7.カルチャーショック、予想通り。
朝、ボーッとする頭を抑えながら体を起こした時から、その音は大きく鳴っていた。
部屋に唯一ある小さな窓の、薄緑色のカーテンをシャッと開くと、案の定、外はどんよりと灰色で、ガラスには水滴がいくつも張り付いていた。
「ん?なんだ、やけにジメジメすると思ったら、雨なのか今日は。」
コート掛けにぶら下がっていた折り畳み傘を手に取ったが、よく考えたらこの雨量、折り畳みではカバーしきれないのではないか。
大きな傘は荷物になるからなるべく使いたくは無いのだが、濡れた制服で6時間授業を受けるのも嫌だ。
今日はバイトもあるから、外を歩く時間も長い。諦めて、折り畳み傘を元に戻した。
「なぁ、ユウリ、俺を学校へ連れて行くのは、明日からでもいいんだぞ」
「今からまた詰め替え直すの面倒だよ」
「しょぼん」
クマは耳を落ち込ませながら、部屋のドアを開けて出て行った。
「ママさんおはよーう」という陽気な声がドア越しに聞こえてきた。
しかし器用に開けるものだ。あの身長ではドアノブには到底手が届かないはずだが、クマはベットをトランポリンのように使って、いとも簡単にノブをひねって見せた。
あの様子では、もう何度かこの部屋を脱出していそうである。昨日の今日で…いけ好かんクマだ。
ササッと制服に着替えて私も後を追った。
クマはダイニングテーブルの、父さんが座る場所に、威風堂々 腰掛けていた。
「あ、ユウリ、おはよーう。」
いつもの私の席…クマの真正面に腰掛けると、母さんは袋に入った菓子パンと紙パックの牛乳を置いた。
「クマちゃん、本当にいらないのー?」
「いいのいいの」
クマは胡散臭いコメンテーターが偉そうに喋り倒す、朝のニュース番組に夢中だ。
頬張ったメロンパンが想像していたよりずっとパサパサで、牛乳はすぐなくなってしまった。
「そういえば、今朝、パパがここで倒れてたのよー」
「え、なんで」
「泡まで吹いちゃって、すっごい心配したんだけど、生きてたわー」
「よかったね。で、なんで。」
「もう出勤の時間だったから、そのまま行かせたけど、大丈夫かしらねー」
まったく、人の話を聞いちゃいない。
「あー、オヤジさんなら昨晩、俺を見て倒れたんだよ」
「え、あんた、父さんに会ったの」
やっぱり、クマはすでに一度、部屋から脱出していたらしい。
「お前らと違って、おもしれぇ反応をしてくれたよ」
「父さんは、常識人だからね。」
悪く言えば、テンプレート人間なのだ、父さんは。平穏を望み、変革を嫌う。イレギュラーにはめっぽう弱いから、〝臨機応変〟ができない。
「脳のメモリーが一気になくなったような顔してたぞ。」
「うわぁ、なんか想像つく」
「やぁねぇ、パパったら。こんなに可愛いクマちゃんなのにねぇ。」
母さんはクマの頭をポンポンと撫でた。
まんざらでもなさそうなクマの表情が、なんか、ムカつく。
「ユウリ、今日は、バイトなのよね?」
「うん、そうだよ。21時まで。」
「よぉし、今日は間違えないわよう。」
来月から、バイトのシフトは私自らカレンダーに書き込むことにしよう。でないとそろそろ父さんの健康が心配だ。
「クマ、そろそろ行くよ。」
午前7時30分、身支度を全て整えて、最後にクマに声を掛けた。
「ん、おう」
クマは椅子からヒョイと下りたが、まだテレビ画面が気になるようで、後ろ髪を引かれているように走ってきた。
「そんなにお気に召したわけ」
「あのコメンテーターが、おもしれぇんだ。」
このクマ、随分と奇特な趣味を持っている。
「いってきまーす」
「いってきます、ママさーん。」
「はぁい、いってらっしゃい。あ、ユウリ傘持ってってねー」
ああ、そうだった。すっかり忘れていたが今日は雨が降っているのだった。
ドアを開けるとスススッと冷気が吹き込んできた。5月下旬にしては随分と涼しい風だ。
エレベーターはあるが、あえて階段を使った。
朝のこの時間は混み合ってなかなか乗れないから、階段の方が断然早いのだ。
ただ、ところどころ屋根がないから、狭い階段を傘をさしたまま降りなくちゃならないのだけど。
ああ、視界が悪い。湿気で髪の毛が膨張し始めた。ひとつにくくっていても不快なものは不快だ。皮が少し薄くなってきたローファーに、少しずつ水っ気がしてきた。みずたまりは意識して避ける。
「ぅえっ、ぺっ、ぺっ」
時々後ろで嗚咽に似た声がする。
「な、ユウリ…ぺっ!」
始め、さりげなかった声も、だんだんと主張が激しくなっていって、無視できないくらい大きくなっていった。
「ぴぇっ、ぶ、ぺぅっ!!」
「ママー!クマさーん!クマさんが動いてるー!」
後ろから、幼くて甲高い声が、そう叫んだ。
「よぉ、お嬢ちゃん」
「ママ〜!」
「ちょっと、なに言ってるの。恥ずかしいからやめなさいっ」
私は、いつもなら通らない、人気のない道をわざと選んだ。辺りに人っ気がないことを確認して、話し始める。
「クマ、あんた外では喋っちゃダメ。」
「えー、なんでだよ」
「さっきの子みたいに、騒がれたら面倒だもん。」
「…へいへい。」
「ていうか、今までよく騒がれなかったよね。あのお店では大人しくしてたの。」
「いや?結構自由にしてたけどな。」
私は、先ほどの親子のことを思い出した。
子供の方は「クマが動いている」とはっきり言ったが、母親は、「なに言ってるの」と否定していた。
「みんなに見えたり、聞こえたりするわけじゃないんだ。」
「そうみたいだ。」
「あのお店には、見える人がいなかったんだね。」
「だな。」
母さんと、父さんも見えているようだから、年齢が関係しているわけではないだろう。
オカルト好きな人に言えば、波長がどうの、霊力がどうのと説明されるのだろうが、それもあながち間違っていないかもしれない。
「学校では特に気をつけてね。」
「へーい。」
今更ながら、連れてきてしまったことを後悔した。その場の感情任せな行動は、平穏を望む人間にとってよくないと、改めて認識する。
「じゃ、俺からもひとついいか。」
「ん、なに?」
「傘から落ちる雨がよ、顔にかかって冷たいんだが。」
「ああ。」
なるほど、それでさっきからペシペシうるさかったのか。
今までスクールバックしか使っていなかったから、気がつかなかった。
手を後ろに回して、クマの顔を触ってみると、確かに雨で所々湿っていた。
「っべ、なんだっ、てんだよ」
「ごめんごめん」
傘を持ち替えたりして、うまいことクマを前に持ってきた。
「これなら濡れないかな」
「おう」
雨の日、たまに、リュックサックをお腹に背負う人がいるのは、こういう理由からか、と妙に納得してしまった。
少し歩きづらくはあるが、後ろでうるさくなるよりはマシだ。
「ていうか、冷たい、とか感じるんだね。」
「ん、ああ、もしかしたら、多少鈍感なのかもしれないが、温度の変化は感じるぞ。」
「本当に生きてるみたい」
「お前、俺をサイボーグか何かと勘違いしてないか?」
前方に三科通り商店街の看板が見えてきた。朝のこの時間は、出勤や通学する人の往来もあって、多少賑わっている。
「じゃあ、商店街抜けるから、黙ってね。」
「へいへい」
「あと、最後にひとつ」
「なんだ?」
「駅に着いたら、ちょっと驚く…というか、カルチャーショック的な何かがあるだろうけど、冷静にね。」
クマは下から目をギョロッとこちらに向けて訝しげに「なんじゃそりゃ」と呟いた。
「田端ユーリさん、おっはようございまーす!本日は、とてもとてもいいお天気ですねぇー!」
「雨だよ」
「ううん、私はね、ユーリちゃんと一緒に登校できるだけで、もうお日様ハッピーって感じなのー!」
「ふうん」
「ね!ね!今日ね、体育あるのー!超ブルー…」
「しってる」
「てか、数学のレポート忘れちゃったー…麻生また怒るのかなぁー」
「自業自得だって」
「てかてか!カバン変えたの?なにこれクマ?かわいー!え、どこで買ったん?どこで買ったん?」
「商店街」
「ふぅーん!」
チラと視線を落として、手元のクマをみる。
予想通り、カルチャーショックを喰らっていた。
私と目があった、とわかると素早くパチパチっと瞬きをした。
言わんとしていることはわかる。昨日あんな話をした後だから、尚更か。
『こいつもしかして、〝ひなちゃん〟か…』
私は二度頷いた。
クマはわかりやすく白眼をむいて、ひなちゃんの弾丸トークの洗礼を受けた。
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