第015話 奴隷

奴隷は虐げられていた。それが彼らの生活であり、奴隷であるということは、彼らが生きる術だった。しかし、奴隷であるということは、奴隷のまま死ぬということも意味しているのだった。


食事はいつも、聖書の朗読から始まる。奴隷の主人は、日々の糧を与えてくれる神へ感謝し、黙祷する。家族もそれにならう。しばらくの沈黙の後、主人が頭を上げる。それが夕食が始まるという合図だった。


奴隷の食事は、主人が晩餐を終えた後だった。主人たちの豪華な晩餐とは違い、奴隷は一切れのパンと、豆のスープだった。粗末な食事だが、それでも他の奴隷たちに比べると、この家の奴隷は、ずいぶんと恵まれていた。


主人は農場を経営しており、また、町の名士だった。議員だったので、農場にいないこともしばしばだった。まだ赤ん坊の息子がひとりいて、細かい事は乳母の奴隷に任せてはいるものの、主人がいない間は、農場の事や家庭のことは妻が取り仕切っていた。息子はたいそう可愛がられていて、主人が町の外へ出かけるときはよく玩具を買ってもらっていた。今のお気に入りは、先日買ってもらったアルファベットの積み木で、母親と一緒に言葉を覚えて遊んでいるのだった。これはそんな家庭で起こった出来事についての話である。


乳母の役割を担った奴隷は有能だった。掃除をやれば綺麗に片付けたし、料理をすれば主人が大いに満足する食事を作った。子供の面倒見もよく、主人の赤ん坊がよく懐いていた。基本的な家事は彼女が行なっていた。主人からも目をかけて貰っていて、奴隷にしては異例とも言えるような高待遇だった。そんな彼女も、主人に大目玉を食らった事がある。彼女は、赤ん坊の積み木を使って、文字を覚えようとしたのである。主人は今まで見せた事の無いような表情で怒り、彼女をムチで打った。


ほとんどの奴隷は文字が読めなかった。彼らは聖書に何が書いてあるかも知らなかった。文字が読めるという事は特権であり、階級章だった。読書するという事は、奴隷を使役する人間たちが使う事のできる魔術だった。彼女は文字を読もうとした。それは支配階級に対する挑戦であり、見過ごすことのできない重大な反抗であった。


その日は主人一家が演劇を見に行くため、農場を空ける日だった。主人と妻、そして赤ん坊が連れ添って出かけた。その日、彼女は掃除を言いつけられていた。掃除の最中、彼女は主人の聖書を見つけた。左右を見渡し、誰もいないことを確認してから、おそるおそるページを開いてみた。そこには、神による祝福の言葉があった。その短い一節を彼女は理解した。それは奴隷へ向けられた、時空を越えた愛の言葉だった。それが分かったとき、彼女はなんとも言いようが無い、大きな満足感に包まれた。


突然、後ろで声がした。彼女は振り向く。そこに演劇へ行ったはずの主人が立っていた。主人は忘れ物をしたので、それを取りに戻ってきたのだった。奴隷が自分の聖書を呼んでいるのを見て、主人は激怒した。烈火の如くといっても、まだ足りないほどだった。奴隷は許しを乞うた。主人に力任せに足蹴にされ、泣きながら自分のした事について謝罪した。哀れだった。けれど、主人の怒りは収まらなかった。


数日後、奴隷は縛り首にされた。奴隷の、身分をわきまえない行動は、到底許されるものではなかった。縛り首にされるまでの間、奴隷は、自分が生まれて始めて読んだ聖書の一節を、何度も思い返した。それだけで幸せだった。乾いた世界で、それだけが幸せだった。


奴隷の死体はしばらく放置された後、町の外へ捨てられた。死体をハゲタカがついばみ、やがて忘れ去られた。

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