第026話 木

台風の日、もう夜も更け、日付をまたぐような頃合いに、家のすぐ裏手にある大樹が恐ろしいほどの強風で倒れ、運悪くそこを通りかかった車に直撃して、豆腐でも踏みつけるかのように、乗っていた人間もろとも叩き潰した。力任せに笛を吹くような風の音色でかき消され、ベッドでぐっすりと眠っていた私は、この事に気付かなかった。車は潰されたまま、踊り狂う風の中、静かに雨に打たれていた。


チェーンソーの激しい音で私は叩き起こされた。手元の時計を拾い上げて、窓から入る光にかざす。時刻は深夜零時をいくらか過ぎた頃だった。外ではまだ風が鳴っていて、それに対抗するようにチェーンソーが唸りを上げている。窓の外から幾人もの声を張り上げるのが聞こえた。ベッドから身体を起こし、窓から外を覗くと、ひしゃげた乗用車と、それを押し潰した大樹と、数台の救急車、そして、事故にあった運転手らを助けるために、人力では到底動かすことのできない大樹に取り付き、チェーンソーを必死に樹へと押し付けている幾人もの者たちがいた。


それからしばらくの間、樹と組みあっている激しいエンジン音と、吹きすさぶ風の音と、救助作業に取り掛かっている者たちの声が、ほとんどひっきりなしに続いていた。時折、これらの音の切れ間に、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。どうやら、ぺしゃんこになった車の方から、聞こえてくるものらしかった。私はこれらの音に注意を引かれながらも、再びベッドへ入り、睡眠の続きを取ろうとした。


そのうちに、緊迫した声が聞こえた。車の潰れ具合がひどく、後部座席にいた赤ん坊の右腕が挟まれていて、助け出せないらしい。前方の座席にいた両親は、樹に潰されたまま、声も出さない。赤ん坊は泣いていた。そして、ふ、っと泣き声が止んだ。


チェーンソーの音もぷつりと止み、救助隊員も混じって、何事かを深刻な調子で話し合っている。私はベッドで横になったまま、緊迫した外の空気に、身動きも出来ずに耳を澄ませていた。


チェーンソーの猛烈なエンジン音が再び鳴り響き、それに負けないほどの激しい声がした。赤ん坊だ。隊員たちは大声で、ごめんな、ごめんな、と叫びながら、作業をしている。いつまでも続くかと思われた双方の悲鳴が、ふいに終わりを迎えた。隊員たちの歓声が上がり、そしてまた、赤ん坊の泣き声が辺りに響いた。


救急車が一台動き出し、サイレンを鳴らしながら去って行った。再びチェーンソーのけたたましい音が風を掻き消し、作業が続けられた。この騒音の中、私はいつの間にか眠りに落ちていった。


翌朝、事故のあった現場を見に行ってみると、ひしゃげた車もなく、車にのしかかった大樹も見当たらなかった。倒れた樹が埋まっていた場所には、赤ん坊のものらしい、可愛らしく小さな腕が代わりに生えていて、触ると生暖かく、台風が過ぎた後の、心地よい風に揺られていた。あの赤ん坊は、きっと、助けるために隊員達が切ってくれた腕の代わりに、大きな樹が生えていて、風の強い日には同じように、ゆらゆらと揺れるのだろう。

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