと静まり返っていて、自分の靴音が響いている。遠くに鳥がさえずるのが聞こえて、私以外の生き物がこの時間に起きていることをかろうじて知ることが出来る。建物を出ると、往来は行き交う人々で埋め尽くされている。私は建物を振り返る。人の気配は無く、扉の奥は相変わらず静まり返ったままで、物音一つ、しやしない。


夜、仕事から帰ってくると、階段を照らす電灯が一つ切れていた。管理人の部屋を訪れ、呼び鈴を鳴らすが、返事は無い。仕方がないので、御用の際はこちらまで、と書かれた連絡先に電話した。こちらも当然のように応答はなく、留守番電話へ繋がった。私は電灯が切れているので替えてほしいと手短に伝え、電話を切った。私は、いまだにこのマンションの住人と出会ったことがない。この管理人も、例外ではない。


住民が行う小さなイベント、餅つきがあった際に、たまたま暇だった私は、なんの気まぐれか、その会場に顔を出した。ところが、そこには誰一人いなかった。臼と杵があり、つきたてでまだ湯気が立ち上っている餅が臼の中にあり、そばの机や椅子は先ほどまでだれか座っていたかのような様子であり、机の上に、ご自由にどうぞ、と手書きの札が添えられた餅がいくつかあった。きな粉がかけられたものをつまむと、まだ熱かった。私はそれを咀嚼しながら、手持無沙汰に歩き回る。まるで……どこかで聞いたような話だな、と私は思った。イギリスだったか……フランスだったか忘れたけれど、洋上で小型船を見かけ、様子がおかしいので乗り込んでみると、そこには湯気を立てたコーヒーや朝食がテーブルに乗っている……だけれど、船内をどれだけ探しても人間だけがいない……。私は餅つき会場を出る事にした。一度だけ振り返ったけれど、そこにはやはり誰もいなくて、私は誰に言うでもなく、ごちそうさま、と小さくつぶやいて、それからこの会場を後にした。


翌日、仕事から帰ってくると、切れていた電球が取り換えられていて、部屋へ帰ると、電球を取り換えておきました。ご連絡ありがとうございます、と書かれた短い手紙がドアの下に挟まっていた。


それ以来、私はこのマンションの静けさにおびえることはなくなった。たとえ誰なのか分からない透明人間だろうと、私だけは、この建物には誰かいるという事を知っている。もう気にならない。よく考えれば、おびえるほどの事じゃない。それに、彼らの方こそ、私の事を一度も見たことがない透明人間だと思っているかもしれないし。

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