5. 喋るし食べるが俺は雑貨。
クマが開封してしまったポケットティッシュを総動員して、勉強机に散った〝水分〟を拭き取った。
出どころがヌイグルミのような愛くるしい見た目じゃなかったら、今頃吐いてたかもしれない。
クマはといえば、〝水分〟まみれの魚を持ち上げて、いろんな角度から観察していた。
「なあこれ、俺の身体のどっかにつけてくれよ。」
相変わらず奇怪な思考回路をしている。
自分のツバで固めたビーズの魚を自分の身体にくくりつけたいとは。
「じゃあ…はい、これ。」
私は机の上に転がっていた古いキーホルダーから、チェーンだけ抜いてクマに渡した。
「お、そのキーホルダーはいいのか?」
父さんが中国に出張したときのお土産だ。現地で有名(らしい)な〝夢を叶える首守り〟とかいう胡散臭くて気持ち悪いキーホルダーだ。
筆箱につけていたのだけど、謎の成績不振に襲われたので、引き出しの中に封印していた。
「その魚にはピッタリなチェーンだと思う。」
ツバ臭くて、気持ち悪い魚にね。
「おおそうか!よし…!」
妙に意気込むと、ビーズとビーズの間に、器用にチェーンを通し始めた。見れば見るほど不思議な光景だ。こんなにも太い指がこんなにも細かくて器用なことをするなんて。
結局魚はクマのお腹にあたるポケットのチャックにつけられた。
「ドヤ。」
「うん、すごく似合ってるよ」
なんてまったく思ってない。
「なぁユウリ!名前つけよう!名前!」
「は?」
女子高生特有のドスの効いた一言。
お前、なに言いだしてんの?と同義である。
「こいつは俺の相棒だ!名前がないと、親しみもねぇからな!な、なにがいい?」
私は、ツバを吸い込んだテイッシュと、投げ捨てられた こより を一瞥し、ため息をつきながらゴミ箱に投げ入れた。
「魚、だからなぁー、ウオ…うお郎…うーん」
「……バうお。」
「お?」
「ツバうお。」
「ツバ、うお?」
クマは私と魚を交互に見て、ツバうお、ツバうおと繰り返した。
「…いいな、ツバうお。うん、いいじゃねえか!!カッコいい!鳥みてぇだ!」
由来については勘づいていないらしい。
「よろしくな、ツバうお!」
やけに満足気なクマを見て、なぜか私は気だるさを覚えた。相手にしているだけで、精神が疲弊していくのがわかる。
「うーん、ツバうおみてたら、なんか腹減ってきた。」
ああ、やっぱり気持ち悪い思考回路をしている生物だ。
「あ、忘れてた。」
私はここでようやく、ムニエルのことを思い出した。勉強机の端に置いたままだった小皿をクマの前まで寄せる。
「母さんが、アンタにってさ。」
包まれていたラップをはがすと、同時にクマのテンションの枷が外れたような音が聞こえた。
「おおお!さけえええ!!」
皿からムニエルを鷲掴みにすると、そのまま口の中へ投げ入れた。一瞬の出来事で、クマの咀嚼音が鳴り止むまで、私は瞬きもできなかった。
「かぁー、美味かった!」
「…食べるんだね」
「ん、おう!」
オヤジくさいところもあるが、こういう裏表のなさそうな笑顔を見ると、子供のようにも思えてくる。ペット、くらいに思って接すればいいのかもしれない。
「お前の母親は聖母のような人だなぁ」
「まぁね。自己犠牲とかは絶対しない人だけ」
ー はっ…
ひなちゃんの忌まわしい記憶や、ツバうおの一件ですっかり忘れていたが…そうだ、私はこのクマを追い出さねばならないのだった。
…自分の夕飯を守るために。
「ねぇ…あのさ、」
「お、なんだ?」
「うち、ご覧の通り貧乏なのよね」
「あぁ、まぁ、そうみたいだな」
自分で言い出したのに、すんなり肯定されるのは少し気分が悪い。
「父さんの薄給のせいで、3人食べていくのでギリギリって感じなの。」
「そりゃ大変だなぁ」
「うん、だからね、ペットとかはね…飼えないんだよね、うん」
「へぇ…」
いざ本人を前に口にするのは少し罪悪感があった。いや、しかし仕方ない。夕飯の未来のため、だ。
「ん、待て、俺ペットなのか!?」
「え、そうでしょ。」
「違う違う!俺はペットなんかじゃない!」
「じゃあなによ。」
クマは少しの間、手を顎のあたりに当てて、考えるそぶりを見せた。
あぁ、その手はさっき鮭のムニエルを鷲掴みにした…。
「あのな、お前が言いたいことはなんとなくわかるぞ。「うちは貧乏だから食い手が増えるのは困る」と、こういうことだろ?」
「…うん、まぁそうかな。」
「だとしたらその心配は必要ない。俺はなにも食わないからな。」
「えっ、でもさっき…」
「あぁ、正確には〝食わないといけないわけじゃない〟だな。物を食べることはできるが、あくまで娯楽だ。生きるために必要なわけじゃねぇんだ。」
「じゃあ、さっきムニエルを食べたのは」
「娯楽だ。」
あぁ、私のムニエルは、この生物の娯楽のために使われてしまったわけか。
言いようの無い虚無感とは、こういうことかと実感した瞬間だった。
「な?餌がいらないなら、俺はペットじゃ無いだろ?」
「じゃあなに。」
「そうだな、俺は、リュックサックだ。そう、雑貨さ。喋る雑貨。」
「雑貨。」
「だから、あの聖母さんにも伝えといてくれ。おれのエサはいらないってな。」
「わかった。」
元はと言えば、このリュックサックは私が買って、家まで連れてきたのだ。
私の夕飯を脅かすことが無いとわかった今、このクマを追い出す他の理由は見つからない。
ちょっとオヤジっぽい、無精者のおしゃべり相手ができたくらいに思っておこう。
「よろしくな、ユウリ。」
「うん。」
スクールバックに入れていたノートと筆記用具、定期入れや財布も全部クマの中に移し替えた。
明日から、学校に連れて行きたくなったんだ。
「ところで、食べる必要が無いんだとしたら、さっき食べたムニエルはどこいっちゃったの?消化はするわけ?」
「ん?あぁ、それは…」
クマはツバうおをひっぱって、お腹のポケットを開けた。
「ここに溜まってんだわ」
ポケットの底にはクッキー…らしき物の残骸が積もっていて、その頂点に、咀嚼されたムニエルが無残に横たわっていた。
「…なにこれ生ゴミ入れ?」
このポケットに入れようとしていた定期入れとハンカチは、制服のポケットに入れることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます