2匹目
6. 見たいものが見れた。
『つぎはー、三科ー、三科ぁー』
今時ほとんど録音音声になってしまったが、たまにこういう鼻にかかった車掌のアナウンスを聞くと、妙に安心できるのはなぜだろう。
子供の頃、電車に乗るということは大冒険の始まりのようなもので、降りる場所を間違えたらもう二度と家には帰れないだろうと、そう思っていた。
だから、聞き覚えのある駅名を言われるとそれはもう安心したものだ。僕が降りる駅はここだ、乗った電車は間違っいなかったんだと。
ああ、そうか、子供の頃のそういう経験からくる安心感なのかもしれ無い。
ゆるい速度で走っていた電車は、三科駅に止まり、ドアを開く。
私と一緒に、数名の乗客が降車した。
ああ、最近の女子高生は、日付も変わったこんな時間まで歩き回っているのか。親御さんも大変だな。
こういう子供は大人がしっかり叱ってあげないといけないと思うのだが、その勇気は当然ない。
ネットにも、大きな動物のキーホルダーをつけた 茶髪のミニスカ女子高生は、この世で最もオヤジが嫌いだ、と書いてあった。
目の前を歩く茶髪の女子高生は、カバンに大きな馬のキーホルダーをつけている。
触らぬ神に祟りなし、関わらぬ女子高生に冤罪もなし、だ。
改札を出る前に、トイレに寄った。
最近トイレが近い気がする。鏡を見ると疲れ顔の薄らハゲと目があった。これを自分だと認めたくなくて、すぐに目を逸らした。
くたびれたスーツが、随分と似合うようになってしまった。数十年前は「着られているようね」と言われていたのに、それを言った母も、もういない。
駅を出て、一つしかない出口を抜け、まっすぐ行くと、派手な色使いの「三科通り商店街」という看板が目に入る。あまり流行ってなさそうな理容室や、胡散臭い宝石店、小さな料理屋や婦人用ブティックが、道の両脇を固めている。
無駄に横幅の広い道は、大きなトラックも悠々に通れるほどの余裕があるし、秋葉原の歩行者天国がそのままここに移動してきても、対処できるくらいのキャパシティはありそうだが、その利を生かす事は後にも先にも無いだろう。
早朝と深夜にしかここを通らないから、日中どれほど賑わっているのかはわからない。だが、少なくとも、一昨年潰れた八百屋の〝空き箱〟にはまだ「テナント募集」の張り紙がされていた。
商店街を抜けて、信号を渡った先の道を進むとコンビニエンスストアが見えてくる。私はそこで缶コーヒーを買って、残る家路を飲みながら歩いた。十字路を右に曲がって、次の角は左へ行く。視界に、ベージュ色の同じような建物が何棟も並んでいるのが見える。側面に大きく「3」と書かれた建物の、506号室が私の家だ。
馴染みのある薄桃色のドアを開けて中に入る。
ダイニングキッチンにだけ明かりが灯っていて、廊下に漏れた白い蛍光灯の光を頼りに、靴を脱いだ。
ダイニングテーブルには、私の箸とカップラーメンと、一枚のメモが置かれていた。
《おかえりパパ。今日の夕飯はカップラーメンなの、ごめんね ママより。》
隅にうさぎが両手を合わせて謝っているようなイラストも書き込んであった。
ママはまたやらかしたらしい。
ユウリがガソリンスタンドからファミレスにバイトを変えてから数ヶ月。ユウリのバイトに合わせて夕飯の買い物をしているらしいのだが、それがなかなか上手くいかないらしい。
私としては一刻も早く慣れていただきたいものだ。
ため息をつきながら、カップラーメンを手に取ったのだが、違和感にはすぐ気がついた。
ー 重い。
まだお湯を注いでいない状態であるはずのカップラーメンが、既に重い。
バッとフタをめくり上げる。案の定、フタのノリは取れていた。
ー あぁ、ママはまたやらかした。
疲れて帰ってくる主人に、1秒でも早く、暖かいご飯を用意しておきたい、という心がけはとてもありがたい事だが、飯がカップラーメンである場合は、その限りではない。
シーフード味のカップラーメンは、既に出来上がって、冷め切って、のびきっていた。
さて、どうしたもんか。
私は異常に重くなっているカップラーメンを手に持ったまま、思案する。
シンク横に洗われたばかりのどんぶりがあった。
私はどんぶりにカップラーメンをあけ、上からラップをかぶせて、電子レンジに突っ込んだ。
温め終わるまでの数分間、私の頭は、さっきのコンビニで焼き鳥でも買えばよかった、と後悔したり、ユウリのバイトスケジュールは私がカレンダーに書き込む事にしよう、と決意したり、のびきったあの麺を焼いたら美味しく食べられないだろうか、と想像したりで大忙しだった。
チン という音にハッとして、電子レンジを開けた。モワッと塩っぽい匂いがする。
「アチッ」
この通り、暖かさは戻ったが、麺はますます汁気を吸って大きくなっていた。
出来上がりを見て、食べるのをためらう。
まずいのは目に見えているし、カップラーメンならまだストックがあるだろうから、いっそ新しく作り直したほうが幸せではなかろうかと。
しかし、ママの書いたメモが視界の端にあるというだけで、その選択はできなくなるのだった。
だいぶ空回りはしているが、これも私の事を思ってやった事。
翌朝ゴミ箱にこの麺が捨てられているのを見たら、ママはどんな顔をするだろう。
その想像をするだけで、心がチクリと痛むのだから、実行になんて移せるわけがない。
「いただきます」
付き合っている時から、同じような事は何度かあった。それでも、ママと結婚すると決め、海でロマンチックにプロポーズしたのは私だ。薄給のこんな私でも見捨てずに居てくれる彼女は、私の女神なのだから、彼女の〝うっかり〟は私が、広い心で受け止める。それこそが私のこの上ない幸せであり、他にない生きがいなのだ。
モサモサの麺を噛み砕きながら、嫁のありがたみを噛みしめる、48歳、田端 敏夫。万年平社員。だが幸せだ。
「ん?おお、もしかしてオヤジさんか?」
この時ばかりは、麺をつかんだ箸も、咀嚼している口も、乾いた目を潤したい瞬きも、ピタと止まった。
「おかえりなさいませぇー、てな」
なんだ、なんの声だ…
妙に油っぽいその声の主は、どうやら私のすぐ近くにいるようなのだが、その姿は見えない。
「オヤジさん、悪いんだけど、コップに水入れてもらえねぇか。」
全神経を視界の前方に集中させた。
暗い廊下と、開けっ放しの脱衣所が見えるだけだ。
「さっき、無理やり くしゃみ出したのが悪かったのか、鼻が詰まっていけねぇや」
移動している。だんだんと近づいてきているのだけが、声の様子でわかる。
「あ…水で鼻うがいって痛いんだっけ?」
足元だ…私の左足元から声がする。
硬くなった首を、強引に捻って足元を確認した。
「なぁ、オヤジさん?」
「ひぃやああっ!?!」
クマ、クマだ。
小熊だ。なぜ家の中に?いや違う、なぜ歩いている、なぜ立っている、なぜ、なぜ喋る?!
ぬいぐるみのような肢体はやけに滑らかに動いている。体を通る空気の流れまでつかめるようだ。拭えない異質感は、まるで出来の悪い3DCGだ。
「な、なひゃ、す、ふ…」
「お、なんだなんだ?」
箸が転がり落ちて先端にホコリが付着したことも、麺が手の甲にくっついて、乾きつつあることも、気づいてはいるがそれどころではない。
なにか行動しなくてはならないはずなのに、声すらマトモに出てくれない。
「ふ、ふへ…」
情報処理が追いつかなくなってきた脳は、緩やかにシャットダウンしていく。
体の中心に、確かにあった体重が、だんだんと後ろに移動して行くのがわかる。
「ん!死んだふりか?!いいねぇ、オヤジさん!」
私が倒れる間際、最後に見た異形は、なんとも楽しそうに笑っていた…。
「…お?オヤジさん?オヤジさーん?…あちゃー、こりゃだめだ、ノビてらぁ。でもいい反応だったなぁ。オヤジさん、俺は、これが見たかったのよ。」
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