第018話 火星
xxxx年xx月xx日
いま、私は地球を遠く離れ、この惑星へ降り立った。隣の席の彼女は何を考えているのだろうか。表情からは読み取れない。私がここへ来たのは、調査のためではない。研究のためではない。強いて言えば、晒し者になるためである。
私の身の上話をしよう。まず、私は宇宙飛行士ではない。地球にいたころは、毎日酒を浴びるほど飲み、仲間の連中と賭け事をする、クスリもやる、こんな生活をしていた。仕事中に大きな怪我をしてからこうなってしまって、まともに仕事をしていたころの金は見るまに減っていった。それでも、この生活は変わらなかった。そのうち、酒を買うのも困るほどになった。金に困ると、賭け事をしていた連中から嫌な顔をされるようになった。私が、決まって酒をそいつらにたかるようになったからだった。酒を飲むと、連中に絡み、しまいには暴れだすのだった。金がないといって、仕事をしようにも、酒がないとまともに働けない。もっとも、酒を飲んでいたところで、ちゃんと働けるはずもないのだが。
酒飲みの連中にいつものように酒をねだっていると、虫の居所が悪かったらしく、その中の一人にしこたま殴られた。私は鼻血を出してうずくまった。そこへまた、蹴りが飛んできた。おかげで胃の中のものはすべて私から出て行ってしまった。そいつは私に唾を吐きかけると、仲間へ向き直って言った。
「いいか、俺はお前らみたいなゴミ共とは違って選ばれた人間なんだ、今に見てろよ、一発逆転してやるんだから」
男の連れたちは手を叩いて大笑いした。酔って赤くなった目で男は続ける。
「俺はこんな星を出て火星へ行くんだよ」
しん、と、男の連れたちは少しのあいだ静まり返った。一人が笑いをこらえ切れずに声に出すと、たちまち彼らは爆笑の渦に包まれた。男は自分の壮大な計画が馬鹿にされたので、笑っている仲間に怒って殴りかかった。乱闘騒ぎになったので、酒の席はそこでお開きになった。
男が言っていたのは、ある企業が募集している、とある懸賞のことだ。応募の中から選ばれた人間は、火星へ行って暮らす権利を得る。その代り、もう地球には帰ってこられない。つまり火星への片道切符だ。つい先日この計画が発表されてから、どこもこの話でもちきりだった。みな火星に行ってみたいと話していた。
だが、本当のところ、実際に火星に行きたいと思っているものなどいなかった。日常から離れるという夢に、ほんの少し浸るだけでよかったからだ。火星に行きたい、その言葉に含まれているのは、生活の不満に対する、ちょっとした意趣返しのようなものだった。単なる話題作りにもなった。火星に行ったら何をしますか、こう尋ねると、相手は自分の目標であったり、仕事に忙殺されてできなかった趣味について語りだす。恋人たちは共に火星に行くという話を通じてお互いの絆を深め合った。
さっきの男を、彼の妻が迎えに来た。乱闘騒ぎを起こした事を聞きつけてきたのだろう、男を叱りつけ、彼が殴りかかった相手に平謝りしている。相手も、いつもの事なので笑って済ませた。そう、いつもの事。彼らには帰るべき日常がある。だが、私には? 私は、自分の日常が今まで以上に脆く崩れ始めているのを感じていた。酒のせいか、どうも足取りはおぼつかなくて、いつも以上に浮遊感を覚えながら、当てもなく街を歩いたのだった。
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