第012話 ピアノ

やわらかく、優しい音。水面に落ちる花びらのように、僕の耳に静かな跡を残してゆく。繊細で、どこか儚い曲調。これは、誰が弾いてるんだろう。僕は、少し眼をこすりながら起き上がる。この部屋で、少女がピアノを弾いている。ここはどこだろう。少なくとも、僕が知っている場所ではない。彼女の手は鍵盤の上を軽やかに舞い、美しい調べを紡いでいる。


ふと、彼女が手を止める。僕の方を振り向き、驚いたような顔をした。

「どうやってここに入って来たの」

分からない。見渡せば、この部屋に入り口らしきものは無い。彼女は困ったような顔をして言う。

「きっとキミはここにいてはいけない人間なんだと思う」

彼女はピアノへ向き直り、調子外れの和音を鳴らす。僕は考える。どうやってここへ来たのだろう。何か思い出さなくてはいけない気がするんだけれど。彼女は再びピアノを弾き始めた。さっきとは違う曲なのだろうか。不穏で、心をざわつかせるような曲調。彼女はピアノの方を向いたまま、僕に語りかける。ここにいてはいけない、僕もそんな気がする。

「わたし、事故にあって、もうダメだなって思ったの。でも、まだピアノが弾きたかったって思った。ぼんやりしてると、白い光の中にいて、それから、気づいたらここにいたの」

不安そうな曲は終わり、いつのまにか、月の光のような、静かで落ち着いた曲に変わっていた。事故。そうだ、事故だ。どうして思い出せなかったんだろう。僕は道を歩いていて、車にはねられたんだ。帰らなければ。僕を呼ぶ声がする。

「お別れだね。もうここに来ちゃダメだよ」彼女はそういうと、少し寂しそうに笑った。


眼を覚ますと、病院のベッドだった。僕は車にはねられ、ここへ運び込まれたらしい。幸い命に別状は無く、ほどなくして退院した。入院中、彼女について色々尋ねてまわったが、この病院に、そんな少女はいないという。彼女は誰だったのだろうか。僕には分からない。一人で考え事をしている時、また彼女に会ってみたいと思う事がある。だけれどきっと、彼女は僕をあの部屋から追い出してしまうだろう。そうして今もきっと、一人ぼっちでピアノを弾いているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る